第3話: 「プロフェッショナル」

横山禎徳/よこやま・よしのり (社会システムデザイナー、言論NPO理事)
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1966年東京大学工学部建築学科卒業。建築設計事務所を経て、72年ハーバード大学大学院にて都市デザイン修士号取得。75年MITにて経営学修士号取得。75年マッキンゼー・アンド・カンパニー入社、87年ディレクター、89年から94年に東京支社長就任。2002年退職。現在は日本とフランスに居住し、社会システムデザインという分野の発展に向けて活動中。言論NPO理事
プロフェッショナル
小林一三の話で興味深いのは、高校野球の問題です。彼は線路だけでなく、「コンテンツ」までつくり上げた、希有な人なでしたが、そのひとつとして高校野球を「発明」したのです。日本全国から勝ち抜いて上がってきたチームの試合を阪急宝塚沿線の豊中の原っぱで行ったのです。
それを朝日新聞がその後、甲子園にもっていったわけですが、そのときに、これは公共性が高いから、一私鉄がやるべきものではない、公共性のある朝日新聞がやるというのが大義名分だったのです。それが現在の高校野球の原点ということですが、ということは、新聞とは「公共性がある組織」だということが前提にしているわけです。
これはもうひとつの毎日新聞が行っている春の高校野球も同じです。では、その公共性に対する責任感、あるいはそれを具体的行動の隅々にまで示す資質を今のメディアや企業は組織としてどのように訓練しているのでしょうか。
今回の「ヒルズ族」や「縦並び社会」などの表現に見られる、安易なラベル化が繰り返される背景には、これまで話した日常の記事を具体的事実に即してまとめるということを超えて、社内に蓄積したデータを駆使しながら「格差」とその要因と考えられる事象との因果関係の分析や、ITの本質に迫る意味合いの追求、そして歴史的な教訓をレビューしながら問題の提示を行うような思考力を磨いたり、公共性を重視する価値観という抽象的なものを日常のちょっとした行動まで反映させるよう訓練する組織風土が今のメディアにはないからだと思います。
マスコミ人というのは普通のサラリーマンとどこが違うのか。私は違うべきだと思っていますが、多くの記者はそれに満足に答えられないし、現実の生活においても単なるサラリーマンでやっているから、こういう問題が起こるのではないかと思います。例えば規制業種は、世の中になくてはならない業種であり、かつ公共性があるから、「規制」という名の下に保護をするわけです。これは他の業種とは明らかに違うわけです。私が前にやっていた経営コンサルタントも落語家も規制されていません。資格試験とかライセンスなどないわけです。ということは、経営コンサルタントも落語家も政府としては世の中にあってもなくてもどっちでもいいと思っているということです。
時代遅れになっている部分はありますが、銀行員は銀行に対する社会的信用というものを落とさないような行動規制をしてきたし、電力を供給する人も電力の供給責任という公共性を問われ、電電公社、NTTも「広くあまねく平等に」というユニバーサルサービスを目指してきました。公共性に対する責任を、それ自体が経営の非効率さの言い訳につかわれていないかどうかという議論は別にありますが、少なくともそれは大事だと思って、それぞれが行動の価値観にしてきたわけです。ではマスコミ人はそうした公共的よりどころとなる行動の基準はあるのか、個々人にちゃんと浸透する努力がしつこくされているのかが私の最大の疑問なわけです。
マスコミの記者は単なるサラリーマンではないとしたら、何を基準にして行動しているか、行動指針は何か、どうやってそれを訓練し確保しているのか、それを定期的に確認をしているのかをとことん開示すべきだし、それ自体の説明責任が問われる必要があります。そしてそのような面倒なことをやるべき理由は公共性という責任だけではないと思います。公共性というだけでは先ほどから述べている高度な能力を必ずしも要求しません。日本中に郵便物を届けるとか各戸に電気を配電するとかを考えてみればわかるはずです。
私が日本のメディアで行動する記者に問われているのはプロフェッショナルとしての自覚だと考えています。「プロになれ」とか「プロ意識を持て」とか「プロとして」とか表現は氾濫していますが、 プロフェッショナルという言葉には、しっかりとした定義があり、行動指針があります。これは、プロフェッショナルだとかってに主張する職業が急増したため、19世紀に何人かの学者が学問的にも定義したものですが、プロフェッショナルとは、「学問的体系に基づいた高度技能を依頼人、すなわちクライアントのために活用して、問題解決をし、その対価としての報酬を得る。そのための倫理観を持っている」。日本ではあいまいにされているが、これがプロフェッショナルの定義なのです。当然、どういう職業はプロフェッショナルかという判断はされるべきです。すべての職業がこの定義にあったプロフェショナルではないからです。
このような観点からすると、メディア人はプロフェショナルであるべきであるし、それが要求する規律を身に着けるべきと考えます。しかし、プロフェッショナルの定義をきちっと知り、自分はそうであるという自覚がある人がメディアの中で働いている人々の間でどれくらいあるのかは知りたいところです。
※第4話は6/24(土)に掲載します。
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2006年06月20日 18:24
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コメント
メディアの世界で働く者です。
「マスコミ人がプロフェッショナルであるべきだ」という意見には大いに賛成ですが、プロ意識が芽生えない・・・という
その根本がどこにあるのかと思うのです。
プロになれ!プロ意識を身につけろ!と口で言うのは簡単です。プロ意識の定義と書かれている「学問的体系に基づいた高度技能を依頼人、すなわちクライアントのために活用して、問題解決をし、その対価としての報酬を得る。そのための倫理観を持っている」という文章を理解すれば、プロ意識は芽生えるのでしょうか?
先日逮捕された村上氏は『プロ中のプロ』を公言して憚らない方でしたが、彼と同業者で16年のキャリアを持つあるファンドマネージャーが、下記のように彼を評しました。
「お金儲けがいいのか悪いのかという話と、村上氏がやってきたことは直接結びついてないんです。ファンドマネージャーも社会の一員であって、社会という中で整合性の合うような行動を取らないと、いかに資本主義の考え方をそこで入れたようにしたとしても、資本主義ってそんなに株主の権利だけで動いてる程ヤワな制度ではない。株主、経営陣、従業員、仕入先、お客さん、社会、それが全部くっ付いて成り立っているんです。」
つまり彼はプロでもなんでもなかったということです。
資本主義というシステムの中で働くことはつまりプロフェッショナルとして働くことが絶対条件であって、その観点から考えると、基本的にどんな職業もプロフェッショナルでなければ成立しないと思うのです。
言うなればアメリカから貰った資本主義ではありますが、その世界はもっと大人で甘くない、厳しい世界であるという資本主義社会への認識不足が原因なのではないかと思われてならないのです。
そういうことも分っていないのに「自分は大人だ」と大きな顔をして説教ばかりしている子供みたいな大人が多いのだと思います。
投稿者 松林美妃 : 2006年07月08日 02:20
第1話で遅まきながらコメントさせていただいた者です。
松村さんのご意見に対して------書き出しは横山禎徳さんへの反論かなと感じたのですが、そうではなかったのですね?
「・・・・資本主義ってそんなに株主の権利だけで動いてる程ヤワな制度ではない。株主、経営陣、従業員、仕入先、お客さん、社会、それが全部くっ付いて成り立っているんです。」と言うファンドマネジャーの意見が正しいと思います。私は会社勤めの時はそう信じて行動していました。ところが最近の定款変更傾向に不安を感じています。
>つまりプロフェッショナルとして働くことが絶対条件であって、その観点から考えると、基本的にどんな職業もプロフェッショナルでなければ成立しないと思うのです。
そうなんだと思いますよ。少なくとも私たちの仲間ではそれを実行している人が大勢いたと感じています。
投稿者 岸本 嘉夫 : 2006年07月12日 11:54
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