【メディア評価】横山禎徳氏 第8話「二元論ロジックと批判精神」

2006年7月16日

0606m_yokoyama.jpg横山禎徳/よこやま・よしのり (社会システムデザイナー、言論NPO理事)

1966年東京大学工学部建築学科卒業。建築設計事務所を経て、72年ハーバード大学大学院にて都市デザイン修士号取得。75年MITにて経営学修士号取得。75年マッキンゼー・アンド・カンパニー入社、87年ディレクター、89年から94年に東京支社長就任。2002年退職。現在は日本とフランスに居住し、社会システムデザインという分野の発展に向けて活動中。言論NPO理事

「二元論ロジックと批判精神」

 先回述べた二元論のロジックに関して追加の問題を指摘したいと思います。それは新聞が元々二元論として捉えるべきでない事象に関しても二元論の枠組みに押し込んで読者を混乱させ、ミスガイドしていることが結構多いという現象です。例えば数年前、文科省が推進してきたゆとり教育の弊害についての議論においてゆとり教育かあるいは昔ながらの詰め込み教育かという二元論が議論されたりしましたが、これは別に「あれかこれか」の対立軸でもなんでもないのです。

 当然のことですが、教育の世界はゆとり教育と詰め込み教育の二つで出来上がっているわけではありません。論理学の初歩でしょう。ゆとり教育だから良いとか悪いというものでもないのです。「良い」ゆとり教育は良いのであり、「悪い」ゆとり教育が悪いのです。詰め込み教育に関しても同じことです。いかに提示されている「ソリューション・スペース」が狭いかということがわかるはずです。

 同じような問題として、小学校で英語を教えるべきだという考え方がありますが、一方で、いやいやきちっとした日本語教育が大事なのだという議論を新聞紙面で見ることがあります。しかし、どちらもやるべきなのならやればいいだけです。別にどっちかをやるとどっちかができないというものではないのです。当然、教える先生も違うのでしょう。もし、授業時間の取り合いになるのなら授業時間を増やせばいいはずです。それはタブーでできないのでしょうか。そんなことはないはずです。

 人類が進歩し、知るべき知識が増え、また、個々人の活動の幅がこれまでのような狭い地域から国際的に広がるのであれば、そのよう状況に追いつくためには昔より学習に必要な時間が増えることは当然な流れではないでしょうか。そういう方向の議論ではなく、お互い対立関係でもない二つの事象を結びつけて無理やり二元論に押し込んでしまうのも新聞における思考の怠惰さといえるでしょう。

 毎日新聞の「縦並び社会」にもまさにこれと同じ問題があります。この特集の発想を支えている物の見方に最近よく言われる「勝ち組対負け組」という二元論があるように思います。かつてのような「誰も勝たない、誰も負けない」という「横並び社会」が崩れて厳しい競争社会になったといいたいのでしょうか。しかし、競争社会であることは別に今に始まったことではありません。ずっと以前から「横並び社会」の中に日常的かつ普遍的に存在していました。他社を抜いた、抜かれたと新聞記者同士が毎日熾烈な「横並び」競争をしているのは良く知られていることです。

 「勝ち組対負け組」という発想とその表現の大いなる問題は、お互いに直接戦ってどちらかが勝ち、どちらかが負けたという印象を与えることです。現実には勝ちも負けもしない人が相変わらず大多数であるということを無視していることも問題なのですが、それよりも重大な誤解は誰かが勝つとその結果、誰かが負けると決めつけていることです。あるいはそういう風に読者が誤解してしまいがちな問題提起になっていることです。

 学校の試験を考えてみるとすぐわかることですが、貴方が落第点を取ったことは貴方の友人が及第点、あるいは満点を取ったこととは何の因果関係もないのです。しつこいようですが言い換えると、貴方の友人がいい点をとったせいで貴方が落第点をとらざるを得なかったということはないのです。そして、貴方やほかの落第点を取った人たちが次回は努力してクラス全員が及第点をとり、全員進級することは十分可能なのです。

 すなわち、「勝ち組」しかいないという状況すら現実にはたくさんあるのです。世の中には相対評価だけではなく、及第点という絶対評価というのもあるのだということを記者は知らないわけではないでしょう。

 いや、そういう問題ではない、「負け組」を作る社会が悪いのだという問題提起をしているというのでしょうか。そういえば最近使われなくなりましたが「社会の木鐸」という表現があります。批判精神旺盛な記者の方々が「木鐸」の役割を果たしているという考え方です。しかし、私はその社会に対する批判精神の中に時々「恨」の感情を見てしまいます。それも「弱者である庶民の側にたった」という大義名分の裏に見え隠れするのです。

 このことをあまり追求すると不毛な議論になるので止めますが、「恨」とはいろいろな悪いことを自分のせいではなく他の人のせいにするということです。それは実は誰にもある自然な感情です。従って、一定量はそのようなことがあっても仕方がないのでしょう。確かに「社会」が悪いことはあるように思います。海外と日本との両方に生活していると大体において日本がいいなと思うのですが、欠点として感じるのは日本社会の陰湿さです。そういえば陰湿さの一部である「いじめ」のねちっこさにぴったり合う英語とフランス語の単語は思いつきません。「もったいない」が外国語にないのとおなじように「いじめ」にぴったりの言葉もないのかもしれません。

 「恨」やその裏返しであるかもしれない「いじめ」の問題点はその陰湿さだけではなく、立ち止まって自己反省をし、必要であれば自己改革をするという発想がないことが大きな問題でしょう。社会を糾弾する場合は新聞社および記者もその「社会」の一部であり、ひょっとすると同じ穴の狢ではないのかという自己反省が必要なのではないでしょうか。

 「縦並び社会」をあのような形で批判するのであれば、新聞の発行部数は長年頭打ちの上、世帯あたりの定期購読部数が減少するとう小泉改革とか規制緩和とかと何の関係もなく起こっている苦しい状況の中で新聞の拡販活動の末端で苦労している人たちのことも自己批判としてあの特集の中で報道するのがフェアというものではないでしょうか。

 それを入れると「縦並び社会」の格差が何故できたのかの仮説が崩れるわけです。初期仮説が崩れたらもっといい仮説に作り直すという当たり前の思考行動をとっていないのは怠惰か誠実でないのかのどちらかでしょう。


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