言論外交の挑戦

ドイツの過去―ナチス後の4段階による克服プロセス ~マティアス・バルトケ氏講演録~

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 これから、ドイツでは、戦後、どのようにして過去が総括されていったのか、その辛く困難に満ちたプロセスについて、4つの段階に分けてお話したいと思います。しかしその前提として、ドイツの第二次世界大戦に至るまでの過程と、その後起こったことについて簡単に述べたいと思います。

 ナチスは1933年に民主的な選挙で選ばれました。しかし、権力掌握の直後、ナチスは民主主義の原則を根こそぎ失効させました。主要な社会民主党員と共産党員は即刻逮捕され、多数が殺害されました。ナチスの特徴は、狂信的人種主義と軍国主義であったと言えます。さっそく大幅な軍拡に着手し、1939年9月1日にポーランドへ侵攻しました。こうしてヨーロッパにおける第二次世界大戦が勃発したのです。ヨーロッパでの戦いは、4400万人の死者をもたらしました。そのうちの2300万人は民間人です。そして、そのうちの1300万人はドイツのSS親衛隊やナチス軍により殺害されました。とりわけポーランド、ソ連、セルビア、ギリシャの人でした。残虐さで突出していたのは、600万人以上のユダヤ人に対する大量殺戮です。これは1941年末に開始されました。一つの民族のほぼ全てが、完璧に組織された手法で、あたかも工場の作業のように大量殺戮されたのは、歴史上他に類を見ません。この大量殺戮の同義語となったのは、ドイツがポーランドにつくったアウシュビッツ強制収容所です。ここだけでも100万人以上が殺されました。


第一期「抑圧の段階」

 それではドイツは戦後、このような悲惨な過去をどのように総括したのでしょうか。私はドイツにおける過去の総括の第一期を「抑圧の段階」と呼ぶことにします。

 終戦直後、多くの市民が上記のような過去から目を逸らし、過去を抑圧しており、ファシズムを総括するなど全くしませんでした。それは過去と自分の役割を直視したくなかったからだと言えます。また、それ以前にドイツという国が破壊されていましたので、最も重要な課題となっていたのは、復興と生き残ることでした。そのおかげと言えるでしょうか、過去や自らの罪と取り組まずに済んだのです。では、一般の市民は実際に戦争犯罪について何を、どれくらい知っていたのか、また、知っていなければならなかったのに知ろうとしなかったのは何でしょうか。

 少なくとも事実として明らかなのは、1945年5月8日にドイツは軍事的のみならず道義的にも敗北を喫したということです。戦後、ドイツの名で行われてきたむごい戦争犯罪が明らかになってきました。国民はただ単に呆然とするだけでした。戦争に敗れたという事実に加え、自分たちが犯罪者に手を貸していたという認識も生まれたのです。戦争で家族は崩壊し、母親は子供を失いました。さらに、これでもかと追い打ちをかけるように認識しなければならなかったのは、家族も子供も結局は犯罪のために犠牲になってしまっていたということです。

 このような認識は、アメリカ占領下での再教育によってさらに強まりました。再教育でアメリカはまず、ドイツが強制収容所を中心に行った残虐行為について徹底的に説明し、組織的に市民に対して収容所への訪問を強制しました。また大量殺戮の詳細を映画にして市民に見せていきました。当然、効果が出ないわけはありませんでした。この時には、新聞やラジオも再教育の手段として使用されました。

 1946年以降になると、再教育の重点は、ナチスの犯罪を解明して市民を怯ませるという手法から、よりポジティブな内容を伝える手法に変わりました。これは「再方向づけ政策」と呼ばれ、西側占領地域を西側風の民主主義国家に再構築することを目的としていました。特に教育政策とメディア政策に重点が置かれていました。

そして、ドイツ国民の戦争への集団的罪をめぐる議論が起きました。本当に国民全員が残虐な犯罪に対して罪があったのだろうか。そうだとするならば、この罪は次の代にも受け継がれていくものなのだろうか。連帯責任の議論についても、「集団責任があることによって、個々の具体的な加害者の罪があってはならないかたちで免除されることにはならないか」という問いも投げかけられました。この連帯責任の議論は、ドイツ国民から「ホイスパパ」と呼ばれたドイツ初代大統領テオドール・ホイスによってほぼ終結しました。ホイス大統領は「連帯責任はないが、起きたことに対する集団的な恥辱はある」、「ヒトラーは我々に多くのことをした。その中でも最悪なことは、ヒトラーやその一味と共に『ドイツ人』という名前を背負わなければいけないという恥を担わなければならなかったということだ」と彼は述べました。

 このようにしてドイツの名で行われた類例なき犯罪が認識されるようになり、それによって一つの大きく、ポジティブな成果がもたらされました。それは、1945年以降のドイツでは、ナチス体制を擁護しようという人間は、責任感のある政治家の中にはいなくなったということです。当然、犯罪を矮小化する過去にとらわれた者もいました。また、救いようのない昔からのナチス支持者も当然まだいました。しかし、そういった人間も少なくなっていきました。


 その一つの重要な節目となったのは1963年のフランクフルト・アウシュビッツ裁判です。この裁判は社会の中に大きな関心を引き起こしました。過去を抑圧することなどはもうできなかったのです。起訴されたのは、アウシュビッツ収容所の幹部合わせて22人でした。ほぼ全員が、数千人をこえる殺人幇助あるいは殺人で有罪となりました。この裁判の発起人はフランクフルトの主席検事フリッツ・バウアー氏でした。

 ドイツ人でさえもあまり知らないことですが、バウアー氏は、裁判の数年前にユダヤ人殺害の首謀者であるアドルフ・アイヒマンがアルゼンチンに潜伏しているという確かな情報を手に入れていました。アイヒマンは、指名手配されていたナチス重要犯罪人の一人でした。バウアー氏はこの情報を同僚の誰にも、そして、警察にはなおさらのこと知らせませんでした。それは、アイヒマンに用心するよう忠告されてしまうことを心配したからです。その代わりバウアー氏は、イスラエルの秘密情報機関モサドに情報を流しました。モサドは電撃作戦により、アイヒマンを捕え、その後アイヒマンは、イスラエルによってエルサレムで起訴され、処刑されました。このアイヒマン裁判もドイツで大きな関心を呼びました。哲学者のハンナ・アーレントはこの裁判を記事にして、それを一冊の本として出版しました。そのタイトルは『エルサレムにおけるアイヒマン―悪の汎用さについて―』というもので、ドイツで大きな反響を呼びました。


第二期「罪をめぐる論争」

 アウシュビッツ裁判、アイヒマン裁判は世論に影響を与え、とりわけ若い世代の心を揺さぶりました。これが如実に現れたのは、1968年の学生運動です。この学生の抗議活動こそ、ドイツの過去の総括プロセスにおける第二期「罪をめぐる論争」の始まりだと言えます。罪への取り組み、罪と向き合う時期だったとも言い換えることができます。

 ナチスの犯罪、ナチス戦犯への1950年代の裁判における判決が手ぬるすぎたと多くの人が感じたことが、この学生運動の一つの原因でもありました。しかしより批判が強かったのは、いまだに国の重要なポストにナチス系の人間が就いていたということです。そのため、「ドイツは過去から何も学んでいないではないか」という批判が湧き上がりました。1968年の抗議運動は、疑いなく多くの点で非常に正当だったと言えるでしょう。この運動によってドイツの政治が大きく変わる機運の一つが生まれました。


 1969年には、この雰囲気が変わったことで、政権交代によりドイツ社民党から首相が出ました。この首相がヴィリー・ブラント首相です。ブラント首相はナチスの政権掌握直後、19歳でスカンジナビアに亡命しました。そして、亡命先から反ナチス活動を、1945年5月8日のナチス体制崩壊まで続けました。ブラントは1969年の所信表明演説で、「私たちは良き隣人がいる国になりたいのだ」という歴史的な言葉を残しました。ヨーロッパにおいて、ドイツは一番多くの国と国境を接していますから、この言葉は近隣諸国との関係を改善させたいという希望の表れでした。とりわけ東側の国々、ソ連、チェコスロバキア、ポーランドが念頭にありました。これらの三つの国々全てとブラント政権は条約を結び、法的問題や領土問題で合意を達成しました。これがいわゆる「東方外交」と呼ばれたものです。

 国内でもっとも異論が巻き起こったのは、ポーランドとの条約です。これは、かつて東方にあったドイツ領の最終的な放棄を確定させるものだったからです。これらの領域は大戦後、事実上ポーランドの領土となっていました。何ヵ月も国内で議論が行われ、あわやブラント政権打倒かというところまでいきました。ブラント首相はポーランドとの条約締結を主張する際、「条約で放棄するものは、とうの昔に失っているものばかりだ」、「それらを失ったのは戦後ドイツの政権の責任ではなく、犯罪的なナチス政権の仕業だったのだ」と述べました。

 旧ドイツ東部領に関して、当時のドイツの人々の引き裂かれるような悲しみの感情がよく分かるエピソードがあります。ブラント首相は、質の高さは一番だと見られていたある週刊新聞の女性発行人に「ポーランド訪問へ同行してほしい」と依頼しました。デンホフというその女性発行人は、旧ドイツ東部領で育った人だったのです。出発前日になって、ブランド首相は彼女から手紙を貰いました。デンホフは「ブラント首相の対ポーランド政策は正しいし、他の選択肢はない」と強く支持する一方で、「同行はできない」とも書いてきました。故郷が最終的に失われてしまう場面に立ち会うのは辛すぎるというわけです。ブラント首相は「非常によく理解できる」と返答しました。

 ポーランドとの条約調印の日、ブラント首相はワルシャワのゲットーの英雄記念碑の前で献花を行うことになっていましたが、花が捧げられた時、突如記念碑の前に跪き、そのままの姿勢でしばらく動きませんでした。この彼の姿は、人々の心に極めて強く訴えました。何しろドイツの首相が、ドイツの国民の代表として、謙虚な姿を見せて、かつての敵国、そして被害を受けた犠牲者たちに許しを請うているのです。「このワルシャワの出来事だけでも、ブラント政権が誕生した意味が十分にあった」と述べる人々もいます。

 ポーランドとの条約では、共同教科書委員会の設立も取り決められました。両国の学校教科書における、ドイツ―ポーランド関係の記述が相当酷いということが問題になっていました。この共同教科書委員会では、「両国の歴史が、それぞれの国でどのように記述されるべきか」ということについて提言を取りまとめるということになりました。この試みはうまくいき、今日までこれは続いています。

 さて、この第二期では、ドイツの歴史家たちが、ドイツの罪をどうとらえるかについて論争を行いました。一方のグループは「他の独裁でも同様に恐ろしい虐殺が行われたこともあるのではないか」という主張を行いました。具体的には、スターリンのソ連と、ポルポト時代のカンボジアです。これによってドイツの罪を相対化しようと試みたわけです。もう一方のグループはこれに反論し、「ドイツの大虐殺はそれらとは全く違う」と主張しました。ドイツの虐殺は、当時のドイツの役所がドイツ的な徹底性をもって、官僚的に完璧に工場作業のように組織化して行ったものであり、歴史上類を見ないと主張したのです。


第三期「歴史的罪の受け入れ」

 東側近隣諸国との一連の東方条約は、1970年代初頭、ドイツ国内で大きな政治的議論を巻き起こしました。しかし、非政治的な人々にも影響を与え、その心を揺さぶったものがありました。1978年に放送された、メリル・ストリープが主演した、ハリウッドの4回連続テレビドラマ「ホロコースト―戦争と家族」です。このベルリンに住むユダヤ人家族・ヴァイス家を描いたテレビドラマの放送が、第三期「歴史的罪の受け入れ」の始まりだったと言えるでしょう。

 このドラマは、ドイツの歴史の総括において重要なステップとなりました。とりわけ、若い世代の感情に訴え、ドイツ史の暗部を理解する手助けとなりました。つまり、抽象的なデータを突きつけられるのではなく、ヴァイス家という具体的な家族の経験を追体験することで理解が容易になったのです。幅広い層が感情移入できた背景には、当時のドイツにはなんとテレビチャンネルが2つしかなかったという事情もあります。1のチャンネルでドラマをやっていれば、全国民がそのドラマを見ると言っても過言ではないのです。

 当時のドイツ国民が自分の国をどうとらえていたかというのは、ハイネマン大統領の言葉がこれを示しています。彼は「世の中には難しい祖国がいくつかある。ドイツはその一つだ。しかしドイツは我々の祖国だ」と述べたのです。こうした自国の過去に対して批判的な態度は一般に広がっていたのですが、とりわけ若い世代においては、自分の国が好きでなくなる傾向が強くありました。「ドイツは格好が悪い、クールじゃない」というわけです。一つ、分かりやすい例を出しましょう。私が学校に通っていた頃、アーミージャケットが流行していました。このジャケットの肩にはドイツの国旗のワッペンが付いていましたが、皆これを着るときは、ワッペンを外すか、塗りつぶしました。そうしないで着てしまうと、「ナショナリスト野郎」、「馬鹿野郎」とみなされてしまい、とにかく格好が悪かったのです。

 この「自分の国が好きになれない」という状況は、もう一つ別の現象にもつながりました。おそらく人間の心の中には、「みんなで共有できるネイションを持ちたい」という憧れがあると思うのですが、ドイツでは、その憧れの向かう先がヨーロッパになったのです。欧州統合は、ドイツ人と自国との関係がギクシャクする中で、国の代わりとなったのです。全ドイツ人が統合を望んでいました。事実、その結果として、欧州統合をドイツほど積極的に推し進めた国はありませんでした。つまり、他の欧州諸国とは全く逆に、できるだけ多くの権限をEUに移譲し、各国に残す権限はできるだけ少なくしたかったのです。

 この第三期を知的な意味で象徴するのは、おそらくあの伝説ともなったワイツゼッカー大統領の、終戦40周年を記念した、1985年5月8日の演説でしょう。ワイツゼッカー大統領はこの演説で「欧州の終戦の日は各国によって受け止め方が全く違う。しかし、ドイツ人にとっても、この日は敗北の日ではなく解放の日である。ナチスの暴力支配による非人間システムからの解放の日である」と述べました。ワイツゼッカー大統領はまた、この演説で「前の世代は後の世代に、重い遺産を残した」と語りました。そして、全てのドイツ人に対してこの遺産を引き受けるように呼びかけたのです。


第四期「過去からの解放」

 さて、痙攣や麻痺といったものに襲われていても、それはいつか緩和に向かいます。それと同じようにドイツ人と自国との間のギクシャクした関係も和らいでいきました。これを一つの時代区分として見て取ることができます。ドイツのサッカーワールドカップです。このワールドカップこそ、最後の第四期「過去からの解放」を象徴する出来事だと言えると思います。というのも、ドイツのナショナルチームにかなりの割合で移民の選手が加わっていたからです。これらの選手はドイツ生まれではないものの、「自分は100%ドイツ人である」と感じている選手たちでした。そして非常に素晴らしいサッカーをしてくれました。ブラジルチームよりも情熱的でした。

 ワールドカップでは、60年来初めて、ドイツ国旗が街中のあらゆる場所にはためきました。私自身も、ドイツチームの試合の日には、自分のバイクに国旗をつけて走っていました、昔とは変わったのです。ドイツの旗は、「尊大な国ドイツ」、「攻撃的な国ドイツ」の象徴ではなく、純粋にドイツ人であることの喜びを表現するものになったのです。スポーツは、移民が社会に溶け込み各国間の相互理解が進む方向を、政府のどの政策よりも強く実現してくれたと言えるでしょう。


 昨年、20ヵ国の2万人を対象に「どの国が好きか」という調査が行われました。結果は、なんとドイツがアメリカを抜いて、一番人気のある国になりました。イスラエルにおいてすら同じ結果になりました。50年代、60年代、ドイツはナチス時代の犯罪ゆえに、国際社会でいわば賤民扱いを受けていただけに、これは非常に注目すべきことです。かつては、ドイツと交流したいと思う国など全くありませんでした。こうした前向きな変化につながった重要な要素は、ドイツ人が、確実に、そして容赦なく自国の歴史の影の部分と向き合い、自分たちの歴史であると徹底して認めた姿勢を示したからであると言えるでしょう。

 この「徹底的に過去と向き合う」という姿勢は、これからもドイツのレゾンデートルであり続けます。私たちは、60年以上かかる長い道のりではありましたが、最後には自分たちの立ち位置というものを国際社会の中で再確立することができたのだと思います。ご静聴ありがとうございました。


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