日本のメディアや報道について、皆さんのご意見をお待ちしております。
あなたは日本のメディアや報道をどうお考えですか?
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2007年09月10日 14:13
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コメント
ジャーナリズムに「権力に対峙する役割」があるというご指摘に触発され、現在、新聞各紙を賑わせている「新聞の特殊指定の見直し」をどのように見たらよいか興味を覚えました。
たとえば、①新聞各紙が反対論一色で、公取委や専門家の意見を載せないのはなぜか、②販売する商品(媒体)に手を出さないという商道徳を守らないのはなぜか、③政治家がこぞって見直し反対論に傾いているのはなぜか――という疑問が湧いてきます。
また、言論の危機に直結するほどの大問題ではないにもかかわらず、政治家を巻き込んでここまで声高に見直し反対キャンペーンを張る構図は、世の権益を暴くことに熱心なメディアが自らの既得権益を侵すものに対しては色をなして攻撃に回るという過剰防衛とも映ります。
こうした現象は、権力に対峙すべきマスコミが、所謂「第4の権力」と化している1つの証左なのではないでしょうか。メディアと政治家による相互の権益擁護が嵩じれば、権力の監視機能が弱体化することは明らかです。特殊指定見直しという新聞経営上の一問題よりも、むしろこうしたメディアの役割(の変質)に危惧を覚えます。
実際に、政治家に対して、新聞社から陳情が行われたり、陰に陽に圧力がかるという事実はあるのでしょうか?
投稿者 野口義之 : 2006年05月29日 18:26
現在の既存メディアの最大の問題は、「事実を見ない」ということだと私は考えています。
ステレオタイプを元に、あるいは先入観を前提に、机上の議論を繰り広げ、それに合致したネタだけを探し求める、という傾向がなくならない限り、議論は深まりません。
科学は、「仮説」が否定されたときに進歩するものなのです。
また、現在の社会に様々な問題や病理現象が存在していることは事実です。ただ、その原因が何かをみずに思いつきの対策を唱えるだけでは、あたかも瀉血のように、無意味かつマイナスのことをしているかもしれません。
また、一見無駄に見えることでも、何らかの効用を発揮している場合もあります(食物繊維なども、以前は無駄と言われていました)ので、そういうことを注意しないと、世の中が却って悪くなることもあります。
そうした議論をするには、何よりも「現場」が重要です。それも最初から「こういうもの」と決めてかかるのではなく、虚心坦懐に何が起きているのかを観察することが、一番大切なことと思います。
現在のメディアに欠けているのは、その点だと思います。また、多くの(文系の)学者も、現実を見ることなく、メディアの報道を元に議論していることから、それを報道するメディアとの間で、自己完結型にステレオタイプが循環しているだけで、実態からかけ離れてしまったり、せっかくの改善の動きに水をかけてしまうようなことがしばしばあります。
言論NPOだけでは、マンパワーの問題からなかなか「現場」を歩き回ることは難しいと思いますが、是非「現場」の声を素直に受け止める工夫をして頂ければ、幸いですし、メディアや学者がそのような方向に向かうように、活動して頂けることを期待しています。(実際には「現場」はなかなか本当のことを言えないのが実態です。何か言おうとすれば、どういう結果を招くかが明らかだからです。その意味では、一種の言論統制が働いています。「現場」が非難されることなく、事実を伝える方法があれば、世の中は大きく変わると思います。)
※もっとも、「現場」を丹念に調べることは、時間も手間もかかる 割には、世の中で受けませんので、昨今の風潮の中では、誰もやりたがりませんね。
本来は、それが学者の仕事なんですが、「舌先三寸」だけで食べている学者の方が偉く見えてしまう、というのが問題なのかもしれません。
投稿者 木下 : 2006年05月29日 19:51
岡本教授、
新聞社の「幸福追求権」を認めた最高裁判例は有るのでしょうか?
※岡本薫氏 第1話「私がメディア評価を行う立場」/報道の「在るべき姿」についての私の考え http://www.genron-npo.net/opinion/okamoto/001430.html に戴いたコメントを、担当者により代理掲載させて頂きました。
投稿者 古池克己 : 2006年06月01日 11:21
上記問い:新聞社の「幸福追求権」を認めた最高裁判例は有るのでしょうか?」に対する回答です。
「権利の有無が裁判で争われる場合には、抽象的な考え方としてではなく、
個々の事件について、具体的な請求権を伴う権利として有しているか、ということが争われます。
新聞社と憲法第13条の幸福追求権の関係について、そうした裁判(新聞社が、幸福追求権を侵害されたとして、
誰かに損害賠償請求等をしたという事例)は、存じません。
自然人についても法人についても、法律でルールで規制されていない限り内心・行動は自由、というのが日本国憲法の基本理念ですが、あえてその具体的な根拠条文を示すとすれば、
前者については第19条、後者については第13条ということになりましょう。」
※岡本薫先生からのご回答を、担当者により代理掲載させて頂きました。
投稿者 岡本 薫 : 2006年06月06日 13:26
岡本教授
憲法は理念であって、判例により具体化していくもの、と解釈すれば、教授が唱えられる新聞社の幸福追求権を、錦の御旗として論理を進めるのは、いささか難儀ではないでしょうか?
投稿者 古池克己 : 2006年06月07日 12:28
メディアの世界で働く者です。
「マスコミ人がプロフェッショナルであるべきだ」という意見には大いに賛成ですが、プロ意識が芽生えない・・・という
その根本がどこにあるのかと思うのです。
プロになれ!プロ意識を身につけろ!と口で言うのは簡単です。プロ意識の定義と書かれている「学問的体系に基づいた高度技能を依頼人、すなわちクライアントのために活用して、問題解決をし、その対価としての報酬を得る。そのための倫理観を持っている」という文章を理解すれば、プロ意識は芽生えるのでしょうか?
先日逮捕された村上氏は『プロ中のプロ』を公言して憚らない方でしたが、彼と同業者で16年のキャリアを持つあるファンドマネージャーが、下記のように彼を評しました。
「お金儲けがいいのか悪いのかという話と、村上氏がやってきたことは直接結びついてないんです。ファンドマネージャーも社会の一員であって、社会という中で整合性の合うような行動を取らないと、いかに資本主義の考え方をそこで入れたようにしたとしても、資本主義ってそんなに株主の権利だけで動いてる程ヤワな制度ではない。株主、経営陣、従業員、仕入先、お客さん、社会、それが全部くっ付いて成り立っているんです。」
つまり彼はプロでもなんでもなかったということです。
資本主義というシステムの中で働くことはつまりプロフェッショナルとして働くことが絶対条件であって、その観点から考えると、基本的にどんな職業もプロフェッショナルでなければ成立しないと思うのです。
言うなればアメリカから貰った資本主義ではありますが、その世界はもっと大人で甘くない、厳しい世界であるという資本主義社会への認識不足が原因なのではないかと思われてならないのです。
そういうことも分っていないのに「自分は大人だ」と大きな顔をして説教ばかりしている子供みたいな大人が多いのだと思います。
※横山禎徳氏 第3話「プロフェッショナル」 http://www.genron-npo.net/opinion/yokoyama/001480.html に戴いたコメントを、担当者により代理掲載させて頂きました。
投稿者 松林美妃 : 2006年07月11日 18:34
私自身40年にわたり営利事業を行ってきた者ですが
営利事業者は「ルールに反しなければ何をして(儲けて)も構わないのか」という意見に対して「そうした状況が良くないというのであれば、そう主張する人自身が法律ルールの構築を実現するしかない」について、私はわれわれの目指す社会は必ずしもそういうものだけでもないだろう、と感じます。
例えば日本より自由がありまたケースによっては規制も厳しいアメリカで、メジャーの野球場では日本のようにフェンスにベタベタ広告がありません。これは別に法律ルールがあるからではなく、美的センスからのことと思われます。
同じくアメリカの例で言えば、街の一般の書店で露骨な性表現を売り物にする写真誌などは扱っていません。これも法律ルールに基づくものではないと思われます。
われわれが、法律ルールを守りながら一定の倫理観や格調をもった社会を目指し、その中で営利事業者も活動していく社会が望ましい、ということではないでしょうか。(一定とは何かといわれそうですが)
(元石油会社勤務)
※岡本薫氏 第6話: 「営利追求と社会的責任」 http://www.genron-npo.net/opinion/okamoto/001466.html に戴いたコメントを、担当者により代理掲載させて頂きました。
投稿者 片山 正臣 : 2006年07月11日 18:37
小生は70歳の老人です。PCも本年3月より学習し始めたばかりです。
さて、貴「言論NPO]の存在を7月11日付朝刊で知り早速検索しとりあえず横山禎徳先生の「安易なラベル化と思考停止」を拝読させていただきました。ほぼ全文にわたり我が意を得たりの感を強ういたしました。
とりわけ一つだけ例を挙げさせていただくなら、ITをインターネット・テクノロジーと軽く揶揄されておられるのに笑いが止まりませんでした。
なお、今後とも貴ブログの愛読者となるべく、小生のPCでお気に入り項目に追加させていただきました。 以上
※ 横山禎徳氏 第1話「安易なラベル化と思考停止」 http://www.genron-npo.net/opinion/yokoyama/001478.html
に戴いたコメントを代理投稿させていただきました。
投稿者 Anonymous : 2006年07月11日 18:40
マスコミが言うところの、両論併記
現役の頃、以下の経験をした。
小生の所属していた組織、よくマスコミから取り上げられる。「両論併記で、お願いしますよ」、と念を押し、取材に応じ、後日、新聞紙上に出る。
読んでみると、両論併記とは、名ばかり。我が社から取材した内容のうち、取り上げたのは、そのうち、良くて、2割程度。後の8割は、相手方の言い分。10割相手方の言い分を、聞いた記事となっていないので、とりあえず、両論併記と言うことか。
一般読者がこの記事を読めば、こちらの言い分は、ほとんど理解してもらえないのではないかと考える。
後日、担当記者に抗議すると、編集で変えられてしまったとの回答。最初から、相手方の言い分を記事にしたいがための、形だけの取材ではなかったのかと、勘繰ってしまう。
ある時、別の記事で、更に電話で抗議した日の翌日、抗議した内容が、記事となった。情報提供者扱いを受けてしまったのだろう。・・・うかつと言えばうかつだった。
関西地方に住んでいたとき、同じ現象が朝日新聞において見られた。巨人:阪神戦。巨人が負けた翌日は、スポーツ欄のトップに写真入りで、掲載。
逆に巨人が勝った場合は、小さく、下の方に結果のみ。・・・(当時巨人ファンであった、小生、このことを理由に、朝日新聞購読を断ったのは、言うまでもないことだが。)
この手法は、先に記述した、我が社に対する扱いと同じ事なのだろう。この場合、当然8割(阪神)が相手側の言い分。2割(巨人)が我が社の言い分。
以上がマスコミが記事を取り扱う場合の、両論併記についての小生なりの感想。
投稿者 車好き隠居 : 2006年07月12日 19:15
朝日新聞でここを知りました。マスコミの「安易なレッテル貼り」を問題視する横山先生のご意見に賛同します。特に見出しですね。「短いフレーズで分かりやすく」という傾向は、消費者の目を引かなくてはならない商業メディアの宿命のようなものでしょうが、そのことによって深い思考を閉ざしている側面も間違いなくあるでしょう。誤解のないように一字一句正確に引用していては見出しの字数からはみ出してしまうでしょうし。
ところで、先生は「例えばグーグルなどの検索エンジンで『劇場型政治』を見てみればわかります。自分が作った表現ではなく、マスコミが作ったラベルを恥らうこともなく使ってまったく同じような議論を展開している『知識人』が多いことに気がつきます」と書かれていますが、この点は少し疑問です。そういったフレーズはむしろ作家の高村薫さんに代表される「知識人」が使い始めた言葉を、マスコミが借用して流布したように思います。
それと、先生は「かつて森首相がITを『イット』と言ったとき、多くのメディアは笑いました」といささか断定的に書かれていますが、これももう少し留保(いわゆる「逃げ打ち」)を付けた表現で書かれた方が良かったと思います。私の知る限り森首相が「イットってなんだ?」と言ったというのは、当時マコトシヤカニ語られたジョークの類だったはずです。
この2点に関しては、断定的で安易な表現を好むマスコミと同種の傾向を感じましたので、失礼と知りながら敢えて指摘させていただきました。
※横山禎徳氏 第1話: 「安易なラベル化と思考停止」 http://www.genron-npo.net/opinion/yokoyama/001478.html に戴いたコメントを、担当者により代理掲載させて頂きました。
投稿者 山川草一郎 : 2006年07月12日 20:00
71才です。朝日新聞の紹介でこのブログを知りました。
常々新聞の論調に違和感があるときが有ることに気が付いていました。
>自分たちの考えているサービスは世の中に絶対必要なのだというある意味では偏執狂的世界観と志を持った「ヒルズ族」はいったい誰なのでしょうか。
>日本にもいるはずです。株式市場が嫌っても期間利益を犠牲にして技術への先行投資をし、世の中に先んじようという志を持った人たちは目立たない別のところに隠れているのでしょう。それを見つけるのもマスコミの責任でありプライドではないでしょうか。
このご意見に感動しました。新聞を読むに人の中には「ヒルズ族」とはいったいどんな人たちなのか知らないのです。私もそうです。その人達を一からげにしてラベルを貼ってしまう。
この風潮には反発を覚えてしまいました。
マスコミの責務の一つをいみじくも喝破されて我が意を得たる思いです。
※横山禎徳氏 第1話: 「安易なラベル化と思考停止」 http://www.genron-npo.net/opinion/yokoyama/001478.html
に戴いたコメントを、担当者により代理掲載させて頂きました。
投稿者 岸本 嘉夫 : 2006年07月13日 18:02
第1話で遅まきながらコメントさせていただいた者です。
松村さんのご意見に対して------書き出しは横山禎徳さんへの反論かなと感じたのですが、そうではなかったのですね?
「・・・・資本主義ってそんなに株主の権利だけで動いてる程ヤワな制度ではない。株主、経営陣、従業員、仕入先、お客さん、社会、それが全部くっ付いて成り立っているんです。」と言うファンドマネジャーの意見が正しいと思います。私は会社勤めの時はそう信じて行動していました。ところが最近の定款変更傾向に不安を感じています。
>つまりプロフェッショナルとして働くことが絶対条件であって、その観点から考えると、基本的にどんな職業もプロフェッショナルでなければ成立しないと思うのです。
そうなんだと思いますよ。少なくとも私たちの仲間ではそれを実行している人が大勢いたと感じています。
※横山禎徳氏 第3話「プロフェッショナル」 http://www.genron-npo.net/opinion/yokoyama/001480.html に戴いたコメントを、担当者により代理掲載させて頂きました。
投稿者 岸本 嘉夫 : 2006年07月13日 18:06
「公的資金で救済されたにもかかわらず銀行はもうけすぎ」、「国民が低金利であえいでいるときに、日銀総裁のファンド投資は問題」と新聞が書けば、確かに溜飲は一時的に下がります。判ってくれている、と庶民感情は癒されます。ドラマなどで、政府寄り、業界寄りの記事を書けと上から言われて煩悶する記者、というようなストーリーを見かけますが、このような新聞記事が次から次へと垂れ流され、しかし、現実は何も変わらないということが続きすぎると、新聞社は国民の不満のガス抜きを、どこかから依頼されているのでは?などと考えたくなります。こんなに一般庶民がバカにされてよく暴動がおきないものだと言われますが、こんな形で適度にガス抜きされてしまい、エネルギーが有効に蓄積されず、選挙も低投票率なのでは? テレビで格闘技の番組がすごい人気を博していますが、ローマ時代の「パンとサーカス」の話を思い出します。
※岡本 薫氏 第6話: 「営利追求と社会的責任」 http://www.genron-npo.net/opinion/okamoto/001466.html
に戴いたコメントを、担当者により代理掲載させて頂きました。
投稿者 石井 由記子 : 2006年07月13日 18:15
朝日新聞を読んで知りました。横山先生のご意見に全面的に賛同します。安易なレッテル貼りはよくないですね。これからも鋭い分析を期待しております。
※横山禎徳氏 第1話: 「安易なラベル化と思考停止」 http://www.genron-npo.net/opinion/yokoyama/001478.html
に戴いたコメントを、担当者により代理掲載させて頂きました。
投稿者 山川草一郎 : 2006年07月13日 18:18
<朝日新聞の記者「中小路徹」氏>
民放の報道は魂を視聴率に売ってしまったため、報道の本質を忘れてしまったようですが、それが新聞でも起きていることに驚きました。サッカーに関する新聞記事は稚拙だと感じていたので、ほとんど読み流していました。ところが、ワールドカップのクロアチア戦の前に、日本代表の練習をこてんぱんにけなしている記事が朝日新聞に掲載されました。その記者は中小路徹氏でした。厳しい論評をする記者もいるのだと思って、その後、中小路氏の記事に注目しました。ところが逆に、中小路氏の記事がすべてジーコの肩を持っていることに気付きました。朝日新聞ともあろう報道機関に、読者に真実を伝えることより、権力を握った特定の人との絆を優先する記者が存在してよいのでしょうか。そこで、中小路氏が書いたジーコ寄りの文章を少し紹介したいと思います。
6月17日(ウェーブ)
日本代表の練習を見ているとイライラしてくる。本当に勝ちたいのか。15日の練習開始前の円陣。この期に及び、ジーコ監督に「気持ちが入っていない」と説教される始末である。
6月23日(夕刊一面)
「日本のサッカーを変えられるチャンスがあると信じていたのに」。ジーコ監督はさみしそうだった。
6月24日(朝刊一面)
だが、(ジーコ)の方向性が間違っていたのだろうか。日本はこれまで、個人能力の劣勢を、組織力を磨ぎ澄ませることでカバーしようとしてきた。現実的な策ではあったが、個人能力の不足と正面から向き合わない、逃げでもあった。
戦うのは選手なのだ、という強いメッセージを出し続けたジーコ監督の信頼に、チーム全体が応えなかった面もある。
チームには個人能力だけでなく、プロ意識も足りなかった。
ジーコ監督は選手を過信し過ぎてしまった。懸念されるのは、この4年間が否定されていまうことだ。やっぱり個人能力重視はだめだと、組織頼みに針を戻すようでは、日本サッカーは退行するだけだろう。
6月24日(検証ジーコ・ジャパン<上>)
「一つの戦術だけでは世界では勝てない」と、ジーコ監督は話したことがある。だが、異なる戦術(3バックと4バックのこと)を共有するまでににチームは成熟しなかった。
6月25日(検証ジーコ・ジャパン<中>)
「時間がない」とジーコ監督が口癖のように言った。
時間がない以上、(ジーコが)細かい戦術上の約束を植え付けるより、個人の能力を生かす道を探ったのも一理あった。
6月26日(検証ジーコ・ジャパン<下>)
ただ、ジーコ監督の選択の誤りはともかく(オーストリア戦のこと)、日本がリードを守り、引き分けでいい試合を引き分ける術にたけていないのも、現実だった。
以上ですが、中小路氏は、ジーコは正しかったが選手がそれを実現できなかったと主張しています。本当のサッカー通なら、ジーコはダメ監督であったと必ず批判するしょう。ジーコは4年間、監督としての責任をまったく果たさなかったのです。中小路氏はさらに、川淵会長が次期監督候補を漏らしたら、これから面白くなるワールドカップはそっちのけで、オシム氏の自宅に飛んだようです。今度は何を企んでいるのでしょう。
この件について、朝日新聞にメールで問い合わせをしましたが、返事はありませんでした。
今の日本のサッカーが世界に通用しないことは、やる前から明らかでした。だから、勝ち負けではなく内容が重要だったのです。ところが、その内容さえも散々でした。その最大の責任はジーコ、次がジーコを擁護した川淵会長、そしてチームを壊した中田(秀)でした。それなのに、この3人を批判するどころか、英雄に祭り上げているのがテレビや新聞なのです。つまり、報道の目的が真実を伝えることではなく、如何にワールドカップを盛り上げて、スポンサーを獲得するかに変わってしまったのです。報道が金儲けの手段になったら終わりですが、それが日本で現実に起きているのです。
投稿者 伊藤 毅 : 2006年07月21日 04:37
情報戦略アナリスト野口と申します。
第9話「新聞経営の課題」についてコメントさせていただきます。
貴論では、新聞経営の課題として、「新たな価値観に基づいた業績評価システム」および「人材育成訓練システム」が、今現在の新聞経営の課題であると分析しておられます。
しかし、今直面する新聞経営の最大の課題は、急速に進行する情報化の中で、新聞メディアがこれまでの情報絶対優位をパーフェクトに失いつつあること・・・それこそが、新聞経営における最大の課題ではないでしょうか。
しかも、それ=「急速に進行する情報化」に乗り遅れた新聞メディアは、これまで百有余年の間に築き上げた「情報ポータル」としての地位をネットに明け渡し、読者の急激な新聞離れ引き起こしていることに危機の本質があるのではと認識する次第です。
限られたスペースの中で、情報化に立ち遅れたわが国の新聞メディア論を綴るのは困難ですので、添付ファイル『新聞がなくなる!』
http://sinbun.cocolog-ifty.com/blog/files/pdf.pdf
に要点をまとめさせていただきました。
情報化の視点からの「新聞経営の課題」について、論議の一石となることを願っております。
※横山禎徳氏 第9話「新聞経営の課題」 http://www.genron-npo.net/opinion/yokoyama/001566.html に戴いたコメントを、担当者により代理掲載させて頂きました。
投稿者 情報戦略アナリスト野口 : 2006年07月28日 10:14
マスコミの媒体の如何に関わらず、その媒体の経営戦略の問題とメディアとしてのコンテンツであるジャーナリズムの質そのものの問題とは建前としては切り離すべきではないでしょうか。勿論表裏一体の面も有る事は認めますが。近年問題になっているニューヨーク・タイムズ紙における記事捏造問題、CNNのやらせ問題等はもっと複雑です。メディア自身の持つ政治的アジェンダの優先、マイノリティー記者に対する雇用平等主義の偏重、そしてネット対応の遅れと部数激減に対する編集局の焦り等ですが、日本のジャーナリズムの抱えている基本的な質の低下という問題は議論されていません。仮に新聞が無くなる時代が来るとしても、それは必ずしも質の高いジャーナリズムを大衆が望まなくなったからでは無い筈です。逆に玉石混淆のネット媒体に対する不信感は今以上に昂まると思われます。新聞という媒体を変質させる事は戦略としてはそれほど難しいとは思えませんが、コンテンツとしてのジャーナリズムの質を高めることは一朝一夕では無理でしょう。質の高いジャーナリストが局面打開の鍵になると思えてなりません。
※横山禎徳氏 第9話「新聞経営の課題」 http://www.genron-npo.net/opinion/yokoyama/001566.html に戴いたコメントを、担当者により代理掲載させて頂きました。
投稿者 山本克彦 : 2006年08月10日 17:41
新聞やTVの方が本当のことを伝えられない場面がたくさんあるでしょうね。時には機密費とやらで買収されたり、番組を没にされたり内容を国家権力で帰られたりと。
記事を載せる選択は毎日容易なこてではないでしょう。
下手なことを書けばどこかのジャーナリストのように暗殺もありえます。
でも、でも、勇気を持って。この全面戦争になりそうな日本の強硬姿勢をとめてください。
暴力に暴力で応対してよかったためしはありますか。もう負の遺産をいただくのは私たちの世代で結構でございます。
これ以上作らないことが大切です。
報道、ジャーナリズムが便りです。その偉大な力を信じるより仕方ありません。新聞が売れる、視聴率が最優先されるでしょうが。
投稿者 Sakura789 : 2006年10月16日 13:43
今朝たまたま車内のラジオで先生の「モラルとルールの混同」についての話を聞き、共感した者です。
学校教育現場でディベートを学ぶことについてにも言及され、
心の中で一部モヤっとしていたものがスッキリしたような思いがしました。私も教育現場にいる者ですが、参考となる言葉が
多く聞かれ、ほんの5~10分足らずの時間でしたが、有意義な
時間でした。その後、家に帰るまで何度も先生の名前を反復し
こちらのサイトにたどりつきました。これから先生の著書など拝読したいと思っております。
一方的なメールで失礼しました。また次回放送で先生の言葉が聴ければと思います。
※岡本薫氏 第5話「人々の意識」と「社会システム」 http://www.genron-npo.net/opinion/okamoto/001443.html
に戴いたコメントを、担当者が代理掲載させて頂きました。
投稿者 hirata : 2007年01月17日 16:04
フクシマ氏の仰る通りだと思います。
私なりに原因を追究すると、やはりどうしても日本人の精神性や文化という問題に突き当たらざるを得ない。
日本の知的文化、社会文化という深いレベルに根本的問題があり、その土壌を本気で改良しなければ本質的解決は難しい。
島国的・農耕民的な内輪の閉鎖的ロジックから完全に自立できていない為、真理や事実といった知的価値、道徳的高潔といった倫理的価値が未だに犠牲にされがちであると言わざるを得ない。
このような社会文化的環境では、議論は不毛であり感情的にならざるを得ない。
結果的に事実や問題を直視しない、意見しない、議論を避ける、思考停止という日本人の欠点が招かれる。
そして、最も安直な選択であるご都合主義的なナショナリズムがお祭りの神輿のように担がれる。
政治的ミスリーディングが始まり、過ちは破綻するまで誰も止められなくなる。
もちろん、言論NPOはこうした事態を避ける為にあるのでしょう。
※フクシマ氏 第1話「なぜ、日本では近隣国との問題を乗り越えるための議論が少ないのか」 http://www.genron-npo.net/opinion/glen/001018.html
に戴いたコメントを、担当者が代理掲載させて頂きました。
投稿者 山田 : 2007年01月17日 16:22
福田首相と民主党 小沢代表の一連の連立騒動で、読売新聞の渡辺恒雄氏による政治介入があったとの事だが、重大事件である。
情報操作を行い得る立場にあるマスコミが、政治介入することは越権行為であり、民主主義の否定につながりかねない。
そもそも三権分立と言われるが、第四の権力などと称されるマスコミに三権との癒着を禁ずる何の規制も無いのは非常に問題だ。
権力とマスコミが癒着すれば、ファッショでも何でも出来てしまう。
今後、こうしたマスコミと政治との癒着を法で禁止して行くべきである。
とりあえず、業界団体である日本新聞協会などが、自主規制を指導して行くべきだ。
また、今回の連立構想が破綻した翌日、読売新聞が一面で大連立構想は小沢氏の構想だったと虚偽報道をした事は、読者並びに国民に対する許されざる背信行為である。
不法な情報操作、世論操作であり、こうした行為も法規制が必要である事は言うまでもない。
読売新聞と日本新聞協会は、今回の件について、謝罪と説明責任、経営責任を明らかにすべきだ。
投稿者 山 : 2007年11月09日 11:13
マスコミの役割080227
現在のマスコミの有り様は、報道ねたの多くが諸官庁に設置されている、“記者クラブ”を基点として発せられています。この様な状況では報道機関の目は、諸官庁に向けられていると言われても間違いでは無い様に思います。報道文では建前から、“国民大衆”の立場で有る様に装われていますが、やはり記者と官僚の癒着構造は拭えません。
世の中にたいした影響も無い記事が、他社を出し抜いたとして、“スクープ”だと騒ぎ立てます。悪習でしょう。マスコミ報道には事実は非常に重要です。しかし、其の事実の陰に隠された“真実”こそ本当の重要なマスコミの役割ではないでしょうか。事実を報道して真実を報道出来ないのでは、報道機関としての役割としては、評価の低い三流紙でしか有りません。発行部数の多さは、視聴率の多さは、報道機関の重要性とは一致しません。
この様な状況を打破して行くには、情報を作るものと情報を発信する側とを分離する事も一つの大きな問題だと考えています。独立した記者や記者集団の出現、大報道機関の独占体制の解体が採り合えず考え付きます。
しかし、根本的には、日本社会が“感性社会”で有ると言う共通認識が始めになければ、大きな改革は難しいように思えます。
最近の世界では、多くの謀略的組織が暗躍しており、日本国内でも例外では有りません。本来この様な状況を見抜く力は、ベテラン記者の良くする所だと思いますが、現実の日本の状況では、マスコミトップの判断力は、到底その様な役割をこなせる様な体制には無いと考えています。
昔、“つづり方教室”と言うものが話題になりました。文章を書く力を養う事は、物事の論理を考える力を養います。アニメ、漫画産業の隆盛は喜ばしい事では有りますが、反面、文章化力、論理的理解力を蔑ろにして来た結果ではないかと憂慮します。マスコミ人自身の理解力を高めて行かなければ、真実を伝えて行く報道機関を望むのは無理があるでしょう。
一方国民大衆側でも、表面的事実関係、三面記事のみに関心を持っているのみでは、良い報道機関は育てる事は出来ません。国民大衆に対して物事を論理的理解が出来る様にするには、文章化能力を高め、発言する機会を持たせる様な教育施策が今後教育の柱に成るべきだ考えます。
流暢な英語の発音で挨拶出来る多数を作るより、発音は下手でも物事の内容を対等に渡り合える専門家を養成して行くべきだと考えます。付け加えます。日本語とインドヨーロッパ諸言語には、基本的文化的違いが有るので、教育的処置では文化的感性は埋まらない筈です。英語の上手い能力の無い“宰相”を生まない為にも、日本的感性と共に文章力と論理を理解出来る日本人を生み出す事が、日本のマスコミ力を高めて行く本道だと考えています。東京荒川 由井寿一 arakawa-yui@u01.gate01.com
投稿者 由井寿一 : 2008年02月27日 15:54
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(戴いたコメントは担当者が選択し掲載させていただきます。)





