「アジアの将来と日中問題」/小林陽太郎氏の発言

2006年9月23日

第1話:「アジアの世紀と成長の限界」

 私は、どちらかというと言論NPOの当事者側の1人でございますから、基調講演という形でお話をするにはややふさわしくないと思っておりますが、新日中友好21世紀委員会の日本側の座長を務めさせていただいておりますので、その立場で、また、そういう中で得ました私の率直な感触をもとにして、「アジアの未来と新たな日中関係」ということについて、今後の皆さんのご議論の参考にしていただくようにお話をさせていただきたいと思います。

 話は少し昔に戻りますが、現在の日中関係の基礎をなしているのは、1972年の日中国交正常化の際の共同声明を含む3つの文書です。思い起こしてみますと、この全く同じころにいろいろ重要なことが起こりました。その中の2つのことを皆さんに思い起こしていただきたいと思います。

 皆さんはハーマン・カーンという名前をご記憶でしょうか。当時、極めて有名で、日本では特にその著書が飛ぶように売れた未来学者ですが、ハーマン・カーンが、21世紀はまず日本、そしてアジアの世紀だということを未来学者の立場からいわば予言をいたしました。そして、もう一つはローマクラブが「成長の限界」という報告書を発表したことです。70年代の最初ですから、世界が60年代の高度成長期を終えて、言ってみれば変化の時代に入ったときに、1人は30年後の21世紀は日本とアジアの世紀だと言い切り、もう1つのグループは、もうそろそろ有限の資源に目を向けて、むしろ先進国を含めて将来の歩みを謙虚に見詰め直すべきだという警告を発しました。

 今あえてこういうことを申し上げるのは、21世紀になった今日、「アジアの未来」ということを考えてみますと、まさにハーマン・カーンの予言そのものが、アジアの未来における可能性について極めて積極的に実現をされつつあると思いますし、またローマクラブの警告というのは、20世紀の残りにおける問題点よりは、むしろこのところ中国あるいはインドといった大国を始めとするアジア諸国の急成長の中で、大変な説得力を持って多くの人々に語りかけていると思います。

 最初にそれを申し上げた上で、「アジアの未来」についてさらに続けたいと思います。人口は国力の最も基本的なベースとなるものですが、特に中国、そしてインドという非常に大きな人口を持った2つの国が、経済的に第二次産業やあるいはIT産業を中心にして、成長を続ける。また、ある見方をすると、成長を続けざるを得ない問題点を国内に抱えながら今進んでおります。私は個人的には今や両国とも戻ることのない1つのハードルを越えたと思っております。

 もちろん当面、GNP等の指標ではアジアにおける最大の経済国は日本でありますけれども、少なくとも明るい点を見ますと、この二大大国とアジアが将来に向かって非常に大きな可能性を持ち続けるということについては、誰も疑いを持たないと思います。しかし、ローマクラブだけの話ではありませんが、このところ中国、インド等の急速な発展が環境やエネルギーの問題について、あるいは国の中における格差問題について、従来では考えられなかった大きなスケールとダイナミズムを持って問題が顕在化しつつあるのも事実です。

 私どもがアジアの未来ということを考えるときに、欧米やその他の先進諸国が、またその場合には日本も入りますが、その明るいところだけに目を向けて、可能性をすべてそこで刈り尽くすという形で参画をするのは、決して賢明でもないし、また私どもがするべきでないということは、だれにもわかるところであります。むしろ今、極めて重要な問題として浮かびつつあるのは、かつては巨大な人口が足を引っ張って、決してテイクオフはしないだろうと言われていた両国がテイクオフをした。その後の発展の過程が両国にとっても、あるいはアジアにとっても世界にとっても好ましい形で発展ができるように、どうやって一方で起きている問題点というものを最小化しながら、あるいは軽減しながら、将来に向けて乗りこなしていく、マネージしていく、ハーネスしていくことができるのかというのが、今のアジアだけではなく、世界の1つの重要な関心事になっていると思います。


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発言者

kobayashi_060803.jpg小林陽太郎(富士ゼロックス株式会社相談役最高顧問)
こばやし・ようたろう

1933年ロンドン生まれ。56年慶應義塾大学経済学部卒業、58年ペンシルベニア大学ウォートンスクール修了、同年富士写真フィルムに入社。63年富士ゼロックスに転じ78年代表取締役社長、92年代表取締役会長、2006年4月相談役最高顧問に就任。社団法人経済同友会前代表幹事。三極委員会アジア太平洋委員会委員長、新日中友好21 世紀委員会日本側座長なども兼任。

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