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2006年07月30日
メディア評価ブログ 誕生!
今こそ、日本の民主主義のあり方、それに向けてのメディアの役割や責任が問われている状況はないと私たちは考えています。
「メディア評価ブログ」では、メディアの報道する様々な議論に対し、複眼的な視点からの論評を行い、さらにその視点を深めるための問題提起を行っていきたいと考えています。
現在の発言者

横山禎徳/よこやま・よしのり (社会システムデザイナー、言論NPO理事)
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1966年東京大学工学部建築学科卒業。建築設計事務所を経て、72年ハーバード大学大学院にて都市デザイン修士号取得。75年MITにて経営学修士号取得。75年マッキンゼー・アンド・カンパニー入社、87年ディレクター、89年から94年に東京支社長就任。2002年退職。現在は日本とフランスに居住し、社会システムデザインという分野の発展に向けて活動中。言論NPO理事
横山禎徳氏がメディア評価で選んだ記事 毎日新聞連載記事「縦並び社会」
◆第1話:6/16(金) 「安易なラベル化と思考停止」
◆第2話:6/18(日) 「メディアの水準とアービトラージ」
◆第3話:6/20(火) 「プロフェッショナル」
◆第4話:7/4(火) 「記者のプロフェショナリズムとは(前編)」
◆第5話:7/6(木) 「記者のプロフェショナリズムとは(後編)」
◆第6話:7/12(水) 「ソリューション・スペース(前編)」
◆第7話:7/14(金) 「ソリューション・スペース(後編)」
◆第8話:7/16(日) 「二元論ロジックと批判精神」
◆第9話:7/18(火) 「新聞経営の課題」

岡本 薫(政策研究大学院大学教授・前文部科学省課長)
おかもと・かおる
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東京大学理学部卒 OECD科学技術政策課研究員、文化庁課長、OECD教育研究革新センター研究員、文科省課長などを経て、2006年1月から現職。専門はコロロジー(地域地理学)で、これまで81か国を歴訪。著書に『日本を滅ぼす教育論議』(講談社現代新書)、『著作権の考え方』(岩波新書)など。
◆第1話:5/29(月) 「私がメディア評価を行う立場/報道の”在るべき姿”についての私の考え」
◆第2話:5/31(水) 「報道の”在るべからざる姿”についての私の考え」
◆第3話:6/2(金) 「根拠なき”説明責任”の濫用」
◆第4話:6/4(日) 「ルール感覚欠如の報道」
◆第5話:6/6(火) 「人々の意識」と「社会システム」
◆第6話:6/8(木) 「営利追求と社会的責任」

加藤紘一(衆議院議員)
かとう・こういち
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1939年生まれ。64年東京大学法学部卒、同年外務省入省。ハーバード大学修士課程修了。72年衆議院議員初当選。84年防衛庁長官(中曽根内閣)、91年内閣官房長官(宮沢内閣)、95年自民党幹事長。著書に『いま政治は何をすべきか―新世紀日本の設計図』(講談社1999年)、『新しき日本のかたち』(ダイヤモンド社2005年)。
加藤紘一氏がメディア評価で選んだ記事 「ブッシュ大統領の機密漏えい関与」
◆第1話:5/15(月) 「なぜこの記事を評価するのか」
◆第2話:5/17(水) 「戦争の大義と情報のリーク」
◆第3話:5/19(金) 「記事の賞味期限」
◆第4話:5/21(日) 「見失う複眼的視点」
◆第5話:5/23(火) 「メディアと市場原理主義」
◆第6話:5/25(木) 「劇場型政治と情報リーク」
投稿者 gnpo : 11:13
2006年07月21日
「国と地方」 / 発言者: 石原信雄

石原信雄(財団法人地方自治研究機構理事長)
いしはら・のぶお
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1926年生まれ。52年、東京大学法学部卒、地方自治庁採用。84年から86年7月まで自治省事務次官。86年地方自治情報センター理事長を経て、87年から95年2月まで内閣官房副長官。1996年より現職。編著書に、「新地方財政調整制度論」(ぎょうせい)、「官かくあるべし」(小学館)他多数。
投稿者 gnpo : 18:50
第11話: 「地方のシステム改革の上で考えるべき視点と問われる覚悟は何か」

石原信雄(財団法人地方自治研究機構理事長)
いしはら・のぶお
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1926年生まれ。52年、東京大学法学部卒、地方自治庁採用。84年から86年7月まで自治省事務次官。86年地方自治情報センター理事長を経て、87年から95年2月まで内閣官房副長官。1996年より現職。編著書に、「新地方財政調整制度論」(ぎょうせい)、「官かくあるべし」(小学館)他多数。
地方のシステム改革の上で考えるべき視点と問われる覚悟は何か
大田弘子さんたちが地方の破綻法制の検討を進めている背景には、地方の財政運営を役人の手から離したい、市場で裁きたいという気持ちがあるのでしょう。一種の役人不信論です。しかし、少なくとも私たちが地方財政再建法を作った頃は、すさまじい再建計画をやったのですから、そういう状況に置かれれば役人もやるでしょう。とにかく役人に任せておいたらダメだという発想があり、本間正明さんたちも、極端にいえば、交付税の配分を総務省ではなくて第三者にやらせろということでしょう。役人の恣意が入らないようにするために、人口と面積で機械的に配分し、役人は一切タッチさせるなという考え方です。本間、大田理論は、昭和15年の地方配付税よりも前に戻る話で、もっと原始的な制度に戻せという議論です。
そもそも、交付税算定の複雑化は、行政の高度化、複雑化に対応してきているものなのです。それをシンプルにするのであれば、行政もシンプルにしなければいけません。社会福祉や教育などについて色々な法律で地方に義務付けをしていることをやめてしまい、「税収の範囲で考えなさい、それ以上やりたければ、住民と相談してやりなさい」ということになる。そのためには、我が国の法制度を全部直さなければいけないのです。しかし、それをしないで、地方に義務付けしたまま、財源配分だけ単純化してしまうと、ギャップが生じて、必要なところへは行かなくなり、それについて誰が責任を負うのかということになります。
一つの行き方は、我が国はもう、国は地方行政には関与しない、何をやろうと地方が勝手に住民と相談して、自己財源の範囲内でやるという制度に戻ることです。豊かなところはうんと豊かになり、アメリカのように、貧しいところは人が住めなくなるが、それは止むを得ないという考え方です。それを役人が調整するからいけないというのが役人不信論ですが、大部分の住民はそのようには考えていません。日本の国民は、どこに住んでいようと同じ程度の行政サービスがあって然るべきだと思い込んでいますし、国会議員もそうです。行政制度がそうなっており、財政制度だけを単純化しろというのが本間さんや大田さんの議論のように思われます。
歴史の積み重ねの中で複雑になったものを全部見直すのであれば、交付税制度だけではなく、行政制度も税制度も労働三権も公務員制度も、全部直さなければいけない。それを全部一緒にやるのであれば、それも一つの国の政策のあり方だと思います。人事院も廃止し、給与も一切、労使交渉で勝手にやれ、ストライキをしてもいい、その代わり、ツケは全部住民が払うのだから、住民との話し合いをしたらいい。そういう一番原始的な自治の世界に戻すのも一つの選択で、アメリカは現にやっているわけです。そのようなアメリカ的な行き方は、アメリカという風土の中で定着した制度ですから。
最も分かりやすい例は、阪神淡路大震災で、あれだけ大災害を受けましたが、神戸は短期間に立ち直ったということです。それは、日本の交付税制度が非常に大きく貢献しているのです。神戸市は、あの大災害で職員を一人も減らしていません。復興のために、むしろ増やしています。それを可能ならしめるような交付税制度があるわけです。復興のための様々な財政支出で借金しましたが、その償還費も大部分、交付税で手当てした。ですから、一人の解雇もしないで、復興に専念しました。片や、ニューオーリンズ市は、あの大水害にあって、市長は職員の3分の1を解雇しました。アメリカには交付税制度がないので、大災害を受けたら税金がなくなってしまい、復興する財源がなくなり、人もいなくなってしまっている。ですから、いつまでたっても復興しないでしょう。
それは、根本的に財政制度が違うからです。あの国は自己責任ですから、大災害を受けても自己責任です。神戸の場合は、今、十年たって、震災前より立派な町になりました。神戸市とニューオーリンズ市の違いは、交付税制度のあるかないかの違いなのです。どちらがいいのかということです。
改革は否定しませんし、改革はやるべきですが、しかし、本間さん達のような話をしていたら、日本の地方自治は破綻してしまいます。豊かな都市はいいですが、大部分の田舎の自治体は破綻してしまいます。
※本テーマにおける石原信雄氏の発言は以上です。
※以下にコメント投稿欄がございます。皆さんのご意見をお待ちしております。
(尚、戴いたコメントは担当者が選択し ”このテーマ「国と地方」にコメントする・見る” ページにも掲載させて頂きます。どうぞご了承ください。)
2006年07月20日
「国と地方」
言論ブログでは、本物の議論の提案をしていきます。
5・6月は「国と地方」をテーマに以下の方々に、三位一体改革はどう評価すべきか、地方交付税は今後どうしたらよいのか、地方の自立、分権のためにはどのような制度設計が必要なのか等、語っていただきます。
▼ このテーマ「国と地方」にコメントする・見る
5・6・7月の発言者

石原信雄(財団法人地方自治研究機構理事長)
いしはら・のぶお
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1926年生まれ。52年、東京大学法学部卒、地方自治庁採用。84年から86年7月まで自治省事務次官。86年地方自治情報センター理事長を経て、87年から95年2月まで内閣官房副長官。1996年より現職。編著書に、「新地方財政調整制度論」(ぎょうせい)、「官かくあるべし」(小学館)他多数。
◆第1話:7/1(土) 「地方自治というものの理念型」
◆第2話:7/3(月) 「地方交付税の前身はどのようなものだったのか」
◆第3話:7/5(水) 「交付税の誕生の経緯と財源保障」
◆第4話:7/7(金) 「国への依存財源が多すぎる状況をどう正すのか」
◆第5話:7/9(日) 「交付税総額の削減のために必要なこと」
◆第6話:7/11(火) 「失われたのは受益と負担との関係の下での地方の独自課税の習慣」
◆第7話:7/13(木) 「交付税特別会計の巨額の借入れをどう考えるのか」
◆第8話:7/15(土) 「地方財政の改革はどう進めるのか」
◆第9話:7/17(月) 「道州制に向けた制度設計はどう考えるべきか」
◆第10話:7/19(水) 「地方の破綻法制の議論には本質的な問題がある」
◆第11話:7/21(金) 「地方のシステム改革の上で考えるべき視点と問われる覚悟は何か」

増田寛也 (岩手県知事)
ますだ・ひろや
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1951年生まれ。77年東京大学法学部卒業後、建設省入省。千葉県警察本部交通部交通指導課長、茨城県企画部交通産業立地課長、建設省河川局河川総務課企画官、同省建設経済局建設業課紛争調整官等を経て、95年全国最年少の知事として現職に就く。「公共事業評価制度」の導入や、市町村への「権限、財源、人」の一括移譲による「市町村中心の行政」の推進、北東北三県の連携事業を進めての「地方の自立」、「がんばらない宣言」など、新しい視点に立った地方行政を提唱。
◆第1話:6/17(土) 「地方は北風の中に立ち始めた」
◆第2話:6/19(月) 「地方が自ら考える、分権の一歩は始まった」
◆第3話:6/21(水) 「分権の帰着は基礎的自治体であり、住民である」
◆第4話:6/23(金) 「三位一体改革に影響した格差議論の遅れ」
◆第5話:6/25(日) 「広域自治体化に向けた制度設計」
◆第6話:6/27(火) 「交付税改革と地方の破綻法制について」
◆第7話:6/29(木) 「自立に向けた変化の動きをどう創り出すか」

本間正明(大阪大学大学院経済学研究科教授・経済財政諮問会議議員)
ほんま・まさあき
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1967年大阪大学経済学部卒。73年同大学大学院経済学研究科博士課程修了。英国ウォーリック大学客員教授、ロンドン大学STICERD客員研究員、大阪大学副学長などを経て、現在大阪大学大学院経済学研究科教授。経済財政諮問会議議員、税制調査会委員などを兼任。主著に「租税の経済理論」「新・日本型経済システム」等。
◆第1話:6/5(月) 「三位一体改革とは何だったのか」
◆第2話:6/7(水) 「第二ステージの改革はどう組み立てるか」
◆第3話:6/9(金) 「財政再建と国と地方の関係」
◆第4話:6/11(日) 「地方交付税改革についての論点」
◆第5話:6/13(火) 「これからの国と地方の形をどう考えるか」
◆第6話:6/15(木) 「少子高齢化と地域活性化」

穂坂邦夫(前志木市長、地方自立政策研究所代表 )
ほさか・くにお
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1941年埼玉県生まれ。埼玉大学経済短期大学部卒業。埼玉県職員、足立町(現志木市)職員を経て、志木市議会議長、埼玉県議会議長を歴任。2001年7月、志木市長に就任。2005年7月から地方自立政策研究所代表。主な著書に「市町村崩壊-破壊と再生のシナリオ-」(スパイス)、「教育委員会廃止論」(弘文堂)等。
◆第1話:5/20(土) 「構造的な依存体質から抜け出せるか」
◆第2話:5/22(月) 「市町村が怖いのは国より都道府県」
◆第3話:5/24(水) 「なぜ損得勘定の議論となるのか」
◆第4話:5/26(金) 「改革を妨げる市町村の実態」
◆第5話:5/28(日) 「地方の自立をどう組み立てるか」
◆第6話:5/30(火) 「地方へのお金を減らすー自立の近道」
◆第7話:6/1(木) 「住民は行政のオーナーのはず」
◆第8話:6/3(土) 「パブリックな領域とは」

斉藤惇 (株式会社産業再生機構代表取締役社長)
さいとう・あつし
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1939年生まれ。63年慶應義塾大学商学部卒業後、野村證券株式会社入社。同社副社長、スミセイ投資顧問顧問を経て、99年住友ライフ・インベストメント社長兼CEOに就任。2003年より現職。主な著書に『兜町からウォール街─汗と涙のグローバリゼーション』 『夢を託す』等。
◆第1話:5/2(火) 「地方は本当に自立を求めているのか(1)」
◆第2話:5/4(木) 「地方は本当に自立を求めているのか(2)」
◆第3話:5/6(土) 「”中央から地方へ”は本当に正しいのか(1)」
◆第4話:5/8(月) 「”中央から地方へ”は本当に正しいのか(2)」
◆第5話:5/10(水) 「地方活性化のトータルデザイン(1)」
◆第6話:5/12(金) 「地方活性化のトータルデザイン(2)」
◆第7話:5/14(日) 「中心市街地の衰退とまちづくり3法」
◆第8話:5/16(火) 「”偉大な田舎”と道州制への期待」
◆第9話:5/18(木) 「行政の役割と地方の競争」
投稿者 gnpo : 09:27
2006年07月19日
第10話: 「地方の破綻法制の議論には本質的な問題がある」

石原信雄(財団法人地方自治研究機構理事長)
いしはら・のぶお
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1926年生まれ。52年、東京大学法学部卒、地方自治庁採用。84年から86年7月まで自治省事務次官。86年地方自治情報センター理事長を経て、87年から95年2月まで内閣官房副長官。1996年より現職。編著書に、「新地方財政調整制度論」(ぎょうせい)、「官かくあるべし」(小学館)他多数。
地方の破綻法制の議論には本質的な問題がある
今、大田弘子さんたちが「地方分権21世紀ビジョン懇談会」(総務省)で地方の破綻法制の検討を進めています。しかし、地方公共団体における財政破綻の問題は、公経済の世界であり、私法の手法でこの問題を処理するというのは、いかがかと思います。日本の裁判所は、公法と私法をはっきりと峻別しており、司法は行政固有の世界については判断を避けています。これは「統治行為論」といって、いつも問題になるものなのです。統治権者としての国家というものの行為について問われた場合には、「行政の最後の責任は内閣の判断の問題であって、司法の判断する問題ではない」という議論です。財政破綻した場合の処理を、私法の手法で処理しようとすれば、裁判所は法務省を含めて、困惑するのではないでしょうか。
財政破綻に対する歯止めを構築するとすれば、一つは地方債です。今までは政府が資金を供給していましたが、これからは民間資金、民間借り入れが中心になります。そこで、否応無しに、民間の市場の評価によって、もし財政が悪くなればリスクを伴うから、貸してくれなくなります。また、危ないと思ったら、金利が高くないと調達できなくなります。今までは政府保証なので、貧乏団体でも金持ち団体でも、同じ条件で地方債を発行していました。それができなくなります。そこでまず、ブレーキがかかります。
借金できなくなれば、キャッシュフローで破綻してしまいます。そこへ行かなければいけません。破綻法制ということで、私法の破産法の手法でいかなくても、地方は今の地方債での資金調達ができなくなるので、そこでとまってしまうわけです。市場が資金供給を拒否してしまいます。そこは法律論ではなく、実体論ですから、難しい法理を議論する必要はないと思います。
むしろ、現行の地方財政再建促進特別措置法で十分対応できます。今でこそ、この法律はあまり活用されていませんが、昭和30年代の初めの頃、財政再建団体がたくさん出てきて、月給も払えなくなったころには活用されていました。政府が再建団体に認定すると、再建計画を作らせ、その計画が承認を受ければ、その承認された計画に基づいて作った予算については、資金不足があれば政府が資金を貸しました。その代わり、その計画たるや、ものすごいもので、昇給も期末勤務手当もなし、もちろん人員削減もやる。そして、住民税や事業税の超過課税を必ず命じました。それも2割以上という超過課税で、そこまでやらせたのです。今でもそれはできるようになっています。それで乗り切れない団体はありません。
破綻法制として、今の公法の世界に私法の手法を取り入れるという難しい議論をしなくても、今の地方財政再建法を厳格に運用すれば、事態は解決できると思います。やれるのに、やっていないだけです。大田委員会は、公法の世界に対する不信から、行政の分野も市場原理でとことんまでやってみようという発想だと思いますが、破綻法制で行政の分野を仕切るのであれば、法務省や裁判所の意見を聞くべきです。
破綻法制の議論では、破綻に対する後始末の仕方は、最終的には、住民サービスの低下や地方税の増税だと思います。大田さんたちの議論が無限責任にまで行くのだとすれば、それは無理です。それは、この国の自治制度、行政制度の基本の問題です。選挙民の代表を選んだという責任が、自分の個人財産を根こそぎ取られることまで含んでのものなのかということになります。それは代表制民主主義の限界を超えた議論になるのではないかと思います。株主は、株が価値を失うだけで終わりです。無限責任社員ではないのですから。代表制民主主義では、投票したことに対して、行政的な責任、道義的な責任はあるが、財産的な責任が無限社員と同じ法理でいくというのは、無理があると思います。
※第11話は7/21(金)に掲載します。
※以下にコメント投稿欄がございます。皆さんのご意見をお待ちしております。
(尚、戴いたコメントは担当者が選択し ”このテーマ「国と地方」にコメントする・見る” ページにも掲載させて頂きます。どうぞご了承ください。)
2006年07月18日
メディア評価ブログ / 発言者: 横山禎徳

横山禎徳/よこやま・よしのり (社会システムデザイナー、言論NPO理事)
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1966年東京大学工学部建築学科卒業。建築設計事務所を経て、72年ハーバード大学大学院にて都市デザイン修士号取得。75年MITにて経営学修士号取得。75年マッキンゼー・アンド・カンパニー入社、87年ディレクター、89年から94年に東京支社長就任。2002年退職。現在は日本とフランスに居住し、社会システムデザインという分野の発展に向けて活動中。言論NPO理事
横山禎徳氏がメディア評価で選んだ記事 毎日新聞連載記事「縦並び社会」
投稿者 gnpo : 22:34
第9話:「新聞経営の課題」

横山禎徳/よこやま・よしのり (社会システムデザイナー、言論NPO理事)
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1966年東京大学工学部建築学科卒業。建築設計事務所を経て、72年ハーバード大学大学院にて都市デザイン修士号取得。75年MITにて経営学修士号取得。75年マッキンゼー・アンド・カンパニー入社、87年ディレクター、89年から94年に東京支社長就任。2002年退職。現在は日本とフランスに居住し、社会システムデザインという分野の発展に向けて活動中。言論NPO理事
「新聞経営の課題」
人のせいだけではなく自分のせいでもあるかもしれないと自己反省という行動とるのがフェアであるといいました。その行動とは対外的に謝るとか、社内外に決意表明とか声明を出すというようなことだけではありません。まして昨今よくテレビで見るような深々と、そして長々と頭を下げることでもありません。その程度の行動では企業組織がこれまでのやり方をきっぱりと止め、新たなやり方に変わるということにはならないのです。そのことを知っている「大衆」は白けた気持ちでこのような反省を受け止めているのです。
組織内の人を動かしている仕組み、すなわち、社内のシステムをはっきりと作り変えないと人々は行動を変えないのです。何を評価し、何を評価しないかと暗黙の了解になっていることを明確に意識の俎上にのぼせた上でそれを転換することが必要です。しかし、たとえ新しい評価基準に合うように行動しようと思っても個々人の能力がついてこないことはよくあります。
結局、新たな価値観に基づいた業績評価システムとその評価基準に合うような行動ができる能力を身につけるための人材育成訓練システムとの両方が組織にきちっと導入されないといけないのです。
人は優秀か優秀でないに関係なく何で評価されるかではっきりと行動を変える、あるいは変えようとするものです。そして、期待される行動をするための知識、技能、知恵の三拍子揃った本気の能力訓練をすれば、ちゃんと人は行動を変えるのです。人の行動を変えることが組織を変えるということです。逆ではないのです。
記者の方々だけではなく新聞社の経営層もこのブログを読んでいてくださるとありがたいのです。そして、すべてに賛成しないまでも確かに反省すべき点はあるな、記者もっとプロフェショナルとしての高度技能を磨かないといけないなと思ってくださるのなら、もっとありがたいのです。そしてそのようなことができるシステムを設計し組み込み、そしてしつこく改良する努力をする行動を起こしてくださるならもっともっとありがたいと思います。
最初から完璧なシステムはできないだけではなく、結構お金もかかります。それなのにすぐに成果の出ることではないし、商業的な成功に結びつくかどうかもわからないのはつらいところです。しかし、日本のジャーナリズムの水準を高めたという評価や、日本の健全な世論形成に貢献しているという評価を勝ち得ることに大きな価値を認め、公共性の高い報道機関としての役割を果たしているプライドを感じられるような新聞社になる志を持つことが必要でしょう。
私のかつての本業であった経営コンサルタントや落語家は日本にあってもなくても誰も困らない存在なので、世間にあったほうがいいことを認めてもらおうと常に努力するのですが、公共性ということで存在をはじめから認められているとそれに安住してしまい、逆に努力がおろそかになるということでは困ります。
最近、日本人の記者に英語の資料を提供すると新聞に載らないから日本語訳を提供しないといけないということを聞きました。英語の能力が不十分だからちゃんと読んでいる暇がないのだそうです。一方で、新聞もグローバリゼーションとかグローバリズムといっているのではないでしょうか。海外特派員だけが外国語ができればいいと思っているのであればグローバリゼーションという表現を使いながらその意味がわかっていないのです。
インターナショナリゼーションは海外特派員の世界ですが、グローバリゼーションとは相互連鎖、すなわち、日本が海外に染み出していき、海外が日本に染み込んでくるということです。自分はドメスティックだから関係ないといっていられない時代だという認識が必要です。そんなことはわかっているのであれば、残念ながら今世紀最大の「知的資産」である英語は身についていないといけないのでしょう。
特に最近、アメリカ的思考や価値観の普遍性ということに大いなる疑念が生じ、多極化する世界の中でいろいろな事件が中国や韓国だけでなく、アメリカ、ヨーロッパ、アラブ世界とそれぞれ日本の報道とはニュアンスのかなり違う報道がいっそうされる時代になりました。また、何故か日本の報道にはなく、外国の報道ではじめて知るということもあります。そしてグローバリズムの真っ只中にいるかなりの日本人はそのうちのいくつかを読み、比較しながら理解している読者になっています。すでに記者の方が一部の読者から置いてきぼりを食っていることになります。
そうか、それでは記者は数ヶ国語ができないといけないな、しかし、現実的には英語だろう、これを何とかしようと新聞社の経営層が考え、これからの時代のプロフェショナルの必要高度技能の一部として英語の聞くことと喋ることを中心とした能力アップを実行しようとしたとすると「没入式」といわれる速習コースで一人当たり六ヶ月300万円くらいかかるわけです。給料を払いながら勉強させるというオポチュニティ・コストを入れると一人当たり1000万円くらいになるでしょう。単に英語能力アップでもこれだけのコストをかけるという決心をすることが必要なのです。単なる決意表明だけでは何も起こらないとはこういうことなのです。
最後に、これまで述べたような時代の要請に答える高度技能を記者に持たせることは重要なテーマであることに同意していただけるなら、公共的存在としての責任として現在どのような人材育成訓練をしているのかを各社公表されてはどうでしょうか。経費面の数字はなくてもどのようなプログラムがあるのかだけでいいでしょう。一度社内外の評価を受け、必要な改善を今後工夫され推進されることをお勧めします。
※以下にコメント投稿欄がございます。皆さんのご意見をお待ちしております。
(尚、戴いたコメントは担当者が選択し ”日本のメディアに物申す!/コメントする・見る” ページにも掲載させて頂きます。どうぞご了承ください。)
2006年07月17日
第9話: 「道州制に向けた制度設計はどう考えるべきか」

石原信雄(財団法人地方自治研究機構理事長)
いしはら・のぶお
![]()
1926年生まれ。52年、東京大学法学部卒、地方自治庁採用。84年から86年7月まで自治省事務次官。86年地方自治情報センター理事長を経て、87年から95年2月まで内閣官房副長官。1996年より現職。編著書に、「新地方財政調整制度論」(ぎょうせい)、「官かくあるべし」(小学館)他多数。
道州制に向けた制度設計はどう考えるべきか」
現在、道州制が議論されていますが、これからの地方制度は、都市を強化していく形が一番いいと私は思っています。そうすれば、都市では、能力的に本当の意味の自治ができるのです。市の規模が大きくなれば、エリアも広くなって税源偏在も少なくなります。平成の大合併で市町村の再編成がかなり進みましたが、まだ残っているところもあります。市町村といっても中心は都市であり、これをもっとしっかり強化すべきです。
そうすると、広域行政というものは、今の府県では中途半端になります。府県ではなく、ブロック単位に広域行政を、関東なら関東一円でやった方がいい。千葉だ、埼玉だ、群馬だ、栃木だ、というのは必然性がなくなります。ただ、廃藩置県以後ずっと府県というものがありましたから、一種の県民感情、県民意識というものはあるでしょう。しかし、市町村の行財政能力が強くなると、行政の実態からして、府県レベルでの広域行政は、やることがあまりなくなってしまいます。市がやってしまうからです。
長期的には、府県が道州に統合されていくと、府県庁職員は相当数減ります。その代わり、府県がやっていた仕事を市町村の役人がやるわけですから、その分は市町村職員を増やさざるを得ません。ところが、町村を合併しますと、役場ごとにあった管理事務が一元化できますから、効率化できるのです。そうすると、仕事が増えた分は、市町村職員の合理化で賄えます。その結果、府県だけが職員が余ってしまいます。
そのため、市町村に移る仕事をしていた府県の職員は、そのまま市町村に移ってもらう。府県立の保健所が市立の保健所になれば、保健所の職員はそっくり市の職員になりますし、府県道や国道の管理要員は、府県道事務所から市に移る。また、それとは別に、広域化すると、管理部門の職員は少なくて済みます。10団体が一つになると、管理部門の職員は10倍にならず、せいぜい4~5倍で間に合います。
現在、市町村合併を一生懸命進めているが、その一番大きな効果は、こうした合理化効果です。合併で市町村議会の議員が水脹れと言われているが、それは2年間だけです。合併ですぐクビを切ると、反対してしまって合併できないため、2年間だけ議員の身分保障をしたわけです。市町村が10も集まると、議員数が100人も150人にもなると言って大騒ぎになっているところがあるが、2年経てば、彼らは全て職を失います。
今回の平成大合併で自治体の数は3,232から1,821になったが、できれば1,500程度まで持っていきたいところです。第2次の合併特例法で積み残しの合併は、特に北海道・東北に多いが、財政が苦しくなってくると、やむなく合併しようということになります。
現在は、地方六団体の中でも知事会ががんばっているが、将来的には、市長会が地方の声の中心になると思います。今は、市長会の人たちは、国に金が欲しいということばかり言っているようにみえますが、市長会の中には、人口3万程度の町村に毛の生えたような小さな市が多いということがあります。しかし、それもだんだん減ってくるでしょう。100万都市以上の政令市と、30万以上の中核市が、次第に中心になってきます。そうすると、本当の意味の自治の議論が出てくると思います。地域から上ってくる地方税でやれる団体が増えるからです。そして、地方自治というのは、本来、自分たちのところの税源でやるのだという姿勢が強くなってくると思います。その代わり、広範な課税権を認めなければいけません。税金がそれでいいかどうかは、住民が判断すればいいのですから。
しかし、現状では、地方議会が「代表なきところに課税なし」という形になっていない。本来は、議員というものは、税金も負担するが、その税金に見合ったサービスを要求する住民の代表であるべきです。コストを負担する面と、サービスを受ける面の両方を代弁する議会でなければならないのに、サービスに注文を付けるだけの代表になってしまった。依存財源のウェートが高いため、歳出の増減と地方税の税率を結びつけて議論されていないのです。歳出の増減は、国に対する要望の問題になってしまっている。やはり、補助金と交付税をもっと減らして、地方税を増やすべきです。
三位一体改革の3兆円では不十分です。それでも、住民負担が増えてやりにくくなったと言って地方の首長は気にしているが、それが本来の姿です。やりにくくなってくれなくては、困るのです。首長が住民に、「俺は国から財源を取ってきた」と言って、いい格好をしたがるのは、本当の自治ではありません。
※第10話は7/19(水)に掲載します。
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2006年07月16日
第8話:「二元論ロジックと批判精神」

横山禎徳/よこやま・よしのり (社会システムデザイナー、言論NPO理事)
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1966年東京大学工学部建築学科卒業。建築設計事務所を経て、72年ハーバード大学大学院にて都市デザイン修士号取得。75年MITにて経営学修士号取得。75年マッキンゼー・アンド・カンパニー入社、87年ディレクター、89年から94年に東京支社長就任。2002年退職。現在は日本とフランスに居住し、社会システムデザインという分野の発展に向けて活動中。言論NPO理事
「二元論ロジックと批判精神」
先回述べた二元論のロジックに関して追加の問題を指摘したいと思います。それは新聞が元々二元論として捉えるべきでない事象に関しても二元論の枠組みに押し込んで読者を混乱させ、ミスガイドしていることが結構多いという現象です。例えば数年前、文科省が推進してきたゆとり教育の弊害についての議論においてゆとり教育かあるいは昔ながらの詰め込み教育かという二元論が議論されたりしましたが、これは別に「あれかこれか」の対立軸でもなんでもないのです。
当然のことですが、教育の世界はゆとり教育と詰め込み教育の二つで出来上がっているわけではありません。論理学の初歩でしょう。ゆとり教育だから良いとか悪いというものでもないのです。「良い」ゆとり教育は良いのであり、「悪い」ゆとり教育が悪いのです。詰め込み教育に関しても同じことです。いかに提示されている「ソリューション・スペース」が狭いかということがわかるはずです。
同じような問題として、小学校で英語を教えるべきだという考え方がありますが、一方で、いやいやきちっとした日本語教育が大事なのだという議論を新聞紙面で見ることがあります。しかし、どちらもやるべきなのならやればいいだけです。別にどっちかをやるとどっちかができないというものではないのです。当然、教える先生も違うのでしょう。もし、授業時間の取り合いになるのなら授業時間を増やせばいいはずです。それはタブーでできないのでしょうか。そんなことはないはずです。
人類が進歩し、知るべき知識が増え、また、個々人の活動の幅がこれまでのような狭い地域から国際的に広がるのであれば、そのよう状況に追いつくためには昔より学習に必要な時間が増えることは当然な流れではないでしょうか。そういう方向の議論ではなく、お互い対立関係でもない二つの事象を結びつけて無理やり二元論に押し込んでしまうのも新聞における思考の怠惰さといえるでしょう。
毎日新聞の「縦並び社会」にもまさにこれと同じ問題があります。この特集の発想を支えている物の見方に最近よく言われる「勝ち組対負け組」という二元論があるように思います。かつてのような「誰も勝たない、誰も負けない」という「横並び社会」が崩れて厳しい競争社会になったといいたいのでしょうか。しかし、競争社会であることは別に今に始まったことではありません。ずっと以前から「横並び社会」の中に日常的かつ普遍的に存在していました。他社を抜いた、抜かれたと新聞記者同士が毎日熾烈な「横並び」競争をしているのは良く知られていることです。
「勝ち組対負け組」という発想とその表現の大いなる問題は、お互いに直接戦ってどちらかが勝ち、どちらかが負けたという印象を与えることです。現実には勝ちも負けもしない人が相変わらず大多数であるということを無視していることも問題なのですが、それよりも重大な誤解は誰かが勝つとその結果、誰かが負けると決めつけていることです。あるいはそういう風に読者が誤解してしまいがちな問題提起になっていることです。
学校の試験を考えてみるとすぐわかることですが、貴方が落第点を取ったことは貴方の友人が及第点、あるいは満点を取ったこととは何の因果関係もないのです。しつこいようですが言い換えると、貴方の友人がいい点をとったせいで貴方が落第点をとらざるを得なかったということはないのです。そして、貴方やほかの落第点を取った人たちが次回は努力してクラス全員が及第点をとり、全員進級することは十分可能なのです。
すなわち、「勝ち組」しかいないという状況すら現実にはたくさんあるのです。世の中には相対評価だけではなく、及第点という絶対評価というのもあるのだということを記者は知らないわけではないでしょう。
いや、そういう問題ではない、「負け組」を作る社会が悪いのだという問題提起をしているというのでしょうか。そういえば最近使われなくなりましたが「社会の木鐸」という表現があります。批判精神旺盛な記者の方々が「木鐸」の役割を果たしているという考え方です。しかし、私はその社会に対する批判精神の中に時々「恨」の感情を見てしまいます。それも「弱者である庶民の側にたった」という大義名分の裏に見え隠れするのです。
このことをあまり追求すると不毛な議論になるので止めますが、「恨」とはいろいろな悪いことを自分のせいではなく他の人のせいにするということです。それは実は誰にもある自然な感情です。従って、一定量はそのようなことがあっても仕方がないのでしょう。確かに「社会」が悪いことはあるように思います。海外と日本との両方に生活していると大体において日本がいいなと思うのですが、欠点として感じるのは日本社会の陰湿さです。そういえば陰湿さの一部である「いじめ」のねちっこさにぴったり合う英語とフランス語の単語は思いつきません。「もったいない」が外国語にないのとおなじように「いじめ」にぴったりの言葉もないのかもしれません。
「恨」やその裏返しであるかもしれない「いじめ」の問題点はその陰湿さだけではなく、立ち止まって自己反省をし、必要であれば自己改革をするという発想がないことが大きな問題でしょう。社会を糾弾する場合は新聞社および記者もその「社会」の一部であり、ひょっとすると同じ穴の狢ではないのかという自己反省が必要なのではないでしょうか。
「縦並び社会」をあのような形で批判するのであれば、新聞の発行部数は長年頭打ちの上、世帯あたりの定期購読部数が減少するとう小泉改革とか規制緩和とかと何の関係もなく起こっている苦しい状況の中で新聞の拡販活動の末端で苦労している人たちのことも自己批判としてあの特集の中で報道するのがフェアというものではないでしょうか。
それを入れると「縦並び社会」の格差が何故できたのかの仮説が崩れるわけです。初期仮説が崩れたらもっといい仮説に作り直すという当たり前の思考行動をとっていないのは怠惰か誠実でないのかのどちらかでしょう。
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2006年07月15日
第8話: 「地方財政の改革はどう進めるのか」

石原信雄(財団法人地方自治研究機構理事長)
いしはら・のぶお
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1926年生まれ。52年、東京大学法学部卒、地方自治庁採用。84年から86年7月まで自治省事務次官。86年地方自治情報センター理事長を経て、87年から95年2月まで内閣官房副長官。1996年より現職。編著書に、「新地方財政調整制度論」(ぎょうせい)、「官かくあるべし」(小学館)他多数。
地方財政の改革はどう進めるのか
地方財政の改革を進めるに当たって、まず、補助金については、基本的に、いわゆる奨励的補助金というものは、極力やめたほうがいいと思います。これは、地方には政策立案能力がない、だから国がアイデアを出してやろうという制度です。やめた後、地方交付税は、財源不足を全部保障するという形ではなく、保障の内容をセレクトするということでしょう。私は、保障の対象は、義務的な経費を中心に、若干の単独施策までを入れればいいと思います。
地方の独自施策は、それぞれの団体が住民と相談して決めればいいのです。結婚祝い金とか、海外旅行とか、いろいろと行うことはいいが、その財源は住民によく了解を得て、住民の負担でやるべきです。今はどんぶり勘定ですから、そのようなことがルーズになる。そうではなく、交付税のような包括的財源保障の範囲をある程度狭める。ただ、財源保障は最小限度のものは必要だと思います。しかし、保障の範囲はかなり、絞らなければいけません。
東大の神野直彦さんが提案している地方共有税は、良い案だと思います。これからの行政は中央政府が担う分と地方政府が担う分とがありますが、地方政府が担う分のうち、地方税では賄いきれない部分がどうしても出てきます。その部分は、何らかの形で確保しなければいけません。それは特定の税のうちの地方の取り分として、現在は交付税の法定税目と法定率で地方への配分割合が決まっていますが、それを地方共有税として確保するのです。ドイツなどはそうで、一定の割合で州と連邦が分け合っています。
日本の場合も、基幹税目については、国と地方の共同税として、その一定部分は初めから国の一般会計に入れず、地方の共有財源勘定に入れてしまうわけです。今、地方譲与税がそうでしょう。譲与税特別会計というものがあり、国の一般会計には入れていません。ガソリン税の一部は、地方道路税という税金ですが、国税当局がガソリン税と一緒に徴収するものの、地方税相当分は国庫に入れず、譲与税特別会計に入れています。
交付税をこうした形に改め、その代わり、毎年毎年、足りないからいくらよこせということはやめることにする。基幹税で集まった税収入のうち地方への帰属分だけで配分し、それで足りない分は、地方は課税権を持っているのだから、各自治体がそれぞれ独自課税をやればいい。
これで、交付税特別会計への一般会計加算や借入れはやめることになりますが、内容によっては、今までプラスアルファしている部分には、義務的経費の不足部分など、基本的に足らない分も含まれているかもしれません。加算部分の内容もしっかり精査して、将来ともこの部分は必要だと思われる部分があれば、今の法定率よりも高くする必要があるかも知れませんし、今のままでいいのかもしれません。その議論はしっかりした上で、共同税の地方取り分がここで確定したら、それから後は、地方は、不足したら超過課税をやりなさいということにすればいいのです。そうすれば、本当の自治になります。
ただ、地方財政計画は、今のような財源保障や、交付税の総額を算定、確保するためのツールとしてではなく、地方財政をウォッチする手段として必要です。地方財政全体としての収支見通しは、やはり把握しておく必要があり、経済政策を考えるためにも必要です。
以上の結果、歴史的に言えば、平衡交付金制度ができる前の姿に戻ることになります。但し、そのためには、根っこをしっかり固めなければいけません。地方の財源が非常に不足した状態でそれをやってしまうと、地方は干上がってしまいます。今の税制を見直して、税源偏在をある程度是正しなければ、貧しい団体はやっていけなくなります。
その際、地方消費税の割合は増やすべきです。地方消費税は、国税として徴収して、各県に対し、その県内の消費取引高に応じて配分する、一種の還付税です。多少の偏在は出ますが、所得税などよりは偏在はずっと少ないです。府県段階では実際の消費行為に応じて徴収された実績で配分し、市町村には、計算しようがないため、人口で配っています。偏在が少ないのは、消費税は最終の消費者が負担する制度で、人口比例的になるからです。
※第9話は7/17(月)に掲載します。
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2006年07月14日
第7話:「ソリューション・スペース(後編)」

横山禎徳/よこやま・よしのり (社会システムデザイナー、言論NPO理事)
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1966年東京大学工学部建築学科卒業。建築設計事務所を経て、72年ハーバード大学大学院にて都市デザイン修士号取得。75年MITにて経営学修士号取得。75年マッキンゼー・アンド・カンパニー入社、87年ディレクター、89年から94年に東京支社長就任。2002年退職。現在は日本とフランスに居住し、社会システムデザインという分野の発展に向けて活動中。言論NPO理事
「ソリューション・スペース(後編)」
「大衆」である読者は情報の発生源から直接情報を入手する特別な手段や特権を持っていません。すなわち、「一次情報」である新鮮な未加工情報に接することはほとんど不可能であり、「二次情報」であるメディアによって加工された情報をもとにいろいろな判断をし、考え方を組み立てているのですが、その「二次情報」の提供者がこれまで述べてきたような高度技能に関して訓練不足かあるいは単純に怠惰であると、その提供者の水準に読者の判断水準が合わされてしまうことになります。
かつて、1970年代から80年代にかけてアメリカ社会批判が流行しましたが、先進性を失い、企業も日本企業に立ち向かえず、社会全体が落ち目で犯罪も多く目を覆うばかりのアメリカという報道を読者は毎日のように目にしました。しかし、オハイオ州など中西部に何度か行っていた当時の私の感覚とはどこか合いませんでした。そこには質実剛健な人たちが元気いっぱい、前向きかつ地味に生活していたからです。その地域に本社を置いた大企業も結構元気に経営されており、業績も順調でした。
ニューヨークとロサンゼルスで起こっていることがほとんどの報道では読者は勘違いしたことでしょう。それだけではなく1990年代の後半に新たな時代を画し、活躍したマイクロソフトやオラクル、シスコ・システムズ、サンマイクロなどはちょうどそのころニューヨークやロサンゼルス以外の地で創業していたわけです。同様の革新性をもった企業は日本からは結局出てきませんでした。
この事実は広大で多様なアメリカの各地域を直接見てまわる努力をしなかった日本人記者の怠惰さとアメリカの持つ強さと弱さをちゃんと分析し彼らが取りうる解のある空間、すなわち、「ソリューション・スペース」を定義する能力が欠如していたことに原因があると思います。
当時すでに単一の国家経済としては捉えることはできない、複数の経済の複合体としてのアメリカであることは多少の経済的知識のある人にはほぼわかっていたからです。アメリカの一般むけ雑誌にもそういう報道はされ始めていました。
「ソリューション・スペース」を定義する高度技能の訓練は結構難しいのですが、読者を低次元の判断に留めるのではなく、主要課題に対する多様な解決策の可能性を示すのは公共性のある新聞の責任であるとするならば、ちゃんとした方法論を訓練すべきでしょう。特に、世界に先進事例のなくなった状況にある現在の日本は自分で自分の直面する「超高齢化社会をどう経営するか」の答えを出さないといけないからです。新聞がちゃんとした「ソリューション・スペース」を提示しないといけない責任があるはずです。
方法論を身に着ける手始めとして仮説を持ち、検証するというアプローチがあります。仮説を検証するために多面的な分析をすることによって課題の持つ広がりを理解し、例えば、国民医療費が超高齢化で高騰するという課題に対して個人の医療費負担率を高めろというような単なる課題の裏返しを答えにするのではなく、多様な答の沢山ある「空間」を定義し、読者に示すという訓練です。
この仮説を持つということは多くの記者がやっているようです。しかし、現地調査やインタビュー、データ分析等で仮説が逆証明されたら素直に最初の仮説を捨て、新たな仮説を作り出すことが誠実に課題に肉薄することでもあります。しかし、毎日新聞の「縦並び社会」の特集は最初の仮説どおりの結果をまとめたものに過ぎないように思えます。仮説の検証と発見、そして、新たな仮説を作り出すという作業をしたようには紙面からは見えてきません。作業を始める前から分かっている程度のことをまとめただけに思えます。だから繰り返しますが、課題の裏返しでしかない、どこか痩せた「ソリューション・スペース」しか提示できないのです。
昨年、北京で言論NPOがチャイナ・デイリーと北京大学とで共催した第一回の北京―東京フォーラム(第二回は8月3,4日に東京で開催予定)の後の記者会見で感じたのは中国人記者のある意味では純な質問に比べて、日本人記者の方々のすでにストーリーは出来上がっていて、あることだけ確認したいという、こちらの説明を幅広く聞く耳をもたないような思考も態度もかたくなな質問の姿勢は大変不愉快なものでした。
要するに自分の仮説に合うものだけの裏を取るという印象でした。案の定、翌日の新聞報道は中国が大げさでなくローカル誌も含めて全国に報道されたのに比べて日本の新聞報道はフォーラムでの議論はほとんど触れられておらず、それに先立って行ったアンケート調査の結果だけが報道されていました。すなわち、日中両国民がお互いを嫌っており、日中の関係の悪さの責任はお互い相手にあると思っているという趣旨の小さな記事でした。
実際に起こったことは、会議の前日にサンプル数と内容からいって日本はともかく中国では画期的なアンケート調査の結果が両国の参加者に知らされ、上記のような結果であることに日本人か中国人かに関係なくみんな愕然とし、靖国のことでなじりあうよりはこのような結果の重要さとその原因を議論したのですが、そのことはまったく報道されていませんでした。
そして、大変皮肉なことに、日中双方が合意し納得したのは、お互いの国を訪問したこともなく、親しい友人もなく、相手のことをほとんど知らない日中両国民がマスコミから情報を得てお互いに対する嫌悪感を作り上げている問題の重大さであったのです。すなわち、マスコミの責任はどうあるべきか、そもそも責任は取れるのかという課題をいろいろ議論したのです。
ちゃんと仮説の検証をし、それが逆証明されれば新たな仮説を作り出すという作業をあの記者会見会場にいた日本人記者はやらなかったのだと思います。それはすでに書いた記事を書き直すことをしない怠惰さなのか、能力開発不足なのか、職業的誠実さの欠如なのか、そのどれなのかはわかりません。しかし、プロフェショナルの定義の暗黙の了解はクライエントに信頼されることであり、それは自分の有利不利に関係なく誠実であることでもあります。すなわち、「クライエントの利益を自分の利益より優先する」という行動規範です。これがプロフェショナルの倫理観であるわけです。このような行動規範は各社にちゃんと存在するのでしょうか。
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2006年07月13日
第7話: 「交付税特別会計の巨額の借入れをどう考えるのか」

石原信雄(財団法人地方自治研究機構理事長)
いしはら・のぶお
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1926年生まれ。52年、東京大学法学部卒、地方自治庁採用。84年から86年7月まで自治省事務次官。86年地方自治情報センター理事長を経て、87年から95年2月まで内閣官房副長官。1996年より現職。編著書に、「新地方財政調整制度論」(ぎょうせい)、「官かくあるべし」(小学館)他多数。
交付税特別会計の巨額の借入れをどう考えるのか
高度成長の頃は比較的財源が潤沢だった交付税制度も、バブルの崩壊を機に切り替えが必要になっていました。
交付税特別会計は現在多額の借金を抱えていますが、そもそも交付税特別会計が借金をするのは邪道であり、緊急のときしか行ってはいけないという思想でした。かつて交付税特別会計が臨時、特例的に借入れをしたのは、第一次石油ショックの時です。
昭和49年に戦後初めてのマイナス成長となったため、50年度の税収が大減収となり、当初予算で組んだ交付税が年度の途中でへこんでしまったために、地方に返せとはいえず、仕方がなく、補正予算で落とした分だけは臨時に借金をしました。
地方にしてみれば、交付税特会で借り入れても、地方に行くときは交付税として行くわけで、もとは借金であるという意識が全くないわけです。
こういう臨時借り入れは何度もやってはいけない、あくまで緊急避難であると国会でも説明して、認めてもらったのです。地方は交付税特会で借り入れして、中央は赤字国債を出したが、これではいけないので10年後には返すと、当時の大蔵大臣が啖呵を切りました。しかし、昭和53年に再び石油ショックが起こり、再び税収に穴が空いてしまった。そのため、借り入れを止めようといっても、止められなくなったのです。私はそういうやり方は邪道であるから、何とか自分が役人をしているうちにこれを止めたいと思って、私が事務次官のときの昭和59年に、借り入れを止めたのです。
すなわち、借り入れは止めて、その年度の財源で交付税を配分する、それまでの借金は年次計画で返済をしていくということを決めました。当時、交付税特別会計の借入残高は14兆円程度で、それは国と地方とで折半するルールがありましたから、当時の大蔵省の山口次官と相談して、国の負担分の7兆円あまりは全部国が引き取り、それを国債整理基金に入れました。要するに、国債と同じ会計に持っていきました。地方負担分は翌年度からではなく、何年間か据え置いて10年の年次計画で返していくという償還計画をつくりました。
借入れが再び復活するのは、バブルが崩壊したときでした。細川内閣のときに景気対策で国税、地方税ともに所得税、法人税、住民税の減税を行い、かつ公共事業と地方単独事業の増額を行いました。それは国の政策でしたが、その時に財源がないわけですから、国は赤字国債を増発し、地方は地方債を増やすと同時に交付税特別会計の借入れをもう一度復活させたのです。そのとき、私は官房副長官でした。
交付税特別会計の借入れが今日のようになった最大の理由は、バブル崩壊後のなりふり構わない景気対策です。小渕総理のときが一番ひどかった。あのときに、毎年度、十何兆円もの景気対策を行いましたが、そこで行ったのは所得税、住民税と法人税の一律減税であり、公共事業、単独事業の増額で、それを地方に行わせるには、起債を認めて、その償還費は後年度に交付税で面倒をみるということでした。そうしなければ、地方は行いません。自分で返す借金でしたら、恐くてできません。交付税特別会計の借金も膨らんだ。それは破綻であり、モラル・ハザードであり、財政制度審議会や経済財政諮問会議では交付税制度が原因だと言われているわけです。
しかし、私に言わせれば、誰がそうさせたのかということです。とにかくやれ、やれでした。そのツケがたまって、今、交付税特別会計の借り入れは50兆円になってしまった。
しかし、交付税特別会計の借金も借金ですから、法律上は返さなければいけません。地方税収の偏在をどれだけ是正しても、交付税制度は最後に残ります。一定額は必要で、その一定額の交付税の中から返していくしかないでしょう。
今、構造改革の中で交付税特別会計の借入れはやめましたが、その代わり、地方に財源不足分の借金を認めています。それは赤字地方債ですから、なくさなければいけません。プライマリーバランスは地方財政計画上は黒字で、地方債の新規発行額よりも償還額の方が多く、地方は借りるよりも返す方が多くなっています。基本は、この状態をさらに進めるということでしょう。
※第8話は7/15(土)に掲載します。
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2006年07月12日
第6話:「ソリューション・スペース(前編)」

横山禎徳/よこやま・よしのり (社会システムデザイナー、言論NPO理事)
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1966年東京大学工学部建築学科卒業。建築設計事務所を経て、72年ハーバード大学大学院にて都市デザイン修士号取得。75年MITにて経営学修士号取得。75年マッキンゼー・アンド・カンパニー入社、87年ディレクター、89年から94年に東京支社長就任。2002年退職。現在は日本とフランスに居住し、社会システムデザインという分野の発展に向けて活動中。言論NPO理事
「ソリューション・スペース(前編)」
先回は記者のプロフェショナルとしてのあり方、特に学問的体系に基づいた高度技能の必要性とクライエントとして扱うべき「大衆」の期待値について述べました。今回は特に高度技能についてもう少し敷衍してみようと思います。それはロジックの組み立て方に関わることです。私は優秀な記者であるためには「ソリューション・スペース」を定義できる高度技能を身につけるべきではないかと思っています。
「ソリューション・スペース」とはあまり聞きなれない表現でしょう。日本語にしてみても「解のある空間」、あるいは「解空間」であり、ほとんどこなれた表現ではないことは確かです。しかし、記者の方々にこの表現を理解してもらいたいと思っています。なぜなら記者の責任として読者に妥当な「ソリューション・スペース」を提供する責任があるからです。そして、現実の答や解決策はただひとつしかないのではなく、「ソリューション・スペース」の中にあるものはすべてがある種の答でありうるという説明がされることを期待しています。そうでないと「横並び社会」と「縦並び社会」のような典型的二元論に陥り、その二つの「社会」の間を振り子のように振れるだけであり、結局、どこにもたどり着かない不毛な結果になりかねません。
河合隼雄氏のいうような「中空構造」の議論とはちょっと違いますが、現実の世の中は二元論で成り立っているわけではありません。白か黒かとか善か悪かという問題提起は一見、議論を明快にするようですが、現実の生活とは違うことは明らかです。「一日一善」を実行している人は「一善」以外は悪を実行しているのではなく、善でも悪でもないことをやっているはずです。また、例えば、消費者金融においても白でも黒でもない灰色の人に融資するのが一番難しいからこそそれが彼らのノウハウなのです。これが現実の社会というものです。
その伝でいくと、「縦並び社会」の発想の裏にある「持てるものと持たざるもの」という二元論は課題の提示の仕方が単純すぎるのです。従って、解決の方向、あるいは解の存在する「ソリューション・スペース」が極めて狭くなってしまうと思います。要するに格差をなくすように政府は何とかしろ、規制緩和や自由化はほどほどにしろ、金持ち優遇をやめろという程度の極めて「痩せた」発想しかでてきません。このような結論を毎日新聞は新しい小泉政権の構造改革路線に代わるべき「時代を開く答」だと思っているわけではないでしょう。
これに比べると三浦展氏の著書、「下流社会」はかつては自分が「中の下」と思っている人が今や「下流」と思っているという指摘は二元論ではない上に時代の流れをダイナミックに捉えているという意味で課題提示の枠組みは「縦並び社会」とか「格差」という発想より明らかに優れています。本の内容を詳しく説明しませんが、結果的に暗示されている「ソリューション・スペース」も広がりがあり、「豊か」なのです。すなわち、いろいろなこれまでになかった新しい解を考えることができそうに思います。
すでに読者である「大衆」は理解力もあり賢いということを述べました。しかし、それは長期的にはそうであるということであり、短期的にはだまされやすく、状況に流されやすいいともいえます。多くの場合、「大衆」は意外とせっかちでも怠惰でもなく、時間がかかってもが自分なりの多様な情報を集めながら自分の直感を大事にし、段々と妥当な判断に立ち戻る傾向があると思います。しかし、そのことを阻害するのが各社共通ともいえるワンパターンの報道、多様な視点の欠けている報道です。そして痩せた「ソリューション・スペース」しか提供できない特集報道なのです。しかし、もっと重大な問題があります。それについては次回に説明したいと思います。
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2006年07月11日
第6話: 「失われたのは受益と負担との関係の下での地方の独自課税の習慣」

石原信雄(財団法人地方自治研究機構理事長)
いしはら・のぶお
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1926年生まれ。52年、東京大学法学部卒、地方自治庁採用。84年から86年7月まで自治省事務次官。86年地方自治情報センター理事長を経て、87年から95年2月まで内閣官房副長官。1996年より現職。編著書に、「新地方財政調整制度論」(ぎょうせい)、「官かくあるべし」(小学館)他多数。
失われたのは受益と負担との関係の下での地方の独自課税の習慣
国への依存財源の縮減のためには、補助金や交付税の削減だけではなく、行政のあり方の問題も考える必要があります。
例えば義務教育について、今は40人学級で、30人学級の議論が出ていますが、30人学級の子供と戦後の50~60人学級の子供とを比べて、戦後の子供のほうが劣っていたかというと、そうではありません。学級編制基準を一律に40人を35人にしろなどという必要はないと思います。最近、県によっては30人学級をやっている県はあります。その団体がどうゆう学級編制基準を選択しても結構ですが、その分だけ教員が増えることになります。
その増えた教員の給与の財源は、国庫は負担していないので、一般財源で賄っています。交付税制度はそれを認めていないので、他の費目から流用しているのです。しかし、住民の自治意識を促すためには、30人学級にするのであれば、教員が増える分、住民税の所得割の税率を上げるべきです。住民に諮って子供たちのために住民税の税率を1%上げてほしいと訴えて、40人学級を30人学級にするのが本当の自治ではないでしょうか。
そうなっていないのは、これまであまりにも依存財源が多い時代が続いたために、行政サービスを引き上げるには、引き上げた分に見合って、住民の税負担を引き上げるのだという思考様式がなくなってしまったからです。
結局、国に頼んで、基準を変えろという話になってしまいます。もう一つの典型的な例は、最近、治安確保のために警察官を毎年増員していることです。県によっては政令定数以上に増員している団体もありますが、警察官を増やすのであれば、アメリカの自治体がその分だけ固定資産税を上げているように、その分住民税の税率を上げるべきなのです。どうしてそうならないのか。
国が想定している以上のサービスは上乗せサービスですから、住民税や固定資産税の上乗せ負担をすべきで、地方税法はこれを認めています。地方税法は標準税率を決めていますが、住民税の税率の上限は設けていません。団体が自由に決められます。標準税率で課税するような指導はしていません。寂しいことに、地方は財源が足りないと言っていますが、現在一団体も所得割の超過課税を行っているところはないのです。
私は自治体当局だけを責めるつもりはありません。よりよいサービスをするために税金で上乗せ負担をするという習慣は、シャープ税制の直後にはありました。
昭和30年代に、固定資産税の税率は現在100分の1.4が標準ですが、かなりの団体が100分の1.6という超過税率を使っていたことを覚えています。特に税源が乏しい東北、北海道ではそうでした。ところが、所得倍増論や田中角栄氏の列島改造論を経て、国土の均衡ある発展ということが言われるようになり、その頃から、地域によって地方税の超過課税が多いのはおかしいではないか、それは交付税による財源手当てが少ないからではないかという話になりました。
与党も野党も皆がそう言い、自治省は超過課税をしているところを減らすように指導しなさいということになったのです。減らせば財源も減ってしまうが、その分は交付税で埋めてやれということをやらされました。団体独自の超過課税を解消するために、交付税が穴埋めをしたという歴史があるのです。高度成長の当時は、交付税がどんどん増えたわけであり、増やそうと思えばそれができたのです。
※第7話は6/13(木)に掲載します。
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2006年07月09日
第5話: 「交付税総額の削減のために必要なこと」

石原信雄(財団法人地方自治研究機構理事長)
いしはら・のぶお
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1926年生まれ。52年、東京大学法学部卒、地方自治庁採用。84年から86年7月まで自治省事務次官。86年地方自治情報センター理事長を経て、87年から95年2月まで内閣官房副長官。1996年より現職。編著書に、「新地方財政調整制度論」(ぎょうせい)、「官かくあるべし」(小学館)他多数。
交付税総額の削減のために必要なこと
我が国では戦後、新しい行政を普及、徹底させるために、数多くの補助金が地方に配られるようになりました。それは制度を定着させるために当初は必要でしたが、事業が定着したら、補助金ではなく、必要な財源を地方税で与えられても十分にできるようになっています。
交付税も地方自治の見地からは本来は望ましい姿ではありません。それはなくて済めばなくてもよいのです。地方税でやれればそれが一番よい。しかし、残念ながら地方税収の地域偏在が現状ではあまりにも大きいので、交付税を減らすことができません。だから私は、交付税を減らせる工夫をしなさいと言っています。それは税制改革です。現在の地方税制度を変え、偏在性の強い税目を減らし、偏在性の少ない地方税を増やしていけば、地域の課税力の差が縮まるので、交付税が少なくても済むようになります。
交付税の財源保障機能については、財務省や経済界の人たちは、誤解しているようです。「どこまでいっても地方は面倒を見ろと言ってきて際限が無いのが財源保障制度であり、やめてしまえ」と彼等は言っていますが、私の考えでは、地方の財源が足りなくなった場合は、その原因如何にかかわらず、国が面倒をみろということではないはずです。そうではなく、一定のルールの下で、客観的に計算される財源不足は中央政府として責任を負うべきではないかということです。
今の交付税の仕組みでも、足りないと言ってきたものを全部、面倒をみているわけではありません。まず、義務的経費についてはあまり議論がないでしょう。国の法律で義務付けているため、そのための経費を国としてカウントしないのはおかしいからです。問題は、地方が独自に行う単独事業です。単独事業の財源を交付税や地財計画でどこまでカウントするかです。本間正明さんたちは、義務的経費だけを交付税でカウントして、単独事業は独自の財源、起債などでよいではないかと言っています。それは一つの主張だと思います。
ただ、我が国の現状では、それを行うと、農山村地域はあまりにも貧しいため、単独事業は何も行うことができない団体、要するに、中央政府が義務付けた事業だけの自治体が出て来る。地方自治というからには、その団体が何らか、独自の判断でやれるだけの少しはゆとりを認めなければいけないのではないでしょうか。課税力、税収が小さい団体をどうするかということがどうしても出てきます。
ここで考えるべきなのは、戦後の中央集権体制の一つの弊害として、各省が所管する行政分野ごとに、行政が北海道から沖縄まで、どのような団体であっても同じ水準で維持されるべきだという要請が強くなり過ぎているということです。義務付ける以上は、裏付ける財源が要るということになり、それを補助金か交付税で行うということになる。極論すると、各団体ができる範囲でやれというのであれば、補助金も交付税も要らず、アメリカ型でいい。住民との話し合いで、税金の範囲内でやれることをやれればよいということになります。しかし、わが国の場合は国民がそれを許さない。少しでも行政水準に差が出ると国会が承知しない。中央集権的で、横並び意識が強すぎます。
私は、地方自治制度を採用する以上は、住んでいる地域の貧富の差によって、多少の差が出てくるのは仕方が無いと思っています。豊かになる努力をして這い上がってくる団体もあるだろうし、怠けていて這い上がれない団体もあるだろうけれど、それが自治だと思います。住民が選んだ首長さん、議会がそうした課題に応えるか応えないかの問題であり、その結果に責任を負うのも自治です。しかし、法令の規定によって東京に住んでいようと北海道、沖縄の果てに住んでいようと、行政サービスが一定以上のレベルから下がってはいけないとなると、どうしても交付税が大きくならざるを得ない。
あまりにも依存財源が大きくなりすぎている現状は、もう少し本来の姿にもどす努力が要ります。しかし、その際に、本間さんたちが言うように単に交付税を減らせという方向だけでは貧乏団体が困ります。まず、税制上、地域偏在をなくすようにもう一段の努力をしてほしい。その次は行政の義務付けをもっと緩めろということです。
※第6話は7/11(火)に掲載します。
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2006年07月07日
第4話: 「国への依存財源が多すぎる状況をどう正すのか」

石原信雄(財団法人地方自治研究機構理事長)
いしはら・のぶお
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1926年生まれ。52年、東京大学法学部卒、地方自治庁採用。84年から86年7月まで自治省事務次官。86年地方自治情報センター理事長を経て、87年から95年2月まで内閣官房副長官。1996年より現職。編著書に、「新地方財政調整制度論」(ぎょうせい)、「官かくあるべし」(小学館)他多数。
国への依存財源が多すぎる状況をどう正すのか
交付税制度については、その年度の交付総額を実質的に決める「地方財政計画」におけるマクロの財政需要額がその後、水脹れしてきたとも指摘されています。
膨らんだ理由は、社会保障費を始めとして地方の行政サービスのレベルが高くなったことです。これは地方が勝手に上げたと言われますが、そうとばかりは言えません。各省が指導し、あるいは与党や国会が要求したことが多々ありました。例えば、平衡交付金制度を導入した頃の小中学校の学級編制基準は60人学級です。今は40人で、それを30人にしろと言っている。一事が万事で、いろいろな行政のレベルアップが、制度導入当時からみれば随分となされています。その割に地方税収入が増えていません。その結果、収支のギャップが増えて、交付税が増えてしまっているのです。
昭和25年の平衡交付金の当時は、東京、大阪、愛知、神奈川は不交付団体でした。それがその後、3団体が交付団体になったのは、石油ショック以後の経済成長の低下にもかかわらず、歳出需要が増えているからです。今、国、地方を通じて、国民所得対比での国民負担は36%程度ですが、実際の歳出のほうは45%程度になっています。収支のギャップが大きくなるということは、その影響なのです。石油ショック以前は、ギャップは国、地方を通じて2~3%程度で、税収と財政需要はほぼ見合っていたわけです。そうなると、税源の豊かな団体は不交付団体になるわけで、大きな団体はどれも不交付団体でした。
しかし、現在では、地方交付税が地方の財源の20%を占めています。依存財源が多過ぎて、地域に住む住民に直接負担していただく部分が少なすぎます。地方財政全体でそれは3割少しの割合です。しかも、その数値は東京都などを含めたもので、大部分の団体にとっては、財源の半分が補助金と交付税等の依存財源となっています。
これは地方自治の本来の姿からすると望ましくないと考えます。この状況は直すべきですが、では、どこを直せばよいのでしょうか。
補助金は、国がどういう基準でどのような仕事を行えばよいか細かく決めて、その経費の半分や3分の1を出すものなので、地方は事業内容について補助金所管官庁の指示内容の仕事をすることになり、地方の主体性もアイデアもなくなってしまいます。そういう部分を減らしていくべきです。中央政府はなるべく大まかな枠組みだけ決め、その中身は各団体が決めることが必要です。今は基準が細かすぎます。
地方の財源として一番良いのが地方税です。地方税を増やすことを考えるべきです。その代わり補助金はもっと減らしてもよい。
今回、所得税から住民税に3兆円の税源移譲を行いましたが、非常に良いことだと思います。さらに地方税を強化すべきです。また、今の地方税の中で、法人系統の法人事業税や法人住民税は団体によって偏在が激しいので、これらの偏在を是正する方策をもっと考えるべきです。そのためには課税基準を直すというやり方もあります。
法人系統の地方税は、法人の利益に対して大半が従業員数で割り振っています。そうすると本店の所在地はどうしても大きくなる。昔は工場の所在地が多かったのですが、今はオートメ化しているため、工場の従業員数は減り、本店の管理部門の人数が多くなって税も本店の所在地に集中するようになっています。その是正のための措置をこれまでも行っていますが、もっと工夫があってもよいのではないでしょうか。
さらに言うと、法人系統の税金と所得系統の税金を入れ替えしてもよい。つまり、法人事業税や法人住民税の税率を下げ、国税の法人税を増やし、その分、所得税と住民税について、所得税を減らして住民税を増やす。今回、補助金を減らした分を3兆円相当、所得税から住民税に移しましたが、できれば、法人住民税や法人事業税の一部を国税の法人税に戻し、その戻した分だけ、国税の所得税からさらに地方に、住民税の所得割りで移し替える。そうすると、地域偏在はかなり緩和できます。また、地方税の性格からしても、法人系統の税金よりも所得系統の税金のほうが住民の負担感がはっきりします。自治体としては、住民税が大きいほうが住民に対する遠慮も出てくるのです。
このように偏在是正を行った上であれば、交付税を減らし、地方税を増やすことも可能になります。交付税の根っこは所得税、法人税、消費税であり、交付税の取り分を減らした分、地方消費税、地方たばこ税、住民税所得割りなどの取り分を増やすのです。
こうすると、偏在が大きくならずに、交付税を地方税に振り替えられます。つまり、交付税の基幹5税の比率を、例えば法人税にシフトして、その代わり地方の法人関係税を減らすと偏在是正ができます。現在の交付税の基幹税目を含めて、交付税を地方税に振り替える方策をもっと研究してほしいのです。
※第5話は7/9(日)に掲載します。
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2006年07月06日
第5話: 「記者のプロフェショナリズムとは(後編)」

横山禎徳/よこやま・よしのり (社会システムデザイナー、言論NPO理事)
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1966年東京大学工学部建築学科卒業。建築設計事務所を経て、72年ハーバード大学大学院にて都市デザイン修士号取得。75年MITにて経営学修士号取得。75年マッキンゼー・アンド・カンパニー入社、87年ディレクター、89年から94年に東京支社長就任。2002年退職。現在は日本とフランスに居住し、社会システムデザインという分野の発展に向けて活動中。言論NPO理事
記者のプロフェショナリズムとは(後編)
プロフェショナリズムの定義
学問的体系に基づいた高度技能を依頼人、すなわちクライアントのために活用して、問題解決をし、その対価としての報酬を得る。そのための倫理観を持っている人たち。
次に、「高度技能を依頼人、すなわちクライエントに対して使う」という点ですが、クライエントというのは本来少数です。新聞記者が相手にする読者は数百万人であり、クライエントという名に値しない大衆であるという考え方もありえます。しかし、日本の医師は年間数千から万のオーダーの数の患者を診ているわけです。要は自分の高度技能を使う対象をクライエントと考えるか大衆と考えるかの違いであろうと思います。
「大衆」という発想の裏にあるのは往々にして「無知な大衆」、「理解力の限られた大衆」という考え方です。もし、記者がそのように考えているとするとそれは大いなる誤解でしょう。多くの大衆は予想以上の理解力があるのだが理解していることを表現する能力がないだけなのだということを記者の方々はわかっているのでしょうか。
ソムリエの田崎真也さんのように飲んだワインを表現力豊かに説明できないのが素人です。しかし、どんな素人もそのワインがおいしいかまずいかは分かっているのです。説得力ある言葉で表現できないだけなのです。
そのような誤解のもとに「縦並び社会」とか「ワンフレーズ・ポリティックス」などというワンフレーズで表現しないと大衆は分からないと考えているのならその考え方は改めるべきでしょう。理解力はある大衆もイマジネーションは豊かではないので「見たことないもの欲しがれない」のです。
そして、マスコミというものはこんなものかなと思っているだけであり、もっと質の高いものを提示するとその方を欲しがるかもしれないのです。そのようなことができる高度技能を持つべきでしょう。
横通し的発想と縦割り、縦並び構造
これまでの議論に対して当然、反論があると思います。例えば、新聞は新鮮さを売り物にしたメディアであり、学術論文を書いているのではないのだからいまさら中根千枝まで持ち出して考察し議論しないといけないのか。また、大衆は無知ではないにしてもやはり大衆は大衆だからそこまで求めていないのではないかという反論が考えられます。それに対して答えてみます。
ネット・メディアの出現による新聞メディアの位置づけはまだ決着のついていない重要なテーマですが、まだまだその潜在可能性が十分開拓されていない今でもこと新鮮さにおいてはネット・メディアの方が優れているのは明らかです。
そうであれば、新聞はいろいろな事象に対して即時性にとらわれない体系的な考察がもっとあってしかるべきではないのでしょうか。このことはすでに分かっていることです。そうであるなら、それができる高度技能を磨く行動に移る必要があると思います。「暮らしの知恵」的なページを充実するのは結構ですが、それだけでは不十分でしょう。これも人材訓練のテーマではないでしょうか。
一方で、日本の新聞社の提供するネット・メディアはその可能性を十分開拓しようという意欲が見えません。私は日本と海外とを年間数回移動し一定期間住むという生活をしているので海外ではアサヒ・コム、ニッケイ・ネット、ヨミウリ・オンライン、そしてニューヨーク・タイムズ、ル・モンド、時にフィナンシャル・タイムズ、エコーをすべてネット上で読むのですが、すぐ気がつくのは日本の新聞ネットの記事の短さです。グーグル・ニュースで全体を見ていくつかの記事にアクセスして読んでも2,30分で終わってしまうのです。もっと周辺事情を含めて知りたいと思ってもどこにも適当なリンクがはってないのです。せいぜいあるのは特集記事か過去の記事の一覧です。
ル・モンドはリンクに関してはそれほど優れていないが記事は十分な長さで書いてあるように思います。ニューヨーク・タイムズは記事も程よい長さであり、またもっと知りたいときのリンクも相対的に優れていると思います。まだまだ発展途上であり、工夫の余地はあるのですが、それを日本の新聞が試しているようには思えません。
無料提供だからというのは言い訳であり、無料の間に先行投資をやり、読者の反応を確かめながらとことん試行錯誤を続けて将来は有料の選択肢を提供すべきでしょう。その際、分野やテーマごとにそれほど知りたいと思っていない大衆、ちょっと知りたいと思っている大衆、そして、もっと知りたいと思っている大衆のそれぞれに好みに応じた選択肢を与えることを考え追求すべきでしょう。それがこのメディアの潜在可能性のひとつです。
このような大衆を単なる大衆と一くくりに捉えない新たな体系を考え、その体系の中で新聞メディアの位置づけを考えるべきでしょう。しかし、こういう横通し的発想を強力に実施するのは「縦割り、縦並び構造」の組織である日本の新聞社には無理なことなのでしょうか。
私が言論NPOの活動に主体的に参加しているのも、組織の縦割りの発想から離れ、社会の課題に向かい合おうとする、個人の横のネットワークを主体とした非営利組織で、新しいメディアの可能性を追い続けているからです。そこでは私がここで言っているように社会の問題を横通し的発想で捉え、現状の課題を抽出し、その答えをユーザーとなる有権者に提案するための様々な議論が行われ、その舞台は地方だけでなくアジアにも広がっています。
官庁であろうと、大学であろうと、そして新聞社であろうとサラリーマンとしての出世は「縦割り構造」の中にあるという現実は無視できないことなのでしょう。理想的にはそのような組織構造にとらわれないのがプロフェショナルなのです。
※以下にコメント投稿欄がございます。皆さんのご意見をお待ちしております。
(尚、戴いたコメントは担当者が選択し ”日本のメディアに物申す!/コメントする・見る” ページにも掲載させて頂きます。どうぞご了承ください。)
2006年07月05日
第3話: 「交付税の誕生の経緯と財源保障」

石原信雄(財団法人地方自治研究機構理事長)
いしはら・のぶお
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1926年生まれ。52年、東京大学法学部卒、地方自治庁採用。84年から86年7月まで自治省事務次官。86年地方自治情報センター理事長を経て、87年から95年2月まで内閣官房副長官。1996年より現職。編著書に、「新地方財政調整制度論」(ぎょうせい)、「官かくあるべし」(小学館)他多数。
交付税の誕生の経緯と財源保障
シャウプ勧告で導入された地方財政平衡交付金では、不足分の計算は、あるべき財政需要を団体ごとに計算しなさいというものでした。しかし、当時、1万くらいある市町村の財政需要を個別に計算することは事実上不可能で、総司令部と折衝して、「地方財政計画」を使うことにしました。これは既に昭和23年から存在していましたが、それは計画ではなく、トータルとしての収支見通しを計算するためのもので、それによって地方財政全体としてどれだけの財源不足が出ているかのマクロ計算をし、その額を、地方財政平衡交付金として国の予算に組んでもらい、その額を配るときに、団体ごとの財政需要、財政収入を計算することにしました。
財政需要の方は、地方配付税のように人口一本ではなく、主要な行政項目ごとに、その行政項目に係る団体ごとの財政需要をどういう数値で測るのが一番いいか数学的な手法で検証しました。府県の場合は、当時の全国平均だった人口170万人の岡山県をモデルにして、標準単価、単位費用を算定しました。他の小さな県は、コストが割高になるので、その割高部分を少し補正し、大きい団体は少しコストダウンになるので割り落す。単位費用にそれぞれの団体の測定単位の数値をかけ、それに段階補正係数をかけて計算するという方式です。財政収入の方は、その当時、シャウプ税制によってできた新しい税金について、徴収実績では各団体の課税努力による差が出るので、それは使わず、国税統計、すなわち税務署で府県ごとのデータを集め、それで府県ごとの収入見込みを計算しました。
こうして算出された基準財政需要額と基準財政収入額を差引計算して不足が出る団体について、不足額を全国で積み上げるわけです。これと、地方財政計画で用意した総額とをつき合わせてみると、合いません。こうした計算を当時、私たちは手計算でやり、大蔵省と折衝をしました。毎年、平衡交付金をいくらにするか、その根っこになる地方財政計画の歳入、歳出をどう見積もるかは大論争でした。この論争の勝負がつくまで、地方にすれば、平衡交付金をいくらもらえるかわからないわけで、これではかなわないということになり、昭和29年に、昔の地方配付税のように、地方への配分総額を特定の国税収入の一定割合でまず決め、それで足らない分だけ議論しようということにしたわけです。
それが地方交付税法です。平衡交付金制度を廃止して交付税制度を作った理由は、毎年度、総額決定で国と地方が血みどろの議論をやるという不安定な状況から抜け出すためのものでした。それは、所得税、法人税、酒税という3つの税金の概ね2割ということでスタートしました。足りても足らなくてもこれでやろうという話になり、大蔵省は、これっきりということでした。しかし、自治庁にしてみれば、当時まだインフレが続いており、実際は25%必要だということがわかってきました。そこでまた大蔵省との大論争になり、交付税法の中に、引き続き2年も3年も交付税総額の1割以上も不足が生じるときには、交付税率の見直しをするか、あるいは税財政制度を改正するという規定が入ったのです。
これには大蔵省は大反対だったが、我々とすれば、地方団体がやっていけなくなるようなことでは困るので、細かい数字なら言わないが、2年も3年も1割以上も不足するという事態を放ってはおけないではないかということで入った規定です。この規定が、交付税制

