誰がこの国の政治を変えるのか
誰がこの国の政治を変えるのか
日本の政治は日本の未来や課題解決に向けた政策競争よりも、選挙を意識した権力争いだけが目立つ事態に陥っています。「政治の失敗」が日本の将来を見えなくしているとの海外の論評まで出始めています。こうした誰がこの国の政治を変えるのか、このテーマから議論を開始します。まず3氏が口火を切ります。
日本の政治に問われるのは課題解決への意思

斎藤 誠
一橋大学大学院
経済学研究科教授
いまの福田政権は状況に対して正直に対応しているし、前向きな側面を見ていけば、意外にいろいろなことに踏み込んでいます。
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日本はすでに世界の関心からはずれている

イェスパー・コール
前メリルリンチ チーフエコノミスト
日本の政治にポピュリズム(人気取りの政策)は確かに見られます。でも、それは世界のどの国でもあるわけです。日本が今陥っている本質的な問題とは無関係だと思います。
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市民社会や多様な議論が対抗力になる社会が必要です

明石康
元国連事務次長
NPO法人日本紛争予防センター会長
かつて『エコノミスト』に掲載された記事は海外の一部のメディアの特別な評価ではなくて、海外に一般的に見られる日本に対する大きな疑問の一部だと思います。
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日本の政治に問われるのは課題解決への意思
齊藤 誠
(さいとう・まこと)
1960年生まれ。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学Ph.D.、1983年住友信託銀行入社、1992年ブリティッシュ・コロンビア大学経済学部助教授、1995年京都大学経済学部助教授等を経て、2001年より一橋大学大学院経済学研究科教授。主な著書に『資産価格とマクロ経済』(日本経済新聞出版社)
いまの福田政権は状況に対して正直に対応しているし、前向きな側面を見ていけば、意外にいろいろなことに踏み込んでいます。
どこまで実効性があるかどうかは別として、公務員制度改革も、ほとんどのマスコミが法律も通らないだろうと言っていたのが、首相のひと声で通った。道路財源の一般財源化も、たぶん首相が踏み込んで言ったのは初めてだと思います。曲がりなりにも、そのプロセスで税体系を抜本的に見直すという話をしています。
環境の話では、本当に排出権取引をやるつもりだとすれば、大きな転換です。これまでほとんどタブーだった排出権取引を排除せずに議論しているという意味では、そこだけを見ればということですが、「すごいな」という印象です。
不思議なのは、そういうすごいことを言っても、受け手はほとんど誰もいないということです。マスコミも選挙しか関心がないのか、あまり取り上げません。アフリカや食料支援も、世界的に見るとキーワードです。その会議を一応日本が主催して、ある程度お金も出すと言っている。ODAの先もアジアからアフリカということをかなり明確に言いました。ひとつひとつを見てみるとかなり大胆なことを言っていますが、マスコミが不感症になっている。
先送りしてきた課題は誰かが解決しないとならない
政権のほうに問題があるとすれば、振り付けが悪いのだと思います。アジェンダを最初に設定すべきで、最後に苦し紛れに大きなことをポンと出すのであまり効果的に受け取られない。そもそも選挙でできた政権ではないという事情もあるかもしれません。
選挙を前にしているから、実質的な議論がないまま国会は政党や政治のアピールの場になってしまっている。これはかなり残念なことです。たとえば日銀総裁副総裁人事なども本質的な議論がないままに「出身だけで選別」ということになった。そのような政治的対応にみんな飽き飽きしてしまっている。選挙というのであれば、そういうことをマスコミがしっかり整理して論点を集約したほうがいい。
日本の政治は、いろいろな意味で、これまでの政権が先送りした問題を誰かが解決しなければならない状況です。小泉政権での道路公団民営化について言えば、運営主体を民営化するということはほとんど、どうでもいいことです。
むしろ、われわれ国民の社会資本ストックとしての道路をどの程度の水準で、どのくらいのコストで維持していくのかという問題を考えることが大事ですが、それは何ら解決しないままに、組織だけ、それも運営主体だけ民営化しただけです。つまり、道路資産の将来のあり方は、小泉政権の道路改革のときから何も議論されていない。
それが今回、道路財源の暫定税率の話になったときに、そこについては従前通りやりますということをやってしまうから、望ましい社会のあり方についての議論がないままにやってきたツケを、あのような形で背負うことになる。
私は、増税に蓋(ふた)をしてしまう議論が続くのは、もういい加減にどうかと思います。それならば、野党も文句だけ言えばいいことになります。肝心なところは先送りにしておいて議論してしまうから、どうしようもなくなってしまう。
個人や社会は、困難や変化は必ず乗り切れるはず
こうした日本の状況に、政治のポピュリズムやメディアの問題があるとの指摘があります。それ自体は私も問題だとは思いますが、私はポピュリズム的な動きがそれ自体あるのは仕方ないのではないかと思っています。適度に付き合うのがいい。
それよりも、結局、それぞれのところでそれぞれの人たちが頑張っていくしかない。そういうことに政治も企業も個人も対応しながら、自分たちが創出できる価値を生み出していけるように努力しなければなりません。
私は、人間とか社会というものを信じていますし、困難や変化があれば、人間や社会はそれを必ずいつかは乗り切るものだと思っています。私は一時期、ある銀行の調査部でものを書いていましたが、当時の84年頃から外向けに書いていたものを時々読み返すのですが、そこには、情勢判断を間違えたり、とんでもないことを書いたりということもありましたし、一方、後から見ても「なかなかいい」と思うこともあります。それは気持ちの持ちようなのです。自分自身が状況を恐れてしまったときは、過度に危険回避的な発想で、思考回路が後ろ向きになってしまう。
自分自身が恐怖のようなものを感じているから、それがそのまま文章に現われてしまう。「なるようになるさ」という感じでドンと構えたときのほうが、重心がぶれていない。
やはり社会と人間を信じるべきです。その下で自分がどう判断するかというような発想になっていくと、冷静になれるのではないか。
課題に取り組む意思の欠如のほうが問題
『エコノミスト』誌のあのJAPAINの記事の2週間後に、日本の読者からの手紙が掲載されたことをご存知でしょうか。民主党の岩国哲人氏の投稿です。われわれの正当な国家の国旗にあのようなイタズラ書きをしたり、国際的な認知を得た国名に「I」を入れるようなことはするな、それ自体、侮辱以外の何ものでもないと書いた。内心、私は拍手喝采だったのですが、そういう発言こそ重要なのではないでしょうか。もちろん、日本にはいろいろと言われても仕方ないようなことがたくさんあり、内心では外国メディアのおっしゃる通りだと思いますが、それが真実でも、日本の内部からそれに乗ってしまったら、それでおしまいです。「そんな侮辱や笑い話にしてくれるな」ということを、日本の政治家はもっと言っても良かったと思います。あのように言われて「もっともだ」と思ってしまうところに、もう気持ちがすごく負けてしまっている。
今の政治家や企業経営者もそうですが、そういう部分の気持ちや矜持のようなものが、なくなってしまっている。そのほうが問題です。『エコノミスト』はさすがに冷静に議論している部分もありますから馬鹿にはできませんが、私もあの表紙はすごく嫌でした。そういう部分の気概や、問題を解決しようとする意志がないから、あのような議論に乗ってしまう。解決できるかどうか以前に、まず課題は解決しようとする意志が必要です。政治家や官僚も経営者も有権者もそうです。
日銀総裁人事の件でも、私は他の人と異なる感想を持っています。あの悲劇、というか喜劇は、あの種のポジションを担える人材が大蔵省出身者と日銀出身者にしかいなかったということだと思います。誰か民間の金融のリーダーの人たちが、こんなみっともないことはいい加減にしてくれと、手を挙げるべきでした。民間の経営者からみると、年収3000万円では安すぎるということなのでしょうか。
本当に人材がいる場所の出身者を採れないなら、そういう人が出てこなければならなかった。そういう人がいないということでは、資本市場の国際化も頼りなくなってしまう。ただ、問題はむしろ、人材の不足というよりも、そのような日本の状況の中で問題や課題に取り組むという意志が、今の日本のエスタブリッシュメントの人たちの中に欠如してしまっているということです。
日本の政治に求められるのは本当の率直さ
私は、いまの社会にはもう一度、「幸せとは何か」の問い直しが来ていると思います。そういう中で適度なかたちで豊かさを享受できて、人々の責任をもった行動が促されるような方向に行くべきです。これは、ポピュリズムがどうだ、民度が上がるべきだ、という議論よりも、仕組みづくりの問題だと思います。
人間の本当の意味での幸せ感や、自分が決定したことの結果を受け入れられる状態ができている社会は、経済的水準とは別のレベルで、大変良い社会だと思います。そういう方向に社会が舵を切りながら、結果が適度な形になり、極端に変なことが起こらないという範囲内で、選択の自由を許しながら、基本的に自己責任の原則を貫いていくということが望ましいと思います。
その際の政治の役割ですが、政治家が全てのことにあらゆる手当てができるはずがなく、基本的には行政組織がひとつひとつ問題を解決していかなければならないと思います。そのときに、人々がどういう仕組みを受け入れられるかどうかというところで、政治家の役割が問われます。
日本の政治に求められているのは、とても基本的なことですが、できないことを約束しない、ある種の公平性の原理は常に貫く、いくつかの原理原則については約束する、そういうところでプリンシプルがあって行動できるような政治家です。その意味では、本当に率直さが求められると思います。「それはできない」とか「ここまで求められるのなら、こういう負担は国民に求めなければいけない」と言うことも含めてです。そういうことが政治に求められている。それなのに、日本の政治家は正直に語っていない。GDPを上げるとか、ある成果について、あるいは、ある生活水準について保証することは政治の役割ではなく、我々は市場社会に生きているわけですから、市場の結果を自分がある合理性をもって受け止められるような、そういうことが納得できるような仕組みこそ作るべきです。
そうであればこそ、国民はそれぞれが自分の潜在的な能力を引き出すような努力をすると思います。
米国の大統領選挙でのオバマ候補のスタイルがひとつの参考になります。スピーチなどを英文で読み直しても、あまり嘘を言っていない。「こんなことまで言って無理かな」ということはありますが、あまり嘘は言っていません。また、非常にわかりやすく、ある意味での率直さがある。そういう部分は、ヒラリーさんはいくらお金があってもなかなかかなわない。それがすぐ政治的手腕に行くかどうかはまだ疑問ですが、リーダーの資質のようなところで、そういう率直さが求められている。
日本では、年金の間違った記録や、データが分からなくなった話も、判明した時点でやはり安倍さんが本当に率直に謝罪し、できることをやるしかなかったと思います。どんなふうに計算してやっても処理時間を考えると無理です。もう起きてしまっていることですし、それを「何月までにやります、ひとり残らず」と言えば嘘になってしまいます。
あの場合、過去の過ちに関しては政治的な判断で謝罪し、救済方法を講じて保障する方法しかなかったと思います。そのコストも結局国民に最後はみんなで分担してもらうよう説得しなければなりません。
社会保障の問題も、日本の政治は先送りで答えを避けるのではなくて、問題解決する意志を国民に問うて、そこで戦うようにしなければなりません。その際には、「ここまでできる」とか「ここはできないから国民のみなさんに負担を被ってもらうことになる」といった言い方をすべきです。
社会保険庁の問題は、恐らく海外では、もっとさまざまなチェックが効いて、問題をより小さい範囲に抑えられると思います。薬害の問題は、アメリカでもよく起こりますが、日本のような深刻な形にはならないようです。日本では、厚生労働省の官僚だった専門家や、医学博士や、論文を読める人たちがたくさんいたにもかかわらず、そういうところでプロフェッショナリズムが何も機能しませんでした。自分たちの知っている知識の中で最善の判断をするということをやるというのがプロフェッショナルですから、それを放棄して、10年も20年も放ったらかしておいた。そういう問題が溜まってきたことを、直していくことも一つの課題です。
日本の政治には市民のプレッシャーこそが大切
今度、日本の選挙では、経済分野での争点になるものは、やはり社会保障と、その負担の問題でしょう。その中で消費税をどうするか、その制度設計をきちんと国民に問わなければなりません。厚生労働省がしでかした絶対に解決できないようないろいろな問題は、「これからうまくやります」という状態ではなく、もう清算処理のようなものです。
民主党は、本当に政権を取るつもりなのか疑わしいようにみえます。もっと彼らのプレゼンスを見せつけるような局面はたくさんあったと思いますが、なにか下手です。昔の自民党と社会党の関係とあまり変わらないようなゴネかたなのです。ただ、そういう中で、公務員制度改革のところでみんなで一緒になってというのは、少し変わってきたのかなと思います。
私は、この点については専門外ですが、中選挙区制の復活が言われています。それもひとつの見識とは思いますが、私は一度、小選挙区二大政党制で日本の社会の仕組みを変えていくということには、賭けてみてもいいのではないかと思います。もちろん、そこには試行錯誤もあるでしょうし、今の国会状況のような混乱もありますが、今回の公務員制度改革も、政権交代が起きたときにうまく機能できる可能性をもたらしたものですし、政権が変わるということがあれば、公務員制度に対して外からの規律づけもできることになります。
小選挙区制では選挙区で51%の支持を取らなければならないことがもたらすさまざまな問題も指摘されてはいますが、その51%を取ることの競争が政治技法も含めて、次第に洗練化されていくと思います。中選挙区制度に比べれば、党首のリーダーシップというものがはるかに強く求められる。そのくらい勝てる人でなければ、この世の中を率いていくことはできない。複数政党で多数勢力をつくり、その中から談合でリーダーを選ぶということでは、なかなか思い切ったことはできないのではないでしょうか。
だめなら権力から引き摺り下ろされるということ自体が、政党に対する最終の規律づけだと思います。そういう緊張感がなければ、権力を行使できるような人が出てこないのではないか。
だからこそ、市場や市民の側からのいろいろなプレッシャーが必要なのです。
日本はすでに世界の関心からはずれている

Jesper Koll
(イェスパー・コール)
1980年、レスター・B・ピアソン・カレッジ・オブ・ザ・パシフィック卒業。1986年ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院(SAIS)にて国際経済学修士号(M.A.)を取得。1986年に来日。京都大学経済研究所研究員、東京大学教養学部社会科学研究室研究員を経て、1989年S.G.ウォーバーグ証券会社入社、日本経済担当チーフ・エコノミストに就任。1994年J.P.モルガン(東京)調査部長、1998年タイガー・マネージメントL.L.C.日本駐在事務所マネージングディレクターを経て、1999年8月にチーフ・エコノミストとしてメリルリンチに入社、日本経済の調査を担当。2007年投資顧問会社タンタロン・リサーチ・ジャパン株式会社を設立、代表取締役に就任。エコノミスト、金融アナリスト、ストラテジストとして高い評価を受けており、日本版ビッグバンに向けた課題を審議する通産省の産業金融小委員会、各種政府諮問委員会、財務省「関税・外国為替等審議会 外国為替等分科会」 の専門委員等を歴任。
日本の政治にポピュリズム(人気取りの政策)は確かに見られます。でも、それは世界のどの国でもあるわけです。日本が今陥っている本質的な問題とは無関係だと思います。
日本の問題は政治が何もやっていないということです。政治家は口では色々と言っていますし、マスコミもそのたびに騒いでいます。では日本の政治はこの間、何か根本的な政策を実現しましたか。つまり外国人の目から見ると、日本の政治には何もありません。
政治にまず必要な政治的な哲学やビジョンが何もない。霞が関や役所の規制強化や規制改正ばかりやっている。日本の政治家には政治的なリーダーシップや哲学的なリーダーシップを全く感じない。
この2年間で世界は大きく変わってきている。世界では政策に大きくチャレンジできる大きな問題がたくさんあります。経済の面、安全保障の面など、世界の舞台で考えていくと大きな問題はたくさんある。原油のこととか、食糧不足、テロ戦争はどう超えるか、サブプライム問題、温暖化問題、イラクとイラン、アメリカとロシアなど、問題点が色々と出てきました。やるべきことはたくさんありますが、あまり時間がない。
では、その問題に対して、日本から前向きとか、建設的な考え方は出してきましたか。出していないでしょう。世界の舞台にはアイデアを持ち、信頼できる実力者はたくさんいますが、日本人には一人もいません。
日本の政治は大変不安定な状況にある。ねじれた国会のコントロールは大変だし、日銀総裁もなかなか決められなかった。これは信じられないことです。世界最大の債権国日本が金融政策の担当者すら決められない。どういうことでしょうか。だから、世界の舞台では、日本についての議論はもう話したくない。時間の浪費なのです。
今、日本の政治家の大物がワシントンに行ってもアメリカの人は誰も会いたいと思わない。話にならないからです。お茶を飲むだけで前向きで建設的な、具体的で新しい原動力になるものが全くない。
世界の舞台で色々な問題がある中で、日本についてどうしても考えなければいけない問題があるかというとプライオリティ(優先順位)は非常に低いし、今、この人に会って、面白いアイデア、前向きな考え方が出てくるという人は日本の政治家には全くいません。
魅力のないニッポンには「さよなら」となる
エコノミスト誌の「JAPAIN」記事は詳しく読んだわけではありませんが、日本の失敗は政治の失敗というだけではありません。全面的にそうなのです。企業もそうです。もちろん、技術はありますが、TOYOTAや京セラなど日本を代表する企業50社以上に何かありますか。
この記事が出た後に、私は自民党に呼ばれて、海外が今の日本の政治や日本全体をどう考えているかについて説明を求められました。
そこで言ったのが日本は「普通の国」になった、ということです。one of themです。私は22年間、日本にいますが、「普通の国」になったのは昔ではなく、2年前からです。
経済的な点で金の流れについてみると、2年前から、金融システムでの資本不足が終わり、貯蓄から投資への流れはできるようになった。貸し渋り状況もなくなった。金融社会主義的な財政投融資や簡保もなくなった。
だからこそ、22年間で2年前から初めて「普通の国」になったのです。需給ギャップも引き締まったし、デフレは超えた。本当にそうかどうか、色々と議論はありますが、CPI(消費者物価指数)は上がっています。株の世界でも、適正PER(株価収益率)が15,16,17倍で、これも普通の先進国と同じです。
これは、日本にとって特に良くもなく、特に悪くもない。では、普通の国になってどうやって評価されるか。
経済的にも魅力のある国になることです。羽田空港の国際化が千葉県の反対で進んでいないことなどは信じられない現象です。規制強化するような国は儲からないから、興味はなくなります。投資のチャンスがない日本は、さよならです。
むしろ、まだ困ったところが色々とある。累積財政赤字は国民所得の180%、金融の政策金利は0.5%、規制の問題はたくさんある。財政、金融、規制の政策は取り組む課題はいろいろある。どこの先進国にも似たような問題があります。日本は高齢化の問題で大変だと言いますが、第二次世界大戦後のベビーブームの状況はほぼどこでも同様にある。
先進国がほぼ同じ問題を抱えている中で、では、日本に行ってみて日本の政治家や官庁と話をすると、面白いアイデアが出てくるか。面白い人がいるから東京に来て絶対会った方がいいという人はいますか。答えは残念ながらNOです。だからこそ北京、ベルリン、ハノイに行きましょうとなる。
皆さんがいつも議論したがるのが、国内での勝ち組は誰、負け組は誰ということですが、これもナンセンスです。勝ち組は外に出て行きます。論理的な議論ではなく、話にならない。今は言論NPOのような場で議論ができるような外国の有能なジャーナリストは日本から出て、中国に行ってしまいました。優秀な外国人経営者もほとんど日本にはとどまっていないでしょう。魅力のない国からは人は離れます。
日本は沈没したのではありません。沈没だと、無くなってしまうことにみんなが悲しみますが、日本はもっとひどい。どうでもいいというところに来ています。
日本は勉強好きだが、問題は決定能力がないこと
こうした状態は、根本的にはこれは小泉構造改革に出口が見え始め、日本が「普通の国」になった2年前からです。
その後、安倍総理は「美しい日本」という議論をしました。私の故郷のドイツも美しいドイツを作ろうとしています。タイトルはロマンチックですが、基本的には無策でした。無策がずっと続いてきた。
日本で今、議論されているのは鎖国議論です。小泉さん本人は、日本人の目から見ていて、「変人」、「スローガン」というイメージがありましたが、根本的にはやるべきことをやった。個人と社会との関係の政策をやりました。自己責任を重視したわけです。
しかし、今は逆に消費者庁を作りましょうとなっている。それは自己責任の逆ではないでしょうか。消費者を守るために役所を作る。個人に責任は問えないという論調になると、官僚のパワーが上がっていくことになります。ちょっと待って下さい、特に困っている消費者は誰ですか。高齢者でしょう。電器メーカーが悪い製品を作って高齢者が困っているということではありません。最も困っているのは年金の不足、社会保障の不足です。きちんとこれを直すことにこそ、プライオリティーがあるべきです。新しい役所をつくることではありません。
これは数年前から言われていたことですが、税制や年金に対しては、どうでしょうか。建設的で前向きな政策を日本はとりましたか。全くありません。逆です。10年、15年、20年も前から引きずってきた課題に対して、何か建設的な解決はありましたか。
一般の社会では、何か問題があったときには、では本当に問題があるのか、そうならば問題の大きさはどれくらいか、それを判断して問題を解決します、でも、日本の政治は検討はするが、決められても実現しないのです。
私も色々と日本の審議会に参加しました。それはすごい。検討は深いところまでやって、国際的な比較もします。非常に面白く、勉強になる。勉強で終わらずにプランまでは出す。しかし、決定能力はゼロに近い。
現在の政治の停滞は有権者の問題だとは私は考えていません。これは自民党と民主党の問題です。構造的に年功序列の世界ですから、若い人が上に上がれない。
しかし、将来をつくるのは若い方の世代です。これは日本の政党の内部の問題で、民主党もそうかもしれませんが、自民党は年齢的に非常に硬い。日本の会社もほぼ同じ構造ですから、成果は低くなる。
日本の仕組みや構造は少しずつ変わってきてはいますが、根本的には変わっていません。年をとっているからダメだということではありませんが、会社で優れた人でも若すぎるからといって部長に就けられない。この人は10年我慢しなければならない。
有権者はもう怒るしかない
言論NPOを私たちが一緒に作ったときに「日本は夢がない国だ」と言っていましたが、その後、何か進歩がありましたか。
私の最後のメッセージは、「有権者よ、怒れ」です。政治はウソをついている。言論NPOは細かく政党のマニフェスト評価をしていますが、では、マニフェストの項目ひとつひとつで約束したことを、一つでも実現したでしょうか。それでも許されている日本は、政治家にとっては天国かもしれません。
日本は国内には原動力の満ちた素晴らしい国です。優秀な人材がいます。しかし、なぜ動けないのか。もう少し我慢して待ってほしいと言っても、世界は我慢できません。その間に世界は大きく動いている。問題は人材の活用です。人材を活かすためには世代交代が必要です。それが年齢社会、縦社会で難しい。この人は優秀な人だといっても、若すぎるとなる。今の内閣で若くてなんとかやっているのは渡辺喜美さんだけです。
日本がいずれ二等国に転落するというレポートはすでにいろいろ出ています。その最大の原因は意思決定ができないということです。
世界から見れば、日本の国内政治はほとんど興味がありまぜん。誰が総理になるかではなく、その総理は強いのか、総理になれば何とか決定できるようになるのかの方が重要です。
日本のことをよく知っている外人が理解できないのは、何かおかしくなると、問題の原因が分かっても、仕方がないと言って逃げてしまうことです。日本人は熱心です。真面目に問題を勉強しています。しかし、問題をなんとか解決しようとするステップはとれない。馬鹿よりもひどい。年金問題もそうです。税制改正の責任者は政治家でしょう。官僚は何も決定できる立場ではありません。抜本的税制改革が必要だと、ずっと前から言われているのに政治は決定できない。
小泉さんは、国民からは大変な人気があった。なぜかというと、この人は話だけではなく、何かやると思われたからです。有権者は賢いです。
今の世界の動きの中で、経済などの重要問題を決定するに際して、G7に日本が参加する必要があるのでしょうか。金融や経済では、ヨーロッパとアメリカと中国です。日本は大きな図面で見ると、規制政策がポイントですが、何もやっていません。
もう話をしている段階ではなく、時間がない。21世紀は話の世紀ではなく、決定の世紀です。日本の決定能力は最低です。しかし、この状況はもうどうしようもないと諦める必要はありません。政策の決定は人にもよります。
今のアメリカやヨーロッパや中国の実力者は若いのです。胡錦涛主席の世代はまだ、日中関係に関心がありますが、次の世代は日本にはほぼ関心がない。今35歳や40歳ぐらいの若い人たちは、これからの5年間でスピードを出していく。その中で、面白いキャリアを形成する上では絶対に日本に行かなければならないというものを日本は持たなくてはなりません。これはグローバルなレースです。
日本の人材は素晴らしいですし、良いところはたくさんあります。その力を発揮させる上で問題が多いのです。
マスコミもそうです。論理のある議論をさぼっています。たとえば、税制改正にしても、政治家が2年前にはどういう政策提案を出して、それがどのように逆転してしまったかといった、その検証を全くしていません。これはマスコミの責任ではないでしょうか。日本のマスコミはアピール性に偏り、この人は面白い、これからこの人が出てきますということばかりです。もう少し、本質を突いた議論をすべきです。
市民社会や多様な議論が対抗力になる社会が必要です

明石 康
(あかし・やすし)
1957年日本人で初めて国連事務局に勤務。’79年に事務次長に就任。’92年カンボジア暫定統治機構、’94年旧ユーゴスラビアの事務総長特別代表を歴任。現在、スリランカ平和構築担当日本政府代表、NPO法人日本紛争予防センター会長,(財)ジョイセフ(家族計画国際協力財団)会長などを務めている。著書に『国際連合 軌跡と展望』(岩波書店)『戦争と平和の谷間で―国境を超えた群像』(岩波書店)など
かつて『エコノミスト』に掲載された記事は海外の一部のメディアの特別な評価ではなくて、海外に一般的に見られる日本に対する大きな疑問の一部だと思います。
私は先月、スイスのチューリッヒの近くにあるサンガレン大学のシンポジウムに出て、平和維持の問題に関しパネリストとして話してきたのですが、そういう場でも海外の財界人・経済人が「日本経済はどうしたことか」と言います。
そのうちのひとりは、バブルがはじけてからもう10数年経つのに、日本経済は相変わらず1から2パーセントの成長率で元気が無い、中国やインドに比べてあまりにも後退していると言っていました。
かつて国連の職員をしていた時と違って、私も今は日本人として行動しているわけですから、海外にいくとこれはまずいな、といつも思って帰ってくる。
それをさらに掘り下げると、日本社会の中にも「少子高齢化社会に入り、福祉関係の重荷が今後のしかかってきて、明るいことはあまりない」という重苦しい空気がある。さらに、日本は清潔で治安も良く、交通機関が発達し、リスクもないし一応の生活ができるから、という安心感が足かせになって、日本人は閉鎖的になり、世界的にものを見ようとしない。
それが政治の世界にも反映しているし、マスコミの世界にもそれが見られる。
日本全体が高齢化、人口減少とか様々な課題に直面しているのに、日本の政治はそれに答えを出す仕組みになっていない。ただし、答えはあるはずです。「働ける高齢者や女性の才能の活用」や「国民一人一人の生産性向上」、「スキルを持った移民の計画的な受け入れ」など。単純なひとつの答えではないだろうが、問題解決の道はないことはないのに、日本は自ら孤立し、ひとりで暗いイメージのなかに閉じこもってしまっているように思える。
日本人自身が「この国には将来がない」と思いこんでいるから、海外のメディアなりシンクタンクの論調も、それを反映している。外国人だけが日本の将来を悲観しているわけではない。
民主政治に見られるポピュリズムをどう押さえ込むか
工藤さんが指摘した「今の日本の政治が国民との合意で動いていない」ということも、そう言い切れるかは別として、日本の政治にポピュリズムの傾向が強まっているということはその通りだと思います。ポピュリズムの傾向は今の国会のねじれ現象よりも前から指摘されていました。それはやはり、民主主義社会におけるマスコミの役割というものを考えると、ある意味で避けることのできない傾向のせいだと思います。
アメリカ外交史を読むと、1898年の米西戦争でアメリカはスペインからキューバを取り、フィリピンも植民地化しました。その背景には、スペインの政策に悪いところがあったというより、アメリカの国内で「スペインをやっつけろ」という風潮が出たことがあります。特にニューヨークでふたつの新聞の販売競争があり、キューバにおけるスペインの「圧制」なるものをいろんなかたちで取り上げた。それはまさにポピュリズムでした。どちらかの新聞の特派員が「キューバは穏やかで何も事件は起きていないのでニューヨークに帰る」と電報を打ったら、編集局長から「事件がないならつくれ」という無茶な指令が下ったということが、アメリカで信頼されるS.M.ベーミスの外交史に書かれている。
アメリカの憲法がつくられたのは1787年、フィラデルフィアの憲法制定会議ですが、この議事録のようなものが残っていて、これが実に面白いんです。テレビもラジオもなかった時代の、歯に衣着せぬ民主主義論がそこで語られています。B・フランクリンとかA・ハミルトンとかJ・マディソンとかいう連中が言っているのは、「民主主義は直接民主制とは違う」ということです。「やはり代議制が真の民主主義である」ということで、アメリカの大統領選挙も上院の選挙も最初は直接選挙ではなかった。むしろ直接選挙と民衆のもつ情緒性に対する不信感が根強かったのが、アメリカ民主主義の本来の伝統なんです。
民主主義にはある段階でセンセーショナリズム、ポピュリズムをもつ傾向がみられます。民主主義が本質的にそうだということではないが、ポピュリズムに陥りがちです。ポピュリズムはわかりやすいし、大衆にアピールできる。ただ、選挙で浮動票を取るには妙手なんでしょうけども、それは決して褒められたものではない。本来の市民の熟慮や議論に基づく民主主義という見地から言えば、邪道だと言えると思う。
だからこそ、ポピュリズムに対するアンチテーゼとなりうるような市民社会、多様なオピニオンというものを、市民の側が対抗力として持てるかということが問題です。
市民社会の弱さがこうした事態を招いている
アメリカやイギリスのような成熟した民主主義の国でさえもポピュリズムの状況になるわけですから、日本やドイツなど、より若い民主主義の場合にはその問題がより大きいし、またドイツより日本の場合のほうが大きいと思います。
市民社会というのは何世紀かの成熟の期間を経て、たとえば中世に教会が絶対王政への抵抗力になっていったような歴史が日本にはない。「中産階級」と「市民社会」は違うし、市民社会の内容も国によってことなる。カンボジアは発展途上国でありながら、NGO(非政府機関)が日本よりも社会に根を張っていると思う。マオイストによる反乱を経て、王政を倒し新しい議会政治を発足させたネパールにも、市民社会といえるものが平衡力として作用したのではないか。
今の日本の問題が政治にあるのだとすれば、それを許している市民社会の機能を考えなくてはならないと思います。
まず日本に「市民」というものができているかどうかということが問われなくてはならない。「市民」というものが日本では何となくまだ薄っぺらで、キザでバタ臭く、個々の人間の手垢に滲んだ感じがない。私はよくノルウェーの人と協議するんですが、ノルウェーは小さな国で人口も500万ほどだが、日本にないような大きなNGOが5つある。このNGOは政府から金をもらって行動するがそれで卑屈になることはなく、必要なときは政府をサポートし、必要なときは政府と別に行動する。それがあの国の国際的な動きに厚みを与えている。これに対し日本のNGOは小さいけれどもキラリと光りたいというNGOばかりで、残念ながら自分の力で国際的な大きな行動を起こそうというものがない。私は国連時代に、各国の大きなNGOの代表者と話をする機会がよくあったが、日本を代表して来るNGOは宗教団体だけだった。
市民なり有権者そのものが日本の政治に責任を持つ、というようなプレッシャーがない状況はなかなか変わらない。それだけの経済的な力も、社会的なプレステージもないし、知的な厚みもない。その全てがそろったものが市民社会なのではないのでしょうか。こうした市民社会の弱さがいまの日本の政治の状況を招いているように思います。
権力を取るだけの政治ではあまりにも寂しい
今の日本の政治を考えれば、これはやはり有権者自体の態度が問われているように思います。たとえば、公共サービスには必ず「受益と負担」があるという問題を今の日本の政治家は避けていますが、いつまで避けられると思っているのか。政治家はこの問題をバイパスし、避けてタブー視しなければいけないと思い込んでいて、国民に説得・働きかけをする努力をしていない。
財政破綻の問題にしても、消費税なのか福祉税なのかはわかりませんが、これが今の倍以上にならないと日本の財政が破綻することはわかりきっているのに、政治家はみんな猫の首に鈴をつけるのを躊躇している。猫っていうのは国民ですが、政治家は国民が怖いのです。国民を怒らせると選挙で負けますから。だから国として日本はそんなにまずしい国ではないのに、財政が困窮するという状況を招いている。
だから、日本が背負った課題解決や負担を語らずに、国民が受けるサービスしか語らなくなる。選挙が近いならばなおさらです。ポピュリズムの政治のなかでみんなが動いている。それは根底で国民をばかにしているからとしか思えない。国民の知恵を恐れているのなら、もっと真剣に説得しようとするはずです。しかし、決してばかにできない判断力を日本の国民は持っているのではないかと私は思います。
アメリカの政治学の教科書を読んでも、政治は権力を取るためのひとつのテクニックだと書いてある。しかしそれだけでは非常にさびしい話です。では何のために政治家が権力を取るのかということになれば、どうしてもヴィジョンや価値観、理念・理想というものが必要になってくるわけで、そういうヴァイタルで長期的な国家利益は一般国民にはなかなか見えないわけですから、それを見る眼力を持ち、それについて国民を説得する能力を持った人が、政治家として出てこなくてはいけない。
今は国民にそうした考えを説明した方が健全な政治なのです。僕は小沢さん(一郎、民主党代表)は国の大きな在り方について語るようなタイプではないか、と思っていたが、選挙を勝つ名人みたいに祭り上げられて、ご自身がどう考えているかはわからないが、選挙だけを意識する方向に走っている印象を与えている。
小選挙区制が一切の悪だとは思わないが、政治家に聞くと、やはり小選挙区制の包含する問題を指摘する意見がかなりある。というのは、選挙民の過半数の票を取らなくてはならないので、ありとあらゆる人に語りかけて票を集めようとする。総投票数の20%か30%取れば当選できるものではなくなっている。そういう世知辛い状況になってきて、個々の政治家のカドが取れてきて、みんなツルツルの丸い政治家になってしまった、と言います。本来はイギリスあたりがひとつのモデルになったのでしょうが。
イギリスの場合も最近は保守党と労働党の立場が接近してよくわからなくなっているし、日本はもっと曖昧です。民主党は平均点を取れば自民党よりは左でしょうけれども、自民党より右にいるような議員だってたくさんいるし、この点日本の場合は非常に曖昧な状況に留まり、政党のよって立つ立脚点をより分かりにくくしている。
日本の政治はどうしたら変わるのか
現在の日本の政治状況を変えるためには、有権者自身が変わるしかないのですが、そのためには政治を再び国民が取り戻すことしかないことになるのでしょうか。
第1に政治家は、選挙のことを語るよりも日本の直面している根本的な問題や課題について国民に語りかけ、一緒に考えるべきだと思う。
第2に、国民の側からも、小泉さんの時代にあったようなワンフレーズの政治ではなく、日本の国がいろいろな意味で究極的に困った時点にきていること、それは国際的にも国内的にもそうなんだということを、もっと開放的な雰囲気の中でじっくりと語り合うことが必要です。政治家の言ったことを鵜呑みにしないで、自分たちのなかで政治家の言動を冷静に語り合う場を数多くつくる。国民ひとりひとりが「何が自分の真の利益なのか」を考えるようになればいいわけです。
第3に、メディアもまた、読者が何回も読みたくなるようないろいろな特集を行ったり、最近の新聞がよくやるように2つか3つの対立した考えを1ページに載せるような紙面をもっと増やし、単なるファクトとか細切れの事実、面白おかしい言論や揚げ足とりではなく、個々の政治家の基本的なものの考え方とその論議を国民が考え吟味する材料を提供していくべきです。
僕は本屋に行くといつも憂鬱になるのですが、いろいろな本が表紙でアメリカをやっつけたかと思えば今度は中国をやっつけたり、単純で勇ましい議論を起こすような本ばかりがたくさん並んでいる。日本人はもっと成熟した国民だと思うのに、どうしてこういう単純で情緒的な本が氾濫しているのか不思議です。こんなはずではないのに、という思いをいつも持つのです。
もちろんすべてに呆れているわけではありません。私が出演したあるテレビのニュース番組では時間をたっぷりかけてしっかりした骨組の解説的なものをつくっていました。言論NPOも市民の間でたっぷり異論を交わしあえる討議の場を作って議論をしようとしていると信じます。そういうものが増えてくると、厚味のある重層的な知識にもとづいた政治の出現にも希望が持てるようになるでしょう。
2000年06月04日 20:24
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コメント
三氏のご意見、それぞれ同感できる点がある。しかし 一人を選ぶならばコール氏の立論だ。
さて 意志決定力だ、市民一人一人の個の確立、平たく云えば「しっかりしなければ」が必要だが、他人の立論に右顧左眄する人が多い。 結局 マスメディアが しっかりしてくれないとどうにもならない。鶏と玉子 ドッチが先か?
国民 みんなが 少しの緊張をもって参加できるテーマがある。
豪州のジャーナリストが書いた「プリンセス マサコ」。
この内容に 宮内庁が嘴を挟んだ云々。大手出版社が 出版を諦めた理由。なによりも 全国紙が広告掲載を断ったいきさつ。当の新聞社をふくめて この本について議論しようではないか。
日本のジャーナリズムは酷いことになっているのだ。
市民が一人一人の価値判断で議論してみる。
マスメディアも、それに属している人間が、個人として発言する。
これは トレーニングだ。しかし このような トレーニングを経なければ、個人の集積としての 市民の意志決定は期待できない。一度 遣ってみませんか。
投稿者 引退老人(在 豪州) : 2008年06月16日 21:44
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