【インタビュー】日本近代史から見る小泉政権の行方(会員限定)

2001年8月04日

banno_j010800.jpg坂野潤治 (千葉大学法経学部教授、東京大学名誉教授)
ばんの・じゅじ

1937年生まれ。東大文卒。東大院人文科学研究科博士課程中退。お茶の水女子大助教授、東大教授を経て現職。近著に『日本政治「失敗」の研究』(光芒社、2001年)がある。

■「民政党」に学ぶことが重要

――浜口内閣の教訓から、一気に構造改革に踏み込んだ場合、日本経済がかなり厳しい状態になるという見方が最近、出てきています、実際はどうだったのでしょうか。

坂野 短期的に見ればそのとおりです。中小企業は倒産し失業者は町にあふれ、農民は生活難に苦しみました。後を継いだ高橋是清蔵相の下で、公債で軍需と公共事業を増やし、不況から脱出したことも事実です。しかし評判の悪い浜口内閣の井上財政の下で、輸出産業の経営合理化と技術革新が行われ、4年後には日本は綿布やレイヨンなどの軽工業の分野で大躍進をしたのも事実です。1935年には、「紡績は英国を凌駕して世界一となり、人絹は仏伊を蹴落して世界第二となり、一位米国に肉迫しつつある」と報じられています。軍需や失業救済土木事業でこのような状況が生まれるわけがありません。"マクロの高橋財政、ミクロの井上財政"という軍配の上げ方は、今日の経済史研究では常識になっているようです。

それに、小泉人気も浜口人気も、経済改革だけを求めてのものではありません。70年を隔てた日本国民は、何よりも政治改革を求めているので、その点での浜口内閣の偉大さにも注目すべきだと思います。

――今の日本経済は戦前の昭和恐慌前と似ているという見方があります。このとき、日本の政党はどのような議論をしたのか。また政治は日本経済の立て直しにどのように向かい合ったのでしょうか。

坂野 1920年代まで長年、現在の自民党に酷似した政友会という政党が、政治腐敗、ばらまき財政を続けていました。これに対する対抗勢力として出てきたのが、浜口雄幸を総裁とする民政党です。

民政党は1927(昭和2)年に結成され、平和外交、健全財政、議会中心政治という三本柱を基本政策としていました。第1と第2の政策はそれぞれ、幣原外交、井上財政の名で知られています。そして第3の政策を代表していたのが総裁浜口雄幸でした。

1930(昭和5)年1月21日、施政方針演説を行ったその日に、浜口内閣は衆議院を解散し、自らの施政方針の是非を国民に問うています。浜口と民政党はそれに勝利し、国民の信を受けてロンドン海軍軍縮条約の締結と金解禁を行いました。

戦前の明治憲法下で、浜口内閣のように民主的手続きを重視して軍縮を実現することは、言語に絶するほどの難事でした。それが実現できたのは、「平和」、「健全財政」、「議会主義」という3本の政治理念を共有した、民政党という政党が存在したためです。

金解禁も、本来は第一次世界大戦中に軍需で大もうけしたときにやるべきことでしたが、自民党の祖先のような政友会はそれをせず、景気刺激をして狂乱投機を引き起こしました。たとえば橋は一代、鉄道は三代、つまり橋をつくれば一代選挙は安泰、鉄道なら三代安泰ということで、政友会は赤字線を次々とつくって、支線を票に変えようとしました。

戦争後にはバブルが生じます。日本でも第一次大戦後の1920年までバブルが続きましたが、政友会は公共事業をばらまいてそのバブルの後遺症を25年まで引っ張り、金解禁を先送りしてきました。駐日フランス大使のポール・クローデルは本国に対して、この景気刺激策がいかに誤っているかを伝えています。

こうして1920年代は、経済的に見れば「失われた10年」でしたが、政治的に見れば「民主化の10年」でした。この間、普通選挙が行われて、事実上の2大政党制が実現しました。

現在の日本でも、財政・経済の構造改革と政治の公明性の回復が強く叫ばれていますが、それを実現するには、「民政党」のような、理念と政策を共有した政党が必要だと考えています。


■民間の構造改革こそ経済回復の原動力

――日本の経済はどのようにして立ち直ったと考えていますか。

坂野 昭和恐慌の後、1933~35年ごろには日本経済は完全に回復していました。その理由の一つは、金解禁によって民間の構造改革が進んだということです。

井上準之助の金解禁以後、民間側で何が行われていたのかを見れば、生き残りをかけて、労使一体となってものすごい経営合理化、技術革新が行われていることがわかる。『労働』という、日本労働総同盟の機関誌にその模様が描かれていて、「わが工場が同業者と比べ能率がいちばんいい」といったような表現がしばしば出てきます。そのころは「能率」という言葉が流行っていたようです。

もちろん、企業の淘汰もありました。経営合理化をしていない企業は落ちていき、している企業は生産性を上げていきました。「能率」のおかげで1935(昭和10)年には日本は不況を完全に脱出するのです。

ちなみに当時も労働組合はありましたが、横並びで、みんなを救済しようということはありませんでした。それぞれ、自分の企業の経営合理化で精一杯です。労働組合があるのは優良企業で、劣悪なところではストをやって潰れていきます。現在の連合の大もとになる、いちばん右翼的といわれている社会改良的な日本労働総同盟の傘下は生産性向上、能率増進運動をして輸出競争に勝つのです。

井上財政の後に続く高橋是清財政は非常に評判がいいのですが、その内容は、満州事変の軍事費を(増税ではなく)公債で賄ったことと、地方を不景気から脱却させるために土木予算を出したことでした。これは現代風にいえば、時局救済です。農村にカネをまいて公共事業を起こし、それによって失業者は職を得られるという、一挙両得のことをしました。

1930年代の大不況から日本が脱出できたということで、高橋財政は評判がいいのですが、実はよく調べてみると、その評価にはマクロの話しか反映されていなくて、ミクロの、民間側の視点が抜けている。私は経済史の専門家ではありませんが、井上財政による徹底した整理合理化なくして、その後に続く高橋是清のインフレ財政が効果を発揮しえたかどうか、疑問を抱いています。


■小泉内閣と近衛内閣の類似性

――現在の小泉内閣は近衛文麿内閣に似ているといわれるが、どこが似ていて、どこがそうでないのでしょうか。

坂野 国民の圧倒的支持を受けているという点では、小泉内閣は近衛文麿内閣に似ています。1932(昭和7)年に5・15事件が起きて政党内閣自体が終わり、斎藤実と岡田啓介の挙国一致内閣ができます。斎藤実内閣は本当の挙国一致内閣で、政友会も民政党もサポートしましたが、国民的人気があるわけではなく、"でもしか"の選択でした。

1934年の岡田啓介内閣になると、民政党と社会大衆党が組んで、政友会潰しを行います。そして1936(昭和11)年2月20日の解散で政友会は71議席を減らして、民政党と社会大衆党が伸びました。この勢力がそのまま伸びていくはずのところで、2・26事件が起きました。こうして、私のいうリベラルと社民が伸び、同時にファッショが出てきて均衡状態が生じたのです。

その危機を救うために登場したのが、広田弘毅と、陸軍大将の林銑十郎です。しかし1937年にできた林内閣は危機を救うどころか、政友会、民政党、社会大衆党からも総スカンを食らい、半年しかもちませんでした。アナロジーでいけば、林内閣に対応するのは森喜朗内閣です。

林内閣は4月30日に衆議院を解散したのですが、選挙の結果、惨敗しました。こうして国民的に不人気だった林内閣が倒れ、日中戦争の1カ月前に、右からも左からも、社会主義政党からも期待をかけられた近衛内閣が出てきたのです。形のうえでは、これが小泉内閣の登場にいちばん似ていると思います。

ちなみに、そのときの民政党の幹事長は小泉又次郎(小泉純一郎の祖父)で、政友会の総裁代行が鳩山一郎でした。近衛内閣には「ファシズムではなく、民主化が伸びるのだ」という期待がかけられ、加藤勘十や鈴木茂三郎、小泉又次郎、鳩山一郎も期待していました。もっとも、陸軍の最右翼の皇道派からも支持されていました。

一方で、近衛内閣と小泉内閣には決定的な違いがあります。それは経済状況です。近衛内閣の1937年は、日本経済が軽工業から重化学工業に大躍進するときで、経済的にはブームでした。一方の小泉内閣は、構造改革に踏み込み、失われた10年に決着をつけなければならない状況にあります。


■近衛シナリオか、民政党シナリオか

――戦前の教訓から、小泉改革を成功させるために、日本の政治はどのように変わらなくてはいけないと考えていますか。

坂野 以前『論争 東洋経済』に書いたように、戦前の民政党のような政党を結成して2大政党制を実現し、論点をはっきりさせて、民政党がやったように国民に信を問うことが必要だと思います。

『論争 東洋経済』に書いた論文のメッセージは、「民主党が若干勢力を伸ばしたからといって、野党を集めて大連合をつくり政権をとっても、細川内閣の二の舞いになるだけ。やはりひとつの理念と政策を共有する形で新党が生まれ、それが与党になって政権交代が起きなくてはだめだ」というものでした。

『論争』に書いたときには、加藤紘一と菅直人の両氏を私はイメージして、自民党と民主党がそれぞれ分裂して新党ができるのではないかと思っていました。それが私のいう民政党シナリオです。ところが自民党から思いがけず小泉純一郎が出てきたので、もしかしたら近衛シナリオにいくのではないかと、私は悩みました。

近衛シナリオというのは、新党という選択肢を出しつつ、何もしないということです。具体的に言うと、近衛内閣は戦争中、近衛新党をつくると言って、他の政党を抑えることをしました。たとえば予算編成が近づくと、政友会や民政党があれこれ言ってくる。そうすると、近衛新党をつくりますよと言ってそれらの政党を脅かす。そして政友会、民政党が腰砕けになって抵抗をやめると、新党は結成しないと言って、解散もしないという状況が続きました。こうして、何もしない状態が続いたのです。

しかし私は、やはり近衛シナリオになることはないと考えています。今と近衛内閣当時では、あまりにも経済状況が違うからです。

確かに、綱渡りをしようと思えば、近衛内閣のように、新党という選択肢を出しつつ、何もしないということもありうるかもしれません。権力を取った場合、自分の権力だけを守ろうとし、国のことを考えなければ、近衛文麿型になることはできます。たとえば、目に見えること、すなわち道路の特定財源を見直すとか、特殊法人を一つ一つ改革していくということをすれば、2年はもつかもしれません。

そして衆議院の残りの任期、3年はそれでもたせて、「あとは野となれ山となれ」で終わるのが小泉政権の最悪のシナリオです。この場合、日本再建はできないということになります。

しかし、経済成長の最中にあった近衛内閣と違って、小泉政権は空手形を出し続けることはできません。

また、最近、『朝日新聞』で、早野透という人が、浜口内閣の民心操作と小泉内閣の民心操作が酷似していると言っていますが、そうではない。浜口内閣は、総選挙で圧勝しているのです。当時の国民も民主化期待のもとに、不況覚悟でも経済をなんとかしなくてはならないという気持ちになっていたから、民政党は466議席中の273議席を確保できたのだと思います。

翻って現在を見れば、自民党政治はだめだと言っている国民的ムードとマッチして出てきたものが加藤紘一の動きであり、小泉内閣だと思います。それゆえ、私は、シナリオとしては絶対に近衛シナリオにはならないと考えていますし、そうなった場合には、日本の将来の展望が描けないと思います。

実際に小泉新党ができるかどうか、そのカギを握るのが民主党と、自民党のなかの加藤派などの左派だと思います。自民党の保守派には出て行ってもらって、自民本党になっていただく。そして自民党に残った人たちが民主党と一緒に小泉さんを支える、という形にしなくてはいけません。

というのも、昭和5年には、民政党に国民の期待が273票集まっていましたが、現在の国民の政治改革期待は小泉首相に向いていて、民主党のほうを向いていないからです。

もし本当に小泉政権が構造改革をするなら、小泉首相はスタンスを左に移して、守旧派と決戦をやらざるをえません。そうすると、新党結成に向かうはずです。政治的に好ましい選択と経済的に好ましい選択、その答えはおそらく一致していると思います。それが「民政党」をつくるということです。


■言論界は筋をつらぬくべき

――こうした戦前の教訓で気になるのが言論側の役割です。今でもそうですが、日本のマスコミは日本が困難に挑戦するときに、絶えず世論の動向によって主張を変え、解決をむしろ遅らせてしまうような状況があります。日本の言論側にも責任があり、立場と覚悟を固めなくてはいけないと、私たちは思っているのですが。

坂野 全くそのとおりです。今もそうですが、当時も全く同じで、言論界の論調は振れていました。ロンドン海軍軍縮条約がうまくいっているときには民政党側で対米協調を主張し、満州事変が起こると、自主自立で行けと言っていました。その路線が行き過ぎて国際連盟を脱退するようになると、自主路線で本当に大丈夫かどうか、不安があるから中間のスタンスを取る、という具合です。

経済政策面でも同様で、30年には、軍縮、緊縮財政、民主化の民政党を応援していたのですが、1931年になって、目の前で失業がどんどん増えるようになると、構造改革批判をするようになる。マスコミは、正しい方向感ではなくて、そのときの流れに乗った言論しかしていなかったといえるでしょう。

今も、小泉政権がちょっと行き過ぎると、ポピュリズムではないかという議論が起こり、小泉批判があちこちで始まっている。外務省の機密費問題でも、外務官僚は高級ワインをたくさん飲んでいると教えてくれたのは新聞だった。国民はそれで怒って、それにメスを入れる田中眞紀子外相に拍手したけれども、今度は大新聞がそろって田中批判をしている。

言論側には、小泉人気を否定しないで、小泉人気を健全な政治的民主化にもっていってほしいと思います。ブームをあおったり、やたらと批判するのではなく、筋を貫いてほしい。その意味でも、私は言論NPOの議論に期待しているのです。

私は「民政党に学び、民政党を結成せよ」というメッセージを変える気はありません。小泉内閣には、まだプラスの方向に行く芽があるからです。このままでは、せっかくの歴史的な局面をプラスにもっていけないばかりか、何がどうなるか読めない。政治改革が失敗して、経済改革も失敗した3年後の日本の姿は描けない。そうなると、やはり国外逃亡でも考えたほうがいい、となってしまいます。

ちなみに、2大政党制ができて、民主党と組んだ小泉さんが勝ったとしても、2年が限度だと思います。景気が回復してくれば、また政友会的、守旧派的なものが勝利を収めるようになるでしょう。私はそれはそれでいいと思います。なぜなら、政権がまた自民党守旧派に移っても、そのときには民政党という強固な野党が存在しているからです。

言論界は、3年以上続く政権構想を期待して、そのくせ、あっちがだめならこっちへ走り、こっちがだめならそっちへ走る、ということを繰り返していますが、歴史上、どんな政権でも3年以上うまくいったことはありません。

ある政権がだめになるときというのは、任務を終えたときです。任務を終えたら、別の政権がつく。そしてその政権が任務を終えたら、また別の政権ができる、ということでいいと思います。政権交代がなぜ必要か。それは永遠に正しいということはありえないからです。それはマスコミも同じだと思います。

その意味で、歴史の共通認識をもとうという主張は間違いです。現在の立場が保守とリベラルと左翼とに分かれているように、歴史上の党派や人物にも保守とリベラルと左翼の区別がありました。それゆえ、自分が誰にとっても完全に正しい歴史認識を出していると主張するのはやめたほうがいい。そして自分がどの立場から歴史を眺めているかを明らかにしなくてはならない。だから私は、『論争』に寄稿するとき、自民党左派と民主党の一部が「民政党」をつくることを期待する立場から書く、と自分の立場を明らかにしました。

イギリスでは、保守派は『タイムズ』、リベラルは『インディペンデント』、労働派は『ガーディアン』を買いに行く。新聞が保守、中道、左派に分かれています。しかし日本では、まだそれがはっきり分かれていない。自らの立場を明らかにすべきなのです。

――ありがとうございました。

(聞き手は工藤泰志・言論NPOチーフエディター)