東日本震災後の復興を点検する―震災3年目の課題(復興編)

2014年4月04日

2014年4月4日(金)
出演者:
井口経明(岩沼市長)
新藤宗幸(後藤・安田記念東京都市研究所研究担当常務理事)
立谷秀清(相馬市長)
増田寛也(野村総合研究所顧問)

司会者:
工藤泰志(言論NPO代表)

 東日本大震災から3年たった今、復興の進捗状況はどうなっているのか。被災地の現状と課題を知り尽くした4氏が語り合った。  議論では、これまでの発想やシステムがこの未曾有の大災害に対応できていない現実が改めて浮き彫りとなり、基礎自治体の視点からの新しい復興のあり方が話し合われた。


工藤泰志工藤: 言論NPO代表の工藤泰志です。さて、2011年3月11日の東日本大震災から3年余りがたちました。様々なメディアでも3年目の総括が行われていますが、先日の言論スタジオでも、原発の問題を議論しました。今回は「復興編」ということで、復興がいまだ途上にある中、被災地の現状を踏まえながら、これからの復興をどう進めていけばよいのか、ということについて議論していきたいと思います。

 それではゲストの紹介です。まず、元岩手県知事で、震災からこれまで精力的に被災地を回ってこられた野村総合研究所の増田寛也さんです。続いて、後藤・安田記念東京都市研究所の研究担当常務理事の新藤宗幸さんです。そして今回は特に、被災地の現状をお聞きしたかったため、被災地の首長さんにも来ていただきました。まず、宮城県岩沼市長の井口経明さんです。続いて、福島県相馬市長の立谷秀清さんです。

 さっそく議論に入ります。被災地の復興の進捗状況は、色々な地域特有の問題があったり、首長のリーダーシップの強弱などによって、地域ごとに差があるとは思いますが、全体的な状況としては、震災から3年がたってどうなっているのでしょうか。


今、被災地はどうなっているのか

増田寛也氏増田:震災以降の3年で、色々な現場を歩いてきましたが、復興の進捗状況は市町村ごとの差がはっきりとみえてきたというのが率直な感想です。「結果として街づくりが全く進んでいない、住民がばらばらになってしまった地域」と、「一歩二歩前に出て街づくりに向かっている地域」という地域間の差があるわけです。これは、行政が地域の住民との合意形成を上手く図ることができたか否か、というところで差が出てきているのだと思います。

工藤:新藤さんは現地をまわった印象として、「何かちぐはぐな感じを覚えた」とおっしゃっていましたが、どういう点でそう思われたのでしょうか。

増新藤宗幸氏新藤:震災直後から何度も被災地に行っていますが、とりわけ地道な復興よりも巨大プロジェクトを優先させているのではないか、という地域がかなり目立ちます。特に岩手県を歩いてみると、地元の若者たちが色々な取り組みをやっていこうとしているのに、「隣に復興道路をつくるからお前たちは出ていけ」といって、ボランティアの拠点にもなっていたカフェを閉鎖してしまった、ということがありました。住民の本当の知恵をくみ上げながら新しい街をつくっていこう、という動きがなかなか目に見えてこないと思います。

 ただ、福島県に関しては、今回の震災は、大津波と原発の複合的な災害となりましたので、復興しようにも手のつけようがない、という部分はあると思います。

工藤:地域差があるということなのですが、今日来られたお二人の首長さんの市ではかなり復興が進んでいると聞いています。まず、岩沼市の状況はどうなっているのでしょうか。

井口経明氏井口:確かにそれぞれの地域ごとには差があります。被害の状況や、それぞれの地域の特性の違いなどもありますので、差が出るのはやむを得ないと思います。岩沼市では、まず復興計画をつくりました。それを2年で見直しをしたところ、進捗率70%ということで、何とか進んでいると思っています。実感としても、「7割くらい」です。

 岩沼市で特に大切にしてきたのは、「住まい」の問題です。まず、避難所に入った時点で、コミュニティ単位で部屋を取ってもらい、さらに仮設住宅への入居もコミュニティ単位にするなどの工夫をしてきました。というのは、阪神淡路大震災の際に、被災者の心の病の問題があったからです。そこでの教訓として、被災者が自ら死を選ぶことを少しでも減らすためには、やはり知っている人が身近にいると良いということがありました。そういうことで、避難所から仮設住宅へ移動する際も、当然のことながら「またみんなで暮らせる」ということに留意しました。岩沼市では防災集団移転促進事業を進めていますが、おそらく全国で最初に、被災者の方々への引き渡しができると思います。この防災集団移転にあたっては、絶えず避難所の責任者と話し合いをしましたし、個別での話し合いも何度も重ねました。その結果として、比較的早く進むことができたのではないかと思います。それ以外の方については、災害公営住宅、さらには個別支援というかたちで対応をしていきます。

 また、復興計画の中で、津波に対する守りをどうするかということで、いわゆる「多重防御」として、いち早く国に防潮堤をつくっていただきます。県では貞山堀という堀がありますので、それのかさ上げを行っていただきます。他にも岩沼市道のかさ上げと同時に避難路も確保しなければならなかったのですが、これも今年の1月に着工できました。

 そして、「暮らし」ということについて、岩沼市は農業地帯ですので、農業をどう再開するかという課題がありましたが、今年はほとんど田植えができる状況になりました。ライスセンターの建築や、農業機械の問題などについては、国にお世話になりました。農地として復旧できないところに関しては、大規模太陽光発電所を誘致し、まもなく起工式が行われるという状況になっています。

 そのように確かに復興が進んでいますが、これから先の課題としては、集団移転先にしっかりと定着してもらい、孫子の代まで住んでもらわなければなりません。そのために新しいまちをどうつくっていくのか、のべ28回にわたり、地域の皆様との会議を開いて、まちづくりの方向性をつくりました。それにしっかりと魂を入れてく。同時に就労の場が必要になってきます。企業誘致なども含めて、どういうふうに新しい産業をつくっていくか、ということが非常に大きな課題だと考えています。

工藤:他の被災地と比較するとかなり進んでいる、という状況ですね。相馬市はどうでしょうか。

増立谷秀清氏立谷:何をもって「被災者」とするのか。その定義は難しいところですが、復興という点からみると、津波の被害に遭った人たちだけではないわけです。ある意味では市全体が何らかの被害を受けていることは間違いない。そのことも含めた被災者の方々の生活再建が最終目標になります。生活再建のためのハードをどう整備していくか。それから、新しい地域のグランドデザインをどう描くか。さらに、失ったものをどう代償していくか、ということも考えなければなりません。例えば、観光地がなくなった中で、交流人口をどうやって確保していくかを考えていかないと、観光業がすべて駄目になってしまいます。それも新しい地域のグランドデザインになると思います。その過程で、新たな死者や健康被害を出さないということが大きな目標になります。災害関連死をできるだけ抑える。それから自殺者、孤独死を抑えないといけない。さらに放射能による健康被害、あるいは避難生活による健康被害、心のケアの問題もあります。

 できるだけマイナスの要素をカバーしながら、次の時代に向かって進んでいくということと、被災者の皆さんの生活再建をどうしていくのか。そういうテーマ一つひとつに取り組んできたつもりですが、相馬市の力だけでは及ばない問題が当然出てきます。特に我々の地域だけではどうにもならない問題としては、放射能の問題があります。これが結局、産業復興に大きな影を落としています。精神的な意味でも大きな影を落としています。例えば、放射能の問題について、中間処理施設がいつできるのか、あるいは除染した土をどうやって処分するのか。そういうことが総合的に進んでいかないと、海産物の風評被害というのは解消できないわけです。これは相馬市の力だけではどうにもなりません。反面、我々ができることもあります。例えば、子どもたちへの徹底した健康調査、あるいは放射能教育などです。こういうことではできる限りの努力をしていかないといけないと思っています。このように我々の努力でも何とかできるものについては、精いっぱいの努力をして、計画通りに実行してきたいと思っています。


既存のやり方が通用しなくなってきている

工藤:今、立谷さんから「地域のグランドデザインをどう描くか」というお話がありました。全体的にみると、色々な計画が遅れ、高台の移転も進んでいない。テレビのインタビューで「あと何年たてば自分の家を持てるのか」と80代後半の人が話をしている様子が出るように、かなり事態は深刻だと思いますが、いかがでしょうか。

増田:「復旧」と「復興」に分けて考えると、まず復旧については、とにかく被災された皆さんがきちんと落ち着くことができる状況にするということは、ものすごく急ぐ必要があります。

 その後の復興をどうするのかということについては、既存のやり方を大きく変えていく必要があると思います。例えていうなら、今被災地では、30年から50年くらい先の日本全国に当てはまるような状況が起きているわけです。ですから、工夫をして、今までのやり方ではない、まったく新しいやり方を考え出して、被災地で色々な試みができるようにしていかないといけない。しかし、今回の国の震災対応で特に目につくのは、平常時のやり方をそのまま被災地に当てはめているのではないか、ということです。1000年に一度の大災害であり、30年から50年先の日本の未来が今、現実に被災地で起こっているということを考えれば、今までの延長線上ではない、新しい特別な工夫をして、思い切って実行していく必要があると思います。個々の地域によって街づくりのやり方は違うし、産業の態様も違っていますので、全国共通のやり方では対応できません。ですから、すべてにおいて国が前面に出る必要はまったくありません。そこでは地域が考えていることを国が後ろから支援をしていく、というスタイルが求められているのだと思います。例えば、土地所有権に関して、従前の境界線が分からないところをどう確定していくのかという問題では、今の時代、あるいはこれからの時代にふさわしいやり方があると思います。例えば、衛星写真で1センチ、2センチの誤差で全部きちんと分かるのに、あえて住民立ち合いの下で検分しなければいけないのか、などこういうことを含めて、これからの日本の未来を見据えながら、今つくるべきルールをしっかりとつくって、被災地に当てはめるということが必要だと思います。そういうルールづくりは国でしかできませんが、それをつくった後は、それぞれの自治体が努力していくことが必要なのではないかと思います。

新藤:岩沼市と相馬市では、市長のリーダーシップのもとで、色々と取り組んでいますが、全体の復興の司令塔となるはずであった復興庁ができたのは結局、2012年2月でした。そこに至るまでにもさまざまな混乱がありました。私は、いわゆるブロック補助金、一括交付金というかたちで、被災した自治体にきちんとお金をつけるべきだと提言してきました。しかし、東京で、中央集権的に復興を行うという発想からなかなか抜けられないまま、極めて中途半端な復興庁が2012年2月にスタートしました。その実態はどうかというと、単なる様々な復興計画の窓口的な役所でしかありません。

 岩沼市と相馬市という先進的な2つの自治体の成功事例から学ぶことは、もっと分権的な復旧、復興体制に舵を切らなければならない、ということだと思います。つまり、市長を信頼して、任せる必要があるということだと思います。そうすると、動きが早い自治体と、動きが遅い自治体とで進捗に差が出ることになりますが仕方がない。それでも東京から指令を出すやり方よりは復旧、復興が前に進むと私は思っています。

工藤:先ほど、増田さんから復興を進めていく上で、従来通りの手法が機能していない、むしろ復興の迅速化の点では非常にネックになっているという指摘がありましたが、現場からみてどう思われますか。

井口:お話いただいたとおりだと思いました。最初の時点では、国も明確な方向性が示せませんでしたし、復興に関する経験不足ということも非常に大きかったと思います。例えば、法律を制定する際にも、柔軟に考えて被災地特例を打ち出すことがあってもよかったと思います。被災をした土地の買い上げ一つとっても、境界もわからなくなっているようなところで実測ができるのかというと、当然できないわけです。そうすると、先ほど増田さんがおっしゃったような考え方も必要になってくるわけです。復興交付金にしても、40項目で雁字搦めにされていて、もう少し柔軟に使える総合枠のようなものを認めてよいのではないかと訴え続けてきました。こういう部分については、首都直下や南海トラフなど今後も大震災は起こり得るわけですから、こうした災害に備えるためにも、今回しっかりと見直しをしていくことが大切だと思います。


被災地で合意を形成ししていくことは、地方自治の原点

立谷:相馬市で、私は仮設住宅に入った方々の健康管理と、それから孤独死の防止を目的として、夕食のおかずを2品ずつ配ることにして、その担当者を仮設住宅一棟ごとに一人置きました。また、集会所は100世帯ごとに置かれていますが、100世帯ごとにリーダーも一人置きました。一棟のリーダーを「戸長」と呼んで、集会所ごとの100世帯のリーダーを「組長」と呼び、この組長が全部で15人います。そして、組長会議を開催した上で、その組長会議の代表と私が話すという組織を作りました。それぞれ1日1時間や2時間、相馬市で雇用するという形をとりました。そのルートに基づいて、被災者の皆さんに夕食のおかずを2品ずつ配りました。そうすることで、リーダーが毎日様子を見ることになり、相馬市では孤独死は出ていません。そういうシステムをつくりました。このシステムについては、それは大変良い、と相馬市に来くる国会議員の方々にも好評です。そこで、その分の予算を何とかつけてください、ということを皆さんにお願いしましたが、「分かった、分かった」といいながら、誰も予算をつけるために動いてくれませんでした。ですから、相馬市では今でも一般財源で行っています。

 この話には色々な示唆があります。まず、この施策は国が決めたからやる、ということではありません。私は基礎自治体の長として実施する必要があると思ったから、誰の了解を得たわけでもなく、自分と市議会の合意で始めました。こういう未曽有の大災害にあたっては、基礎自治体は「地方政府」としての自覚をもって責任を果たしていかなければいけないと考えています。そうなると、基礎自治体として、自分たちの責任で復興のデザインを描いていかないといけません。財源については、後から請求すればいいと思っていましたが、結局は誰も実現してはくれませんでした。県にいうと、「相馬市だけに予算をつけるわけにはいかない」ということでした。そのため、相馬市の一般財源を使ってやってきましたが、自治体ごとに自由に使える財源があったらよかったのではないかなと思います。そこで新しい知恵が必要となれば、被災した自治体がみんなで知恵を絞ればいいわけです。そういう中で、どこに、どれだけ、どのようにして配るのか、あるいは、この人には必要だけれど、あの人には必要ない、など細かいところまで見えてきます。

 あのような大震災の際には、国や県からの指令など受けようがありませんから、それぞれの基礎自治体は自分たちの判断でやっていかないといけないわけです。そういう意味ではあの震災直後の状況は、まさに「地方自治の原点」ともいうべき状況だったのではないでしょうか。そこで裁量権をどう行使するかという点で、基礎自治体の個性そのものが表れてくると思います。この事業を相馬市では今でも一般財源でやっていますが、これは相馬市の個性そのものです。被災の状況、あるいは地域性がそれぞれ異なりますので、各自治体にはそれぞれ違った「顔」があります。そういう「それぞれの顔」を生かせるような施策を、基礎自治体が実行していけるようなスキームが、特にこのような大震災の際には、必要なのではないかと思います。

 また、こういうことをやるためには、被災者との合意形成がどうしても必要になってきます。市長がいくら良いと思った事業でも、被災者が必要ないと考えたら何の意味もありません。ですから、合意形成のために、ある程度のスキームをつくった上で被災者の一人ひとりの話をしっかりと聞いていく。事案によっては、アンケートという手法も使えますが、基本的には、ひざ詰め談判でやらないといけないことがたくさんあると思います。そして、合意形成を進めるにあたっては、合意の基盤になるような考え方を明確に打ち出す必要があります。

増田:合意形成に関しては、全員が納得できる落としどころというのはなかなか見出しがたいですが、それでも変わることのない基本的なルールをきちんと踏まえた上で、できるだけ共通認識を整えたり、議論を積み重ねていかなければなりません。話を聞くと、合意形成が進んでいる地域では、それぞれの首長が地域住民の顔を把握しており、毎日のように議論を積み重ねているそうです。住民の皆さん方からは色々ときついこともいわれますが、それである意味鍛えられて、首長のまとめる力も大きくなっていく。前に進んできている自治体というのは、そういう着実な努力を積み重ねているところだと思います。そういう地道な努力を怠ると、最後にガラッとひっくり返ってしまいます。やはり、そこが本当に民主主義、あるいは地方自治の原点だと思いますし、この基本を徹底することが復興の成果として如実に表れてくる、という気がしてなりません。


機能しない復興庁

工藤:先ほど新藤さんがおっしゃった復興庁の問題もあります。組織の立てつけがうまくいっていない印象を受けるのですが、いかがでしょうか。

増田:復興庁には、各省庁の考え方が違う場合に、被災者の立場で調整する強い権限があります。各省庁がそれに従わない場合は、一番強い権限である勧告権を出せます。ところが、これは一回も使ったことがない。抜かずの伝家の宝刀どころではなく、錆びついていしまっている。現状の復興庁は各省庁の取次ぎのための組織のようになっているのではないかと私は思っています。

 ただ、日本列島は災害列島であり、首都直下地震など大震災が今後も心配されているわけです。今回の震災で、多くの尊い犠牲を出してしまいましたから、やはり今回の悲劇をできるだけ繰り返さないようにするべきだと思います。しかし、今の制度や仕組みのまま東京で首都直下地震が起きると、東日本大震災と同じことの繰り返しになってしまうのではないかと不安になってしまいます。私はそういう国の仕組みや、省庁の立てつけなどについて非常に不満を感じています。

工藤:復興庁はこれから、どのようなかたちにすればよいのでしょうか。大きく変える必要があるのでしょうか。

新藤:極端な議論になってしまうかもしれませんが、私は復興庁を解体するべきだと思います。復興庁にはプロパーの職員がいません。皆、本籍地が農林水産省であったり、経産省であったり、国交省であったりします。しかも、1年くらいで異動になるので、人が入れ替わります。ですから、現住所は復興庁でも、常に本籍地のことを考えてしまうわけです。そういうことではなくて、岩手県、福島県、宮城県の単位でもって、それなりの分権的な仕組みを、基礎自治体の首長の参加を得た上でつくればよいと思います。細かい仕組みを考えると色々な課題はありますが、私はそれでよいと思います。そして内閣レベルでは対策本部だけでよい。そもそもなぜ復興庁の設置が遅れたかというと、当初は復興庁が全事業の権限まで持とうとしていたので、話がおかしくなっていったのです。やはり、ここで大きく転換しないといけません。

 ただ、自治体にも、首長の資質の問題があります。首長がリーダーシップを発揮している岩沼市や相馬市のようなところでは、確かに復興は進んでいます。しかし、そうでないところもあるわけで、その自治体では住民にものすごいフラストレーションがたまっています。特に、いわゆる「平成の大合併」で、吸収合併された自治体の人と話をしてみると、「この復旧の体制はなんだ、あの市長は駄目だ」という不満が聞こえてきます。こういった問題をどのように克服していくのか、それぞれの自治体における復旧、復興過程に残された大きな課題だと思います。

増田:もし復興庁を残すのであれば、人をコロコロと替えるべきではありません。復興庁の次官は今回で3人目です。1年も遅れて出発したのに、2年ぐらいたったところで、人がコロコロと替わっている。最初に復興庁に配属された人は今年の3月いっぱいで全部替わってしまいます。もっと腰を入れて、覚悟を入れて、被災地と末永く付き合っていかないと被災者に対して失礼だと思います。

工藤:被災地の立場から復興庁についてどう思われますか。

立谷:人が替わると困るというのはその通りです。復興庁の担当者の方も相馬市のことを理解しようと努力してくれていますし、私たちの担当者とも綿密な話をします。もちろん、市役所にも人事異動はありますから、いままで担当していた人間をずっとそのままというわけにはいきませんが、例えば担当者が5人いるとすれば、そのうち一人しか替えないなどの配慮をします。ところが、復興庁の方はガラガラと替わっていきます。被災地とコミュニケーションをするという意味では、できるだけ替わらないでいただきたいと思います。

井口:復興庁創設の理念はよく分かりますが、現実は単なる寄せ集め官庁になっています。現場までは創設の理念が全く浸透していないといわざるを得ません。震災直後には「何とかしないといけない」という思いが皆にありましたが、それが徐々に変わってしまい、今ではある意味で落ち着いたような状況になってしまっています。人事異動ひとつを取ってみても、その思いが薄らいでしまっているのではないか、という印象を受けます。


市町村の視点からの分権改革が求められる

工藤:特性の問題もあると思いますが、復興において国や都道府県、出先機関などが機能しないところもあり、色々な問題があったようにみえます。そして、復興庁そのものの問題もあります。その中で、基礎自治体が一番住民に身近なところにいるので、どのようなサービスを提供すればいいのか、ということについて首長が一番適切な判断ができている。これからの地方分権のあり方を考えていく上で、体制の問題が示唆していることは多くあると思うのですが、いかがでしょうか。

増田:分権論では、権限や財源を国から地方へ、さらに地方の中でも都道府県から市町村へ移譲するべきだ、ということが色々と議論されています。大きく捉えると、頭脳になり司令塔のような機能を果たすところは、やはり住民に一番近い市町村長と、議会だと思います。そして、市町村が本当にたまにしかやらないような仕事は都道府県がやることにするなど、色々と割り振りができると思います。ですから、杓子定規に「これは都道府県がやるべき、あれは市町村がやるべき」ということではなく、最も実力が問われる危機の際に、どうすれば仕事がやりやすくなるか、という観点から仕事の配分を考えるべきです。そこが考えられれば、少し戻って平常時はどうすべきか、ということも柔軟に考えられるようになると思います。ただ、全体をみるべき司令塔は、現場のことをよく分かっていないところが、偉そうに何かをする仕組みにするよりは、できるだけ市町村を中心にして、地に足のついた判断ができるようにするべきだと思います。

立谷:これまでも「地方分権の1丁目1番地は基礎自治体だ、市町村だ」という議論がありました。これは、民主党政権のときにもありましたし、市長会でもずいぶんやりました。これが実証されたのが、今回の震災対応だったと思います。震災の災害対策本部長には首長がなりますので、首長が住民の状況をつぶさに把握しながら震災対応にあたることになります。都道府県も国もそれを支援する役割になる。ただ、被災状況があまりにもひどく、複数の市町村に広域的にまたがるような事例になると、都道府県が補完する必要があると思います。岩手県大槌町では町長が亡くなり、南三陸町では市役所が流されました。そのようなところでは、基礎自治体に指揮をとれといっても難しいわけですから、都道府県が補完する、むしろ代わりに背負って立つくらいの気持ちが必要だったのではないかと思います。そういう実例は今までなかったわけですから、うまく対応ができなかったと思いますが、この次の危機、災害を当然想定しないといけないわけですから、今回の震災対応はどうだったのかという検証をしながら、これから考えていく必要があると思います。

井口:市長会などで分権に関する議論をすると、「国の出先機関の事務、権限の移譲」ということがテーマになることが多いのですが、今回の震災対応では地方整備局を中心としてよくやってくれていたので、「今までの議論は何だったのか」と思うところもあります。都道府県の役割としては、立谷市長が指摘するように、都道府県は市町村の補完であるべきです。国との関係においては、都道府県は市町村の声を代弁するということに特化していった方がいいと思います。自衛隊に対する派遣要請などについてはこれからも知事に骨を折っていただかなければなりません。ただ、そのためには都道府県の職員の体質そのものを見直していくことから始めないといけないので、なかなか難しいこともあると思います。平常時ではない、緊急対応ということについては、しっかり今回の経験を踏まえて、見直していく必要があると思います。

新藤:おっしゃる通りだと思います。ただ、都道府県が緊急時にしっかりと補完機能を果たせるようになるためには、それなりに基礎自治体の現場を知っておかなければなりません。ですから、もっと県の職員が現場に恒常的に入ることを制度化するべきだと思います。今回の復興において、本当に画期的だったのは全国から自治体職員が被災地に応援に駆け付けたことです。もちろん都道府県からも来ました。しかし、被災自治体は、「都道府県の職員は使い物にならないから早く帰ってくれ」と平然というわけです。都道府県の職員には経験がないわけですから、その通りだと思います。やはり、都道府県の職員が恒常的に基礎自治体の仕事をきちんと勉強する、基礎自治体の現場に入るような仕組みをつくるべきだと思います。


「2020年」、被災地の姿はどうなっているのか

工藤:2020年にオリンピックが東京で開催されます。2020年までに復興は終わっているのでしょうか。非常に厳しいという見方もありますが、いかがでしょうか。

新藤:何をもって「復興の終わり」と考えるかにもよりますから、何とも言い難いところがあります。ただ、震災があろうがなかろうと、はっきりしているのは、東北から若者がどんどん流出しているという現実です。これにどう歯止めをかけるのか。その歯止めのかけ方として巨大企業を誘致してくる、というような旧来的なやり方はいまさら通用しません。例えば、三陸の小さな町で暮らしていくということに、この時代だからこそのメリットがある、ということを示すことによって、生活スタイルの転換を促し、それに同調する若者たちが集まってくるような取り組みが必要になると思います。それができて復興の終わりの始まりぐらいがみえてくるのではないかと思います。

工藤:私も青森県出身なので分かりますが、元々東北は厳しい状況にありました。ですから、震災以前に戻るのではなくて、そこを超えていかないといけないわけですよね。

 さて、震災が起こった直後は新産業など色々なアイデアが出ていましたが、日本の30年後の姿を先取りしているような明るい未来は見えてきているのでしょうか。

増田:震災直後に被災地で語られた「あれをしよう、これをしよう」という議論は、地に足がついていないものばかりで、外部の人たちが他所から色々なものを持ち込んでくる、ということがかなり多くありました。結局、そういうものは早く消えて、水産業など、元々東北にあるこれまでの力をどうやって伸ばしていこうか、という取り組みがずいぶん多くなってきた印象があります。ただ、その方向性がきちんと見えてきているわけではありません。

 2020年は国土構造として、色々なものが地方から東京に集中してくるという流れが、さらに加速することになると思います。しかし、その東京も超高齢化が進み、やがてはその流れを受け止めきれなくなるし、東京自身もやっていけなくなると思います。東京が地方から若い人たちを吸収し続けることによって地方が消滅し、さらに今度は東京も駄目になったときに、日本という国全体が駄目になってしまうわけです。そうならないためには、今の三陸が象徴的ですが、東北自身が力をつけていかないといけない。信金や地銀などの預金量や預貸率を見れば、眠っているお金がたくさんあるわけですから、農業や漁業、あるいは第二次産業、第三次産業いずれにおいても、もっとアイデアを出していけば、次の芽が出てくると思います。ただ、それにはまだものすごく時間がかかるような気がします。

井口:東京オリンピックは復興の一つのゴールとみていいと思います。オリンピックの準備の影響によって色々と復興が遅れるのではないかとの懸念もありますが、一つの目標として、2020年に世界から来る人たちに東北の復興ぶりをみてもらえるように我々は努力しないといけません。ですから、これからもスピード感、コスト意識のある良い計画をもった自治体については、しっかりと国が財政的な支援をしていく。その支援の際に、ある程度選別されることがあると思いますが、それに耐え得るような計画をつくった上で、これから東北各地の自治体はまちづくりを進めていかなければいけないと思います。


震災復興に加え、放射能という問題も抱える福島が直面する課題とは

立谷:東京オリンピックまでに福島が復興しているか。復興の定義にも色々ありますが、いずれにしても常識的には難しいと思います。というのも、福島には原発の問題があります。原発の破壊された装置の処理がどうなっているかと考えたときに、2020年までにそれが完了しているとは到底考えられません。2020年までに原発の周辺地域の住民の皆さんの生活が定まっているか、生活再建がなされるかというと、私は極めて難しいと思います。全員帰還ということを目標にしていましたが、そんなことはできるはずがありません。かの地の生活再建をどのようにしていくのか、まだ明確に示されていませんし、なかなか難しいと思います。

 また、合計特殊出生率の低迷が続いている中、未来を背負うべき子どもたちがこれからどのくらい産まれてくるのかということは、日本全体の問題ですが、被災地、特に福島県においては、極めて深刻な問題です。ですから、もう少し国家として腰を据えて取り組んでもらいたいという思いがあります。さらにいえば、相馬市では原発に対する反応、判断に関して非常に頭を悩ませたことがありました。というのも、国の指標がはっきりしていないわけです。20ミリシーベルトでもって、同心円状の線引きで避難地域の設定をしたと思ったら、次には学校での被ばく線量を1ミリシーベルトにしなさいといってきた。学校での被ばく線量だけを計るということはできないし、何の意味もありません。放射線に対しては、「正しく恐れる」ということが大事です。放射線からどうやって人々の健康を守るかということが一番の問題なのであり、空間線量というのはそのための指標です。学校での被ばく線量1ミリシーベルトという国の指標で我々は非常に混乱しました。これを政策として実行することは非常に大変です。

 その次に、長期的には追加被ばく線量は1ミリシーベルトにするとなった。この「長期」の定義はなく、5年なのか10年なのか分からない。そして、国際放射線防護委員会(ICRP)は、「平常時」の1年間の被ばくの限度は1ミリシーベルトとするよう勧告しているわけですが、では、いつが「平常時」なのか。原発事故が全部収束しないと、平常時にならないわけですが、そういった説明が明確ではなく、そのことによって地域が非常に混乱しています。

 加えて、子供たちのPTSDも問題になっている。相馬市で中学生の子どもたちに放射能教育の授業を行い、その後のアンケートで女子生徒に「将来の結婚、出産についての不安が消えましたか」という質問をすると、1割が「消えない、心配だ」と回答しました。「分からない」という回答が、2、3割います。この結果は大変なことだと思います。相馬市は1ミリシーベルト以下の被ばく線量ですから、相馬に住んでいる今の女子生徒たちが将来奇形児を生むという可能性はありません。そういった子どもたちの一種のPTSDともいうべき心の不安が増大している現状を改善できないことが、何より悔しいです。その背景には、政府によるいらぬ混乱を発するような指標や、明確ではない定義があると思っています。相馬市も除染などの対策をするにあたって、独自に基準を設定し、「これ以上のところは気を付けてやろう」とか、「すべての子どもたちのカルテをつくっていこう」とやってきました。ですが、この放射能の問題については、そもそも国が明確な姿勢を示す必要があります。曖昧模糊とした姿勢によって、被害を受けるのは我々被災地の住民、特に子どもたちです。そこのところをしっかりとしていかないと、原発事故からの地域の復興は大変難しいと思います。これは生活再建にもかかわってきます。魚が売れないと、相馬の漁業は復興できませんし、農産物についても同様です。ですから、是非きちんとした指標を出していただきたいと思っています。

増田:福島についていえば、放射能、あるいは放射線のマイナスの影響を、非常に長期にわたって抱えることになります。その中で、高齢者の世代と、若くてこれから子どもを産む世代では、残された時間や抱えている課題は異なると思います。今、一番被災者の皆さんが不安に思っていることは、時間の経過に応じて事態がどうなっていくのか、ということがはっきりせず、対応策も混迷したものになっていっている、という点にあるわけです。その点をできるだけ、きちんと明らかにする。そして、明らかにしたことに対して、きちんと責任をとる。例えば、双葉町につくる中間貯蔵施設に関して、30年たったら最終処分は県外の別なところでやる、ということをきちんと法制化し、どんなことがあってもそれを実現する、ということが必要だと思います。

 そういうことをきちんと一つひとつ実現していく。あるいは、やらなければいけないことをはっきりさせて、それを確実にやっていく。特に福島の場合には、「時間」を意識しながらやっていかなければなりません。

立谷:私も井口市長も一生懸命やってきたつもりなのですが、一生懸命やるだけでは、進まないこともたくさんあります。それでも地道に頑張っていくしかないというのが、私の実感です。

工藤:復興で今、抱えている課題というのは、本気で腰を据えて取り組まなければならない非常に大きなものだと思います。言論NPOはまたこういう議論をしながら、解決に向けた具体的なアクションにもつなげていきたいと思っています。ということで、今日は皆さんありがとうございました。