【座談会】マニフェストで日本の政治は変わるか 「政治ジャーナリズムの報道対応」

2003年9月30日

kimura_y030930.jpg木村伊量 (朝日新聞編集局長補佐兼政治部長)
きむら・ただかず

1953年生まれ。76年早稲田大学政治経済学部政治学科卒。同年朝日新聞社入社。82年東京本社政治部。93年米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員、94年ワシントン特派員。政治部次長、社長秘書役、論説委員、政治部次長を経て、2003年編集局長補佐兼政治部長。共著に「竹下派支配」「ヨーロッパの社会主義」など。

suganuma_k030930.jpg菅沼堅吾 (東京新聞社会部長、前政治部長)
すがぬま・けんご

1955年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。78年中日新聞入社。岡崎支局、静岡総局、東京本社・社会部などを経て、89年から政治部。2001年8月に政治部長。03年6月より現職。言論、政治、経済、労働など各界の有志でつくる「新しい日本をつくる国民会議」(21世紀臨調)の運営委員。主な共著に「自律元年」「ぼくらが出会った希望のかたち」など。

serisawa_y030826.jpg芹川洋一 (日本経済新聞政治部長)
せりかわ・よういち

1950年生まれ。東京大学法学部政治コース卒。東京大学新聞研究所修了。76年日本経済新聞入社、静岡支局配属。政治部/政治部次長、編集委員を経て2001年3月より現職。著書「憲法改革─21世紀日本の見取図」

yamada_t030930.jpg山田孝男 (毎日新聞政治部長)
やまだ・たかお

1952年生まれ。75年早稲田大学政治経済学部を卒業し、毎日新聞社入社。長崎支局、同諫早駐在、西部本社報道部、東京本社社会部を経て84年から政治部。93年福島支部次長。95年政治部に戻り、首相官邸キャップ、デスク、編集委員を経て02年10月から政治部長。

makino_y030826.jpg牧野義司 (ジャーナリスト、言論NPO運営委員)
まきの・よしじ

1943年生まれ。早稲田大学経済学研究科修士課程卒業後、68年に毎日新聞社入社。主として経済部記者としてマクロ、ミクロの経済学取材に関わり、88年ロイター通信に転職。日本語ニュースサービス部門でマーケットやマクロ取材を経て2001年日本語サービス編集長などを歴任。現在は経済ジャーナリストのかたわらアジア開発銀行コンサルタント、さまざまなNPO活動に関与。

概要

いま、政治の現場では、マニフェスト(政権公約)という、英国の政党政治が生み出した政策本位の枠組みが定着するかどうか、とくに自民党総裁選、さらにそのあとに続く衆議院の解散・総選挙で、このマニフェストをめぐって政党間で政策競争が展開されるかどうかが大きな関心事となっている。
それもこれまでのような言い放しの選挙公約ではなく、政策実現の実施時期など数値目標を盛り込み、政治が有権者に対して契約に近い公約によって、緊張感のある政策競争を行えるかどうか、それによって国民や有権者の政治不信を払しょくできるのかどうかも焦点になりつつある。
そこで、言論NPOでは主要新聞社の現役政治部長を中心に座談会を行い、マニフェストで日本の政治は変わるのか、そして政治ジャーナリズムは、この動きに対して、どう対応するのか、といったテーマで議論してもらった。
結論から先に言えば、マニフェストには光の部分と影の部分があり、過大な期待や幻想を抱くことは危険ながら、次期総選挙でマニフェストの有効性を試すチャンスであること、政治が官僚などに政策立案を依存せず自ら政治主導で政策本位の政治に変えるきっかけになれば、文字どおりの政治改革になり得ること──などの指摘があった。
ただ、その際、政策の検証、さらには政策が正しい判断で行われているかなどの政策評価をしっかり行うことが前提になるといった指摘もあった。また、マニフェスト型の政治が機能するためにはメディア側にも役割があることが全体の認識になっていることが報告された。
しかし、その一方で、政治ジャーナリズムとしては、これまでの政局報道から政策報道へ変えたいという念願があるものの、日本の新聞社の政治部は、「権力所在探求部」といったところがあり、生臭い権力の動き、その変化を探ることに重点が置かれること、また、政策が権力闘争の道具に使われるといった現実があることから、政治取材にとどまらず、全社的に取り組まないと、政策を軸とした報道は難しいこと、さらに読者の啓蒙だけでは紙面づくりが難しいなどの限界や課題が指摘された。

工藤 今回は政治報道の責任者の方に来ていただき、今のマニフェスト(政権公約)という新しい動きを政治ジャーナリズムはどう考え、それに対応すべきなのか、ということを話し合いたいと思っています。これは政権公約と国民との契約ともいえますが、こうした今回の政治の動きをどう見ているのか。そこから議論をお願いします。

日本の政党政治の大きな試金石

木村 日本の政治が変わるかな、と私が感じたのは、今から10年前の1993年のことです。自民党の40年支配が一端、途切れ、政治改革というかけ声が上がり、同時に、衆議院に小選挙区制が初めて導入された。これで自民党の金権腐敗政治が一掃され、これから政策優位の政治に変わっていくと期待したのです。ところが、この10年、そういう部分の芽も出てはきているが、結局、選挙になると、相も変わらぬ宣伝カーで連呼となる。

二大政党制が好ましいかどうかはともかくとして、その目指すものは政策優位の政治のはずだが、現実はそうはなっていない。そんな時にこの春の統一地方選挙をきっかけに、地方の中から北川さん(前三重県知事)らが中心になってマニフェストを前面に押し出してきた。これが政治の側を本当に政策本位にどこまで追い込んでいけるかどうか。日本の政治はそういう潮目に今来ていると思う。マニフェストが新しい日本の政治インフラの整備という中で使えるツールになるかどうか。自民党の総裁選挙、それから多分近いであろう総選挙というのは、マニフェストの有効性を試すだけでなく、次の10年を新しい段階に日本の政治は持っていけるかどうかの試金石になると感じでいます。

芹川 私の政治認識はこうです。1993年が自民党政治の終わりの始まりだったが、今のプロセスは、それが、どうも「終わりの終わり」という段階に来ているのではないか。現実問題として、政治不信を背景に政党政治の危機というところに立ち至っている。

1つは、細川(元首相)連立政権ができた後、自民党が政権復帰ということで、自社連立で自民党と社会党が組む。55年体制からすると、水と油のようなとんでもないことをやった。これは政権をとるためには何でもやるということで、これで政治、政党不信がまず芽生えた。2つ目は、それに対抗する勢力として新進党ができたが、解党してバラバラになった。その後はプレハブ政党みたいなもので、ほとんど政党が雲散霧消というか、組みかえ、つくり直しみたいなことばかりをやり、それがまた政治不信、政党不信につながった。3つ目は森政権の誕生。小渕首相(当時)が突然倒れ政治空白が起きた中で、5人組と言われる自民党首脳らによって密室の中で新政権が生まれた。政権は、こういうふうにつくっていいのかという問題が指摘されたが、あのプロセスも政治不信を助長した。

さらに、これがとどめを刺したようなものになると思うが、森政権のあと、小泉政権ができ、小泉首相は、自民党をぶっ壊すと言う。つまり、自分の政党を否定した上に成り立っている。小泉対自民党抵抗勢力という形の対決の図式をつくった。非常に自己矛盾に満ち満ちた展開をしたことによって政党そのものに対する不信感が募っていった。

これらの政治不信が、無党派層をどんどん作り出した。政党政治をどうやってつくり直すか、政治不信をどう払拭するかが今、課せられた問題ではないかなと思う。その点でマニフェストは政権をつくり直していく上での1つの物差しにもなると思うし、政党を鍛え直す、つくり直すムチの役割がマニフェストにあるように判断している。

菅沼 私自身は政治改革の渦の中にあった平成元年に政治部の記者になったが、当時、日本の政治が変わるのではないかと、ある意味でメディアも興奮状態にあった。ところが10年たって、今どうか。答えは歴然としている。10年前にマニフェストの考え方も小選挙区の制度とセットで導入すべきだったと私は思っている。改革の大きな柱である小選挙区制を導入したのに、制度を生かす道具であるマニフェストを整備できなかった。当時は、小選挙区制さえできれば政治は大きく変わるのだろうと思ったところに、制度設計者の油断があった。政治家はずるいので、もっと公約というか政策本位の選挙を"外圧で"推し進めることが大事だった。小選挙区の仕組みに政権公約をセットにして、さらに政治家の意識改革が加わった三位一体の改革となれば、よかった。今ようやく10年目にしてマニフェストという動きが出てきて、10年前の忘れ物をやっと取り戻してきたという感じだ。

次は政治家の公約に対する意識が変わっていけば、日本の政治はようやく大きく変わっていくのかなと思う。今はまだ「自分たちは国民に白紙委任されている」というような公約軽視の政治文化がある。

ここで国民の信頼を取り戻せないと、日本の政党政治は復活できない。その意味で、マニフェストをいかに定着させるか、別の言い方をすると日本の政治に「政党、政治家は約束を守る」という信頼をいかに国民の中に定着させていくかとことが、これからの大きなテーマではないかと思う。

山田 歴史的に見て、官僚と政治家が政策を決めていた時代から、今、政党に対する不信、官僚に対する不信というものが極まっていく中で、知的大衆社会というか、有権者の側が一緒のレベルで政策を考えるような時代に移行してきた。したがって、今までのような公約ではなくて、より論理的なもの、もう少し詳しいものを有権者の側が求めているという時代に対応してマニフェストというものが出てきたのであろうと思う。

口幅ったいことを言うが、プラトンは、被統治者が勝手なことを言い出すような状況は独裁制の前夜であると言ったわけで、私は、知的大衆社会でマニフェストで万々歳という感じでないが、時代の要請として、マニフェストが出てきた、という認識はある。

ごく最近の例で見れば、小泉政権において、例えば道路公団改革で、むだな高速道路はつくらないんだというところから出発した話が、いつの間にか民営化推進委員会の委員に猪瀬氏(作家)を入れるか入れないかという活劇になって、やれ古賀(元自民党幹事長)が怒ったとか、小泉が防いだとかいう話に報道がスライスしていく。これに対する読者、有権者側の不満というものがある。そもそも道路公団改革の論理というのはどういうふうに貫徹されるのかをしっかりと報道してみろと。恐らくこの座談会の問題意識もそこにあるのだろうとは思うが、そういうことがまずある。

それから、今年1月の衆議院予算委員会の総括で、民主党の菅直人氏が小泉首相に「あなたは国債発行枠30兆を守っていないではないか」と追及したときに、小泉氏は、公約を守らないのは大したことではない、という言い方をしてしまった。こうした状況に対して、歯止めをかけるのは当然ではないかという流れの中で、マニフェストという議論が出てきている。我々もその流れに沿って、どの政党は何を言うのか、つまり、公約を守るのか、守らないのかをチェックする必要が出てきた。

政治学者のジェラルド・カーチス氏が東京新聞のコラムで、政治改革幻想は、もうそろそろ卒業するときではないかと書いている。つまり今のマニフェストの動きについて、93年の小選挙区幻想と似たようなことではないかと。それは1つの動機というか、物を動かすきっかけであり、貴重なことであるけれども、それがあたかも魔法の杖であるかのように報道し、また、そういうフィーバーを巻き起こした場合に失望も大きいのではないか、と指摘している。第一、先進民主主義国のどこを見回しても、50ページに及ぶ選挙公約を読んで、有権者が勉強して投票するなんていう国は1つもないといし、確かに、マニフェストさえ導入すればすべてオーケーというような方向に流れるわけにもいかないと思っている。

マニフェストと政策決定プロセス

工藤 これまでの政治報道を見ていると、小泉首相の発言に対して守旧派がどう対抗しているか、といったことが多い。マニフェストは仮にできても、それを実行するプロセスを問題にしていかないと、公約に責任を持つ政治に追い込めないと思います。つまり、マニフェストとその実行は両面で監視をしていかないとならないのですが、そこがなかなか見えにくい。たとえば、小泉首相が首相官邸主導の政策という形で経済財政諮問会議を運営している。その議事録の初めで、竹中平蔵経済財政・金融担当相は骨太の第1の方針について、これが改革のマニフェストだという言い方をしている。しかし、結果として政策形成プロセスの中では霞ヶ関や自民党内の中で骨抜きにされていく構図があり、当初の目標がどうなったのか、結果的に、何だかわからないという状況がこの間、続いていることは事実で、そこにメディアもそうこだわってはいないような気がします。

木村 今、小泉対反小泉とか、小泉対守旧派というか、対抵抗勢力と言われるものとの対立の構図をマニフェストで解いていくとどうなるか、という問題があります。

確かに骨太の方針というのは3回にわたって出てきており、骨太の方針やらロードマップというか工程表も出てきている。しかし、その意識が総論としては理解されてはいても、自民党や与党の中ではそれが承服されていない。今に見ていろ、巻き返してやるといった気分なわけです。つまり、抵抗勢力と言われる人たちは、小泉は独走していて、自民党の政権構造が二元化してしまう一方で、小泉首相は、その二元化している摩擦熱をエネルギーにして、自分の政権浮揚に使おうとする構図になっている。そこを踏み絵にしている。マニフェストを使いながらのポピュリズムみたいな要素が確かにある。

今のところは民主・自由党という野党があり、小泉首相がいて、それから小泉首相とは別に自民党に抵抗勢力がある、という一種の三国志的な世界になっている。しかも、小泉さんは自分の政策にイエスかノーかということで踏み絵を突きつけている。これで政権を引っ張っていこうということかもしれないが、国民にとっては、まさに野党対小泉・自民党ということの選択の前に、モヤモヤを解消していかなくてはどうしようもない。ただ、小泉さんがマニフェストということを掲げることで、自民党全体がそこに収れんしていくならば、これも1つの方向でしょう。もちろん、小泉首相のマニフェストも結局は選挙乗り切りのカッコつけではないかということになると、余り生産的な議論にはならない。

だから、総裁選挙から総選挙に向かう今年の政局というのは、さあ、だれが総理になるか、だれが自民党総裁になるかといったこと以上に、政治の質の転換の可能性を秘めている。ジェラルド・カーチスさんの話のように、マニフェストは魔法の杖ではないが、これをどうやってうまく使っていけるかは、我々報道する側ももう少し考えてもいいのかなという感じはしています。

工藤 かなり報道でプレッシャーをかけなければだめ、ということですよね。

木村 そう、いい意味で政治を追い込むということでしょう。

芹川 小泉氏は自民党の破壊をやろうとしているが、その中の1つとして政策の決定システムを壊そうとしているのかという問題もある。自民党の場合、いわゆる55年型の役所対応型の政党で、下から積み上げ方式でやってきた。それと対峙するものとして、内閣主導、首相主導の経済財政諮問会議がつくられた。マニフェストも、多分そこに位置づくと思う。役人が下からつくってきたものをホチキスでとめ選挙公約にするというのが、今までの自民党のやり方だったが、首相サイドは、政治の場で議論しながら、一方で、当然のこととしてトップダウンでリーダーが方向を打ち出し、しかも踏み絵を踏ませるという。自民党というのはある意味で日本社会すべてみたいなものだから、その中で、この部分に入り切れない人は、そこから外れてくださいと。もしくはこっちの人はあっちへ入ってくださいという組み替え、政党の組み替えを行えば、政党の再編の道具にもなり得る。

工藤 小泉首相は、そこまで本気で迫ろうとしているのですか。

芹川 いや、迫っていない。小泉氏が今やっているのは、自民党の中の権力闘争をやっている。

政治家にとって政策は単なる権力闘争の道具か

もっと言えば、権力闘争の道具として使っている。これは自分の権力、つまり解散・総選挙があって、自民党総裁選挙があって、総裁選挙をどうやって有利に戦うかというときの1つの道具としてこれを出して、踏み絵を踏ませる。それで今の抵抗勢力だ何だという図式をつくる。これが内閣支持率にはね返ってくるとか、そういう図式の中で使ってくるわけでしょう。

政治家において政策論争はない。政策というのは、彼らにとっては権力闘争の道具なんですね。これは、政治記者はみんなそう思っている。マニフェストはそうなりかねない。しかし、誤解されては困るが、われわれは、マニフェストも政策についても、これは権力闘争の道具だということをわかった上で見ないといけない。

菅沼 自民党の政策形成プロセスに関する問題として、小泉首相は自民党総裁なのだから、自分の政策に関して、従うのか否かという踏み絵を所属国会議員に踏ますというのは、分かりやすい政治を行うために、いいことなのでないかと私は思っている。自民党はとにかく包括的な政党で、主義主張は右から左までたくさんあり、一種の日本国民党のようなもの。どの政策を見ても意見の幅が広い。だから国民に「これが自民党政策です」と訴える時には、時の総裁の意見に集約していくしかない。だからこそ、総裁には任期があるわけで、ある程度、小泉首相が自分のやりたいことを提示し、抵抗勢力とも相当議論を戦わせて最後はきちんと説得する。このプロセスというのは、自民党が権力を握ること自体を目的とした政党ではなく、公約を大事にし、政策実現を目的とする政党に生まれ変わるためにはやるべきプロセスだと思う。

もちろん、それで小泉マニフェストができたからといって、本当に今の自民党が与党のままで実行できるマニフェストなのか、または究極的に政界再編まで持ち込むしか実行できないマニフェストなのか、それはこれからの自民党内の政策論争、権力闘争を見ていくしかない。

木村 マニフェストを考える際のポイントがいくつかある。1つは官僚主導政治を抑え込める余地がある。政界再編を促すような契機になるかもしれないということもあるし、いろんな副次的な要素もあると思う。2番目は、今までの公約と何が違うのかが有権者の目には必ずしも明確ではない。3番目は、マニフェストの成果をだれがやっていくのか。野党が検証するのか。4番目は、日本のように二大政党化していないときは、選挙の後に政党フ組み合わせによって、連立、連合政権ができちゃう。各政党のマニフェストの問題と、連立政党の政権綱領という問題をどう区分けしていくのかという問題。5番目に、これは前提ですが、有権者が今の政治をちゃんとフォローアップしているという政治意識の高さが基本になる。

政党がマニフェストを作れるか

牧野 自民党の5人の若手議員による「マニフェスト策定研究会」が行った政策構想発表の記者会見に出た。政治家主導で政策をつくったと言うので、興味があったのだが、率直に言って、いま1つだった。政策競争で政党が緊張感を持つことが、政治不信を払拭するきっかけになるという、いい意味での危機意識を持っているのは認めるが、どこか空回り、という印象を否めない。マニフェストで政党が本当に政策競争が出来るのか、さきほどの話のように権力闘争に使われて政策志向の政党集団になるなどほど遠いと思った。

工藤 その点につけ加えれば、この前、この言論NPOで自民党の保岡興治さんや行政学の人たちと座談会をやった際、小泉首相のマニフェストのベースは何ですかと言ったら、「骨太の3」だと言っていた。しかし、本来は、マニフェストは政党がつくるもの。小泉首相も経済財政諮問会議にそれを振っているだけ。こういうのをみると、だれが責任を持って政策立案と形成をやっているのかというのがよくわからない。

山田 自民党のマニフェストをまとめるセンターがどこかと言えば、政調(政務調査会)はじめ、国家戦略本部とか、あるいは森派とか派閥レベルの研究会などがあって......。どこが一番権威を持っているかとなると、やっぱり政調ですかね。

芹川 いや、いまは国家戦略本部でしょう。自民党総裁直属に一応、なっているので。ただ、さきほどの自民党の若手の政策構想提案は、それはそれでいいことで、彼らは官僚抜きにすごく勉強している。ただ、問題は、ではこの先それが党の政策になっていくのかという話になる。

菅沼 若干の政策構想は、正確に言えばマニフェストではない。自民党の若手5人がつくった単なる政策。それをマニフェストという言葉に置きかえて議論するとマニフェストの概念について混乱が起きる。彼らは、自分たちの政策を小泉首相に提案し、小泉首相が主導で作る自民党のマニフェストの中に入れてくださいと言っているだけだ。

今の政界をみているとマニフェストという言葉の誤用が氾濫している。国政選挙において、マニフェストは個々の政治家がつくるものではなく、あくまでも政党がつくるものであって、各政党に一つしかない。ところが現実には個々の政治家が従来の自分の政策を格上げするために「これがマニフェストだ」と選挙区で宣伝している。マニフェストは政権の公約であって一議員のマニフェストなんてナンセンス。このままではマニフェストの価値がどんどん下落していく恐れがある。

芹川 予算編成のときに、自民党の族議員の集まりである各部会が出すものと同じになってしまいかねない。

工藤 そうならないように、マスコミが追い詰めなければだめですよね。

木村 確かに、追い詰めないといけない。

菅沼 マニフェストが日本の政治に定着するかどうかは、やはり自民党のマニフェストづくりがポイントになる。自民党がどこでマニフェストをつくるのかはっきり示さないと、この議論は収れんしないですよね。

芹川 それは自民党総裁の判断ですよ。総理総裁がどうするのか、はっきりさせなければならない。つまり政権選択は、首相選択をやることだし、政策選択なわけでもある。この三つの選択をやるときに、自分は何をどうするんだということを、今で言えば小泉首相が示して、ここで議論するのだということをやらなければいけない。ところが、彼は全然違う思惑でやっている。自民党のいろんなところでバラバラ出てきて、いろんな人がいろいろ言っていて、彼はそれをにこにこしながら見ているだけ。ある意味で。今の時点では彼にとって都合がいいのだろうが、果たしてそれでいいのか、ということだ。

菅沼 でも、総選挙に向かっていく以上、どこかでマニフェストをきちんとつくるしかないのでは、ライバルの民主党はマニフェストづくりに熱心。自民党も変わらないと選挙に勝てない。

芹川 確かに、そうさせなければいけない。

牧野 自民党みたいに右から左まで考え方が大きく違い、かつ世代のぶれも大きい党で、それが政権を持っていて、今の話のように、一体だれがどういう格好で決めているのだというのが何もわからない。何とも政治の貧困だと思います。しかし、その一方で民主党の方も、今、野党の立場にあるので、政権奪取のためには必死になってやる。だから、一見、外から見ると結束固く一本化しているように見えるが、仮に彼らがもし政権をとったとき、今の自民党と同じように、民主党も労働組合から何からバラバラになっていく可能性がある。政策本位の政党政治ができればすばらしいと思うけれども、いまの政治の現状を見るにつけ、どうもそこへ行くまでのインフラというか、マニフェスト導入に向けての基本的な枠組みがまだまだできていないなというところに不安を感ずる。

過去の所得倍増論、列島改造論も立派なマニフェスト?

木村 これまでの日本の政治が全くマニフェスト的な政策選択がなかったかというと、必ずしも、そうでもないような気がする。たとえば、古くは、池田内閣のときの国民所得倍増計画は、考えようによってはマニフェストだった。田中内閣は日本列島改造論をぶちあげた。これらは、とにかくパッと政策を広げるんだという1つのモチーフを持っていた。中曽根(元首相)さんは彼なりに、西側の一員であるということを鮮明にし、戦後政治の総決算というのを出してきた。ただ、それ自体は、政権のスローガンのようなもので、政策選択になっていない。それぞれの総裁選勝ち抜きとか、あるいは政権のキャッチフレーズみたいなこと以上には、なっていない。

その点で言うと、アメリカのキッシンジャー(元国務長官)は、「日本ほど税という問題でこれだけ長々と論争してきた国はない」と言っている。大平(元首相)さんのときの一般消費税から始まり、中曽根さんのときに売上税、竹下(元首相)さんのところでようやく消費税。中選挙区制の下で政策選択がなかったのでないか、と言われるけれども、これだけ大型間接税の導入をめぐって侃々諤々論争してきた先進国などなかったではないかと。

ただ、マニフェストが一番機能するのは二大政党ということでしょうし、経済同友会が2年前だったか、単純小選挙区制にすべきだと提言してますね。しかし、本家本元のイギリスでは自由民主党が出てきたり、アメリカの中でも二大政党と言いながら民主党でも共和党でもない第3の政党として、(財界人が独自に大統領選に挑んだ)ペロー的な要素というのがある。そういう多元化したというか、非常にアナログ化した人々の意識をどうやってデジタル化していくか、という問題もあるし、切り落とされる部分への配慮も重要な課題です。

マニフェストというのは1つの有効なツールだと思いますけれども、これは万能ではない。これが日本の政治土壌に定着するためには、まだまだいくつもハードルがあるなという感じは持っています。

牧野 そこは、さきほど話題になった米国の政治学者のジェラルド・カーチス氏が指摘しているように、マニフェストを青い鳥として位置づけて突っ走るとリスクがあり、幻想を抱かない方がいい、というのは確かだ。しかし、マニフェストをうまく活用しながら、状況に流されていた政治に、政策面で競争させ、国民に、いい意味での政治に対するかすかな期待を抱かせるというのは重要なのではないだろうか。

マニフェストと政治報道

工藤 マニフェストという問題に、みなさんが、どういう政治報道対応をされているのか、という点と、これからマニフェスト型政治の可能性を模索しながら、どのような報道対応をなされていくのか、という点に話を移したいと思います。

山田 政治報道は今まで何をしてきて、どうだったのかということは、現在までの政治報道に対する批判を含んでいると思うので、これに対する答えは泣き言になるので若干口が重くなるのですが、でも、端的に言えば、経済財政諮問会議ができてこの方というか、小泉政権になってこの方、これは各社共通だと思うけれども、官邸カバーの記者の人数を増やしました。要するに(自民党カバーの)平河記者クラブ中心の政治部取材体制を首相官邸記者クラブ主体に変えた。経済財政諮問会議を含め、首相官邸でいろいろな会議などがあるため、数人増やしたけれども、しかし、現実には北朝鮮問題はじめ、経済、社会保障や地方自治などが全部同時進行で出てくるため、右往左往して追い切れず、十二分なフォローアップができていないという現状ですね。

ただ、個別の政策テーマごとに掘り下げた取材を行う機動部隊があれば、より充実していくでしょう。これは小沢一郎氏が同じようなことを言っていますが、役人がつくった作文のマニフェストなんてだれも読まないと。彼は、要するに自民党にできない公約というものを絞り込んで訴えていくんだと。それはメディア向け、有権者向けにも戦術的に正しいと思います。

木村 朝日新聞の政治報道が、マニフェストを含めた政策対応について、どうだったか、というのは、ひとことではなかなか言いにくい。ただ、例えば、政策を前面に押し出した紙面をつくるとする。そうすると、物すごく投書が来て、最近はどこどこの料理屋で政治家が密会したといった記事がなくなり、何だ、このつまらない紙面は、といった声になっトしまう。

ややオーバーに言えば、読者は、やっぱり血沸き肉躍るというドラマを見る目線で政治記事を見ているわけですね。ドロドロとしたものが現実だというのは、みんな一種の皮膚感覚で知っているわけです。そうすると、お硬い政策だけで、といった紙面は多分読まないという話になってしまう。辛いところです。

工藤 例えば、社会保障で言えば、多くの若者は自分たちが年金や保険料を払っても、そのシステムは今後はかなり維持は不可能で、給付は自分にそれだけ戻ってこないということを薄々感じています。政治はこうした問題にこそ、解決策を出すべきなのですが、それを怠っている。では、メディアがそれを行ったらどうでしょうか。今の政治の問題が自分たちの生活や将来にかかわっているとなれば、関心は違うし、それだけでも意味はある。

山田 いま言われたような社会保障の問題を若い人にわからせるのは、むずかしい問題があります。若い人の新聞購読率が甚だしく落ちていて、活字離れしている。ただでさえそういう状況がある上に、小難しいことを理屈で説明して、書いてあるから分かってくれといったってわからない。

池波正太郎が、「最初の5行で読者をつかむ」と言ったけれども、インパクトのある書き方を相当工夫しなければならない。ふだんそれほど問題意識のない人にすっと入っていけるように読ませるかということは、なかなか大変だ。でも、そういう努力をしなければ、政策はこうでございということを載せても、ああ、政策本位の紙面展開でいいですねとは言ってくれない。宅配制度に支持されている新聞でさえそうなんだから、視聴率でしのぎを削っているワイドショーに、そういう落ちついた論理整合性をなんて言っても、これは絶対にきかない。そういう問題だと思いますよ。

政局報道から政策報道への流れのもとで...

菅沼 政治報道の10年間というのをたどると、基本的には政局報道から政策報道へ変えていこうという大きな流れがある。いわゆる政治家の言葉とか、政治家の思惑を新聞で伝えるという権力闘争の翻訳業から、国民生活に直結する政策の中身、論点をきちんと伝える政策の翻訳業に切りかわるべきだというのは、この10年間ずっと底流にあったと思う。

ただし政策報道に軸足を移した時に、一方で読まれないといけない。読まれないと相手に伝わらないし、伝わらないものをいくらたくさん書いてもダメ。新聞というのは、ただ主張した、僕らは頑張った、でも何も相手には伝わらなかったでは、とにかくダメなわけです。しっかりと、相手の心に届く手法を考えなければいけない。でも残念ながら、この10年間、政治改革がうまくいかなかったのと同じように、政策報道もある意味では新しい答えを、読者に指示される方法を見つけることができなかったという感じがする。だからこそ、まだまだ政局報道に頼るしかない。

それと政治ジャーナリズムはマニフェストにどう対応するかという問題にしても、限界があると思う。これは政治ジャーナリズムだけがやる話ではなくて、ジャーナリズム全体、新聞で言えば編集局というか、新聞のあらゆるページ、社会面も生活面も使い、政治や経済に関心を持っていない人のところにまで、メッセージを伝えられないと、マニフェストを定着させていくというのは不可能ではないか。

ただ、いざ実際選挙のときに新聞社が各党のマニフェストをきちんと紹介できるかという問題に現実に立ち向かうと、なかなか簡単な話ではない。今までも公約集というのは各社1ページとか2ページ特集でやっているわけですよね。ただ、それは本当に網羅的な公約だから、そのくらいでいいやという形で処理している。仮に次期総選挙でマニフェストが各党からしっかり提示されてくる。それをまずどのくらいスペースで紹介するかという難問がある。丁寧に伝えようとすれば、今までよりも相当多くのスペースを割く必要がある。次に、いいマニフェストと悪いマニフェストを、これはとんでもないマニフェストだ、これはいいマニフェストだということをどうやって、しかもいつの段階で評価するということが問題になってくる。選挙中になってくると、いわゆる選挙の公平性とかの議論になってきて、各社、非常に筆が鈍るのではないかというか、どこまで書いていいか迷うのではないか。その前に、そもそもだれが評価するのか、ということも真剣に考えなければいけない。

例えば、新聞社の場合、政治部だけではマニフェストを総合的に評価できないと思う。社会保障とか教育とか治安問題が焦点なった場合、政治記者が評価できるはずもないですよね。これは論説委員もいるし、編集委員もいるし、社会部の記者もいるし、きっと社内の専門家、総動員ですよね。本当にやる気になればね。それだけの体制を各社がとれるのか。そういう意味では、ジャーナリズム全体というか、新聞社全体が問われるというか、マニフェスト対決の選挙に、どういう対応をすべきか考えるときに来ている。政治報道とか政治部がどうこうというレベルをもはや超えている。新聞社の中にあるセクショナリズム、各部の壁を言い意味で壊すチャンスが来ている、とも言える。

工藤 今の指摘は、政治報道の面で非常に本質に迫った話だと思います。

山田 今おっしゃるとおりで、政治だけじゃないということで思い出すのは、一般消費税から竹下消費税に至る昭和54年から62年まで8年間ですか、この歴史というのは竹下登板平家物語の一番聞かせどころで、琵琶法師がうなるところですけれども、つまり、昭和54年に鉄建公団の汚職、これは朝日の特ダネ、それから日経が抜いたKDD汚職、あの辺から行政改革のキャンペーンとなった。無駄だ、けしからんと。これは社会部ですよ。それから鈴木内閣の時に深刻な歳入欠陥が表面化する。そこで鈴木、中曽根両内閣が行革に取り組み、その中に土光神話というのがあるわけでしょう。そうしてそれをこなした上で消費税というところへいくわけですけどね。

つまり、工藤さんが指摘された国民の負担の問題を、政治家はなぜ切り出せないのかというのは、勇気がないからということもあるが、政治は納得だと言ったのは大平正芳ブレーンの長富祐一郎だったと思うけれども、結局、国民大衆が納得しないからでしょう。ただ、おまえ税金払えよ言ったときに、論理的には消費税を上げることは必要だと。インテリはそう思うかもしれないけれども、こんなむだ、天下りを放置して何だという話になるわけですから。その辺の問題というのは、どういうふうに世の中が消化したのかという納得感の上で、ワンセットの問題です。

あの8年間の中で、さきほどのキッシンジャーが感心したかどうか私は知りませんでしたけれども、政策をずっと追い込んでいく中で織りなしていくというか、それはやっぱり政治ジャーナリズムだけではない。ジャーナリズム全体の問題であるということですね。

芹川 報道の話に戻すと、我々といいますか、私という言い方がいいのかもしれないが、要するに現実にどの程度のインパクトを与えるのかによって記事の扱いを考えます。ですから、よく野党の人が怒りますが、なぜ我々の主張をもっと書いてくれないんだということをおっしゃる。もちろん、言わんとすることはわかるけれども、しかし、皆さんのおっしゃっていることが現実にどの程度実現するかということになると、どうしてもそれは小さくなりますよということです。同様のことが経済財政諮問会議などについても言えて、扱いがどんどん小さくなりましたよね(笑)。端的に言ってしまえば。

牧野 それもまた逆に考えれば問題なんですよ。経済財政諮問会議にニュースバリューがなくなるような目立たない動きになったからと言って、メディアが扱いを小さくするというよりも、われわれが常にフォローアップし、かつ、しっかりウオッチしていけば、彼らもある緊張感を持って、メディアという名の大衆がみんな見ているぞ、ウオッチしているという意識になれば、発想や行動に変化が出てくるかもしれない。

芹川 今のは半ば冗談、半ば本気ですが(笑)、小さくなっていったというのは、それだけ経済財政諮問会議の言っていることが、現実の政策決定過程へのかかわり方が弱くなったわけですよ。それはなぜかというと、1つは小泉首相の動かし方に問題もあるのでしょうし、党との関係もある。もちろん役所との関係もあるわけですね。そういう中で現実問題として力といいますか、影響力が落ちていったのでしょうね。

例えば税改革の時なんかもそうですよね。もっとあの機関を使ってやる手はあったけれども、それが昨年1年間を通じて残念ながらあまりうまく動かなかった。だから、何も悪気があって小さくしているんじゃなくて、取材対象のニュースバリューの問題で紙面の扱いが4段だったのが3段になるとか、そういうことなのでしょうね。それは新聞といいますか、ジャーナリズムとしては、ある意味ではしようがない。だから、全く無視するわけではわけですし、一方でそれに対してやるべしだという解説とか論説とかいうのもありますね。それはそれで主張はしていくわけですけれども、現実の扱いというのはそうなっていくということです。

政治部は「権力所在探求部」か

山田 なぜ経済財政諮問会議の報道が小さくなるのかということに関してですが、私に言わせれば、現在の日本の新聞社の政治部というのは本質的に権力所在探求部だからで(笑)、それが最大の理由ですね。それは、ある見方からすれば、とんでもない後ろ向きの発想だということになるかもしれないし、誤解されないように言葉を選ばねばならないけれども、実は新聞社の政治部は長いこと、この権力の所在の探求をこと、これに関しては不断の努力を払って、絶対に見逃すまいという厳しいモラルを保ってやっているわけです。

したがって、そこに権力がないとなればそれに対して冷淡になる。実体権力はだれだという反応で動いている日常ですから。

木村 さっき芹川さんが言ったのはすごく大事なことで、政党政治を我々はどう考えていくか。それを建て直さなくてはいけないというのは、多分、ここにおられる方はほとんどそうお考えでしょう。無党派の勃興を新聞が何となくもてはやしてきたようなところがあるわけです。「また無党派、政党にノー」と書くと、何となくカッコいいという感じですね。むろん、政党自体がだめだったわけですが、我々も一緒になってだめだ、だめだと言い募ってきた面があるわけです。

政党を鍛え上げるという機能はすごく大事だし、メディアもその一助となる。つまり、マニフェストを使い勝手のいいものに変えていくように追い込んでいくというのは、すごく大きなメディアの役割だと思っています。その意味では、今年は非常にエポックメーキングな年になると思う。

ただ、政治にすごく興味を持ち、政治面を読むという人たちと、そうじゃない人という無関心層を、マニフェストを軸にどうやって引きつけられるのか。一方で新聞を読まない、そういう人が若い世代を中心にすごく増えているというのは残念なことですが、事実なわけです。

芹川 私は、政治とは権力をめぐる闘争史観で(笑)、常に権力闘争で物を見る悪い癖があるものですから。皆さんがおっしゃるとおり、マニフェストを特効薬というか、これですべてが解決するというふうにとらえてはいけないというのは、全くそうだと思う。

総選挙はマニフェスト対決になるか

その上で3つぐらい申し上げたいと思うのは、1つは、今度の選挙はおもしろければいいと思うんですね。マニフェスト対決になって、自公保対民主・自由みたいな形で、そのときにマニフェストがどういう形かわからないけれども、そこに絡んできて、結構おもしろい選挙になって、有権者がみんなおもしろいじゃないかと。マニフェストというのをいいなと思えば多分定着するのだと思う。これはくだらないなと思った瞬間に多分もう次は使えないみたいになるから、それは大事にしなければいけない。

だから、今度の選挙にどういうふうにマニフェストを関わせるられるかということ。その意味では我々の役割はあるわけで、そこは考えなければいけない。2つ目としては、逆の言い方になりますけれども、マニフェストで余り細かいことを言うのはどうなのかなという気がしている。つまり、目標年次を決めて何とかというのがマニフェストなのかもしれないけれども、今、我々というか、有権者の人というのは、もっと大きな、つまり2010年の日本はどうなるのかとか、2025年の日本はどうなるのかとか、そういうことに対していろんな不安とかあるわけです。

そこに対するもっと大くくりな話があってマニフェストがないと。高速道路をどうするとか、基礎年金のへの国庫負担を2分の1することも、もちろん重要だと思いますが、余りそこから入ってしまうとズレが出てくるような気がします。3つ目としては、マニフェストを作るとすると、それをつくる政治のインフラをどうつくっていくかというのが多分焦点になってくるのだと思う。

今、小泉さんになったら民間の特定の人を使ってやろうとしたりしているわけですが、そういう個人芸ではだめなので、仕組みがないと、根づかないという気がしますね。

牧野 私は、経済ジャーナリストだから全然違う立場でモノを考えるのですが、捉える対象は同じだし、政治記者だからとか、経済記者だからといって、互いに、狭い枠組みで発想し行動すべきでないと思いました。とくに、マニフェスト型の政治の可能性を考えれば、これは政治、これは経済といったわけ方で行動していたら、メディアが取り残されるかもしれない。では、新聞社というか、メディア全体に問われている課題は何だと思いますかね。

木村 アカウンタビリティーと評価システムをどうつなぎ合わせて、きちっと物差しを当てるか。権力闘争の観察と、政策の対立軸の評価をどうやるか。僕ら政治記者は両面から見ていかないと。政策だけでというのではとてもリアルじゃないしね。

菅沼 今の政党政治は平気で国民との約束を破る。だから国民もばかばかしくなって選挙に行かなくなる。この悪循環を断ち切り、政党政治を復活させるには、やはりマニフェストが大きな武器になる。たからマニフェストの質を高めることが大事。しかし同時に、国民から見て分かりやすくて、しかも面白そうと思わせなければいけない。幾らいいマニフェストができても、国民に関心がなくて今までどおりの低投票率になったら、マニフェストではなく、特定の組織、団体の動きで選挙結果が左右されてしまう。だから、立派なマニフェストをつくる努力とそれをうまく国民に伝える努力の両輪が動いて初めてマニフェスト運動がうまくいく。小泉流のキャッチコピーで言うと、マニフェストは国民という選挙の審判が必携するジャッジペーパー。ここに政党の勝敗を書き込み、多くの人が投票に行けば政治は大きく変わる。

芹川 小泉さんは、いろいろやろうとしているんだけど、2010年とか、その先について、どうするといったことがないから、みんな不安になっている。ついていけないなと。そういう大きな展望を1回、しっかり示し、その上で具体的に目標年次をこうしますというようなマニフェストがないとダメです。郵政と道路と三位一体だけ示されたのでは、じゃ、おれたちは将来どうなんだというのが出てくる。小泉首相にはそこがないというよりも、すぽっと抜けているわけです。それが問題だ。

木村 ただ、これもだめ、あれもだめとネガティビズムに陥っていてはしようがない。やっぱり草花に水をかけて育てていくべきでしょう。

工藤 私たちは現在、マニフェストの評価作業を開始していますが、これからも、きちっとした軸の議論をつくろうと思っていますので、いろいろマスコミの皆さんと意見交換ができればと思います。今日はどうもありがとうございました。


(聞き手は牧野義司 ・言論NPO運営委員、工藤泰志・言論NPO代表)