【リニューアル特別座談会】
      市民社会は「民主主義のセーフティネット」

2010年2月21日

第1話 政権交代と日本に問われる「政治の変化」


参加者:小林陽太郎氏(元経済同友会代表幹事、言論NPOアドバイザー)
    山本正氏(財団法人 日本国際交流センター理事長)
    小倉和夫氏(独立行政法人 国際交流基金理事長)
司 会:工藤泰志(言論NPO代表)

工藤泰志工藤泰志 日本では政権交代をきっかけに、政治が大きく変わり始めました。ただ、私はこの変化が、この国が未来に向かって動き出す契機になるためには、私たち有権者、あるいは市民がもっと強くならないと、と私は思っています。
 言論NPOは今、ウェブサイトのリニューアルで「強い市民をつくるための言論」という議論づくりに取り組んでいます。強い市民社会を作り出すための「市民社会の論壇」を、このサイトで実現したいと思うからです。
 強い市民社会というのは、自立した個人が自分の判断で日本の政治や将来を当事者意識を持って議論したり、判断できるような社会のことだと思います。ただ、最近の社会の傾向を見ていると、何だか非常にポピュリスティックな面も強く、私たち有権者自身が問われているような気持ちにもなります。この状況を私たち自身の力で、議論の力で変えたいというのが、私たちの思いなのです。
 ここで議論をいただきたいのは第一に、日本の将来を考えた場合、日本の政治に真に問われている変化とは何なのか、ということです。そして2つ目に日本の社会に強い民主主義を実現するためには何が必要なのかということ。それから3つ目は、日本の市民社会を強くするためには何が大切なのかということです。

「自分たちがつくり上げた政治」なのか


小倉和夫氏小倉和夫 私は長く外交官としてフランスに滞在しておりましたが、フランスには私立大学というものがなく、大学はみんな国立か公立です。つまり権力、大学の人事権が、全て政府の側にあるということになります。そこで私は「それでは大学の自治がなくなるではないか、権力が介入してきたらどうなるのか」と尋ねてみたことがあります。するとフランスの人たちは「俺たちが政府をつくって、政府は俺たちを守るために存在しているのだから、俺たちの不利益になるような行動をとるわけがない」と言うわけです。
 若干、フランス人的な詭弁という部分もあるかもしれません。が、そういう意識こそが大事なのだと教わったことがあります。つまり、革命において何が重要なのかというと、物事を変えるということではなくて、「自分がつくり上げた」という意識を市民が持てるかどうかだと、思うわけです。 これを日本の政治の変化に置き換えて考えてみますと、日本の現政権による権力の行使の正統性は、他党のマイナス要素によって成立しているという面があるともいえます。そこをどうとらえるのか。このことを考えておかないと、問題が非常にややこしくなります。重要なのは、国民ひとりひとりが「今の政権は俺たちがつくったんだ」という意識を持てるかどうかということです。

山本正氏山本正 私は先の選挙の結果を、比較的ポジティブに受け止めています。同じ政党が何十年も権力を握ってしまうと、やはりろくなことは起こらないわけです。「政権交代の可能性がある」ということが、民主主義にとっては極めて重要なことだと思います。
 今までは、民主主義と言いつつも一党独裁で、ところどころで民主主義のようなものを継ぎ接ぎで見せていただけだった。もちろん、民主党のほうでどれだけ準備ができていたのかということには、多少の不安はありますし、政務三役だけで、省庁のガバナンスの中心を担うことが本当に適切なのかどうか、という思いはあります。しかし、よく勉強している議員も多いですし、多少ラディカルな見方で言えば、今までの官僚支配の体制から脱皮するためには一種のショック療法が必要なのではないか、そのうちにだんだん落ちついてくるのではないかと、というのが私の思いです。 政府と官僚が社会のプライオリティを決めてきたというのが、今までの日本のガバナンスのシステムです。そこに国民が本当に参加していたのかといえば、そうではなかった。むしろ、お上に任せていたというのが実態ですけれども、小倉さんがおっしゃったように「自分がつくった」とまでは言えないにしても、「変化の一端を担った」くらいに思っている人はいるのではないかと、私は多少、楽観的な見方をしています。
 かつてアメリカの学校に行ったときのことを思い出します。そこでは学生がみな、喧々諤々とくだらない議論をするわけです。今にして思えば、それが一種のトレーニングになっていたのかなと。日本の場合は「まとまったことが言えなければ発言しない」という人が多いのですが、ではまとまったこととは何なのかというと、新聞に出ていることをそのまま語ることがまともだと思われたりするわけです。それは自分で苦しんで考えたうえで言葉を発するのとは違いますから、そういう意味では、民主主義としての基本的な要素が日本ではまだ欠けているところがあるのではないかなとも思います。

民主主義が一歩前進したことは、間違いない


小林陽太郎氏小林陽太郎 お二人の発言と重なる部分もありますが、私も日本で政権が変わったことは基本的には良かったと思っております。ただ、なぜ変わったのかといえば、小倉さんも言われたように自民党の失点という部分が大きかったわけです。もうひとつ、時代の変化も感じます。
 20数年前には、時の為政者を含めて経済界のリーダーたちが、日本社会の左傾化に対する強い危機感を抱いていました。一般の人々も少なくとも感覚として「共産主義化は嫌だ」と思っていた人は多かっただろうと思います。ところが、今となってはその意識がなくなったわけです。その人たちが、特にここ10年くらいの自民党のあり方について嫌気がさしてしまって、ある意味では危機感を抱くようになったのだと思います。
 20年前とは違って、体制として左に傾く心配はないわけですから、今度は民主主義と市場経済という枠組みの中で判断をしていくということで、新しいチームにやらせてみてもいいのではないか、という判断もあるのだろうと思います。
 ひとつだけ私の心配を申し上げますと、いろいろと言われているように、民主党内部が必ずしも一本柱ではないということです。そういう状態のままで、政権党としてどこまで影響力を発揮していけるのか。これは特に国内問題として注意していく必要があります。ただトータルで見れば、何だかんだ言いながらも政権交代が実現したということ自体は日本の民主主義として、一歩前進したと思っていいのではないでしょうか。

工藤 政権交代は民主主義の一歩になった、というのはよく分かります。この変化の大事さを考えると、もう少し様子を見るべきとも思うのですが、言論NPOは、政権後100日に第一回目の評価を行ないました。100日のハネムーン期間は終わり、有権者の監視が始まる。そうした政治との緊張関係が、大事だと思うからです。ただ、評価はかなり低いものとなりました。その立場から言えば、私も気になることはあります。
 選挙の際に約束はあまりにもサービス競争的で実際には財源的にも難しいことははっきりしている。また、様々な支出の計画は何のために行うのか、その上位の目的や、さらに言えば目指すべき社会やビジョンと整合性がとれないというものも、かなりありました。
 ただ、それがその後の予算編成でそうした約束が今後はうまくいかないとはっきりしただけではなく、財政の拡大の財源の不安が高まっているのに、それを国民に説明していないことです。成長政策や年金の制度設計など、まだまだ具体的な姿をしっかりと国民に説明していないということです。
 政府はそれを整理して、優先順位を決めて、何をどういう手順で実行するのかを国民に説明することが必要なのです。

小林 細かい批判は別として、今の民主党政権に対して示されている批判というか危惧のひとつは、どういう国家をつくろうとしているのかという国家像が見えないということです。もうひとつは、現在のような経済状況下で成長戦略が具体的に見えてこないということだろうと思います。3つ目としては党内の問題ですね。
 ただ、最初の2つに絞って言いますと、これは小倉さんや山本さんのご意見もうかがいたいのですが、政党の共通の課題とも思うのです。長い自民党政権の中でも、審議会などの場でいわゆる「5カ年計画」といったものが出されました。国家像というか、目指すべき目標らしきものは、それなりに出ていたような気がしますけれども、「今の民主党に国家像がない」といったときに「では自民党政権の時には出ていたのか」というと、そこまで明確なものがあったとは思えないし、自民党政権の時も、明確な国家像を打ち出して国民を引っ張っていくというスタイルではなくなっていたようなところもあります。

山本 両党のマニフェストはhow toのところしか言っていなくて、その結果として何を目指すのかというところが見えないわけですよね。

小倉 日本の政治が、変化したのはわかります。特に霞が関や永田町あたりを歩いていると、ずいぶん変わったなぁと。しかしながら、本当に変わったのかというと、まだはっきり言える段階ではない。日本の政治のひとつの現象として、政治が非常に細かい世界で行われるようになってきた。これは今の政権にとどまらず、竹下内閣に終わりくらいから、数字や細かい事実を知っていることが、政治家としての重要な要素であるかのような風潮が永田町に広がってきました。ビジョンなどを主張するのは書生じみているという話になっている。どちらかというと、自民党の政権でもその風潮が強かったような気がします。つまり、悪く言えば政治が小さくなっているというか、政治自身が官僚化している。
 小林さんが言われたが、将来ビジョンが出てくれば変わるのかもしれません。チェンジはいいのだけれども、「ヘアスタイルや洋服は変わったのかもしれないけれども、体は何も変わっていない」ということでは困ります。よく考えてみて、具体的に何が変わったのかということをもう少し見て行く必要があると思います。

山本 自民党に国家像があったかというと、ちょっと飛び跳ねた人以外はみな平均的な感じです。だから、民主党だけの問題とも言えません。そう考えるとやはり、いろいろなシンクタンクや大学、NGO・NPOを始めとして国民が、新たな議論をつくっていかないと、日本の政治が今後どうなろうと、同じ問題に直面してしまうというか、日本のガバナンスシステムの向上にはつながらないような気がしています。

日本の政治に本来、「問われる変化」とは何なのか


工藤 私は、今の政治の変化について「物足りない」などという論評は、「こういう変化が必要だ」という考えがあってこそ言えることなのではないかと思います。これからの日本を考えたときに、日本の政治に、本当に問われている変化とはどのようなものだと、お考えでしょうか。

小倉 ちょっと極端なことを申し上げますと、効率性重視の社会を変えるということを言わない限り、日本は変わりません。自民党も民主党も結局のところ効率性重視であって、事業仕分けなどはその典型です。もちろん、効率性は重要です。新幹線が30秒と遅れずに到着する社会も悪くはないですが、それを社会における最重要の価値として考えていいのかどうか、そのポイントに一度メスを入れる必要があります。
 先日、ドイツのメルケル首相が日本に来た際に、20名くらいで話をする機会があったのですが、そのときのメルケルさんの発言に私ははっとさせられました。「ドイツや日本、アメリカの社会が、今の貧しい国々のモデルであると言い切れる自信がない」と言って、「あなた方はどう思うか」とおっしゃったわけです。日本にとって、明日の国家像ということは確かに重要だけれども、我々は貧しい国々に対して「今の日本はあなた方のモデルになりますよ」と、果たして胸を張って言えるのでしょうか。そこをまず問うべきではないのか。そうなると、ひとつ大きな問題として、今の日本社会が過度に効率性重視に傾いているということについての反省が、どこかで出てこないとうまくいかないのではないか、という気がしています。

山本 効率性の対になるものとは何なのでしょうか。

小林 効果でしょうね。しかし、今の社会を見ると、効果が少し小さくなってもいいから効率性が高いほうを選ぶという、日本だけではなくて世界中にそういう風潮があるように思います。本当はいろいろなところで最大の効果、より良い効果を目指したいと思っていても、効率性が伴わないと許されないということが、確かにあります。

山本 少し話が飛びますが、私が日本の政治で決定的に欠けていると思うのが、「国際社会の中で日本がどのような貢献をするのか」という議論です。それこそが中心的なテーマになると思うのですが、全くといっていいほど、このような議論が政治の舞台にないのです。これは小倉さんがおっしゃったような、貧しい国のモデルになれるかという観点も含まれますが、やはりそういう外に向けて今以上に手を伸ばしていくような社会を日本がつくらないといけない。日本として誇りにできるものはまだたくさんあるのではないかと思いますが、そういうマインドセットを日本が持たない限り、尊敬され気概を持った国にはならないのではないかと思います。

効率性重視のままか、より良い効果を重視するのか


小林 効率性という点から言いますと、その反対概念が効果ということですから、何を目指すかということは、効果のレベルでどういう国にするかということでしょう。いくつか話がつながらないところもあるかもしれませんが、たとえば、1945年以前の日本の企業経営というのは、ある意味で今のアメリカ顔負けくらいに純粋資本主義のキャピタルシステムでした。しかしそれが一気に、雇用重視に切り替わるわけです。戦争という、あれだけの経験にぶつかって、人間にとって働くということがどれだけ大切かということを政治家も経営者も改めて理解したからです。「とにかくまず働く場を確保しようじゃないか」と。終身雇用というのは、そういう戦後の団結から生まれた、ある種の伝説のようなものです。
 戦後のある時期では、アメリカから日本の企業経営が勝つのは当たり前だと言われた時もありました。徹底的に効果を目指して、効率が悪くても株主から非難されないからです。それを見て、「あんなことをやっていたら俺たちは株を売られてしまう」というのがアメリカの経営者の気持ちでしょう。日本は利益率が悪くて株価も低いのに、それでもどんどんシェアを伸ばして良いものをつくって大きな顔をしている。
 ある意味では、効率を軽視し、効果を徹底的に重視した日本の経営の効果はものすごく上がったわけだけれども、いつまでも同じやり方はできない。外に出て行けば、それは通用しないわけですから。今は逆に、効率を重視しないとグローバル市場では通用しないというところに来ているのだと思います。
 リーマン・ショックはよく「100年に一度の危機」だと言われました。本当にそうだとすれば、1945年にあれだけの決断を下したわけですから、今一度、短期的でもいいから雇用重視の経営をやってもいいのではないかと。ところが誰もやらないわけですよね。そういう意味では効率化のほうに傾き過ぎてしまったのだろうと思います。
効率から効果に100%切り替えるべきだと言っているのではなくて、両者のバランスを維持する中でもう少し効果を重視して、一時的に効率が下がったとしても、その結果として雇用などに対してもう少しバランスのとれた資源配分が行われるのであれば、それはそれで望ましいことだと思います。
 そういう、ある種の変化を許すような社会環境や市場環境をつくっていかないとと思うのです。アメリカを含めて、これまでの価値観を反省すべきだと言いながら、市場におけるスコアカードのつけ方は依然として効率重視のままだと思います。

小倉 小林さんがおっしゃる通りで、今の傾向は言い方を変えると、個々の小さな領域での効率性を最大限にしようとしているわけです。事業仕分け自体は良いことだとは思いますが、やり方を見ていると、ひとつひとつの領域の中で「効率性はどうか」という話をしています。しかし、それらを全部合わせたときに、社会全体としての効率が果たして良くなっているか。それが小林さんのおっしゃる効果ということであろうと思います。
 個別の小さな領域において、みんなで一生懸命になって効率性を上げたからといって社会全体が本当に効率的になるかということは別問題です。単体として見たときに非効率に思われるようなものがあってこそ、社会全体として実は非常に効率的に動いているということは、よくあるわけです。今の日本は、ミクロの分野で必死になって効率性を上げているために、社会全体としての効率あるいは効果―それは定義によると思いますが―そういうものを見失ってしまっているのではないかという気がします。


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