北東アジアの平和秩序を考える上で、台湾総統選をどう読むか

2016年1月25日

2016年1月25日(月)収録
出演者:
松田康博(東京大学東洋文化研究所教授)
伊藤信悟(みずほ総合研究所アジア調査部中国室室長)
若林正丈(早稲田大学政治経済学術院教授)

司会者:
工藤泰志(言論NPO代表)

工藤泰志 工藤:言論NPOの工藤泰志です。さて、1月16日に台湾で総統選挙が行われ、民進党の蔡英文さんが300万票近い大差で圧勝しました。この問題が、アジアの今後にどういう影響をもたらすかが今回の言論スタジオのテーマになります。

 それではゲストの紹介です。まず、東京大学東洋文化研究所の松田康博さん。次に、みずほ総合研究所アジア調査部中国室室長の伊藤信悟さん。最後に、早稲田大学政治経済学術院教授、同大学台湾研究所所長の若林正丈さんです。

 さて、議論を進めていきたいと思います。皆さんは、蔡英文さんにお会いしたと伺いましたが、蔡英文はどういう人なのか。そして、今回は圧勝でしたが、この背景というのをどのようにご覧になっているのかということをお聞きしたいのですが。松田さんからいかがでしょうか。


民意とは逆の方向で対中政策を進め、大敗した馬英九政権

 松田:蔡英文氏は民進党の中ではあまり典型的ではない政治家と言われています。民進党というのは国民党一党独裁体制の下で、それに対する民主化運動をずっとやってきた。その世代がこの2000年から2008年にかけての陳水扁政権の時に、あまりパフォーマンスが良くなくて民意を失ってしまった。ちょうど8年前に大負けをしてしまったわけです。そこで、今の馬英九政権ができたわけですけれども、その時に民進党ではこれまでのような古い世代の人たちと全く違うタイプの人を党のトップにしようということで、蔡英文氏が出てきました。女性ですし、主要閣僚とか、立法委員、これは国会議員に相当しますが、それらも全部経ている。アメリカ・イギリスに留学していて、イギリスで博士号を取っていて、法律や経済の専門家でもあります。非常に能力が高く、しかも清新なイメージの方が今回の選挙を引っ張ったわけです。

工藤:それにしてもなぜ300万票差という大差がついたのでしょうか。

松田:今回は、総統候補と議会に相当する立法委員選挙の両方で民進党が大勝しました。これはいままでの歴史ではないことです。なぜこういうことが起こるのかというと、そもそも政権交代というのは、それまでの政権与党が失敗したから起こるわけです。簡単に申し上げますと、国民党がやってきた「中国との関係を良くしさえすれば、全て上手くいくんだ。皆さんの生活も含めて良くなるんだ」という路線の失敗です。そういう訴えで8年前政権を取り、また4年前に再選されたのですが、その馬英九路線に対する失望とか怒りというものが非常に大きなうねりになった。しかも、そういう動きがあるにもかかわらず、馬英九氏は民意と逆の方向を向いて昨年11月には中国の習近平国家主席と首脳会談を行いました。そういう民意と非常に離れたことがなされた。こういったことに対する不満が一気に爆発した形になったと言えます。


「第二次民主化運動」と二つのベクトル

工藤:若林先生は蔡英文さん圧勝の背景をどうご覧になっていますか

 若林:背景には、馬英九政権以降に、言わば「第二次民主化運動」というようなものがあったのではないかと考えています。

 馬英九政権が「対中改善」というキャッチフレーズを出して、次々と政策を打ち出してきました。ただし、やはり、その副作用が出たというか、政策実行を急ぐあまり、民主主義的な手続の軽視や社会的公正の面から見て様々な問題が出てきました。例えば、中国の要人が来たときの警備のあり方が過剰であったなど警察の公権力行使の行き過ぎ、あるいは、都市開発が進んできたのですが、その際の土地収用のやり方が非常に強引だったこと、さらには、「ヒマワリ運動」のきっかけとなった国会における与党の強引な議事運営、デュープロセスを踏んでいないと反発を呼んだ高校歴史教科書の改定問題などの多くの問題がありました。それから他にも、中国系資本による台湾メディア買収に対する反対運動がありましたし、もう一つ有名なのは、台湾には徴兵制がまだあるのですが、いじめの行き過ぎで入隊したばかりの新兵が亡くなってしまったことに対する批判運動がかなり盛り上がりました。その亡くなった新兵のお姉さんが今回、新興勢力の「時代力量」から立法委員に出馬して、当選した。そういうような運動の盛り上がりが背景にあったと思います。

 1980年代後半から90年代後半にかけては、実際に選挙制度だとか、政治制度を変えるという制度の上での民主化、つまり、本来の意味での民主化があったのですが、馬英九政権になってからは、一応は出来ていた民主体制の不具合というのがあちこち起こっていて、それが中国政策にも関係しているという状況の中で、かつてなく社会運動が盛り上がった。不具合を是正する諸運動が起こってきた。これをまとめて、何か言葉を探せば、一種の「第二次民主化運動」だったのではないかと思います。

 ここから今回の選挙に向かっていく二種類のベクトルが出てきました。この運動の中で、80年代、90年代とは違う新しい世代のリーダー、活動家が出てきて、この刺激で市民社会がもう一回復活したわけです。そういう事情によりまず一つのベクトルが出来ました。

 もう一つのベクトルは、これはいろんな人が指摘しているかと思いますが、民進党が2008年に壊滅的な打撃を受けた、敗北をしたわけですが、そこで蔡英文さんという民進党の過去にはいないタイプのリーダーを持ってきて、再建を図るということができた。民進党が若い政党だから、そういうエネルギーがあったということだと思いますが、それによって選挙ごとに力を回復してきました。

 この二つのベクトルの合成のようなものが、蔡英文と民進党を今回の選挙で押し上げたし、同時に、盛り上がった社会運動から出てきた新興勢力も、出来てから1年ちょっとにもかかわらず、立法院で5議席を獲得しました。

 選挙中にもありましたが、若い人とか大学生を対象にしたアンケート調査でどの政党を支持しているかを尋ねると、「時代力量」という今回5議席取った政党が、民進党に次ぐ第二党なんですよ。これは第一のベクトルが働いたと思うのですが、この二つの合成ベクトルによって大勝したのではないかというのが、私の見方です。


中国経済の恩恵が台湾全土に行き渡らなかったことが大きな反発を呼び起こした

工藤:伊藤さんは経済がご専門ですが、経済的には台湾と中国大陸の融合がかなり進んでいて、中国との関係で利益を得ている人たちも当然いると思いますが、なぜ、このような選挙結果になったと思われますか。

 伊藤:馬英九政権になってから、公約通り中国との直航を開放したり、貿易投資についても規制を緩和したり、さらには、FTA(自由貿易協定。Free Trade Agreement)に相当するECFA(経済協力枠組協定。Economic Cooperation Framework Agreement)まで結びました。かつ、政権同士が一緒に手を取り合って、ビジネスマッチングまでやったわけです。しかし、それは一部の経済界にはプラスの影響をもたらしたわけですけれども、そのメリットが全部に行き渡っていないという批判が起こりました。

 それと、馬英九政権にとってはある種、不運だった面があると思いますが、現在の中国は生産能力の過剰問題や不動産在庫の過剰問題などを抱えています。それらの問題が徐々に表に出てくる状況のなかで、「中国と付き合っていれば、経済が良くなっていく」という主張が勢いを失ったという側面があります。

工藤:タレントの発言がマイナスになったという報道もありましたが、これはどういうことなのでしょうか。

伊藤:韓国のアイドルグループのなかに16歳の台湾の女性が参加していました。あるビデオの中で、彼女が中華民国国旗を振っている映像が流れました。それが中国の中において、台湾独立運動を示すものだというようなネットでの世論が広まってバッシングが起こり、それを受けて彼女は謝罪をしなければならない状況に追い込まれたということです。


経済では「分配の正義」、対中関係では「現状維持」

工藤:蔡英文さんは選挙で何を訴えたのでしょうか。馬英九政権が中国との関係をかなり強化していたことに対する不満や反発があったということですが、そういう声に対してどのような約束をしたのでしょうか。

松田:先ほど伊藤先生からもお話がありました通り、中国との経済関係が良くなっているにも関わらず、一般の人にとっては「給料が上がらないではないか」という不満があるわけですね。そういう分配が不公平である、不公正であるという不満がありますので、分配の整理ということを強く打ち出しています。それが一番大きいですね。

工藤:中国との関係では何を訴えたのでしょうか。

松田:中国の存在、特に経済的な存在というのは台湾にとって不可欠なものになっています。貿易パートナーとしては1位です。ですから、蔡英文氏も今回の選挙においては、もともと民進党は、台湾独立、独立建国ということを党綱領に明記しているのですが、そういったことには一切触れずに非常に慎重な選挙戦を戦ってきました。対中関係に関しては、まさに「現状維持」ということを前面に出しました。

 また他には、「台湾人の尊厳をもう一度取り戻すのだ」という言い方をしていました。抽象的なので、具体的に何を指すのかはわからないのですが、馬英九政権の時には、特に2013年くらいから、首脳会談を実現するために例えば「一つの中国」というスローガンを実現する方向で、北京と台北が調整していました。中台をどんどん近づけていく、お互いの政治的な基礎をならして同じようなものにしていくということをやっていたのですが、これは台湾人意識を強く持っている人々にとっては裏切り行為に見えるわけです。政治的に中国に近づいていくことにストップをかける、台湾の人々の尊厳を取り戻すのだと若干抽象的で政治的なことも訴えました。


民生中心に「正義」を訴えたことが奏功した

工藤:蔡英文さんが今回訴えたことで、若林先生が一番興味を持った点、注目した点はなんでしょうか。

若林:戦い方がこれまでの民進党と違っていました。相撲で言えば、「横綱相撲」をする民進党というのを初めて見たと思います。

 国民党の長所というか、得意手は、やはり中国との関係を自分たちこそがマネージできるということです。ですから、国民党の戦略としては、「92年コンセンサス」、つまり、「一つの中国」という原則をあいまいに相互に認め合うというものがあるのですが、民進党にこれを認めろと迫って、認めないと言ったら、「民進党に任せたら、またおかしくなるぞ」と国民に喧伝する。そうして民進党の得意でないところに追い込んできたわけです。

 この戦略は前回の選挙では成功をしたんですけれども、いろんな方がおっしゃっているように、今回の民進党はまず「現状維持」ということを最初に言っておいて、そういうスタンスについて、ワシントンの了解を取り付けた上で、そのスタンスをワシントンで発表することにより、厚遇されるという成果を持って帰ってきました。そういうことによって国民党が得意手で攻めてくるのを封じ込めることが出来た。それから、早目に候補者について、一本にまとまりました。その過程で、蔡英文さんよりも上の世代の人を下ろしているんですね。そのように民進党では早目に総統候補が決まった一方で、国民党は数ヶ月ごたごたしていました。

 民進党内部の人に聞きましたが、その間に、地方の農業組合だとか、いろいろな社会団体に支持を取り付けるための社会団体行脚みたいなことを国民党より数ヶ月早くやることによって、「蔡英文友の会」みたいなものをあちこち無数に作っていくことができました。そういうふうにして地力をつけた上で、やはり、馬英九政権下で出てきたいろんな問題、民生問題、社会正義、移行期の正義というか、若い人が「正義」「正義」と言っている問題がありますが、そういうものを民生中心に訴えていくというスタンスが取れた。

 しかも、陳水扁がやったようなアイデンティティポリティクスで、派手なことをして、中国やアメリカなど外部を刺激するようなことをしないでもやっていける。キャンペーンを進めて、ずっと優位を保ったままいけるという、きちっと地力で寄り切るという選挙を民進党がやるのを私は初めて見ました。


「イノベーション」、「全方位」、「安心、安全」が経済政策のキーワード

工藤:伊藤さんに伺いたいのですが、蔡英文氏は、経済的に何を約束していたのでしょうか。それは馬英九政権とどう違うのでしょうか。

伊藤:経済政策に関しては、イノベーション重視というところを前面に打ち出しています。もちろん、馬英九政権もイノベーションということを言っていたわけですが、結局、中国や他の国との関係を改善した時にその経済的な成果を刈り取るためには、台湾でちゃんとイノベーションをし、競争力を強化しておかなければならないということを強く訴えていたというのが一点目です。そのイノベーションを進める上で、先進国のイノベーションのセンターとの関係をより密接にしていくとの方針を打ち出してきました。

 また、「全方位」の関係強化を訴えてきました。中国が台湾の経済発展に果たしている役割自体には肯定的な評価はしていますが、中国だけと仲良くしていればいいわけではないと主張し、東南アジア、インドとの関係強化についてもかなり強調していました。

 加えて、社会の「安心・安全」の確保についてもかなり強調してきました。台湾の労働市場を見てみますと、若年層の失業率が問題になっていますし、若年層を中心に実質賃金が過去と比べて低いまま留まっているという問題があります。また、年金もこのまま放置すれば破綻するかもしれない、食の安全についても色々な問題がある、こういった馬政権統治期に出てきた問題をまとめて処理して、安心な社会を作ることを公約の柱に据えました。

工藤:台湾の人口構成というのはどうなっているのでしょうか。若い世代が多いのでしょうか。

伊藤:少子高齢化がかなり進んでいるという状況です。最近は日本以上のスピードで進んでいます。


官僚主導に陥り、実行力に欠けた馬政権

工藤:馬英九政権にはその他にはどのような問題があったのでしょうか。

松田:批判する側から出てきている論点としては、まず人事の問題がありました。政党が民意に基づいて掲げた政策を実行するだけの力を持った、政治的な任命がなされておらず、どちらかというと官僚あがりの人ばかりが重要な閣僚ポストを占めていました。それで全体を統括して、戦略的に物事を進めていくということが出来なくなっていると。特に、二期目の人事を見ていると、あらゆるところで「官僚の言いなり」と言われても仕方のないやり方を取っていた。そうすると、局所局所では合理的なことをやっているのかもしれないのですが、事なかれ主義に陥ったりとか、前例踏襲主義に陥ったりというようなことが随所に見られて、まさにいま、台湾が大きな社会的な変革を迎えているにもかかわらず、対応できていないと批判されていました。伊藤先生が言われたとおり、食品安全の問題にしても、年金の問題にしても、大幅カットしなければならないのは間違いないのに、それがなかなかできないという実行力に問題がある政権だったというのが大方の見方ですね。

工藤:前政権の実行力に問題があったり、「第二次民主化運動」のような動きもあった。また、今後の台湾の方向性という問題として、経済的にも中国だけではなく幅広い展開が求められていた。さらに、「一つの中国」という状況に向けて、中国側に政治的に歩み寄っていくことに対して、そこまで急速に行って良いのかという戸惑いがあった。今回の選挙結果の背景にはそういう色々な要因があったということですね。

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