震災から半年、被災地に問われている課題は何か ―相馬市の立谷市長に聞く

2011年8月28日


第二部 皆にカマドをもってもらうために頑張る

工藤:では議論を再開します。今、休憩中も話を進めていて、非常に重要な話をしていただいたので、もう一度それを分解して聞こうと思います。市長が休憩中に言っていたのは、課題を抽出して、それを理解し、職員がその課題を行う時には、立ち位置や目的実現に対する意味を理解していないと意味が無い、という話なのですが、それを職員のみなさん、共有していたということですよね。

立谷:そうですね。私がトップですから、トップの責任として判断、場合によっては決心しなければいけないわけですね。それを、こういう時は、下が批判したらやっていけないのですよ。ですから、みんなで議論して決めるのですけど、緊急事態ですから決めたらもう行くしかないのです。その流れの中で、ひょっとしたら間違った選択をしていることもあったかもしれないです。しかし、とにかく間違っても正しくても、決めた通りにいかないと、バラバラになったらたぶん混乱するだけですね。

工藤:なるほど。被災地の避難所から、今度、仮設住宅という話に入っていくのですが、それに移行したのっていつでしたか。

立谷:最終的に完了したのは、6月17日です。


コミュニティを大事にしたのは被災者たちの知恵<

工藤:そうですか。避難所ではコミュニティを大事にして、みんながちゃんと暮らせるような仕組みを整えようということに、非常に腐心されたわけですよね。それを今度は、仮設住宅にも引き継がなければいけない、というアジェンダになるわけですね。その流れはどうだったのでしょうか。

立谷:それは私達がこうしろ、ああしろと言ったことよりも、被災した方々の知恵なのですね。ちょっと感心して見ていました。というのも元の避難所ごとの組織がしっかりしている。

工藤:避難所ごとに自治会みたいなものができたわけですね。

立谷:できているのです。例えば中村第一小学校、これは工藤さんご覧になって下さい。今年の2月にオール木造でつくりました。よかったですね。とってもいいホテルでした。教室ごとに、12、3世帯入ります。中にはペット部屋というのもありまして、ペットと一緒に暮らせるような部屋もあります。余談ですけど、ペットがいるっていいですね。廊下を犬が走り回ったりして。

工藤:心が和みますね。


ある小学校の避難所では12~13世帯入る教室ごとにリーダー

立谷:それはさておき、部屋ごとにリーダーがいるのですよ。牢名主といったら言い方が悪いですけど、12世帯ぐらいの部屋ごとに代表者がいるわけです。中村第一小学校の場合、とってもいい校長がいるのですが、その校長先生が全体の村長なのですよ。で、各教室に入っている代表者集めてきて会議やっているわけです。

工藤:議会ですね。

立谷:例えばね、後で、うんと有り難かったことなのですが、一部屋ね、「この部屋はインフルエンザになった人をいれるのだ」とか、そういうことを決めるわけです。また、支援物質が送られてきますよね。その際に、例えば、お風呂に入った後、肌着が欲しいのですよ。みなさん着のみ着のままで来ていますから。その肌着が届けられたら、それをどうやって分配するか。避難所ごとに、いろいろ支援物資が届けられるのですが、配り方も決める。

工藤:避難所ごとにそれを決定するわけですね。


喧嘩しないで家族になっていることに感激

立谷:避難している方々も、今、自分たちがどういう位置にいるのか、誰だって気になりますよね。ですから最初、避難所にいる方々に私が言ったのは、みんな仲良くして、ここで頑張ってくれと。脱落者を出さんでくれと。脱落者っていうのは病人も入りますよね。それから、いずれ、できるだけ私は頑張って仮設住宅を作るから、みんなに、一世帯に一つの竈を持ってもらう。そうすると、その後どうなるのかという話になるのですけど、それにはなかなか答えることは出来ない。ただ、とりあえず仮設住宅をつくるところまでは全力で走ると。私が避難所の人に言ったことは、とにかく物資は最大限努力して集めると。不自由な思いを出来るだけさせないようにすると。私が一番頑張るのは、はやく仮設住宅作って、みんなに竈持ってもらうことなのだということでした。それに対して、みんな我慢してくれるのですよ。基本的に喧嘩しないという我慢ですね。これはびっくりしました。1つの小学校の12、3世帯の部屋が、家族になっている。これは感激的でしたね。やはり、体育館なんかに大人数でいる人たちもいたのですけど、勝手なことを言わないのですよ。この集団を混乱させたら、自分たちが行くところが無くなるのだということをみんなわかっているのですね。あれは、大したものでした。

工藤:僕は今、中国から帰ってきたばかりなのですが、そういう日本人の市民なり国民の秩序立った行動や連帯感に、世界は感動していましたね。

立谷:私はそう思いますよ。私自身が大変感動しましたからね。損得勘定したら誰でもわかることなのですね。自分たちの小さな集落ですからね。この集落が混乱したら、結局困るのは自分たちだということがよくわかっているのですね。

工藤:それで、市長がおっしゃられたように、一番の悲願というか、何とか実現したかった仮設住宅が、6月17日に完成したわけですか。


仮設住宅入りもコミュニティ維持を重視

立谷:仮設住宅は4月の末からできていました。少しずつ入って、移動完了したのが6月17日です。3月中から着工していますから、4月の末には第1回の入居、鍵の引き渡しをやりました。

工藤:市長が参考人として出席した、参議院の東日本大震災復興特別委員会の議事録を見ていたのですが、結局はコミュニティを維持するような仕組みになったのですか。

立谷:当然です。第1回目の仮設住宅に入れた方々は、小さなコミュニティを集めた、1つのブロックにしました。例えば、この地区から20世帯とか、この地区から10世帯とかね。それで、100世帯ぐらいのブロックが最初にできました。というのは、スピードの問題がありますから100世帯のブロックが全部1つの集落というわけにはいかないのですよ。避難所にいる人の中で、優先して、仮設住宅に入れないといけない人がいる。例えば妊婦さん、授乳中のお母さんがいる世帯、あるいは病人を抱えた世帯、こういう方々は早く入れないといけません。そういった優先入居者でも、バラバラに入れちゃいけないのですね。いわゆる災害弱者の方々も、やっぱり10世帯、20世帯のぐらいの単位にして、コミュニティの励まし合いが必要です。

工藤:仮設住宅にとにかく移って、初期に考えられていたアジェンダ設定は、一応、達成したわけですね。

立谷:それはね、私そんな頭良くないから、震災の当日考えて、仮設住宅は最初100棟ぐらいできるけど、そこをどうやって、どういう方法論で、小さいながらもコミュニティを維持しながら、災害弱者を先に入れるか。そういう方法論を展開するのは職員です。

工藤:なるほど。
立谷:私よりずっと優秀だもの。

工藤:チームワークで見事に実現したわけですね。あと、原発の問題は、当初の方針にどのような歪み、影響をもたらしていったのですか。


優先順位で、原発は冷静に見ていた

立谷:原発の問題というのは3月12日から始まっているのですね。その段階で、もし広島の原爆みたいになるとしたら話は別ですよ。だけど原子炉ですからね。原子炉から発生する放射能の健康障害と、3月12日に我々がやっていたこと、つまり、生きるか死ぬかという人、いわゆる孤立者がいるわけですよ。どうやって登ったかわかりませんが、屋根に登って助かった、屋根の上に人がいるなんて話ありましたから、ヘリコプターで救助していました。そういう、「今」の救出劇をやっているところでは、原発より優先するわけです。原発の爆風が来るとしたら、それはまた別ですよ。だけど、その段階では、原発の事故を、ある程度冷静に見ていました。こっちで救出というとんでもない課題を持っているわけです。ですから、優先順位で言ったら、原発は冷静に見てなくてはいけないということが1つですね。

あとは、病院に線量計があったのです。それで実際に測るわけです。その時は1~2マイクロシーベルトくらいですね。ですから、これは慌てる必要が無いと。その後、積算の話がいろいろ議論されましたが、年間、積算で100ミリシーベルト、それでは多いから20ミリシーベルトにしようと国が決めた。だけど、1年間、それも屋外にいての話です。最悪の場合、屋内に退避していればいいというのが最初の私の考えです。1年間毎日浴びた場合の話であって、それが、1週間とか2週間遅れても、爆風でやられるわけではないから、それよりも、優先する課題があるだろうという風に考えて、冷静に分析していったつもりです。たった1つあった線量計の情報は本当に大きかったですね。

放射能の問題の緊急事態は何なのかと考えるわけです。これは、私も反省しなければならないのですが、SPEEDIの、死の灰が風によって飛んでくることを、あの段階で知識として私は持っていませんでした。ですから、何となくモワーンと来るんだと思ってました。そうすると、45キロ離れた相馬市については、放射能の急性症状はあんまり考えなくてもいいだろうと。

立谷:その数字をどこで判断するかということです。被災直後から、色々な評論家が色々なこと言いました。「大丈夫だ」みたいな意見もあったし、「これはとにかく大変だ」みたいな話もありました。スリーマイルでこうだった、チェルノブイリでこうだった、とにかく色々な話が出てきました。だけどやはり相馬市としては、津波の被災者、約4500人いるのです。その方々のお世話をしながら、ということなのですね。

工藤:避難指示が最終的に政府から出ましてね、南相馬とかも、だんだんいろんな形で移動していくじゃないですか。その状況の中で相馬市はどのように対応したのですか。


もし、屋内退避となったら

立谷:屋内退避という措置が、南相馬の原町区というところに出ました。その次に、南相馬の鹿島区というところがあって、つまり、30キロ圏内の次は40キロ圏内になりましてね、40キロ圏内の次は50キロ圏内になるわけですよ。その時考えたのは、相馬市が屋内退避となった場合は動こうと思っていました。動くというのは、まず、屋内にみんな入ってもらいますね。病院の入院患者は屋内にいれば、線量は10分の1ですね。積算量は1年間浴びた場合です。私が考えたのは、慌てて避難をして、災害弱者がとんでもないことにならないように。だから相馬市が避難するということを考えたら、まず屋内退避になった段階で、まず屋内に退避して、そこから次のことに備える。やらなくちゃいけないことは、災害弱者を適切な医療機関に引き取ってもらうことですね。つまり、災害弱者として考えなければならないのは、在宅の寝たきり老人が47人いました。それから、病院の入院患者。入院患者の場合はまた別なファクターが出てくるのですけど、要するに、医薬品が入ってくるかどうかということがあるのです。医薬品が入ってくること、スタッフがいるということが前提です。

工藤:スタッフも辞めたり、移動しちゃう場合がありますよね。

立谷:相馬でも若干ありましたが、頑張り通しました。その上で、元気な方々を、1週間、2週間かけて避難させる。一番は子供でしょうね。南相馬が屋内退避区域になった時に私が考えたのは、そういうことでした。会議録にも残っています。だけど、あんまり、私は想像がつかなかったのですよ。つまり30キロ圏内の屋内退避地域が、50キロにまで延長されるということは、その段階で想像がつかなかった。ただ、今から考えるに、SPEEDIのあの風の流れが海岸に向かって相馬に来ていたら、その時は、そうなったでしょうね。後々、飯館村がだいぶ経ってからなりましたけど。SPEEDIの実際の考え方に沿って風がこっちに来ていたら、そういうことが起きたでしょうね。

工藤:政府の情報の公開に対して、その意味では注文は無いですか。

立谷:我々は逃げ遅れて健康被害を心配するような、そういう地域ではありません。例えば飯館村とか南相馬市、福島市もそうですけど、相当、住民のみなさんも、首長さんもストレス感じてらっしゃるのですね。そのストレスの中で、比較的冷静に市長さん達は行動していらっしゃると、私は思います。そういう方々と私は状況が違いますからね。私から軽々にあまり申し上げたくないですね。

工藤:わかりました。では、もう一度ここで休憩にします。

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