震災支援、善意とニーズがなぜ繋がらないのか
政府の限界を乗り越える市民の「課題解決」能力

2011年5月02日

5月2日にダイヤモンドオンラインに寄稿した原稿です

 私が「市民の力」を初めて感じたのは、1995年の阪神淡路の大震災の時である。
 ビルが倒壊し黒煙が上がり続けるテレビ映像に釘付けになっていた私に、一通のメールが届いたのだ。
 「今日の夜、みんなで集まりませんか」
 そのころ、参加していたウェブ上の会議室の仲間からだった。まだ現場では震災の救済が始まったばかりの、震災当日(1月17日)のことである。
 この仮想の会議室は匿名参加のため、誰が参加しているのか他の人には分からない。の喫茶店に行くと、弁護士や学者、ジャーナリスト、大手建設会社の役員もいる。その顔ぶれには驚いたが、もっと驚いたのは、この時初めて顔を合わせたはずなのに、簡単な議論で、倒壊したマンションの権利調整のためのマンション区分法(建物の区分所有等に関する法律)の改正案をみんなでまとめることになったことである。
 そして、3月には「被災マンション法(被災区分所有建物の再建等に関する特別措置法)」が施行される。この夜の取り組みが法案制定にどう繋がったのか、詳しくフォーローしていないが、ただ、多くの人が自発的に課題に一緒に取り組み、解決を目指した。
 新しい変化、を感じたのは 私だけではなかったはずだ。
 それから6年後の2001年。私はそれまで勤めていた出版社を辞め、言論NPOというNPO(非営利組織)を立ち上げた。非営利の世界で言論を行うという試みを決意したのも、もとはといえばその夜の強烈な体験がある。
 課題解決に市民が組織を越えて向かい合う。そのための、議論の舞台を作ろうと考えたのである。


 私がここで言う「市民の力」とは、市民が、自発的に社会の課題に向かい合う力である。こうした力は、震災などの大災害の緊急対応の際に大きな役割を発揮する。
 だが、本来こうした力は、危機の際だけではなく、知識社会に共通した現象だと、あのピーター・ドラッカーは早くから指摘している。
 『未来の決断』で彼が指摘した「漂流する知識ワーカー」には、組織から離れて自分の専門的な技能や知識で課題に向かい合おうとする労働者の存在がある。
 多くの労働者は組織に忠誠心を持つよりも、自分の能力を生かそうとし、その場を探し求める。そうした知識ワーカーを社会に繋げることが、非営利組織の役割だ、というのである。
 職場を越えて社会の課題に向かい合う。こうした当事者意識を持った市民の参加が、非営利の世界に地殻変動をもたらす力になり始めていたのである。

 東日本大震災は被害の規模や広がり、そして原発の問題で過去に例にないほど深刻で複雑なものである。
 過疎と高齢化が進んでいた東北地域の救済と復興は、私たちのこれからの人生に重なり合うほどに長期化するだろう。しかも原発の被害は、全国の活断層上の原発の安全性とこの国のエネルギーのあり方の全面的な見直しを迫っている。
 でもそれ以上に深刻だ、と私が思うのは、この国の政府という統治が機能しない、ということ。こうした統治のもろさは今、分かったわけではない。長い間、この国の未来に向けた課題解決を避け、自分の権力基盤だけを争っていた政治自体が、この有事の際に機能を発揮できず混乱を深めている。
 私が今回の東日本大震災で注視しているのは、「市民の力」が、どうしたら「本当の力」になり得えるか、ということである。
 被災地の救済という課題から見ればそれ自体まだ十分なものではない。しかし、課題に向かい合う多くの市民の支援は広がり、救済に向けて具体的な行動が様々な形で動いている。
 私が、こうした「市民の力」に期待するのは、課題に立ち向かう市民のエネルギーこそが、課題解決に答えを出せない、この国の政治自体を変える契機になると思うからだ。その力は、私があの阪神淡路大震災の夜に感じた以上に、高まっている。


 では、こうした「市民の力」が今回の震災の緊急対応にどう生かされたのか。
私が痛感したのは、これまで通りの行政主体の論理と、市民の自発的な取り組みという新しい変化が被災地の現場でぶつかっていた、ということだ。
 災害時の緊急対応を主導すべきなのは、政府や行政である。自衛隊の緊急救助の投入は人命救済に不可欠の役割を果たした。
 今回の震災では幾つかの地域で役場ごと津波で流され、行政の機能は麻痺した。
 震災時の初動の対応が遅れたのは、被災者救済の受け皿になるべき拠点を構築できなかったことも大きい。
 そうであるならば被災者の命の救済のため、まず政府は行政の機能を復活させるために人員を投入し、さらに市民の自発的な取り組みを何よりも生かさなくてはならなかった。
 次第に明らかになり始めたが、震災直後からの1週間、被災地では、医療関係者たちの必死の取り組みがあった。
 現時点での死亡判明は1万4000人。岩手、宮城、福島3県の検死の結果、9割が津波での水死だが、この1週間、現地の医療機関や医師や、全国から入ったボランティアの医療チームにとっては1秒を争う「時間との戦い」だった。
 救助された被災者の蘇生等の緊急治療、孤立した病院からの搬送や避難所での対応が、「命の救助」の最大の課題となった。
 全国からは、DMAT(災害派遣チーム)やそれぞれの医療組織から1万人を越すボランティアが現地入りしたという。だが、私が聞いているところではまさに「綱渡り」である。
 多くの医師は、「政府や行政も力にならない。あとは自分達でやるしかなかった」と口を揃える。蘇生や避難時の骨折、打撲だけでなく、高齢者の多い東北では糖尿病などの慢性疾患の対応も急務となった。不足した大量の薬は融通し合ったり、人工透析は1週間以上途絶えることはできないため、地元で対応できない患者は他に移すしかない。
医師の個人的なツテで全国に呼びかけ、それに呼応してバスの手配や首都圏の病院とのマッチングや病院に輸送する人も現れた。つながりを生かした多くのドラマが始まる。そこに見られたのは紛れもない自発的な「市民の力」だった。
 ただ、こうした取り組みは順調に進んだわけではない。様々な分野で立ちふさがったのは 政府や行政の壁であり、それが救助の障害になっていた。行政の規制もその1つである。
 被災地では津波で薬が消失し、在庫が払底したことが東大医科学研究所の上昌広特任教授らが行っている医療メールマガジン上で報告された。大学病院等の基幹病院が薬を購入し、分配しようとしたが、これは「授与の目的で貯蔵する」ことになり薬事法で違反になる。規制が緩和されたのは震災後から1週間後だったという。
 このほかにも不足したガソリンを公平に分配するため、給油制限は行われたが、それを受けるためには緊急車両に認定される必要がある。その認定に時間がかかり、病人の緊急搬送や現地入りする支援側の移動にも障害がでていた。平時の規制が有事の際にも残り、それを変える政治側のリーダ-シップもなかった。
 行政の壁にぶつかった医師は、「官邸に話をあげても全く動かない。知り合いの政治家に頼んだり、個人で対応するしかなかった」という。

 震災対応で最も大事な課題は、被災者の命を救い、その後の人生再建の道筋を付けることである。そのためには被災地は一刻の時間の猶予も許されない状況にある。
この膨大な作業は、政府や行政だけで対応できるものではない。にもかかわらず、なぜ行政の壁が問題になるのか。
 被災地の支援対応の機能は官邸にある。その司令塔がなかなか機能せず、全体像や工程が描けていない。それが緊急時の初動を遅らせ、自発的な市民の緊急支援を生かせなかった。
 ただ私にはその背後に、行政側と被災地に根強いお上意識があるように思えてならない。行政はその受け皿の能力不足から、市民等の広範な支援の動きを管理しようとし、被災地側の一部にも行政の支援しか安心できないという意識がある。
 被災地は見も知らぬ市民からの支援を受け入れることには不慣れである。戸惑うことは分かるが、行政側の対応は内向き過ぎる。
 仮設住宅建設の遅れの中で避難の長期化が続いている。寝たきりになったり、肺炎や感染症を繰り返す高齢者も出始めた。自宅に帰った被災者も余震が続き、衛生状態が悪い環境下で、人生の再建は容易ではない。
 その人たちの一人ひとりの人生再建に寄り添うケアや避難所での介護、そしてがれきの処理や家の泥だし、水に濡れた畳の運び出しなど、長期的で圧倒的な支援が必要とされているのである。そのためにも支援の輪は被災地に繋がなくてはならない。
 先日、昼食を共にしたあるアジアの大使は「余り言いたくない話」だが、と断りながらもこう話してくれた。「震災翌日には我が国の空港に100人の専門の救助チームが離陸準備の態勢だったが、日本政府からは連絡がなかなか入らない。最終的に10人程度まで絞ってくれと言われた。支援物資も日本に運ぶまでかなりの時間を要した。なぜこんなにまで閉鎖的なのか」 
 私も意外に思ったのは、支援物資が足りないと言われながら、支援物質は倉庫に山積みされたまま、それが被災者に届かないという話をNGOに聞いた時だ。配分方法がなかなか決まらなかった被災地への義援金(見舞金)も同じである。被災者の罹災証明などその確定にも時間がかかるという。
 ここで問われたのは、公平と時間の問題である。行政の支援は公平や平等が前提となるが、ボランティアはあくまでも自発的で一人ひとりの被災者に寄り添うことが基本となる。公平な支援は大切だが、それにこだわり続ける限り、その枠組み作りに時間がかかり、緊急時には機能しにくい。また、被災者の一人ひとりに寄り添うサービスは行政で提供できない。

 今回の震災で、問われたのは「課題解決の力」である。政府が司令塔の役割を果たせなかったことは、震災から2カ月近く経った今もなお、被災地や被災者の再建の目処や出口が全く見えない状態に現れている。
 震災1カ月後の4月11日、東北地域の復興プランを立案する復興構想会議が発足して議論が始まった。が、その実行体制や復興関連法案の提出すら、目処が立たない事態となっている。こうした危機対応の力のなさが、政権自体への批判の声に繋がり、政権自体がこのまま持つのかどうかの段階になっている。
 日本の政治は、2つの点で危機的な段階にあると私は思っている。直面する課題に回答を出せないこと、そして政治家主導の限界から政府自体が統治の機能を失い始めていることだ。こうした政治の危機は今に始まったことではない。これまで未来を競えず、選挙での当落だけを考えた政治自体の限界が、取り返しの付かない状況にきたということだ。
ここで考えなくてはならないことは、こうした政治を選んだのは、私たち自身だということ。安易に政治を選ぶことの怖さを実感した人もいるだろう。逆に言えば私たちの一票でこの国を壊すも立て直すこともできる。
 もう1つ直視すべきことは、震災で見られた市民の連帯のエネルギーである。被災地の救済に対して多くの人が痛みを共感し、被災者を救うために多くの人が力を合わせ、課題解決に向かい合った。問題はこの「市民の力」をこの国の未来に向かう変化につなげられるのか、である。
 震災の被害は原発の放射性物質の汚染流出も含めて現在進行形である。私たちが直面している課題は被災者の救助や東北の未来に向けた振興だけでなく、日本自体の「復興」である。そこでは、政治の立て直しや、そうした政治を作り出す民主主義のあり方まで多くの解決が求められている。
 未来に向かうため作業は多くの分野で始まるだろう。私は、「議論の力」でその役割を果たしたい、と思っている。