深川由起子氏 第6話:「外交反転の機会は内政改革から」

2006年3月06日

「外交反転の機会は内政改革から」

 前回選挙時の自民党のマニフェストにあった「凛とした外交」とやらは、またしてもこの「雰囲気」、情緒過多の体質を露呈した例でした。選挙には選挙戦略があり、もちろんやたらに複雑なこととくどくど説明することはできません。しかし、何が「凛とした」ことなのか、具体的政策もなく、「米国一辺倒ならアジアとの関係は長期的に改善する」という論拠は何なのか明示することもなく、このような情緒だけに訴えるのは何でも「雰囲気」で処理するレベルからの卒業できていないことを証明したようなものです。国民も恐らく、情緒過多体質の危険性を知っている層があり、その声が「中国や韓国から言うからではなく、自分のものとしての総括を」という声として上がってきているのではないかと思います。「凛とした」などという表現では自分できちんと総括する作業をし、論証と明確な論理を持った上で行動することと、自分の気分どおり、わがままに行動することとが全く区別できなくなってしまい、ますます欺瞞の批判を受け易くなると思います。

 ただし、奇妙なことに、小泉政権はアジアとの間では摩擦を引き起こし、ワン・フレーズ政治による煽情性を維持してきましたが、反面、経済政策については八方に配慮し、「雰囲気」に流されて市場へのアピール感に乏しい政策を小出しにする伝統は引き継ぎませんでした。首相自らが"改革"の張本人となることを目指し、捨て身のポーズで責任を叫んだ結果、政治と行政の関係も激変したと思います。実はこうして国内政治では「雰囲気」に流された決定を脱皮しつつあるのに、外交ではこれによって失敗した過去を擁護するという大きな矛盾が続いてきたところがあるように思います。逆に言えば、アジア外交反転の本当の可能性は国内の思考や政策決定システムの転換に潜んでいるのではいるのではないかと思うのです。

 単純化すれば戦争は国家戦略で起きるわけだし、国民がみんな死んでしまえば国家は存立しないので、当然のことながら犠牲を最小にして勝利することを目指すものだと思います。しかし、かつての戦争の末期には精神的にも追い詰められ、もはや死ぬことが目的であるかのような、一種の集団ヒステリーが「雰囲気」として支配していたところがあったのではないでしょうか。しかし、では何故、死ぬことが目的になったかと言えば、いろんなすり替えがあったのではないかと思います。最近ではノモンハンをめぐるさまざまな告発でも明らかにされてきたように、損耗が大きいかもしれないが、この作戦を途中でやめると、兵学校とか士官学校を一番で出た私が昇進できないから、この際しょうがないや、という次元の判断が本当はいろいろあったとすれば、それは小泉政権が批判してきた官僚の利己的自己保全、責任すり替えと共通の基盤があるのではないかと思います。これを批判して、自分は責任をとる、腹を切る、ということならば何故、同じように明快、論理的なことがアジア外交には出来ないのか、ということなのです。

 多くの国民は「雰囲気」に流されることの危険性を学びつつあると思います。先般、海運会社の方から伺った話は印象的でした。湾岸戦争の際、物資を運ぶ仕事が持ちかけられ、その会社はこれを断ったそうですが、それには理由がありました。その会社は太平洋戦争時に海外に物資を運ぶ仕事を手がけました。「お国のため」という雰囲気には到底逆らえず、無理な命令に従い続け、利益がなかったわけではないが、実は海軍以上の確率で社員に死者を出した。末期になるとまともな友軍の保護もなくなった。しかし民間人だから靖国にも祭られず、年金も出ない。以来、どんなに儲かる話であっても、情緒的な「お国のため」の類の話には絶対に乗らない、が社是となった、のだそうです。

 今後、消費税引き上げ、公務員削減をめぐる攻防は「ここまで財政を破綻させた責任は誰がとるか?」と不可分になると思いますが、国民は同様に財政危機キャンペーンの「雰囲気」で増税を押し切られることには強い不満を持っていると思います。景気がここまで回復するまでに民間はどれだけの努力を払ってきたか。企業は信用収縮に苦しみ、資産を切り売りし、合併させられ、個人は長年まじめに尽くしてきた会社にリストラされ、給料が下がり、10時間を越える海外出張をエコノミークラスでこなすような、いじましい努力を経て利益が出せるまでに改革をしてきたわけです。これに比べれば不祥事の続く公的セクターの努力は驚くほど不十分、というのが一般的感覚でしょう。官僚組織はコストを積み上げて行って予算を策定しますが、民間は予算これだけの中でどうにか辻褄を合わせて目標を達成しようとします。官僚たちの言う最近は厳しくなった、だから時系列では努力しているのだ、という論理とは違うのです。財政危機ならある予算の範囲で政策を達成する方法を工夫すべきですし、その中でここまでの危機を招いた責任も自ずと明らかになってくるところがあると思います。水のもれている蛇口そのままに増税だけを押し付けられたのでは国民は到底、納得できないでしょう。公的セクターの堕落には政治にも政治の罪が、役所にも役所の罪があり、両成敗で身奇麗になると共に、「ここまでやるか」という努力を見せてもらうことが民間の協力を引き出すためにも必要だと思います。

 実はこの過程がアジア外交にもそのまま応用できるところがあると思うのです。率直に言ってアジアの大衆は靖国神社について詳しく知っているわけではありません。日本人の若者でも外交問題になって初めて常識程度のことが分かった、という人は少なくないでしょう。まして日本語の出来ない外国人が詳しく知っているわけなどないのです。そしてその無知が記号化を通じて国内政治に利用されてきた側面もないとは言えないかもしれません。

 しかし「だから取り合う必要はなく、説明する必要もない」と言い続け、思考停止を決め込むのはあまりに怠慢すぎ、傲慢すぎます。もう景気が立ち直ったから良いではないか、さあ増税だ、というのと、日本はさんざん援助し、アジアは成長したではないか、もう全ては帳消しだ、というのにはどこか似た問題のすり替えがないでしょうか。国民が増税の前に「ここまでやるか」を政府に求めているのと同様、アジアも日本人による日本人のための総括に「ここまでやるか」を求めているのではないかと思います。この点で小手先の外交政策をどれほど繰り出したところで、現状の打開策になることはないでしょう。自らの総括と共に、そのプロセスを思い切った強力さで外部に情報発信し、徹底した説明責任を果して外交攻勢に転じることが日本の立場を再構築することにつながると思います。それは新しいことに取り組むことではありません。改革で内政に問われている常識的な責任の明確化、説明責任を外交に延長するに過ぎません。そして内政・外交が一体化した一貫性を持つことによって初めて日本人の最大の長所である真摯さ、まじめさ、それに優しさが生き、不得手な戦略性を補う土着的な外交パワーを持てるのではないかと思います。


※本テーマにおける深川由起子さんの発言は以上です。
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※次回3/8(水)の発言者は栗山尚一氏です。引きつづきご期待ください。

発言者

深川由起子氏深川由起子(東京大学大学院総合文化研究科・教養学部教授)
ふかがわ・ゆきこ

早稲田大学大学院商学研究科博士課程修了。日本貿易振興会海外調査部、(株)長銀総合研究所主任研究員等を経て、98年より現職。2000年に経済産業研究所ファカルティ・フェローを兼任。米国コロンビア大学日本経済研究センター客員研究員等を務める。主な著書に『韓国のしくみ』(中経出版)、『韓国・先進国経済論』(日本経済新聞社)、などがある。

 前回選挙時の自民党のマニフェストにあった「凛とした外交」とやらは、またしてもこの「雰囲気」、情緒過多の体質を露呈した例でした。選挙には選挙戦略があり、もちろんやたらに複雑なこととくどくど説明することはできません。しかし、何が「凛とした」ことなのか、具体的政策も