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 京都府知事の主張 第2話:「地方分権の上で欠かせないのは国が明確なミッションを持つこと」

山田啓二(京都府知事)
やまだ・けいじ
profile
1954年生まれ。77年東京大学法学部卒業後、自治省(現・総務省)入省。和歌山県総務部地方課長、高知県総務部財政課長、自治省行政局行政課長補佐を経て、92年内閣法制局参事官に。その後、国土庁土地局土地情報課長、京都府総務部長、京都府副知事を経た後、02年4月京都府知事に当選し、現職に就く (2006年には2度目の当選。)
「地域力の再生」を掲げ、環境、文化の発信、子育て、医療、障害者福祉、安心安全に取り組んでいる。

地方分権の上で欠かせないのは国が明確なミッションを持つこと

私は、この国の構造改革自身が正しい改革であったかどうかを問うときに、本当の意味で地方分権というものができたのかどうかを厳しく問うことが求められていると思います。この点については私は非常に悲観的です。なぜなら、余りにも同床異夢の地方分権が行われてしまったので、国と地方がばらばらになっている感を持つからです。この狭い国で、国と地方というものは簡単に切れる関係ではありません。それを無理矢理切ろうとした。国からすると、財政再建のために負担を地方に押しつけるという形で地方を切ろうとした。地方分権を唱える人たちも、そうした動きの中で国との関係は悪だという形で国を切ろうとした。

両方の意思の疎通がないまま切ってしまったらどうなるかというと、全くばらばらな方向を向いてしまった。本来、地方分権の基本は補完性の原理であり、ベクトルの問題だと思います。今までの中央集権というものは、国が決めて、都道府県が市町村に伝え、市町村が実行するというベクトルですべての物事を考えていった。それに対し、分権型とは、地域のことは市町村が考え、そこで考えられないことは都道府県がその市町村のことを踏まえて考え、それがだめなときは国が考えましょうという方向にベクトルを変えることであったはずなのに、それがいつの間にか輪切りにされてしまった。そんな荒っぽい地方自治は、責任転嫁の集合体に成りかねない。

本来、地方分権は、まさに民主主義の学校と言われるように、住民自治が根幹です。物事をその思想で統一するはずだったのが、単なる権限と財源の分散という違う方向へ行ってしまった。その部分についてもう1回問いただすことが知事としての大きな役目だと思っています。

同時に、輪切りがすすんでいく中で地域経済が疲弊し、地域力が後退し、コミュニティーが失われつつある現状について、その立て直しを市町村長と知事が連携してやっていかなければならない。私の今年の予算のテーマは地域力の再生であり、コミュニティー施策を中心に行っています。そして、それを実行するためには、今までの、国に対して要望をして助けてもらうのではなく、まず自分でどこまでできるのかという経営力が問われています。経営力がないと、補完性の原理はなりたたない、地方分権は一発で終わってしまいます。

ただ、その知事の置かれている場所によって知事に問われる課題は全く異なってきます。東京都の知事は3年間で1兆円も税収が増えているところでやっている。他方で、先日、新聞を見て驚いたのですが、鳥取県は片山知事の時代に、県民所得、有効求人倍率、企業誘致が全部マイナスになっているということです。これは片山さんの責任ではないと思います。それくらい地域間格差が広がっている。京都府では、県民所得はこの間ずっと上がりっぱなしで、有効求人倍率は、私が就任したときは0.55、今は1.04、企業誘致は過去最高というところでやっているわけです。ですから、地方公共団体の中でも、勝ち組と言われているところと負け組が生じていることを踏まえた修正を、構造改革として国はして行かねばならない。

また、東国原氏が地鶏も含めて宮崎をすごい勢いで売り込んでいて、セールスマンとしての役割をしていますが、では私も京都のセールスマンをすべきなのかというと、恐らく違うと思います。例えば、来年の2008年に源氏物語ができてから1000年を迎えますが、昨年、源氏物語千年紀ということで京都から呼びかけを行ったときのメンバーが裏千家の前お家元の千玄室大宗匠、瀬戸内寂聴さん、梅原猛さん、冷泉さん…といった方々です。では、私はどういう位置かというと、まさに日本が世界に誇る方々をアレンジできるプロデューサーという役割ということになります。これは地域によってまるで違っています。

地方が疲弊する中で地域の持続可能性の問題が問われていることについては、地方の側の責任の前に、国家政策と地方政策がばらばらに進んでいることの矛盾が出ているのだと思います。今ほど国家政策、国家としてのビジョンがないときはないのではないか。何をビジョンとして、そのためにどういう政策をやっていくのか、それを中央省庁の役人自身が完全に見失っています。例えば今回の新しい全国計画の策定に際しても、各ブロックごとに意見を聞いて各ブロック計画をつくり、それをまとめて全国計画をつくるという民主的なやり方をとっています。しかし、最初に強烈なミッション、強烈な使命感、強烈な政策の方向性というものが全然出てきていません。

地方自治・分権とは、国と地方を切り離すものではないのです。国のビジョンと地方のビジョンが整合性をもって確立され、その中で地方が地域の実情にあった行政を住民自治で行っていくことが、真の地方分権の確立のためには必要なのです。
 しかし、明確なビジョンを言わない国の役人は、今や自信喪失しているのでしょう。このところの国の政策を見るとわかるように、すべて地方の知恵を当てにしている計画です。特区、地域再生策、今回の頑張る地方応援プログラムなどもそうです。地方が考え、国はそれらを認めてしまえばいいのであって、国としてどうするかというところは出ていない。

私自身がかつて霞ヶ関にいたからよくわかるのですが、霞が関の官僚自身が、かつてのキャッチアップ時代のときには外国の例を持ってきた。改革に際してもニュージーランド改革やイギリスのサッチャー改革などを持ってきたりで、自分で考えていないのです。オリジナリティーのないものをずうっとやってきた。そこには実は情報も知識もないのですが、もともとゼネラリストとしてしか育てられなかった霞が関のシステムにも問題があるわけです。それも中途半端な縦割りのゼネラリストばかり育ててきたので、今まともに地方と議論をしたときに、本当の意味で地方に勝てる役人がどれだけいるのだろうか疑問に思います。地域のことについて、こちらがバシっと言ったときに、それに向い合えない人は多いのです。

例えば、京都で鳥インフルエンザ事件が起こった時、中国で鳥インフルエンザのときに一体どういう作業が行われ、そのときにどういう問題が起きてきたのか、それをこの京都に来て指揮できる国の人間は1人もいませんでした。そこで、いつまでに作業が終わるのですかといった問い合わせばかりが国から来て、指導はない。しかし、今の仕組みからすると、それは無理はないと私は考えています。

中央に明確なミッションが失われてきているところに構造的な問題がある。だから東京一極集中になり、弱肉強食の野放しの状態になっている。昔は国土政策がありました。今はそれがない中で、実は地域間格差が広がっている。それに対して実力のある地域は自分の力を発揮できて、何とかやっていこうとする。しかし、圧倒的に東京が強いので、それでも苦しんでいるという現状がある。その全体の構造のことを問題にせずに、地方は頑張らなければなどと言っても無理な話です。国と地方を切り離して物事を考えていこうとするところに、今の地方自治の危うさがある。本当に地方自治を育てるというのではなく、単に責任逃れや切り捨てに終わってしまっているのではないか。そして、権限だけは離さず、細かい補助金で実に子細なことについて注文ばかりつけてくる。まさに悪しき中央集権がはびこっている。国は細かな権限行政は止め、大きなビジョンを持って国を動かす。地方はそれを踏まえながら、地域最適を住民自治で成し遂げる。こういう分権国家をつくらなければ本当はいけないのに、今は全く逆の方向にすすんでいると私には思えるのです。

2007年05月17日 13:52

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