「日本のアジア戦略に向けて―論点整理―」 page2

2003年4月17日

〔 page1 から続く 〕

II. アメリカの世界戦略と日本のアジア安全保障戦略

1. 対北朝鮮安全保障政策を巡って

プレゼンテーター:伊豆見元(静岡県立大学教授・第3回会合)
コメンテーター:鶴岡公二(第3回会合)

(1) 北朝鮮が崩壊する可能性は十分にある。その過程では、大量の難民問題、内戦、朝鮮半島の軍事的緊張の高まりが予想されよう。他方、崩壊の可能性の高い北朝鮮は座して死を待つより、攻撃により延命を図る道を選択する可能性がある。この脅威に対し、日本は十分な自覚と戦略を持たなければならないのではないか。少なくとも北朝鮮はソウルに壊滅的打撃を与える能力(特に生物化学兵器の弾頭化)を有し、これをいかに奪うかが課題ではないか。

(2) 重要なのは、北朝鮮をどう国際社会の責任ある一員にするかではないか。日本はそのチャンスが到来していることを自覚する必要があるのではないか。

すなわち、ブッシュ政権の対北強硬路線に変化がないことによって、北朝鮮は日本と安全保障問題を真剣に話し解決を目指す姿勢に変化した。北朝鮮から見れば、安全保障上米国に譲歩しても見返りはないが、日本に譲歩すれば国交正常化に近づくという意味がある。この機会に、日本はうまく北朝鮮を変え、牙を抜くことを考えねばならないのではないか。北朝鮮にとって日本への譲歩は、すなわちアメリカへの譲歩であるが、日本側にはこの認識が不十分ではないか。日朝関係のメジャーアジェンダは、拉致問題よりも安全保障問題ではないか。

(3) 日本の対北朝鮮政策を考えるに当たり重要なのは次の点ではないか。第一に、アメリカの北朝鮮戦略をどう読むか、北朝鮮のレジームの変更を目指しているのか等を見極めることである。第二に、北朝鮮そのものについて、崩壊の道に向かっていると捉えるべきか、同国内の改革の動きをどう解釈するかの見極めである。そして第三に、金正日政権の崩壊を安全保障上の脅威と見るのか、国内をマネージできる暫定政権が望ましいのかを考えた上で、同政権自体が国際社会と隔絶した論理で動いている現実にどう対応していくかを考えなければならないということである。

(4) いずれにせよ、日本の対北朝鮮安全保障は、アメリカの世界戦略との関連性の中で考えるべきではないか。そのためには、冷戦体制崩壊後、あるいは9/11.以降、アメリカの対世界安全保障戦略はどう変質しているのかを見極めると同時に、北朝鮮が対アメリカ戦略の中で対日戦略をどう位置付けているのかを考える必要があるのではないか。また、アメリカの対イラク政策と関連付けながら日本の対北朝鮮戦略を考えることも必要ではないか。

(5) アメリカは北朝鮮と対話の必要性を認めないのではないという背景の下で北朝鮮が日朝対話を再開したのであれば、日本としては相当の慎重を期す必要があるのではないか。日本はアメリカの戦略(シナリオ)を理解した対応をとらなければ、安全保障に逆行する可能性があり、アメリカとの連携を外に見える形で緊密にとる必要があるのではないか。また、日本政府が国民に対して、アメリカの世界的戦略について納得のできる説明をすることが肝要ではないか。

(6) 但し、アメリカが考える北朝鮮問題と日本や中国が考えるそれとは温度差があることには留意すべきであろう。北朝鮮はアメリカにとっては、ミサイルの世界への拡散さえなければローカルな問題であるが、体制の崩壊が大量の難民流入をもたらす日中にとってはコミュニティーに関わる重大問題であり、優先順位のプライオリティーが異なっている。日本としては、アメリカだけでなく、米中関係を含め、アジア全体の安全保障をしっかり見ておく必要があろう。

2. アメリカの軍事戦略と日本の対応

プレゼンテーター:秋山昌廣(元防衛事務次官・シップ・アンド・オーシャン財団会長・第5回会合)、
河野克俊(防衛庁海上幕僚監部防衛課長・第5回会合)

冷戦後のアメリカは、経済力や技術力をも背景にしつつ、軍事や情報面において圧倒的優位に立ち、アメリカ国民には孤立主義的で自国民の安全で満足する傾向が見られた。しかし、9/11で全世界を安全にしなければならないという政治的意思統一がなされ、現在は軍事増強路線に転換している。日本は、アメリカのグローバルな軍事戦略を見据えつつアジア全体の安全保障を構築しなければならないだろう。

(1) その中で、日本としての当面の課題としては、(1)テロ特別支援法に基づく軍事支援は継続していくべきであり、自らの軍事的支援、貢献についてPRを行うなど日本自身のプレゼンスの強化を図ること、(2)日本での危機感が薄いアジアでのテロ活動に対し、自らの問題としてもっと向き合うこと、(3)拉致問題について、アメリカの動きを見ながら核開発問題と一体で解決を目指すこと(核搭載ミサイルが発射可能となれば、その対象は在日米軍)が挙げられるのではないか。

(2) 中長期的には、朝鮮半島の統一の中で在韓米軍が撤退の方向となった際の日本の安全保障戦略はどうすべきかを考えねばならないのではないか。中国のアメリカ排除の動きも見据えつつ、日米安保の強化か、在日米軍の増強を検討することも必要となろう。

(3) 他方、台湾と中国との間で武力紛争が起こる可能性は高い。米・台・日の軍事交流が進展し、台湾の日本に対する期待も大きくなっている中で、台湾が中国になることが日本の安全保障にとってどういう意味を持つのかを見極めつつ、日本の対台湾スタンスをどうするのかを考えていくことも重要ではないか。台湾問題で中国を敵に回すことのないよう、戦略的な追求と危機への準備に向けて日米間での戦略的対話が必要ではないか。

(4) さらに、より基本的問題として、アメリカの安全保障の基本戦略は、冷戦体制下の対ソ連アライドの形成から、地域紛争に即座に対処するためのコアリションへと、その方向が変化している。それも2MRC(中東と朝鮮半島という2つのメジャーな地域紛争双方に対処)ではなく、ブッシュ政権下では1.5MRC戦略(2つの地域の1つで勝って1つで持ちこたえる)が採られているという現実がある。こうした中、日本としての対応のあるべき姿も、アライドではなく、日米関係を最終的な砦として維持しつつコアリションに参加する姿へと変化しているのではないか。その中で、横須賀の価値は引き続き重要であり、原子力空母の配備の日米間での調整が今後の課題として浮かび上がるのではないか。

(5) こうした変化は、同時に、日本が自国の防衛だけでなく、世界にいかに貢献していくかというステージに直面していることを示すものではないか。その中にあっては、集団的自衛権の政治的条件の下で、日本が多国間の枠組みにいかに入っていくかを追求することが求められているのではないか。

(6) 従って、日本自身が安全保障問題について、何を具体的な課題とし、いかなる優先順位と資源配分で対処していくべきかの議論がますます必要となっており、軍事面についての日本のスタンスを明確化し対内・対外的に説明することが迫られているのではないか。

(7) その際に留意すべきことは、日米安保体制に対する中国の見方が、日本の軍国主義を抑えるとの評価から、中国の国力の前進に立ちはだかるものへと変化していることではないか。現に日米合わせた海軍力は相当なものとなっているなど、中国が日米同盟を脅威と認識し始めているという事実認識が必要である。

(8) 同時に、日本の軍事に対するアジアの認識の変化をどう捉え、この動きをどう活かしていくべきかを考えるべきではないか。例えば、アジア側(インドなど)の期待に対し、経済力が落ちた分だけ安全保障面で応えるという方向も検討課題となるのではないか。

(9) 但し、得意分野での不調をいきなり不得意分野で挽回することは困難であり、日本として優先すべきなのはあくまで自国経済の立て直しであることに留意すべきではないか。安保がいきなりメジャーな協力分野となるものではない。特に、アメリカの先兵として中東などアジアに介入し、有色人種で唯一の先進国との途上国の期待を放棄することは禁物であろう。従来のマネーの協力に徐々に安保を加えていく形での参画が望ましいのではないか。

(10) いずれにせよ、日、米、中の間の安全保障スキームをどう考えるかは基本的な課題である。コォパラティブ・セキュリティー・スキームがその一つの姿であるが、その際に重要な視点は、アメリカを離れた形でのアジアと日本のコォパレーションの動きをアメリカがどう見るかには警戒が必要であるということであろう。

結局、議論は、日本が対アジア戦略を独自に持つことはそもそもアメリカの戦略とコンバーティブルたり得るのかという点に逢着することになる。これは、ひとり安全保障の分野にとどまらない。いずれの国家も基本的な戦略目標を安全保障と経済的繁栄に置いているとすれば、一口にアメリカの対世界戦略と言っても、そこには軍事面以外にも、資源、エネルギー、食料などの国家安全保障戦略や、通貨、金融、援助、投資、産業・貿易、技術などを含めた対外経済戦略がある。これらをどう捉えるかについて広範な議論を行うことが、日本のアジア戦略を構築する上で求められる。その上で問われるのが、トータルな視点で、日本がアメリカとアジアとの間でどのような性格の国として自らを位置付けるのかについての基本的な国家路線の選択ではないか。

III.日本の国家路線の選択

1. アメリカ、中国、日本のパワー比較

プレゼンテーター:谷口智彦(第9回会合)

(1) 今後考えられうる将来にわたり日本はアメリカと中国との付き合いに大変な意を砕いていかねばならないとすれば、アメリカ、中国、日本の持つ強みと弱みを列挙し、その中から戦略を模索する議論が必要ではないか。この作業の中で日本の強さをアメリカや中国の強さとの関係において規定し直すことが、これらの国とのつき合い方を考える材料になるのではないか。

[ハードパワーの項目]軍事力、常任理事国であるかどうか、世界からの購買力、経済成長力、基軸通貨特権、世界の投資銀行としての機能、資産の運用先としての安定性、金融力の源泉としての情報力など。
[ソフトパワーの項目]GNC(Gross National Cool)、世論形成力、言説パワー、政体への信認、文化力(フランス、イタリア型のソフトパワー)など。

(2) 例えば、日本は、ソ連に対する橋頭堡、浮沈空母といった地政学的優位性をもはや喪失している一方、米国との親密度については、多くの競争相手の中で妍を競う状況にあり、横須賀に空母が前方展開されている限り、あるいは米軍基地が機能している限り、依然アジアでは冠絶した存在となっている。

2. 国家路線についての理念型

[路線A]イギリス型 <モデルの提示:谷口智彦>

こうした作業を通じて導かれる一つの軸は、日本がイギリス型国家を選択することである。イギリスは日本の将来を考える上で示唆的な国である。イギリスは、1956年のスエズ危機で軍事介入特権を奪われ、1976年のIMF危機でポンド時代の終わりを宣告されるなど、アメリカから戦後2度にわたって耐え難い屈辱を受けながら、その屈辱を逆に奇貨とし、国益の再定義を行った。すなわち、アメリカン・クラブの忠実な成員となって安保と経済の両面で世界最大最強の派遣国の背中に乗っかるという道を自覚的に選択し、アメリカにピギーバックして存在を確立した。地域紛争へのアメリカの軍事介入に際しては、米軍の補完的役割を主体的に演じてアメリカが一目置かざるを得ない存在となり、経済面では、ビッグバンによりアメリカ資本の利益に貢献しつつ自国の経済活力や雇用を確保している。イギリスは、帝国主義だったかも知れないが、より多く実利家であり、資産運用家であり、職業軍人のモラルも背骨に通っている。

翻って、日本の場合、アメリカとつくということは日本にとって引き続き得であり(損ではない)、他方で中国がキャッチアップしてくる中で、アメリカにピギーバックすることを日本も追求できないだろうか。例えば、中国がまだ弱くアメリカがありがたがるような分野を選択的に伸ばし、それによってアメリカを日本につなぎ止めることが考えられる。日本としては、自らが持つ、米軍のフォワード・プレゼンスと自由な市場(イギリスと同じ結論)という2つの資産を大切にすべきであろう。

そのために採るべき政策は、(1)金融市場を徹底的に整備し、円マーケットの起債市場としての魅力を高め、円の国際化にもう一度注力する、(2)各国からの直接投資を次々と受け入れる、(3)地政学的優位性が不利になっている状況をオフセットする政策としてあらゆる可能性を排除しない、(4)米軍のアジア戦略とシームレスに一体化することなどであろう。

この場合、円の国際化がどこまで現実的なのか、地政学的優位性の劣化をカバーしていく方策として、インド、中東、ロシアとの関係緊密化などが必要となるが、それを進めるための要素は現実にどのようなものが存在するか、米軍のアジア戦略とシームレスに一体化することが政治的に可能かどうかなどが論点となろう。

また、イギリスのように、独自の軍を持ち周辺国からも軍の行動や外交面で牽制を受けにくく、アメリカと様々な面(アングロサクソン、東部WASP、英語など)で深いつながりを維持している国と同様の路線を、果たして東洋の端に位置する日本が採れるかどうか(誇りあるピギーバックができるかどうか)という論点もあろう。

[路線B]独仏連合型 <モデルの提示:イェスパー・コール(第2回会合プレゼンテーション)>

もう一つの軸として、日本が独仏連合型、すなわち、アメリカに対抗して大陸欧州独自の世界を築き、市場統合や通貨統合を通じて経済圏を構築し、社会的・文化的伝統を保持する動きをリードしているとされる独仏連合の道を、日本がアジアで模索することが考えられる。フランスがドイツの強力な経済力を欧州統合の枠組みの中に取り込んでいったとされるように、日本の場合も、中国の潜在的なパワーや日本との補完性に鑑みれば、アメリカではなく中国の背中に乗っかるという選択肢も考えられ、現実にその方向に進んでいる面がある。少なくとも、安保面ではアメリカに、経済面ではアジアに、それぞれもう少し軸足を移すという分け方で考えることは可能である。

その際に参考になるのが欧州統合の歴史であろう。そこには、「フランスとドイツの間に戦争を起こさない」という明確な哲学があった。この点では、独・仏両国のすべての世代に強い合意がある。また、統合の背景には、独・仏両市民レベルでの交流、社会のあらゆるレベルでの積極的な交渉があり、例えば、保育園・小学校世代からの交流が行われ、系列化されていない中小企業が自力で海外投資を進め国際化している。統合化の原点は、社会のあらゆるレベルがそれぞれリーダーシップを取れることにある。

しかし、同じ敗戦国である日本とドイツでは、歴史判断への姿勢が異なっているのではないか。アウシュビッツを教わるか広島を教わるかの違いがあり、オブジェクティブな分析が大切になってくる。何よりも重要なのは、日本とアジアの関係を考える場合も、日本が歴史認識を総括し、アジアの最終目標、最終哲学を出すことであろう。いくら経済的環境を整備しても、これがなければ戦略は不安定なものになるのではないか。

論点となるのは、第一に、日本としてどのような最終哲学を打ち出すかであろう。それに基づいて、アジアに対する建設的なプロポーザルは何かを考えなければならない。

第二に、日本がアジアと仲良くするインセンティブをどう構築するかであろう。戦後、日本の対外政策は国民的コンセンサスなきままスタートしており、ドイツには欧州と仲良くするインセンティブがあったが、戦後の日本とアジアとの間にはそれがなく、アメリカと仲良くするインセンティブが強烈に働いてきた。特に、中国が読めないためにインセンティブが生まれにくいことも指摘される。信頼を醸成する手段が限られているという問題を克服する必要があろう。

第三に、客観的な事実に対する共通の理解をどう構築するかであろう。今後は意図する以上に日本とアジア諸国の間で社会のあらゆるレベルでの交流が増す中にあって、日本の国民が歴史を学び主体的な理解を深める必要がある。日本には、日本とアジアを中心に据えた国際関係論が弱く、白人の目を通した歴史が存在するのみである。アジアとの間で共通の理解に立った政策が描けないという問題を克服しなければならないだろう。外交の基本は単に「仲良くする」ことを目指すものではなく、不安を率直にぶつけてそれを解消する説明や努力を求めることであり、そのような場がもっと必要ではないか。

但し、独仏とは異なり、日本の軍事大国化への疑念が中国側で完全に払拭されていない現状では、日中両国間で「絶対に戦争を起こさない」旨を出発点に据えることのハードルは高いかも知れない。また、日中の勢力が独仏のような均衡したパワーではないという論点もある。現状では、中国の潜在的なパワーと日本との補完性が成り立つとしても、もとより安保面のパワーがアンバランスな中で中国が経済力を増すとともに民主化を達成すれば、日本を対等のパートナーとしてみなさなくなる可能性があるのではないか。中国の関心がますますアメリカに向かう中、日本との補完関係がどれだけのタイムスパンで継続し得るかの議論が必要となろう。

さらに、アジアの国々がいずれも未だナショナリズムをベースにしている中で、いきなりEUのような関係を構築するのは現実的ではないという問題もあろう。各国が関税を撤廃して産業政策や保護政策をやめ、資本による買収を進めて統合に向かうのは困難な段階にある。ここにおいて問われるのは、まず日本自身が外資アレルギーのようなナショナリズムからどこまで脱却できるかであろう。

[路線C]長老モデル(ダイナミック・スイスモデル) <モデルの提示:深川由起子>

以上のいずれの道とも異なる日本独自の路線として、スイスに近い「長老モデル」を考えることができる。すなわち、アングロ・アメリカンの世界には厳然と彼らの世界があり(例えば、その諜報ネットに日本が入ることは困難)、また、憲法改正がない限り日本が独自に行動する武力を持たないことから、イギリス型ピギーバックについては、単なる「植民地化」を招く可能性が指摘できる。一方、中国とは当面、体制差が大きく、今後の中国が日本を独仏型の水平パートナーとしてみる可能性は低いかも知れない(相互に戦争を重ねてきた独仏とは異なり、中国側には、日本に一方的に侵略されてきたとのイメージが支配的。)。

従って、安保体制ではアメリカに依存しつつも、アングロ・アメリカンの伝統的アジア政策であるdivide and rule(あるいはhub and spokeか)を許さないよう、同じアメリカの傘下のASEAN及び韓国とFTAを皮切りに集団安全保障体制を作り、日本自らはその番頭に座るという路線が考えられる。その際、彼らの不信を拭うためには人的交流が不可欠であり、労働者や移民の受入れにも踏み切ることとする。一方、中国とはその体制の推移(民主化や地方自治の状況など)を見極めつつ、経済交流と文化交流はむしろ意図的に推進する。

日本の競争ベースは全面的にソフトパワーにシフトし、環境や文化、あるいは製造業においてもアジアのキャッチアップが不可能な分野(きれいな空気や水を大量使用する製造業、究極の熟練集約産業等)といった成熟社会と経験上の暗黙値が生きる分野に集中することとする。その担い手として新しい才能は次々と取り入れ、これに投資しつつ、そのリターンで老いた社会を支える。また、観光、環境、医療などの分野で世界水準を構築し、知恵と優しさ、チャレンジの場をアジアに提供することをもって自らの身の安全の礎とする。この間、米中関係の展開に意を配ることは当然であるが、時にはロシアやインドとも連携を図り、「米中のいずれかの選択」とのシナリオはなるべく先送りする。

[路線D]中国とインドとのバランス・オブ・パワーの道 <モデルの提示:安斎隆>

これら3つの理念型と必ずしも対立するものではないが、日本の路線を考えるヒントとして、インドとの関係により重点を置いていく方向が考えられる。中国は2015年に17~18億人と、いずれ人口の限界に直面する一方で、それまでの間にインドは15億人まで人口が到達することが予想されている。世界の力学から見て、日本は絶えずインドを考えていく必要がある。イギリス型が、アメリカと人種、言語、文化が共通で経済力も小さい国であるからこそ採れる道であるとすれば、また、独仏連合型が、人口面で圧倒的な差があり経済力も逆転が予想される中国との間では困難であるとすれば、その中にあって日本がしぶとく生き抜いていく方法として、アメリカと中国との橋渡しだけではなく、中国とインドとのバランス・オブ・パワーの中心に自らを置くという努力が必要であるとの考え方である。中国との付き合いの中でインドを考慮し、インドとの関係の中で中国を考慮する。これにより初めて、中国人も日本に対して動くことになる。

ここで論点となるのは、中国とインドの両国が接近している中で、超大国意識を持つ両国から見て、果たして日本が視野に入り得るかという問題である。インドがどこまで本気で日本を向いているか疑問との指摘がある。また、中国とインドとのバランスは、インドとパキスタンとのバランスを考慮して考える必要があり、日本がそこにはまり込む懸念はないかという論点もあろう。

いずれにせよ、アジアを考えるに際し、日本は中国一辺倒の視野であってはならないだろう。東アジアという概念自体が円高以降の概念であり、日系企業のテリトリーと重なっていることから、日本がアジアを考えるに際して、「ASEAN+3」をイメージしがちであることにも注意が必要であろう。また、中国に対しては、日本がASEANと束になって向き合う必要性が指摘されるが、ASEANも中国社会であり、それに対抗する軸として韓国だけでは不十分であるとすれば、やはりインドの重要性は否定できないといえよう。

3. アジアの価値観と日本

プレゼンテーター:福川伸次(第9回会合)

日本がイギリス型を選択した場合でも、日本がアメリカの背中にただで乗っかるのではなく、同じ背中に乗る場合でも、日本がアジアをカードにして自らの国益をアメリカからより多く引き出す形でピギーバックすべきではないか。そのためには、日本がアジアをカードにできる状況を作る必要があろう。独仏連合型の場合は当然として、いずれの路線を選択する場合でも、日本がアジアとの間で緊密な関係を構築することが日本のアジア戦略として求められる点では共通ではないか。その前提として基本的に重要なのは、そもそもアジアというものがいかなる概念のものなのかを把握する作業であろう。そして、日本がこうしたアジアとどのような哲学、考え方に基づいて今後、向き合うかということを考え、それを戦略化する作業であろう。

さて、日本におけるアジアの認識は明治初期からであり、明治18年の福沢諭吉『脱亜論』以降、岡倉天心『東洋の理想』、大川周明『回教概論』、梅棹忠夫『文明の生態史観』などが日本のアジア認識を代表するものである。20世紀前半は、アジアの植民地化の流れの中で日本に大東亜共栄圏思想が見られたが、第2次大戦後は、まずアジア諸国の独立への流れがあり、その後、共産主義の脅威への対抗として1969年のASEAN成立があり、最近では、中国の台頭が顕著な中、アジアを新しい概念で捉え直そうという展開が見られる。

(1)こうしたアジアは極めて多様な地域であり、果たして価値観に共通性があるのかが論点となる。その際、文明と文化をきちんと分けて議論しアジアの特色を考えるべきであろう。アジアの共通性として指摘されるのは、他の価値観に対する寛容性、人間関係を重視、自制と自己研鑽、自然との共生といった価値観である。このように、アジアは、アジアの四大宗教を見ればうっすらとした共通性はあり、共通性と多様性が重層的に動いている地域と見られるが、個別の価値観や意識等については、日本、他のアジア諸国、欧米諸国で比較してみた場合、必ずしもアジアが日本と共通性が多いとは言えない面がある。日本が対アジア戦略を考える場合に一つの概念として括れるアジアとはそもそも何なのかという論点に加え、日本はアジアの中の日本として捉えられるのか、あるいは、日本とはアジアと対置させたところで捉えられるべき存在なのかといった点も論点として提起されよう。

(2)いずれにしても、日本がアジア戦略を構築するためには、彼我の姿をより正確に捉えて考察する姿勢が欠かせないであろう。例えば、中国一つとっても、現実の中国は多くの問題を抱え、まずは中国自身が改善しなければならないことが多い。ソフトパワーの比較でも、今の中国にはそれがないが、これを中国が身につけると成長力が落ちていく可能性がある。今の中国を前提に戦略を組み立てることがどこまで適切かという問題があるのではないか。

(3)また、従来の国家戦略は国対国のパワーゲームを巡るものであったが、21世紀のアジアの変化の中で、パワーゲームのあり方も変化していくことも念頭に置く必要があるのではないか。例えば、本稿で触れた「中国という巨大地域」に向き合い、経済的には地域ごとに自己完結した形で中国を捉えていく視点とともに、中国社会、あるいは中国人そのものをターゲットとして向き合うことを考えるべき時代になっており、これはアジア全体でも同じ方向であるといえるのではないか。

(4)他方、日本の姿についても、その経済的なプレゼンスは圧倒的であるとしても、欠如しているのはワード・ポリティクスや発信力ではないか。文化は発信しているものの、言葉は発信していない。そのため、日本の価値とは何かが見えにくくなっていないか。今後アジアでの影響力確保に必要な日本のGNCをどう伸ばしていくかが重要であろう。

(5)日本についても、自らの現状の姿だけでなく、その将来像をどう描くかによって、求められるアジア戦略は異なってくるのではないか。戦略の前提になるのは、今後日本が経済大国として成長を続ける姿か、成熟した債権国の姿か、「豊かな衰退」の姿なのか、いかなる将来の道行きのイメージを構築するかであろう。アジア戦略の議論は、それに向けての本格的な議論を始めることを日本に迫っているといえよう。

Ⅳ.日本自らの改革に向けて「新開国宣言」

[総括的な問題提起]

アジア共通の一つの側面をあえて指摘するとすれば、アジアはキャッチアップ国家の集団であるという点であろう。その目標が欧米化に重なる部分が大きかったとすれば、近代の日本とアジアとの間に欧米のフィルターなき国際関係論が弱かったのは自然のなりゆきであったといえよう。日本がキャッチアップ型からの脱皮を図る構造改革に成功すれば、今度は日本自身の内生的変革を通して、アジアとの間に自然と対話が進む可能性が生じるかも知れない。

その際、日本がASEANなど他のアジアの国々と組んで中国との対抗軸を形成するという考え方よりも重要になるのは、よりネットワーク的な視点でアジア全体をよくしていく、国というボーダーは残っても、できるだけ国対国という対抗軸ではなく、アジア全体の融和を図っていくという発想かも知れない。そのカギを握るものとして、ヒトの交流やNPOなどを据えることが考えられよう。少なくとも、アジアにおいて、ボーダーやバリアを低めるような方向を目指すことが21世紀においては重要であろう。アジアの共存共栄を目指し、そのための方策は何かというところから哲学を出していくことが求められるのではないか。

アジアの活力を日本の再生に活用していくに際しても、アジアをこうしたネットワークとしてどう活用していくかという点が重要になろう。しかし、それ以前に必要なのは、日本は日本として自らの改革をしっかりと進めていくことであり、それを通じて自ずとネットワークは形成されていくのではないか。内需を立て直し、各人のやる気を起こさせるように社会のシステムを変革し、何事も国にツケを回すという発想を捨て、日本人自身と日本国内が変わらなければならないのではないか。相手がどうするかではなく、日本はこうする、だからアジアとはこう向き合うという議論がなければ、何も進まないであろう。FTAもそうである。自分が変わるから相手にもこのように変わってもらい、共に進んで行こうという論理が必要ではないか。そのためには、相手とのギブ・アンド・テイクの中で、自ら出すものは出していかなければならないだろう。

大局的に見れば、冷戦終了後の世界がアメリカ一極の世界に変わりつつある中で、人類の進歩という地球的な観点から見た場合、アジアの存在は依然として極めて重要である。その中で、日本が西欧文明の中で約150年にわたり発展してきた経験を活かしつつ、今のアジア諸国とともに、一極になり切らないような形での世界の発展に役割を果たしていくという認識を持つとすれば、それを一つの基盤とした上で、それではアジアに対して何をしていくのかという建設的な議論が出てくることになる。

アジアで日本がすべきことについて少なくとも既に明確なのは、日本の市場の開放こそアジアが一番求めているということに、日本が的確に応えていくことである。アジアが競争や技術移転の中で自らの努力で生み出した財が、日本の市場で真っ当に評価され、その結果を果実として享受できるという自由主義の流れを強化していくことが基本である。それをまず実現するために、FTAあるいは経済共同体の考え方に向けた日本の課題がある。

その上で、日本も世界もアメリカ一辺倒にならないよう、日本としてはアジアとも組みながら自分たちの価値を守り発展させていくべきであるという共通認識が国民にあるとすれば、そのような問題意識を国内のコンセンサスとして形成できるかどうかが問われてくる。こうした大きな目的に向けた流れが明確になれば、日本は国内で何をすべきか、そのための優先順位は何かが見えてくるであろう。日本は何を考えているかについて、日本人自身が明確に言えるようになれば、そこから自ずとアジア戦略も描かれてくる。

コンセンサスがなければ動かない日本は、こうしたコンセンサスを形成するための先鋭な問題提起を必要としている。それをできるのがNPOではないか。同時に必要なのは、アジア諸国のシンクタンク等とも連携を組み、当方の問題提起をぶつけ相手側でも議論を促していく努力であろう。そのためにはまず、我々自身が何を提起するかを議論しなければならない。

言論NPOアジア戦略会議としては、以上の様々な論点の蓄積の上に立って、アジア戦略の議論を広く内外に求めるに当たり、当会議で概ねコンセンサスが得られた共通認識として、日本の「新開国宣言」をここに発するとともに、「真に開かれた国づくりを目指して」という視点を提起しつつ、日本自らの改革を通じたアジア戦略の構築に向けて、議論を開始することとしたい。

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