「2004.8.25開催 アジア戦略会議」議事録 page1

2004年10月19日

040825アジア戦略会議2004年8月25日
於 日本財団会議室

会議出席者(敬称略)

黒川清 (日本学術会議会長)

福川伸次(電通顧問)
安斎隆 (アイワイバンク銀行社長)
イェスパー・コール (メリルリンチ日本証券チーフエコノミスト)
岩竹常博 (三井物産ライフスタイル事業本部長補佐)
周牧之 (東京経済大学准教授)
中平幸典 (国際経済研究所副理事長)
横山禎徳 (社会システムデザイナー)
工藤泰志 (言論NPO代表)
松田学 (言論NPO理事)

福川 おはようございます。お忙しいところをお集まりいただいて、ありがとうございました。

夏が過ぎたか過ぎないかという時期ですが、そろそろ本格的に展開していこうということで、これまでいろいろご相談してまいりましたように、アジア戦略会議にこのほど新しいメンバーの方にご参加いただくということになり、大変強化されるということになりました。ご紹介させていただきますと、まず中平幸典さん、それから黒川清先生、添谷芳秀さん、岩竹常博さん、この4人の方がご参加をいただくことになりました。

順次概略ご紹介させていただきます。中平さんは旧大蔵省で、各方面でご活躍され、そして最後に財務官をお務めになられまして、国際金融舞台で大活躍をされたことは皆様ご承知のとおりでございます。現在は国際経済研究所の副理事長をしておられまして、国際金融、通貨は当然、アジア問題についても大変幅広いご見識をお持ちの方でございます。どうぞよろしくお願いいたします。

黒川清先生は、きょう早速お話しいただくことになりますが、日本学術会議の会長を務めておられまして、東京大学名誉教授をしておられます。また、東海大学でも教鞭をとっておられます。このアジア戦略会議でも、これから科学技術分野が非常に重要になるだろうということでございまして、そういう幅広いご見識をお持ちの黒川先生にご参加をいただいて、我々としても大変心強い限りでございます。

岩竹常博さんは三井物産のライフスタイル事業本部長補佐をしておられまして、アジア、特に中国、香港での在任のご経験がございます。また、現地のアジア関係会社の非常勤役員も務めておられる方でございます。従来、三菱商事の植月さんに参加をしていただいておりましたけれども、中国にご赴任をされるということになりまして、このたび岩竹さんに商社のご経験を活かして、このアジア戦略会議にご参加いただくということになった次第でございます。どうぞよろしくお願いいたします。

また、本日は所用でご欠席でございますが、添谷先生、慶応義塾大学法学部教授でいらっしゃいます。これまでもこのアジア戦略会議ではお話を賜ったりいたして、皆様もご存じのとおりでございます。本日はご欠席でございますが、添谷先生もこれにご参加をいただくということになっております。

本日の会議の進め方でございますけれども、これまで皆さんでいろいろご議論をいただきましたように、アジアという視点を踏まえながら、日本のパワーアセスメントを深めていこうということになって、本年度の計画を立てているわけでございます。本日は科学技術分野につきまして黒川先生に40分程度、日本の実力評価や日本の将来の可能性についてお話を聞かせていただき、その後、自由討議に入りたいと思います。その前に、主査の松田さんから今回の会議の趣旨につきまして、本日ご参加をいただいた方もいらっしゃいますので、簡単に説明をしていただきまして、その後、黒川先生のお話に入らせていただきたいと思います。

それでは松田さん、よろしくお願いします。

松田 前回のシンポジウムからだいぶ時間も経っておりますし、初めての方もいらっしゃいますので、私どもが今までやってきたパワーアセスメントをもう1回簡単に振り返って、その上で本日の議論に入りたいと思います。

ご案内のように、日本の強さ、弱さの実力評価をするに当たって、我々は戦略マップというのをつくったわけですが、強さ、弱さについては、ほかの国に比べて「圧倒的に強い」「強いか同等」「弱い」という3つの指標を設けました。また、日本にとっての「戦略的重要度」という軸を、大、中、小の3段階で設定しました。その戦略的重要度を考えるに当たっては、世界にとって、あるいは特にアジアにとって魅力的な日本の創出という価値観を前提に考えました。

その中で、日本にとって戦略的重要度が高く、かつ他国に比べて圧倒的に強い分野として、私どもが得られた結論は、科学技術の先進度、経済の強靱性、大衆文化の影響力の3つであるという結論が得られまして、日本は特にこの3つを活用していくことに戦略的な重点を置いて、自らのアイデンティティーの形成を図っていくという1つの方向が出ております。

そこで、私どもの今年度の事業においては、日本の将来像ということを改めて思考の基点に置きまして、その上でパワーアセスメントの議論を深めていくということをとりあえず始めようということになったわけでございます。したがいまして、当面は科学技術、大衆文化、あるいは経済といった「圧倒的に強い」とされた分野の検証を行う形で、この会合を進めていくことを基本といたしますが、そこは固定的に考えずに、議論の過程で必要に応じて、この会議が採用しております戦略形成の5つのステップ、例えば世界の中長期的な潮流を見るステップ1であるとか、あるいはアイデンティティーの議論のステップ3というところを行ったり来たりしながら、必要に応じてフィードバックをしながら議論形成をしていくというのがよろしいのではないかと考えております。

本日はパワーアセスメントの作業のうち、科学技術分野について取り上げることになりますが、私たちが描いた戦略マップの中では、科学技術の分野は日本にとって、先進度、強靱性、影響力のいずれの面でも、魅力的な日本をつくっていく上では戦略的重要度が大きいと分類されております。特に科学技術について、日本はすり合わせ型の技術では圧倒的な強さを持っており、また、日本の市場も非常に先端的な市場を持っている、あるいは中国といった日本のブランド力を活用した大きな市場を隣に抱えているといった点で、先進度では圧倒的に強い。

では、強靱性についてはどうかと言うと、日本の科学技術の潜在力は大きいものの、最近ではオープンモジュールの世界的な流れの中で、日本のマネジメントの弱さなどが、強靱性の面で圧倒的に強いとは言えない状況をもたらしている。つまり同等か強いという結論が得られております。他方、影響力については、日本発の課題発見、あるいは解決の実績があまりない等々の点から、影響力は弱い。しかし、これからの日本はノーベル賞受賞者が増えてくるだろうということもありまして、そういった科学技術分野での日本の影響力を高めていくことによって、先進度、強靱性の強さを活用できれば、日本は科学技術分野で圧倒的優位を確立できるのではないかというのが、前回のパワーアセスメントの科学技術分野についての結論であったわけでございます。

それでは科学技術分野が、2030年といった将来を見通したときに、日本にとって依然として先進度において圧倒的に強い分野であり続けるのか、あり続けるための条件は何か、あるいは強靱性をさらに高めていくにはどうしたらよいのか、影響力を拡大させる可能性はないのか、そもそも科学技術分野は将来時点においても日本にとって戦略的重要度の高い分野なのかどうか、それはどのような意味でそうなのかといったような点について議論を深めていきたいという趣旨で、本日は黒川先生からお話を聞かせていただき、私どもの作業の参考にしていきたい。そういう趣旨の会でございますので、よろしくお願いいたします。

福川 大変貴重な時間でございますので、議論は後半にお願いするとして、とりあえず黒川先生、ひとつよろしくお願いいたします。

黒川 このような会に呼んでいただき、ありがとうございます。1枚目に資料がありますが、これはレジュメで、これに沿って話したらどうかと思っています。

2番目に私の略歴があります。略歴を書いた理由はいろんな意味があるわけで、私はアメリカに15年いましたが、15年もいる人が日本に帰れるはずがないのだけど、昭和58年の暮れに帰ることになりました。21年前です。アメリカでお医者さんをやりながら大学を4カ所移ったりして、帰ってからも3カ所、今、4カ所目になっていますから、卒業してから8カ所目のところにいるということです。向こうではカリフォルニア州の医師免許を持って、お医者さんとして大学で過ごしてきたということです。そういう経歴の人が少ないからわざわざ書いているということです。成蹊高等学校と書いているのは、そういう学校を出たからこんなことを言うのかなという背景です。

次にスライドが4つありますが、これはまた後で。

次の「読書漫遊」は、JR東海に乗ると出ていますが、これは今月号の『WEDGE』、3日前に出たものですので、お持ちしました。「リーダーよ、歴史のうねりは見えているか」という話です。次も、JR東海の『WEDGE』の本年2月号に出た、「リーダーに不可欠な歴史観、世界観、志」というテーマで本を紹介させてもらっています。

次は『文部科学教育通信』。日本がどうだったのか。日本学術会議は、法改正がありまして、新しくやるわけですが、「高度経済成長の中で顕在化しなかった『大学問題』」。大学は入るのが目的で、勉強するのが目的ではなかったということはみんな知っていると思いますけれども、それはなぜなのか。それから「国際的な場面では肩書きよりも個人の内容が問われる」とか、「本質的な社会的ミッションを企業はわきまえて欲しい」、CSRみたいなものです。それから、「日本のベンチャーキャピタルの実体は投資ではなく融資だ」。80%は大きな会社が出しているわけです。それから「世界の科学アカデミー連合体が動き出した」という背景と、なぜかを書いています。

そのほかに「日本学術会議をめぐる課題と展望」。これも、どうして学術会議ができたのか、国際的な動向が今どうなっているのかが次の見出し、それから科学と科学技術への期待と世界の動きがどうしてこうなったのか、日本の科学技術政策と学術会議がどういう役割なのか、社会の変革、なぜNPO他がたくさん出てきたのかという話が書いてあり、これから何をするのかを書いています。

現在、89年に日経平均が3万9000円までいってバブルがはじけたなどと言っていますが、それで日本がこれからどうするのか、アジアでは何をするのかという全体のフレームがあります。科学技術政策も、科学技術創造立国などと言って、9年前に第1次が5年、第2次が今4年目に入っており、来年から5年目に入り、今年の終わりぐらいから第3次科学技術政策を出します。各省庁がうちも何とかならんかという話をしているわけですが、それで何をすべきかということです。今の松田さんの話にもありましたが、日本の国全体が、今、北朝鮮の問題、中国の問題、台湾の問題、マレーシア、インドネシアの問題、日米の問題があります。EUは1つになろうとして、トルコ問題などがありますが、それでは日本のポジションは何かということを考える。

それには日本の歴史的な背景という―今は歴史の延長線上の1点ですから、それをどのぐらい認識しているのかという話と、それを囲む世界の動きがどう動いたからそうなったのかということを、一応知っていなくてはいけない。特に近代日本の歴史については、私たちの世代を含めてあまり知らない。なぜかというと、多くは、日本の歴史知識というのは大学入試に必要な知識しか知らないのではないか、大学へ入って勉強した記憶がない。だから、日韓併合がどうして起こったかなど、試験に出ませんから知りません。これはリーダーとしてとんでもないという話です。

それで20世紀、どうして日本がうまくいったのか。悪いこともあるわけですが。ヨーロッパ文明の科学技術というものがあって、なぜヨーロッパの科学技術が席巻しているか。いろんな本があるわけですが、もちろんヨーロッパより前に、科学というものから言うと、イスラムの科学、アラビア数字もあります。中国は3000年ぐらい前からはるかに進んでいて、鉄をつくり、印刷技術をつくりしたわけですが、7世紀から15世紀までイスラムが支配していたので、中国の技術がヨーロッパに行って、グーテンベルクの印刷技術。それによって聖書がたくさんつくられるようになって、人たちが啓発されてきた。いわゆるヨーロッパのギリシャの文明から長いダークエージが続いていたのがルネッサンスを迎えた。

その後、ヨーロッパでなぜこんなに科学が進んだのか。いろんな見方があるけれども、ルネッサンスから、ガリレオが「地球は太陽の周りを回っている」と言ったのは400年前、ニュートンの万有引力の法則はまだ400年も経っていない最近の話です。それまで地球はフラットだとみんな思っていた。そういう意味で、人間は物を知りたいということで一生懸命考え、工夫する。ヨーロッパ文明とヨーロッパの科学技術が世界を席巻するようになったのが18世紀以降です。

それまでの富は、スペインのように金をたくさん取ってくれば金持ちだという世界だったわけですが、エネルギーは、人間はいつでも使っているわけですが、それを動力に変えた産業革命以来、すっかり産業構造が変わって、国の力の背景が変わってしまった。産業革命以後、植民地政策がどんどん出てきて、ヨーロッパの列強が世界中に出てくる。

一方で日本はどうだったか。それぞれの国にいろんな歴史がありますが、ご存じのように日本は徳川により初めて全国統一され、京都から江戸に首都が移ったのは400年前ですが、それから鎖国政策をとった。極めてすぐれた政策です。何も情報を与えないという素晴らしい政策をつくった。そのため何が起こったかというと、極めて安定して成熟した文明を築いた、と言うことが可能であり、島国ということもあって、それまでは中国、朝鮮半島から来た文明の影響があったけれども、鎖国により極めて内向きではあるが、成熟した一つの価値観を築き上げてきた。

ただ不幸なことに、15世紀から大航海の時代に入っていて、コロンブスがアメリカを発見するとかいろんなことがあり、日本にも1549年ぐらいにフランシスコ・ザビエルが来た。日本人でもたくさん外に出た人がいます。鎖国になる前、インドネシアのスラバヤには日本人が2000人もいました、ジャガタラおはるさんとか。アユタヤ王朝に貢献した山田長政とか、いろんな人がいるわけですが、鎖国によって外なんか全然見ない人たちばかりつくった。

それで、250年安定して、生まれたところから外に出られない。しかも、「ラストサムライ」に見られるように、6%か7%の武士は、武術を鍛えているのだけど、絶対けんかはさせないというのだから、暇でしようがないし、お金を持たせないようにしていましたから、論語とか孟子とか、いろんなものを読むようになって、知的レベルの高い、倫理性の高い、武士道と言われるものですか、そういう人たちがいた。この250年は、国軍を持つ必要がありませんでしたから、日本は疲弊しなかったということは確かだと思います。

そういうときに、世界は産業革命以後、植民地政策になり、お隣の中国でアヘン戦争が起きて、どんどんヨーロッパの列強が植民地を広げるというパラダイムで動いてきましたから、いよいよ日本にもいろんな人が来た。薩英戦争とかいろいろ起こるわけですが、それでラッキーなことにペリーがやってきた。なぜラッキーかというと、アメリカはイギリスという非常に文化が成熟した国のピューリタンが反発して出ていった国ですから、極めて理想が高いという人たちです。それがカナダ、アメリカ、オーストラリア―オーストラリアは囚人が行ったわけですけれども、ニュージーランドをつくって、19世紀は世界の半分をイギリスが取っていたという時代だった。

ピューリタンは、物を取って何か利用するというよりは、そこの人たちを啓発しようという高い志があったというのは確かです。最初のハリスもピューリタンで、日本総領事を公募したときに香港でペリーに会っているわけですが、それが150年前頃のことですが、陳情をしまして、私にやらせてほしい。そのピューリタンが―ピューリタンの3代目ぐらいだと思いますが―来たというのは日本にとってラッキーだったのではないかと思います。

しかし、そうはいうものの、日本の武士は結構知的レベルが高くて、体も鍛えて、お金もなくてというストイックな生活をしていましたけれども、明治維新前後に、生麦事件とか、いろんなことが起こりますけれども、日本をどうするのかということで、あのころ飛行機もファクスも電話もないのに、いろんな人が船に乗って延々といろんなところに行って、報告書を毛筆で書いていたと思いますが、そういう立派な人たちがいたということです。ピューリタンの国からもウイリアム・クラーク先生とかたくさん来ます。日本は近代国家になるということで、西洋の文明をいち早く取り入れて、いろんなシステムをつくるということをします。

国が疲弊していなかったということは非常にプラスだったと思いますが、それから新しい国をつくって、30年して、西洋の方は植民地主義で覇権を争っていますので、いよいよ日清戦争、チャイナと3回ぶつかって、3回目に勝って台湾をもらいます。

それまで台湾は、イギリスやオランダなどいろんな人が来ていたのですけれども、どこも取らなかった。なぜか。台湾にはあまり資産がなかったから無視していた。日本は中国に勝ったので、それをもらうのですけれども、日本は台湾に行って、当時の国の予算の10%を投資して日本と同じようにしようとする。だから小学校をつくり、道路をつくり、水道をつくりということをせっせとやるというのが当時の日本の立派なところだと思います。

日清戦争の後はだんだんぶつかるようになって、ちょうど100年前に日露戦争が始まります。そこで『坂の上の雲』ということになるわけですが、翌年になるといよいよ日本海海戦、バルチック艦隊が出てきまして、奇跡的に勝つわけです。東郷平八郎と秋山実之という話になる。世界の文明史から言うと、ヨーロッパ文明がずっと世界を席巻して、植民地化していたときに、ぶつかって勝ったという初めての国でありまして、植民地にされた国に大きな希望を与えたことは確かです。日露戦争に勝った後、日本は東大の戸水教授事件などがあり、世界観もない人が「もっと行くべし」とか何とか言って、日本は疲弊したにもかかわらず騒いで、日比谷焼き討ち事件が起こるということは、今も似ているような状況だと思いますが、日本はポーツマス条約後、満州にどんどん行ってしまう。

そのときの日本の話を書いたのが『WEDGE』の「リーダーに不可欠な歴史観、世界観、志」。明治維新から日露戦争まで立派な人たちがたくさんいて、国をつくったわけですが、『日本の禍機』、朝河貫一さんが書いたのですが、これは1909年に朝河先生が唯一日本語で書いた本です。朝河さんは明治7年に生まれた福島県の人ですが、日本人で初めてアメリカの教授になった人ではないかと思います。ダートマス大学、エールの大学院に学び、ダートマスで教えた後、エール大学の歴史の教授になります。1904年にロシアと日本の衝突ということについて、政治的、軍事的、経済的な側面の数字を挙げながら、衝突には日本にレジティマシー(正統性)があることを切々と書かれた論文があります。それでアメリカ、イギリスの支援も結構得られたわけで、この人はポーツマス条約にもオブザーバーで出ています。そういう人がいたということです。だから、これは負けるかもしれないとみんな思っていたのが、レジティマシーがあるということを懇々と、すばらしい論文です。これはインターネットでも見られます。

その後、1909年に『日本の禍機』という本を出します。日露戦争に勝った後、日本が満州に行くわけですが、そのときの政治的、軍事的、経済的な側面を分析しております。日本が満州でやっていることは極めて遺憾である、ソ連がやっていたことと同じではないか。何をやっているのだと。これではレジティマシー(正統性)がない。このままでは、日本は中国人から恨みを買うと。スペイン戦争でアメリカが勝って、1898年からフィリピンを領有していたということで、もともとモンロー主義で内向きのアメリカが仕方なく太平洋に来ていた。アメリカ人の気質、そのときのルーズベルト大統領の政策を考えると、このままやっていると必ず日本は中国人の恨みを買って、アメリカと衝突することになる。そして必ず負けると書いています。朝河さんは一人でアメリカに行って外を見ていると、日本の間違いも見えるのだけど、日本人はわからないかもしれない。けれども、何とか理解してと書いています。今の日本と似ているという気がします。そこに問題があるということです。

ほかに、徳川の250年の鎖国時代に起こったことは、ここに2つ書いているのですが、『名誉と順応』です。日本は何かあると「島国だから」と言うのが気に入らない。なぜイギリスは島国なのに、19世紀、世界の半分をとっていたのだと。島国だというのは理由にならない。そういうことを理由にすることが情けない。250年外とつき合っていなかったから、生まれたところから外に出られなかったから、あなたたちの言っているのは「島国根性だ、島国だというわけではないのだ」という話をしています。どうして島国根性が出たのかというのは『名誉と順応 サムライ精神の歴史社会学』というのを読んでいただければわかりますし、ルース・ベネディクトの本を読めばわかる。日本では皆さんのことを人間といいます。これはどういう意味だと思いますか。「世間の人」という意味です。つまり、日本人は世間でしか存在していないのですね。個人として存在していないという暗黙の了解ができている。ということがわからないリーダーたちは情けないということを言っているわけです。

ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』は読まれた方も多いと思います。戦後の日本でも、まだ700億ぐらい軍事の予算があったのですけれども、それもだれかがみんなでパクってしまった。みんなから取り上げた金(きん)とかダイヤモンドはなくなってしまって、だれかがパクってしまって、ヤミ市に流してもうけたやつがたくさんいるということをアメリカの学者が書いている。けれども日本の学者は一切そういうことを言わない。実に情けない学者たちだと。そういうことが書いてあります。

そういう意味では、日本は明治維新から日露戦争までは非常によかった35年。そこから変化を見れないで真っすぐいってしまって、いけいけどんどんで負けた。負けた後、何が起こったか。日本はアメリカに占領された。ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』を読めばよくわかるように、アメリカが占領したことは日本の選択ではありません。しかも、これは連合軍だった、例えば広島はオーストラリア軍が駐在していましたけれども、連合軍総司令官とマッカーサーの意見が違ったときは、マッカーサーの意見が上であると書いてあります。

2番目、世界をめぐる状況が、第2次大戦が終わると冷戦構造になったというのも日本のチョイスではありません。冷戦構造になると東西の衝突は東ヨーロッパと東南アジアになるのは当たり前の話です。その東南アジアの一番近いところに日本があったのは戦後の日本の「リーダー」のせいではありません。この三つの条件があったということをよく考えてください。

三つの条件があって、何が起こったか。戦後の5年間、日本は極めて貧乏でした。皆さん洋服を売ってヤミ米を食べたりして。山口判事が昭和22年に「ヤミ米は食わない」と言って餓死しました。そんな役人が今いますか。それはなぜかということを考えてください。山口さんは、ヤミ米等で違反した人たちを裁いていた人です。子供や奥さんにはあげていましたけれども、自分は食べないという立派な役人がいた。そういう人はついぞ見たことがない。

5年間貧乏で、5年後に朝鮮戦争が起こります。1950年6月25日です。連合軍は朝鮮半島の南の端まで一気に追い詰められます。そこでマッカーサーはインチョン上陸作戦を決行してソウルを奪還し、一気に北の端まで押し込みます。そこで何が起こったか。その1年前に、中国では国民党と赤軍の戦いが終わり、毛沢東が勝っていたということがありました。北の国境まで追い込まれたので、中国は赤軍の正規軍を30万ほど投入し、一気に38度線まで戻します。ここで膠着状態になり、2年半続きます。一応戦争は3年間で終わるわけですが、これは冷戦の中で唯一「熱い戦い」だったわけですけれども、300万人が死にます。東西に1000万から2000万、家族が分かれてしまう。日本は連合軍の後方基地として一気に経済復興する。火事が3年も続いて隣の人はもうかるということです。そういう話をよく理解しておいてくれないと困る。私たちが頑張ったからだという人がいるけれども、そういう状況で頑張ったのだという話を考えてください。

日本は52年にサンフランシスコ条約で独立しますが、あのとき中国、ソ連はサインしていません。そういう状況だった。1954年に何が起こったかというと、ベトナムでディエン・ビエン・フーの戦いがあって、ベトナムがフランスから独立します。だけど、冷戦構造だったので南北に分かれます。そこでベトナム戦争が始まり、1968年、北爆が始まって、74年まで続くということで、朝鮮半島が終わったら次はベトナム。またアメリカの後方基地と日米安保で、日本は常に経済的に成長する近所の火事があったのです。それで、世界第2の経済大国になった。

近代日本はまだ140年たっていない。せいぜい7世代です。最初の35年は明治維新からです。立派なリーダーがいて、いろんなことを決めながら「富国強兵」という4文字で35年、そのまま次の35年に突っ込んで負ける。

戦後になったらアメリカ占領、冷戦、朝鮮半島の枠組みで、「経済成長」という4文字で、35年うまくいくのです。1975年ぐらいからだんだん駄目になっていくけれど、変えられない。これが日本の特徴です。

レジュメの2の「20世紀の特徴」にいきます。20世紀は、産業革命以来、いろんな意味で進んできますが、人間のサイエンスというナレッジは増えてきます。20世紀の特徴は、第1次、第2次大戦、それから冷戦と常に戦争があって、今までの戦争の規模と違って、すべての国が何らかの格好で関わらされていた時代であった。それだけ戦線が拡大していた。そして、科学と技術が急速に進歩したということがもう1つの特徴としてあります。

しかしその背景には、戦争が続いていたということを言いたいわけです。イギリスの非常に有名な物理学者ケルビンは、人間の重さを飛ばすような飛行機のようなものは物理的に不可能と言っていました。山川健次郎の教え子、長岡半太郎が学んだ人です。そういう世界的に有名な物理学者が不可能であると言っていた1903年12月17日、ライト兄弟が飛行機を初めて動力で飛ばします。10秒間に40メートルです。しかし、その10年後の第1次大戦には飛行機がどんどん飛んでいます。10年後にはリンドバーグが大西洋を渡ります。その10年後には20人乗りの飛行機が出ます。何でそんなことが起こったのでしょうか。戦争があるから投資するわけです。国がどんどんお金を出すからそういうことが起こる。ライト兄弟から66年後にアポロで人間が月に行くなんて考えられましたか。これは商業用に投資しているからではありません。直接・間接金融でもそんなことは起こるわけがない。戦争をしていたからです。軍需です。その後、ジャンボジェット機が70年に入る。今では行こうと思えばすぐにアメリカへ行けます。それまでそんなことは考えられませんでした。戦争があったからそれだけ投資があったわけで、一方で科学の進歩というのは、常に何かやりたいという人たちがいるわけです。

来年はアインシュタインの最初の論文が出て100年になります。このときに「物質はエネルギーに変換できる」というE=MC2というのを出します。この論文の40年後に原爆が開発されて日本に落ちるなんて考えられましたか。この原爆の開発には、それまでの軍事の開発に使われたすべての予算よりも大きなお金を使ったというぐらいアメリカの力が強くなっているわけですが、2発落ちて日本が戦争に負ける。そうでなくても負けるに決まっているのだけれども。このように、アインシュタインという科学の進歩が40年後にこれだけのことになるのは戦争があったからです。今の日本の電力の30%は原子力発電だということを考えれば、世の中は100年でいかに変わったかということが認識できる。電力もジャンボジェット機も当たり前だと思っているところにまた問題があるかなと。

しかも今、衛星テレビでオリンピックは見られる、メジャーリーグは見られる。これだってもともと軍事で衛星を上げているからで、商業用で上げる予算があるわけない。コンピュータだってそうです。何か発見、発明があると、すぐ軍事に投資して軍のネットワークをつくる。80年になってアメリカがコンピュータを軍事のほかに大学にも提供するようになったのがインターネットの始まりです。

しかし、コンピュータもそうなのだけど、1980年まではコンピュータはどんどん大きくなるとみんな信じていました。実際IBMも、どんどん大きくなると思っていたけど、アップル2が出て一気に小さくなる。ジム・クラークというシリコングラフィックスという会社をつくった人ですが、これがシリコンバレーの名前のもとです。ジム・クラークはこれで大もうけをしますけれども、インベスターの方が儲けて科学者が儲けないのはけしからんと、さっさとこれを売って辞めます。

その次に何をしたかというと、ネットスケープです。コンピュータがどんどん小さくなったときに、ネットスケープというソフトのプログラムを考えたアンドリーセンという学生がいます。これはおもしろいと、彼はお金をそこに投資してネットスケープという会社を1994年につくり、95年にIPOをします。

というわけで、コンピュータが小型化して、インターネットがつながる。私もアメリカの大学にいたからわかるのだけど、おじさんでは使えません。どうやってやるのだかわからない。WWWが92年に出て、少しつながるようになったのだけど、つなげていじれる人はごく一部です。おじさんやおばさんはいじれません。若い中学生か高校生です。そうだったのだけど、アンドリーセンがつくったネットスケープという会社が94年に出てブラウザができて、あっという間にみんながクリックして使えるようになったということです。

インターネットといったって、皆さんがカチカチやれるようになったのはせいぜい10年です。そこで情報があっという間に広がったということです。情報が広がったことが、冷戦が終わった背景にある。みんながテレビでいろんなものを見る。テレビは価値判断を与えませんから、それでベルリンの壁が89年に崩壊する。日本はバブルの最潮期だということです。

もう1つは医学と公衆衛生の進歩。人間はいつも死ぬ。14世紀にヨーロッパの人口は初めて3000万に到達します。1430年ごろですが、3年間でそのうちの3分の1、1000万が死んでしまう。ペストです。あっという間に死んでしまうけれど、何だかわからない。みんな怖いというので、子供も大人もペストの症状があると、みんな逃げてしまう。信じられないぐらいの恐怖感に駆られていました。神のたたりだと言われていたと思います。

それがだんだん進んで、お医者さんという仕事が昔からあるわけで、ジェンナーが種痘をするのが1794年ぐらいですが、初めて、こういう病気にかからない方法があるのだということを発見します。天然痘は、流行すると40%ぐらい死ぬ病気です。体じゅうに水痘ができて死んでしまいます。だけど死ななかった人は、その次に流行があっても2度とかからない。

それでジェンナーは何をしたか。乳搾りをしている娘さんは、牛痘という軽い全身疱瘡になるけれど、死なない。周りの人が天然痘になったときに、その人たちはならないということを見ている。したがって、牛痘にかかった娘さんのプツプツのうみを自分の子供に植える、周囲で天然痘が流行したとき、子供はかからなかった。これが1794年です。50年後には日本にも江戸末期に鍋島藩―これは出島があったからですが―でやろうということで、日本にも広がった。

明治維新になって何が起こったか。そのころのお医者さんはみんな東洋医学です。西洋医学とどちらがいいかという話で、圧倒的に西洋医学がいいということを証明したのは種痘です。お玉が池の種痘所、長崎の種痘所が官立になったのはまさにそういう意味で、これをやるかやらないかでこんなに違う、西洋医学は優れているということを証明したのは種痘です。それが医学部のもとになった。お玉が池の種痘所です。

その後、パスツールとかコッホのおかげでいろんな病原菌がわかるようになった。わかるようになったのだけど、ジェンナーの種痘のおかげで、ワクチンをやるといいのではないかという病気が幾つか見つかりました。例えば破傷風菌やジフテリア。破傷風菌を最初に見つけたのは北里柴三郎ですし、トキシンを見つけたのもそうです。北里柴三郎はすごい仕事をしています。

結核菌はコッホが見つけるわけですが、そのときの世界の医学のセンターはベルリンのコッホ研究所とフランスのパスツール研です。つまり感染症が一番大きな問題だったのです。

パスツールは、森羅万象の基本は何かということを考え、証明した人です。例えば、当時のフランスの産業の一つにワインがあります(今でもそうですが)。フランス政府は、このワインがどうしてすぐに味が悪くなるのかパスツールに聞いた。パスツールはいろんな実験をして、酸素のせいだということを証明します。19世紀の中ごろですが、シールをすればいいということを証明して、フランスのワインは一気に近所の国にも売れるようになる。

いろんなことがあったのだけど、感染症といっても治らなかった。感染症が治る薬―今、ペニシリンとかあるから治ると思っているかもしれませんが―、全く治らないのだけど、原因がわかり始めた。初めて感染症に対する薬ができたのはいつかというと、これは梅毒に対するサルバルサンです。そのころベルリンのユーリッヒの研究室にいた日本の秦佐八郎が見つけたわけで、1910年頃です。感染症に効く薬ができたのはまだ100年もたっていない、ということをよく覚えておいてください。

1904年、ちょうど100年前ですが、ロックフェラー研究所がニューヨークにでき、「後進国」アメリカもいよいよサイエンスに参加しようということになります。そこでリクルートされた若い研究者の1人が野口英世です。野口の先生フレクスナーが最初の所長になった。その所長は野口1人だけ自分のグループから連れていきます。野口は猛烈に仕事をして、その約10年後に脳梅毒という、精神病院に入っている人たちの脳を調べると、これはスピロヘータのせいだと証明しまして、世界をあっと言わせる。たまたま大西洋の向こう側で秦佐八郎がサルバルサンを見つけていたものだから、それを注射すると、一気に患者さんがよくなる。大西洋を挟んで、両方で日本人が画期的な発見をしてまだ100年もたっていない。お金がなくても志の高い人はやる、ということです。

50年前にDNAの二重らせん構造が見つかって、その50年後にヒトのゲノムが全部読み込まれたというのは、もちろんコンピュータとオートメーションとマイクロ化というテクニックがあるからですが、ヒトの遺伝子とサルとは1.2%しか違わない。その割には随分違うではないか。だけど、ヒトとバナナも50%しか違わないということもわかると、もうちょっと謙虚に考えられないのか。だから、何を考えるかが問題で、何を見るかだけではありません。

100年前は、世界中で死ぬ人の七人に一人は結核で死んでいました。日本人の100年前の平均寿命は40歳です。今80歳。今、日本は5人に1人が65歳以上になるという高齢社会になったのも、医学が進歩したからです。

100年前の日本で、一つの極めて大きな、象徴的な出来事があります。このとき日本を席巻していた病気は、風土病と言われる脚気です。理由も何もわかりませんでした。脚気は、このころは細菌学ですから、脚気菌があるに違いないと思い、東京大学を中心に脚気菌を見つけようと相当な競争をしていました。森鴎外が陸軍軍医で、日露戦争にも行きますけれども、脚気菌があるに違いないという東大のドグマで、陸軍の兵隊さんは白米を食わせるべし。脚気は金持ちしかかからないということは、経験から知っている。皇女和宮も脚気で死んでいる。明治天皇も脚気になる。明治天皇は、脚気になったら軽井沢かどこかへ転地しましょうと侍医から言われるけれど、転地してよくなる証拠はないではないかと言って拒否した。

そのとき、実は脚気は細菌ではなくて、どうも食物のせいではないかということを考えた人がいます。イギリスに留学した高木兼寛という、慈恵医科大学をつくった海軍軍医です。この人は宮崎県の出身で、鹿児島県のウイリアム・ウイルスというイギリス人の医者に教育を受けるのですが、後にイギリスのセントトーマス医科大学に留学します。半年でクラスの3番になり、1年でクラスのトップになり、卒業するまでずっと1番で通して、卒業するときは、イギリス中の医学部卒業生のうち何人かがもらう最高栄誉賞をもらって帰ってくるというぐらい猛勉強する。

帰ってきていろいろ見ていて、どうもパターンを見ていると脚気は食物のせいではないか。ということで、彼は軍医でしたから、そのころ太平洋からニュージーランドをずっと回ってくる航路がありまして、水兵さんを3500人乗せていると、そのうち3分の1が脚気になってしまう。5%死んでしまう。いろいろ考えて、麦飯を食わせよう、パンと麦飯だと。ところがパンを船上で炊くのは難しいと、麦飯を食べさせながら次の軍艦で同じ航海をさせた。そうすると脚気になった人がゼロだった。彼は、海軍は麦飯にすると決めます。だけど陸軍は森鴎外ですから、とんでもない、そんな統計で効果を示すなんて学問の本道ではないと。陸軍は白米であると。日露戦争で陸軍では4万6000人死にますが、そのうち55%、2万8000人は脚気で死んでいます。それはそうです。脚気だったら山を登れないです。足はガクガク、胸パクパクで動けるわけがないのだから。だけど、日露戦争で海軍の脚気の死亡はゼロです。

森鴎外も非常に才能があって、多分、後でそれに気がつきます。彼はその後軍医をやめて、「ヰタ・セクスアリス」とかいろんな小説を書きますけれども、死ぬとき、遺言には、叙勲とかいろんな話は一切要らないと言っています。自分はがんだと知って死ぬわけですが、一切の栄誉は受けてはならないと。森鴎外の墓はありません。森林太郎の墓は三鷹の禅林寺にある。それから地元の津和野にもあります。

こういう20世紀があって、その結果、何が起こったか。次のページにいきますと、21世紀の世界的な課題は何か。これが20世紀とはすっかり変わってしまったということです。

まず、人口問題です。100年前の世界の人口は16億でした。ようやく16億まで来ました。1970年頃にそれが倍になって30億になりました。そのころから工業化してきたものだから、ローマクラブの宣言というのが出てきて、地球の環境問題とか酸性雨、このままで地球環境は持続できるのかという話が出てきた。1987年に国連からブルントラント宣言という持続可能な社会なのかという話が出てきます。その30年後の2000年には人口が60億になる、こんなに増えて大丈夫かと。60億いれば、当然エネルギー、食料、水、廃棄物、生活圏が広がるということで、森林はどんどん開拓され、新しい病気、エボラ熱とかエイズとかいろいろ出てきて、地球の温暖化、環境劣化が来るのは当たり前の話です。地球の環境は、こんなにたくさんの人がこんな活動をしたらたまったものではない。

地球の人間が増えたのはご同慶の至り。問題は80%が貧困国と途上国にいるということで、20%が極貧です。1日1ドル以下です。20年前だったと思いますが、40%が極貧でした。今20%ということは、特にアジアが成長したからです。インド、中国です。実際、世界の人口の60%がアジアにいるのです。このアジアが、これからかなり急速に成長することは間違いないと思います。それから、世界の人口の20%がイスラムです。あと20年すると、世界の人口の30%がイスラムになることが予想されています。そういうダイナミックな動きがあるということと、環境問題があるということが世界を取り巻いている大きなパラダイムだと思います。

もう1つは、先ほど言った情報、それから交通。情報と交通手段が格段に進歩して、世界が狭くなり、共通の情報をみんなで共有化すると、比較的価値観を共有するようになるのだけど、なかなかそうはいかない。グローバリゼーションですが、南北格差が拡大します。つまり、80%の人も極貧の人も外の世界を見る機会が増える。これが猛烈なアンハピネスのもとになっているわけです。では今までの先進国は何をするのか、人類社会は持続可能なのか。これが21世紀を動かしていく世界の潮流だろうと思います。どうしたらいいか。

では21世紀の日本の課題は何かというと、どんな国になるのかということです。140年前は「富国強兵」という列強の植民地主義という世界のパラダイムがあった、そして列強に対して独立することに成功した。日本は西洋化して成功した初めての国ですが、19世紀の終わりまでの西洋の植民地政策という経済を動かしていたパラダイムで独立を保てたのは3つの国しかありません。日本と、2番目はタイです。ビルマ、ベトナムなどは占領されたけれども、タイは独立していました。なぜか。それも考える価値があると思います。もう1つはエチオピアです。エチオピアは、ご存じのように、昔からシバの女王なんかが出ているところで、イスラムとクリスチャンが多くて、顔つきも違う。あの人たちは2000年前から全然違う人たちだと言われていますが、エチオピアも植民地にならなかったけれども、周りから押されて、今ああいう状況になっているということです。

日本はこういう枠組みでどうするか。つまり、日本は戦後「経済成長」で来ました。これは規格工業、大量生産、質のいいものをつくるということで、エコノミックアニマル、経済大国となったのですが、これでいけるのかということです。日本が経済大国になった理由は、さっき言った冷戦と日米安保のもとで、同じものをつくっていたからです。30年から35年前の日本は、冷蔵庫と電気洗濯機とテレビの三種の神器が欲しくて、それをみんなつくっていたわけです。日立、パナソニック、NEC、三菱電機、東芝とか、みんな同じものをつくって、競争してアメリカに売っていた護送船団です。同業会社が競争するから質のいいものができる。日本の人は8割ぐらいがまじめで、上の人の言うことをよく聞いて、一生懸命イノベーションと言ってやるからいいのですけれども、マイケル・ポーターの本に書いてあるように、日本は同じものをつくってマーケットを拡大しようとしているのだけど、外に向かって国内同士でけんかしているだけなのです。「ナンバーワン」を目指していた。「オンリーワン」になろうなんて自分の頭で考えた人はほとんどいない。国の政策全体はアメリカが決めていた。冷戦が終わったら自分で考えろと言われて、今、急に困ってしまった。この点をよく理解してほしいと思います。

21世紀の日本には、アジアとの信頼の再構築が非常に大事だと思います。つまり、世界のブランド、オンリーワンになるという戦略を組むことが大事。今までは、例えば弱電関係はソニーも入れて7社が同じことをしていたわけで、ソニーは「政産官の鉄のトライアングル」に入っていなかったので、自分で頑張っていた。そういう世の中だったのです。

そこで日本はどうするか。先ほどアセスメントであったように、日本はこの間に科学技術は猛烈に進みました。だけど、40年前の東京オリンピックの日本がどんなだったか知っていますか。トヨタの車、日産の車などは、カリフォルニアのハイウエーではすぐに壊れると言われていました。信頼されていたのはカメラのニコン、キヤノンぐらいです。それもライカのまねをしたのだけど。ライカを持ってきて、それを壊して、自分はもっといいものをつくろうと思って燃えていた。1社だけだったらそうはいかないかもしれない。2社、3社で頑張るから、日本同士で頑張るというのは非常にいい。

40年前、ソニーはようやくトランジスタラジオがヨーロッパで売れた年です。40年前に京セラなどという会社があったでしょうか。クロネコヤマトは今9万人の雇用を生んでいますが、どんな会社だったでしょうか。ヤマト運輸です。そういう人たちが、今の新しい元気がいいグローバルカンパニーになっている。トヨタも頑張った。ホンダは本田宗一郎さんがモーターバイクが大好きだから、モーターバイクでは有名だったのだけど、1964年は初めてミニカーという四輪車を出した年です。つまり、40年前はそんな頃です。福川さんが頑張っていたころだと思いますが、そういう産業構造だった。

それから25年して「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われ、そのシークレットは「政産官の鉄のトライアングルだ」と言って、政治家は三流の人もたくさんいるけれど、官僚は一流だなんてみんな言っていました。企業は一流だと言っていたけれども、本当ですか。その後、リクルートで文部事務次官は逮捕され、厚生省の現職の事務次官が6000万もらって、外務省もいろんなことをやり、仲間に入っている人はみんな知っていたけれど何も言わない。大蔵省は大丈夫だろうと思ったらノーパンしゃぶしゃぶとか、どんどんばれた。そういう情報が広がる時代で、立派な人たちはたくさんいるのだけど、みんなが立派だったわけではないわけ。最近の大企業のスキャンダルも同じ根元がある。

そうすると、これからの科学技術戦略は何か。日本は、科学技術創造立国と言っているのは確かに正しいのだけど、10年前は、あくまでもだめになった経済を何とかしようという理由がありありと見えている。だから非常に品がない。私はそれを書いたり言ったりしている。

それまで「政産官の鉄のトライアングル」と言っていた。あのとき私は書いています。こんなことは考えられないと。そんなのは単なる成り金で、学という言葉がない国なんていうのは全くみっともないと。金がなくなったら、こんな国はだれもつき合いたくないよと書いたりしていましたので、とんでもない野郎だと思われていました。でも言っていることが本当になってしまったのではないかなという気がします。

そこで、経済がだめになって、例えば1995年、たった10年前、ネットスケープが出てきたとき、その年のことを考えてください。日本のメジャーな銀行は三菱、東京、長銀、興銀、三井、住友、東海、三和。95年にはみんなありましたよ。今幾つかあると思いますか。ゼロでしょう。一切なくなりました。どうして?『セービング・ザ・サン』なんて読んでみればよくわかると思うんだけど、何でこれがこんなに破綻したわけですか。

その年は非常に象徴的な年で、1月には神戸の大震災が起こりました。それはしようがない。あれだけの地震だから壊れても。だけど、そのちょうど1年前にロサンゼルスでノースリッジ地震がありました。覚えていますか。高速道路が倒れました。そうしたら、あんな華奢なのをつくっているからだ、日本の技術ではこんなことはないなどといっていた。この驕り。日露戦争に勝ったときの日本と似ていると思った。そうしたらちょうど1年後に神戸で起こったら高速道路が倒れた。直下型で、これはしようがないか。だけど、人のことをあざ笑うものではない。手抜き工事がたくさん見つかったでしょう。技術立国日本というのは何だったのですか。つまり、みんなぐるになっていたところがかなりあるということです。

その後、JR西日本のトンネル落石事故が次々と出ました。その後東海村のJCOで、バケツでウランをとか、日本ハム、雪印、東電、関西電力、三菱自動車、みんな同じことがあったわけです。ということは、わからなかっただけです。経済成長していたから。表向きの経済成長だけど。

同じ95年3月に何が起こったでしょう。

安斎 サリン事件。

「2004年度第2回アジア戦略会議」議事録 page2 に続く

福川 おはようございます。お忙しいところをお集まりいただいて、ありがとうございました。夏が過ぎたか過ぎないかという時期ですが、そろそろ本格的に展開していこうということで、これまでいろいろご相談してまいりましたように、アジア戦略会議にこのほど新しい