第1話:文明史観的転換点に立って、地方分権による国のつくり直しを

北川正恭(前三重県知事、早稲田大学大学院公共経営研究科教授、「新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)」代表)
きたがわ・まさやす
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1944年生まれ。67年早稲田大学第一商学部卒業。83年衆議院議員当選(4期連続)。95年、三重県知事当選(2期連続)。「生活者起点」を掲げ、ゼロベースで事業を評価し、改善を進める「事業評価システム」や情報公開を積極的に進め、地方分権の旗手として活動。達成目標、手段、財源を住民に約束する「マニフェスト」を提言。現在、早稲田大学大学院公共経営研究科教授、早稲田大学マニフェスト研究所所長、「新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)」代表。
文明史観的転換点に立って、地方分権による国のつくり直しを
福田政権になって改革の停滞ということも言われているようですが、今の日本は改革の途上にあると思います。ウェブ2.0というものがありますが、それもやがて3.0、4.0へ移行します。SuicaやEdyといったもので何もかもできてしまう社会がやってきています。こうした世の中は、我々が子どものときの世界とは全然違います。いわゆるハードウェアであった情報が、ソフトウェアとして流通して、すべてそれで間に合う時代です。結果として、例えば時間と空間という概念が本当になくなり始めました。私は、時代の変遷というものは、科学文明の転換がまず先に来て、そして進歩した技術に合わせて経済体制、政治体制、あるいは社会体制が対応していくものだと思っています。
工業社会によって、こういう爛熟した、成熟した社会になりましたが、これを次の世代に移すのは、ある意味で「情報」だと思います。
では、例えば工業社会になればどのような変化が訪れるかというと、かつて明治維新の廃藩置県の時点で、江戸詰めの武士が自分の国へ帰ったときの日本で一番人口の多い県は石川県でした。その次が新潟県、その次が愛媛県、東京は96万人程度で15番目です。一次産業が中心であった時代は、農地や漁場のある限られた地域に人口が分布しました。しかし、工業社会では、機械がそうした制約を取っ払ってしまいました。ですから東京は130年経った今日、1200万人の人口です。このような東京一極集中は、工業社会が必然的にもたらしたものです。
そうして今度は情報社会や知価社会ということで、いよいよ新しい文明が来ているわけです。そこでは、この国で本当に東京ばかりに集中して大丈夫なのか、地域は本当に生きていけるか、という最大多数の最大幸福も考えなければなりません。現在は文明史的転換の途中にあります。改革が行き過ぎて小休止になったというのが今の段階ですが、日本は、あるいは世界は、科学技術に追いつくための政治インフラや経済インフラを整えなければ、良い全体最適の社会になりません。
現在、地方では人口が減少し高齢化社会が進み、未来に対する不安が台頭しているという状況があります。そうであれば、この文明史的転換点の解決策を考える切り口としては、語弊を恐れずに言えば、やはり集権国家から分権国家へとパラダイムを思い切り変える、あるいはシステムを変えるということが求められているのだと思います。そう思って、私は運動してきています。
それはどういうことかというと、成熟した社会では価値観はひと通りではありません。未成熟、未開発の段階では、給料をたくさんもらい、豊かな生活をするという経済的豊かさにすべてが収斂していました。ところが、産業革命のおかげでみな豊かになって成熟しました。そうなると、新しい価値やその多様化に対してどう応えるのか、そのための政治システムをどうつくるかということが問われます。これに対しては、近接性の原理、すなわち、近いところで対応する政府がなければいけません。1億2000万を一手にというわけにはいきません。例えば富岡の製糸工場、八幡の国営・官営の製鉄所というもの、それは集権の見本でしたが、その反対をやらなければ、いわゆる多様な価値にきめ細かく答えていくことはできないと思います。
そうなると、集権国家では東京集中をベースにした仕組みしかつくれないから、これはまずいということになります。1国2制度や多制度であらざるを得ません。国という単位で見て、例えば、東京の役割は何なのかと考えたときに、全ての役割を東京に集める集権ではなく、東京には例えば金融市場の管理といった役割を持たせるなど、国のつくり直しをもう1回やり直すべきなのです。しかし、いわゆる近代工業国家、殖産興業、富国強兵という神話がまだ生きています。そうではなく、お互いにそれぞれ、九州には九州の役割、東北には東北の役割などと、きちんと創意工夫を行って、適切な体制にしていくということが必要です。
2008年01月11日 12:29
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コメント
変革の時代に080112
時代を一歩進めようとする時、現在時点を基点としてみる視点は重要です。中央集権が進みすぎ、一極集中が頂点に来ていると言う認識で、問題は中央集権を緩和し、地方分権の方向へ展開すべきである、と言うのであるなら、理解できない訳では有りません。当面、国家主権を緩めて行く方向に付いて賛成です。従って、道州制に付いても賛成です。
其れと同時に、人間の築いて来た文化の有り様を、歴史的観点から見てみる視点も重要に思えます。国家と国家主権に付いてです。(誤って理解されるといけないので、私はマルキストでは有りません。)人間の自由(個人の主権的視点)と国家の主権の何処かでのぶつかり合いに付いてです。将来の国家主権の制限に付いて考えています。現時点でも実質国家主権は他の国家が尊重してくれると言う保障はありません。むしろ、戦争や干渉で国家主権は侵害されている状態である事は否めません。此れを、どの様に処理するかと言う視点を提起しています。
その様な視点を持ちつつ、将来の人間文化の有り様を考えていると、唯単に地方分権の方向性のみでは、社会的問題は解決の方向性を見出せません。
現在の社会を理解すると、国家の存在しない社会から、人間が人間を支配した社会(統治機構)のままで地方分権を進めても、其の中に小さな一極集中を作り出すのみでは無いかと危惧します。(道州制に反対するわけでは有りません。)私は、国家以前の、つまり、人間が人間を支配した社会の有り様を正し、自治機構(都市の自治会や村の寄り合い、越前国一揆、堺町衆の様な。)を作り出す“方向性”を提起してみたいと思っています。
少なくとも、其の為の研究を立ち上げて頂ければと考えています。此処で言っている統治機構と自治機構との違いは、“国民の保護管理的機構”から“個人の自立と自主的機構”の違いと理解して頂きたいと思います。
処で、民主制を一つのものとは理解してないことも付け加えて置きます。民主制の反対を独裁と規定してみれば、其の間には文化の違いによって、多くの民主制の在り方が見えてきます。日本を和の社会と考えると、日本的民主性は“根回し民主制”とでも言えましょうか。言い換えれば、独裁制では無い事は事実でしょう。この様な民主性には、其れに見合った民主的システムが有ると考えています。日本的民主性システムです。
地方分権性を論じる時、この様な視点は考えられないでしょうか。日本には、多くの自主的に作り上げられた同好会(奉仕の会やスポーツクラブも含め)、NPO,NGO等、多くの自主的組織が発達しています。未来社会の担い手はこんな所に有ると考えています。採り合えず雑駁ですが、提示して見たいと思います。私はヤフーブログを持っています。其方でも同様な問題を提起しています。是非ご一読願えれば幸いです。由井寿一
arakawa-yui@u01.gate01.com http://blogs.yahoo.co.jp/toudaimori_yt「感性文化」
投稿者 由井寿一 : 2008年01月12日 13:06
感性社会とマスコミ報道080315
日本の“感性社会”では感覚感性的事実に関心が集中します。ヨーロッパの“理性社会”では感覚感性を抑圧して、理性的分析的“論理”に関心が向けられます。
日本のマスコミ報道では事実を追いかけ、他社を出し抜くと“スクープ”だと胸を張ります。国民にとってはどうでも良い様な事でしょう。必然的に、記者クラブ的後追い報道に集中します。或る意味では各省庁の広報機関に成っています。
欧米の高級新聞社は、事実から分析的論理的必然性を導き出そうとします。後追いと言うより、其の先を見つめ様とします。無論、誤りも犯す事でしょう。しかし、論理は一つではなく幾つかの論理が競い合う事に成ります。時と共に正確な論理が有力に成る事でしょう。
日本の報道機関の事実後追い的姿勢は、今に始まった事では有りません。戦前に於いても同じ事が繰り返されて来ています。事実を分析論理的に把握して来なかった為に、満州事変での関東軍の独断先行を軍事的勝利と報道したり、政府の弱腰政策として政権を叩いたり、多くのミスリードを犯して来ました。
番記者が“夜討、朝駆”と称して政治家官僚に未着してネタ取りに懸命に成ります。其のうち、相手の政治家官僚の家族とも親しく成ります。時に御茶やコーヒーの接待さえ受ける事に成ります。相手の政治家官僚と個人的親しさが芽生え、他社を出し抜く“スクープ”(相手に利用された。)を手に入れる事も有るでしょう。この様な状況がNHKを含めた6大巨大マスコミの正体です。戦前の軍部官僚との間もそうでした。
大戦を経験して多くの犠牲者(私の父親も戦死)を出した後の現代、平和主義と言う分析されていない“理念”を金科玉条の如く正義感顔をして報道しています。平和が一方的なものではない事は、多分、子供でも理解出来るでしょう。
安倍政権を倒した事で、自民党は老人達族議員の復活でした。相変わらず記者クラブ発の後追い記事を見続ける国民は、漫画、アニメ、ワイドショー的感性文化人に育って行きました。漫画アニメは日本文化でしょう。世界的文化に育ったと喜んでいて良いのでしょうか。
過っての“つづり方教室”が私には輝いて見えます。文章化する事は、或る意味考える事であり、問題を論理化する事でも有ります。残念ながら現代は忘れ去られています。こうして“感性社会”は引き継がれて行きます。日本社会が“大きな問題”を引き起こさない事を祈っています。バブル崩壊から“大インフレ”等御免です。報道関係者の反省と自助努力に期待出来るのでしょうか。
http://blogs.yahoo.co.jp/toudaimori_yt 「感性文化」arakawa-yui@u01.gate01.com
由井寿一
投稿者 由井寿一 : 2008年03月15日 01:18
経済は以外と難しくないかも080426
サブプライム問題に発するアメリカの信用収縮は、4月に入って幾つかの決算発表が行われました。まだまだ金融収縮は続く気配です。
以前、エドワード.グリフィン「マネーを生み出す怪物」草思社、と言う本を読みました。FRB連邦準備制度のマネー創造メカニズムを解明している本です。マネー創造システムとその運用によって経済社会を支配する状況が解ります。難しい経済学が、要点を知れば重要な理解が可能ではないか、と理解される様な気に成って来ました。
日本銀行は外国為替準備金として多くのアメリカ国債を所持して来ました。日米の国力の差からドルを手放す事は難しいでしょう。利息を得つつもドル国債を持つ事は、日本資金をアメリカに提供する事に成るのであると言う事も理解できます。
日本銀行の運用がインフレ、デフレを引き起こす事も理解できます。どの様な状況でどの様な運用をして行くのか、日本銀行の責任は重要である事も理解できます。失われた十年の日本銀行の金融政策に興味を覚えました。失われた十年の間、日本銀行が金融の引締めを続けて来たのではないかと、改めて考えて見ました。
又、不換紙幣を発行する中央銀行の機能として、戦争の費用を税金のみではなく、債権の発行、インフレ、等で相殺して行く事が、より合理的である事も理解できます。
難しい経済学と言うイメージから、国家から切り離された中央銀行の機能として、誰がより多くの利益を生み出すものなのかと言う点も理解できます。経済学の要点は意外と単純に成立っているのではないかと、そんなイメージを膨らませている所です。
戦争に付いてのみではなく、最近の食糧高騰、石油類の高騰、貴金属類の高騰等、更に、地球環境問題にも改めて、複眼的視点が必要に思えて来ています。
後期高齢者医療の負担増問題等の、懸案を抱える日本社会を見ていると、何かを犠牲にしている結果、此処に皺寄せを持って来ている様にも思えるのです。
グローバル化は国際的格差社会をもたらすのではないか。少なくとも、経済的国境は取り払われる方向へ向っているようです。EUはその実験に成るようです。そんな気がしています。そんな方向に経済的政策を進めて行く機能を、FRBは持っている様に思えます。既に、ある人たちは、経済的国境を捨てている人達の存在を感じ取れます。そんな少数の人達によって世界支配が行われるとは思いたくは無いです。唯気付いたら後戻り出来なくなっていたでは、何とも悲しい事です。充分警戒は必要である事をエドワード.グリフィンは語り掛けている様に思いました。
由井寿一 arakawa-yui@u01.gate01.com http://blogs.yahoo.co.jp/toudaimori_yt
投稿者 由井寿一 : 2008年04月26日 06:58
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