【vol.36】 座談会 『アジアに門戸を開放せよ―中国人が見た日本 第2回』

2003年7月08日

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■■■■■言論NPOメールマガジン
■■■■■Vol.36
■■■■■2003/07/08
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●INDEX
■ 座談会 厳浩×劉迪×周牧之
  『アジアに門戸を開放せよ―中国人が見た日本 第2回』


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■ 座談会『アジアに門戸を開放せよ―中国人が見た日本 第2回』
   厳浩(イーピーエス株式会社代表取締役社長)
   劉迪(早稲田大学国際地域経済研究所客員講師)
   周牧之(東京経済大学経済学部助教授)
                       聞き手 工藤泰志・言論NPO代表
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日本経済の長期にわたる停滞とは対照的に、中国の台頭が著しい。中国から留学生と
して日本に来て、その後も日本で活躍している厳浩、周牧之、日本に留学中の劉迪の
3氏に、日中関係の変化や日本が進むべき道について議論してもらった。3氏は、中国
をはじめアジア諸国の経済発展でかつての日本の輝きは失われたものの、アジアとの
関係を深めることで活力を取り戻すことは可能だと指摘する。


●中国近代化の原点は日清戦争

周  イメージが違ってきたんです。私は湖南大学で4年間の大学生活を送りまし
   た。湖南大学のキャンパスに黄興(こうこう)や蔡鍔(さいがく)など中国の
   近代史を飾る英雄の墓があった。おもしろいことに、彼らのほとんどは日本へ
   の留学生だったんです。日清戦争で中国が負けた後、20世紀初頭に中国のエ
   リートが大勢日本に来たわけです。国費留学生もいたし、私費もいた。

   中国はアヘン戦争から日清戦争までの数十年間、洋務運動という近代化のプロ
   セスを一生懸命やってきた。日本では中国の洋務運動に少し遅れて明治維新が
   あった。ただし洋務運動と明治維新という2つの近代化プロセスの性格は根本
   的に違っていた。日本は工業社会あるいは国民国家というコンセプトの下で新
   しい社会を形成しようとした。

   中国はそうではなかった。外からアヘン戦争のような戦争を仕掛けられてき
   た。それに対抗するために近代的な軍備をしなければならない。軍備をするた
   めに近代的な工業が必要だった。しかし社会を変えるつもりはないし、社会を
   維持するイデオロギーを変えるつもりもなかった。洋務運動はむしろ、それを
   維持するための体力をつくろうという近代化プロセスでした。

   それで数十年間やって、ある程度の成果も上げた。しかし、日清戦争で敗北し
   たわけです。しかも、隣の小さな島国という位置づけだった日本がいきなり現
   れてきて、洋務運動のシンボルである中国の大艦隊、北洋艦隊がやられ、最精
   鋭の陸軍部隊もやられた。1840年に起きたアヘン戦争よりも、60年後に起き
   た日清戦争のほうが、衝撃はずっと大きかったんですね。

   それで中国の有志の人たちは日本へなだれ込んできた。日本へ来て、問題意識
   を持って中国に帰っていって、清王朝を倒し、新しい国づくり、社会づくりに
   奮闘したわけです。だから、中国の近代化プロセスのひとつの原点は日清戦争
   であり、近代化のひとつのモデルは明治維新でした。

   時は飛んで改革・開放の直前に、華国鋒の時代があって、その時代から大きな
   プロジェクトをやろう、新しい近代化プロセスに入ろうという政策を採りまし
   た。たくさんのミッションを海外に出したんです。そのときに、ある中国の冶
   金部の高官が日本に来て、新日鉄の工場でボタン1つで鉄がドカンとできるの
   を見てショックを受けた。我が国もボタン1つで鉄をつくる工場をつくりま
   しょうということで、上海宝山製鉄所の構想ができたわけです。中国は日本に
   技術、プラントの協力を要請して、大きなプロジェクトがスタートした。

   宝山製鉄所は中国の建国以来最大のプロジェクトだったんです。胡燿邦さんと
   か趙紫陽さんが直轄でやっていた。胡燿邦さんは日本の近代史に非常に魅力を
   感じていた人です。彼が最も愛読した本に、吉田茂が書いた、日本語のタイト
   ルは忘れましたが、中国語訳で『激動の百年史』という本があります。


●中国への技術移転を拒んだ日本

工藤 それは何年ぐらいですか。

周  80年代の前半です。僕は大学を卒業して、機械工業部に配属されて、たまたま
   宝山製鉄所の担当だったんです。最初はどういうムードだったかというと、日
   本と契約できるものは全部契約しろというわけですよ。

工藤 それがどうなったんですか。

周  しかしその後、中国ではそれが逆転してしまったんです。要するに技術移転の
   話なんです。宝山製鉄所も2期目になると、国内の政治圧力がすごく強くなっ
   て、技術を導入しろと言われるようになりました。そこで日本側に対して、技
   術を買うから移転してくれと言った。それに対して交渉の中で日本側はプラン
   トは売るけれども、技術移転はしないという話が多かった。そうすると、ドイ
   ツとかアメリカが、おれたちにやらせてくれと言ってきたんです。

工藤 それは何年ぐらいですか。

周  これは85年から。今振り返ると、日本の企業は物を売る発想から転換できな
   かったんですよ。技術を売ろうとしなかったんですよ。

工藤 その後、中国は日本と疎遠になり、無視するという感じになっていったのです
   か。

周  宝山の2期のときは、海外とのプラント契約の3分の1以上をドイツがとってし
   まった。3期はおそらく半分以上はドイツとやったと思います。ドイツは、交
   渉する段階でチャーター機で資料とエンジニアを何機分も運んでくる。ドイツ
   人技術者が中国のプラント製造工場へ来て、「こういうところは直さなければ
   いけない」という意見書をどんどん出した。これは本気で技術移転してくれる
   と中国側に実感させたわけです。ある大きなプロジェクトでは日本と契約済み
   だったんですが、われわれはそれを破って、賠償金を払ってドイツと契約する
   くらいのことをやった。

   宝山もそうだったのですが、もう1つは自動車です。隣の局が自動車局だっ
   た。ある日、食堂の雰囲気が違って、ワサワサしている。何を怒っているんだ
   と聞くと、ミッションが日本から帰ってきて、「なめられたんだ」と憤慨して
   いた。日本のある自動車メーカーだったんです。この会社は今もうその当時の
   1件についての自覚はないかもしれませんが。あのとき自動車局が自動車をつ
   くりたいということで協力の要請に行ったら、この会社のトップは、「あなた
   たちにつくる能力はない、つくる必要もない」と言った。当時、この会社の車
   は中国でバンバン売れていたんですよ。現地でつくる発想はなかったと思いま
   す。

工藤 日本へ来ようと思ったのは、その後ですね。

周  時代が変わったというのはそこなんです。ようやくではなくて、この会社はこ
   の10年必死でした。中国の関係部署はずっとこのメーカーを入れようとしな
   かったんですよ。当時の怨念は大きなコストとなりましたね。

   僕が日本へ来た理由は、日本の通産政策に対する世界的な神話があったからで
   す。


●自信過剰から自信喪失の国へ

工藤 「日本は通産省と企業が一緒になってやるからアメリカに勝つ」という話があ
   りましたよね。

周  それを勉強しに来たわけですよ。しかし、来たときは88年、ちょうどバブルの
   真っ最中でしたが、この十数年間で日本は自信過剰の国から自信喪失の国に
   なってしまった。僕は一番自信過剰だったのはエコノミストだと思う。ある有
   名なエコノミストは、もうアメリカから学ぶことは何もない、教えることしか
   ないと言い張った。その本人が数年後に、やはりアメリカから学ばなければい
   けないということを言うんですね。その人がいまだにメディアに登場してくる
   こと自体、メディアの退廃ではないかと私は思いますね。

工藤 その過程を見てきているわけですね。今、中国が躍進し始め、海外からどんど
   ん人、物を入れて、まだいろいろ矛盾はあると思いますが、中国の大きな変化
   がアジアのパラダイム転換を促したことは事実です。その中で日本が自滅し始
   めていると。日本は孤立し始めているという印象があるのですが、皆さんはど
   のようにごらんになっているでしょうか。

厳  72年が日中国交回復でしょう。あの当時、アジアでは、いわゆる資本主義に成
   功している国は日本しかなかった。中国にとって政治的に一番問題がなくて付
   き合いやすい国は日本だったんですよ。アメリカとはまだいろいろ問題があっ
   た。隣に日本という国があって、すごく進んでいて、今のように経済摩擦だと
   か、歴史問題だとかが、そう顕在化していなかった時代ですね。中国側の指導
   者も、トウ小平にしても、日本に対する皮膚感覚はあるんですよ。

工藤 皮膚感覚とは親しみということですか。

厳  少なくとも実際に付き合ったことはあるということですね。周恩来なども留学
   していたし。相手と戦闘をしたことがあるということは、「ああ、何とか将軍
   はこうだった」というような感覚はあるわけでしょう。国際政治的にも、日本
   は一番近い、世代的にもそうでしょう。お互いに筆で書くと、「おお、分かる
   ね」と。「では学ばなければ」と思うのは当然だと思うんですよ。僕らの世
   代、45歳ぐらいまでの世代の日本に対する原体験的なイメージは、今の20代
   と違う。


                          ──次号へつづく──

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