イギリスのEU離脱の背景と今後

2016年7月05日

第2話:イギリスにとってのEUとは

工藤泰志 工藤:次の議論に入ります。皆さんから、国民投票の背景について、様々な角度からお話しいただいたのですが、根本的に知りたいのは、イギリスという国がどういう生き方をしようと目指していたのかということです。これまでEUの一員として生きてきましたが、国家の経済的な戦略としてEUから離れて何かをしたいという考えがあったのか。国威発揚して、「イギリスが世界のトップになるのだ」という議論の背景には、EUに巻き込まれるのではなく、EUから離れた上でもう一度再起しようという期待、願望、構想があったのかもしれません。こういった考えはどのように進んでいたのでしょうか。そして、こういった考えが今回の投票結果に結びついたのでしょうか。まず、渡邉さん、吉田さんから解説していただきたいと思います。

経済が良くないときに、EUが不満のはけ口になる傾向が欧州全体にある

160630_watanabe.jpg渡邉:イギリス人に「EU意識」という連帯感がどれくらいあったのか、そして、EUの制度や合意に従順かという二つの点についてお話しします。私は、イギリス人には自分がヨーロッパ人であるという意識はあると思いますが、EUで決めた合意にどこまで従うのかというと、その意識は希薄ではないかと思います。別の言葉でいえば、イギリスの国益とヨーロッパの統合がもたらす繁栄の重なり方が、独仏と比べて弱いのではないかと思います。

 もう一つ、この国民投票について言えば、キャメロン首相の政治的手腕、政治的背景のお話がありましたけれども、私はむしろ、社会経済状況が良くないときに、EUがスケープゴートにされるという構造はイギリスだけではなく、加盟国全体に出ていると思います。例えば、いまから10年ほど前、EUによる欧州憲法条約を決めようとしたときに、フランスが反対して決まらなかったということがありました。1992年のマーストリヒト条約においても、当時のミッテラン大統領が実施した国民投票で賛成票がかろうじて50%を超えたということもありました。経済や日々の生活が良くない人にとってはEUをスケープゴートにするわけですから、その国民に判断を委ねる国民投票には元々危険性があるわけです。

 こうなる境目はEUの拡大にあったと思います。東ヨーロッパへの拡大がなされた時にニース条約によって、多段階、柔軟性の原理、つまり条件がそろったところから統合の政策に加わって良いという柔軟なルールにしたつもりが、やはり格差があって、この格差を人々の意識はまだ克服できていない。さらに、2004、05年くらいの段階で、「EUはある程度成功しているのだから、この上何をやる必要があるのか」という意識が一般の人たちにかなり出てきた。そういう中で、イギリスで生活状況が良くない人の不満のはけ口としてEUが出てきたのだと思います。

 それから、「離脱」とは言うものの、「完全な離脱」はできないと思います。今後、調整するとは思いますが、現在、フランスのカレーに、イギリスに渡りたい難民が4000人いるキャンプがあります。今はそこにイギリスとフランスの共同のパスポートチェック管理所がありますが、イギリスの離脱後は、フランスはイギリスに渡りたい難民はどんどん通すことになります。ドーバー海峡の向こう側でイギリスは4000人の難民を抱え込み、大騒ぎになると思います。結局、欧州の問題から逃れられないという意味で「完全な離脱」はない。かなり妥協しながら、現実的に対応していくしかない。ですから、私はEUのことを「緩い統合」と言っています。今日、ウィンウィンゲームの時代、ノンゼロサムゲームの時代ですから、本当に大きなマイナスはできるだけ避けるための行動にEU全体が出ることになると思います。

工藤:吉田さん、経済の面から、イギリスにとってのEUは、どういう仕組みであり、どこに問題があったのでしょうか。

EUの経済的な重要性の低下や、独仏中心の統合への反発が背景にあった

160630_yoshida.jpg吉田:今回の離脱の背景には、イギリスにとってのユーロ圏、EUの経済的な意味での重要性が低下したことがあると思います。1970年代以降、イギリスにとってEUに所属し続ける動機は、常に経済的なメリットでした。1973年にイギリスはEC(欧州共同体)に加盟しますが、加盟交渉自体は1961年から始めているわけです。60年代のヨーロッパは「欧州の奇跡」と言われる戦後復興期でありながら、イギリスは「英国病」に悩んでいました。そうしたなかで、イギリスは加盟交渉を開始し、フランスに拒絶されるなど時間はかかったものの加盟しました。その後、オイルショックを挟み、経済が悪くなったことで、一度、「EU熱」が冷めるわけですけれども、EUのオイルショックへの反応として、単一市場へ向かっていく道がでてきて、その単一市場への期待感から新しい加盟国が増え、イギリスにおけるEUの支持率も再び上がってくるという状況にありました。

 そこで一つの契機になったのは、1992年の「ポンド危機」と言われるものです。イギリスは当時、ERM(欧州為替相場メカニズム)に参加し、ポンドを各国の通貨と固定させることである程度インフレの沈静化を狙っていたのですけれども、そこから外れることになりました。ただ、それが、「災い転じて福となす」ではないのですが、その後のイギリス経済は好調なパフォーマンスを遂げるわけです。

 当時は、ポンドが暴落して、イギリスがインフレになって大変なことになるのではないかと言われていたのですが、蓋を開けてみるとそうならずに、イギリスは意外と上手くやりました。サッチャーの時代で、ビッグバンをやっていたということもありますし、世の中がグローバル化に移っていくことによって、お金を持っている人と持っていない人が出てくることによって、そこの間にお金が流れ始めたわけです。その流れたお金のハブがイギリスであって、2000年代は住宅バブルとともに、アメリカのお金、中東のお金をつなぐ役割としてイギリス経済は発展して、EU経済の相対的な重要性の低下につながるわけです。

 そして、そこに追い打ちをかけたのが欧州債務危機でした。2010年の総選挙の結果、キャメロン率いる保守党が連立政権を組むことになりました。当時、イギリスの選挙で初めてテレビ討論が行われ、そこでキャメロン党首が何を言っていたかというと「もし、我々がユーロを使っていたら、我々の税金や社会保障費は全部、ギリシャの救済に使われていたのですよ」と有権者に語りかけていました。

 私も当時ロンドンにいて、それを見て非常に印象的だったのでよく覚えています。もちろん、輸出の半分近くがEU向けなので経済的な重要性は落ちていないのですが、そういうわけでイギリスにとってのユーロの重要性が薄れていたというのが一つの背景にあった。同時に、EUの保護主義的な側面に対する反発というのは、サッチャーの時代から出ていたと思います。イギリスはEUのなかで、自由に貿易をして、国民生活を豊かにしたかったのですが、蓋を開けてみるとそうではなかった。域内の単一市場を作るという名の下に様々な規制が決められて、かえって足枷になっていると考えるようになった。そういったことが根本的な問題にあるのではないかと思います。

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渡邉:いまおっしゃられた1980年代の話で言えば、80年代の半ばがひとつ分かれ目だと思います。イギリスとEUとの関わりで言うと、独仏が中心のEU統合というのは、1980年代から再び始まります。域内市場統合とともに、象徴的なのは1984年のフランス・フォンテンブローでの欧州首脳会議でした。拠出金の中からのイギリスへの還付金の比率をめぐり、サッチャー首相と独仏の間で議論が行われました。最終的には議論がまとまらないから、西ドイツのコール首相とランスのミッテラン大統領が話し合いで決まった。サッチャー首相はその内容を知らずに独仏主導で決まってしまった。

 元々独仏の石炭鉄鋼共同体から戦後の欧州統合が始まったということがありますし、1980年代、「ユーロ・ペシミズム」から巻き返そうとしたときに、そのように「独仏が中心になってはじかれた」という意識がイギリスに強くあったのではないかと思います。

160630_yamanaka.jpg山中:2011年のギリシャ債務危機当時、英国にいたのですが、この頃から国民の意識は大きく変わったと肌感覚で感じていました。自分たちはユーロを選択しなかったにもかかわらず、「ユーロの危機なのでそれを助けるためにある程度拠出しよう」と言われ、「自分たちの通貨はポンドなのに、EUはそんな事はお構いなしに拠出を押し付けてくる」といった雰囲気が結構広がっていたのです。ユーロに入っていないEU加盟国は全部で10ヵ国ですが、その一つであるスウェーデンの外務大臣が今回の国民投票の直前に、「もしUKが離脱したら我々も国民投票をしなければいけない」と言いました。ユーロに入っていない国から見たら、「UKが離脱すれば、スウェーデンだってデンマークだって、ユーロに入っていない国の利益をドイツとフランスに主張できないではないか、そんなところにいるのがいいのかどうか」という意識です。

 もう一つ、人の「移動の自由」なのですが、外国人労働者が一番多く向かっているのはドイツで、何も英国だけの問題ではないのです。ところが、例えばポーランドは、歴史的な理由からドイツに行かないわけです。一方、英国はご存じのように歴史的にコモンウェルス(旧植民地)から、これまでパキスタン人やインド人などを100万人単位で受け入れていて、元々外国人がとても多いのですが、ポーランド人に関しては2004年の6万9000人から2011年には68万7000人、現在は約100万人というように急激に増えたため、特に目立つわけです。ですから今回の国民投票でも「ポーランド人がすごく増えた」とターゲットになっているわけです。そして、シリア含めたイスラム圏からの難民がドーバー海峡を渡ってくることへの懸念が「移動の自由」への反発に拍車をかけたということです。

工藤:今の皆さんのお話を聞いている限り、EUとイギリスが分かれるのは、ある程度の必然だったという理解になるのでしょうか。単一市場のメリットはあったけれど、その利益と国益との差がある状態の中で、EUともっと一緒になっていくという構想は可能だったのか。そのあたりはどう判断すればよいのでしょうか。

経済統合は推進するが、ユーロなど統合の中核には加わらないという立場

160630_nakamura.jpg中村:私は、イギリスは基本的に1960年代の初めに、ヨーロッパに対する見方を変えたと思います。それ以前は、自分でEFTA(欧州自由貿易協定)をつくったりして、EECができたときにはむしろ邪魔をしていたわけです。そのように「自分たちは大陸とは違う路線を行くのだ」と思っていた。しかし、これがうまくいかなかった。

 それから、外交的にみても、長期的にはEECの方が色々な意味で利益になると判断して突然、方向を変えました。そして、先ほどお話に出たEECの加盟申請などに走っていくわけです。ですから、私は、イギリスが常に独立を求めて行動していたとは思いません。むしろ逆に、「EUが統合によって経済を中心に発展するのであれば、そこのところにはついて行こう」という意思はあったと思います。実際、その方向で80年代、90年代初頭あたりまで来ているわけです。

 ただし、例えばユーロの導入とか、あるいは域内国境での人の移動監視を撤廃して対外国境は共同で管理するとか、そういうところまで行くと、だんだん「そこまでついて行くべきかどうか」という疑問が出てきました。そして、イギリスは、ユーロについては「自分は入らない」という選択をし、そして、ユーロの危機に陥ったときにも「助けない」という選択をし、条約改正をほとんどすべて拒否しました。ですから、ユーロ圏の国々は、EUのシステムの外側にESM(欧州安定メカニズム)という救済機構をつくらざるをえないという窮地に陥るわけです。それから、人の移動でいうと、イギリスはシェンゲン協定にも入っていません。

 したがって、イギリスは2000年代に入ってEUが「売り」だと思っていたようなユーロやシェンゲン協定などからはすべて離れているわけです。経済の大きな路線には従っていくけれど、もう一つの目玉については入っていない。そこから亀裂が生じています。完全な離脱や独立を求めないけれどある程度、EUの多くの国がコアにしたい政策については距離を置くという外交をしてきたと思います。そういう意味では、大陸の人からはそれが「いいとこ取り」に見えると思います。イギリスとしては、それが国民を納得させる最大限の妥協ポイントだったということだろうと思うのです。

 実は、今回の離脱のとき、離脱派はオプションについて考えていません。この後何をすればいいのか、ということについてまったく白紙で、運動期間中に掲げていたいくつかの構想は、政治的にも法的にも不可能ないし非常に困難な、選択肢になりえないような空想の話が多かったのです。今になってそれが馬脚を現してきたので、「そういうことは言っていない」とか、「他の構想もある」と言ってお茶を濁すような状況に陥っています。

工藤:結果としては、EUで合意しなければいけないものに対してある程度距離を置き、経済的には一体性をベースにして利益を取っていた。つまり、基本的に、その状況がイギリスにとって一番良いのでしょうか。

EUに残留して何をするのか、国民から見えなかった

山中:私は、今回英国は残留した後、EUの中でフランス、ドイツに対抗して、自分もイニシアティブをとれるような改革をさせようと目論んでいたのではないかと思います。しかし、国民にとってみれば、「今の状態が良いのですよ」というキャンペーンは、「もっと良くなるよ!」というキャンペーンに比べたら非常に弱いわけです。「EUの中で我々がイニシアティブをとるのだ」と言っていますが、何をするのか、がまったく国民に見えなかったというところがあります。

中村:ユーロにしてもシェンゲンにしても、EUの売りだったはずのものが、今どちらも危機を迎えています。ですから、国民にとっては、ますますEUが魅力的には見えないわけです。

 そして、何か新しい根本的なことをしようと思ったら、条約を改正せざるを得なくなるわけです。そこで、イギリスが残留したのちにやろうとすることは、二速度化、つまり「先に行ける国は行くけれども行けない国は行かない」ということが一つあったと思います。あるいは、意思決定のやり方を少し変えるとか、何らかのかたちでかなり根本的な改革を提唱せざるを得なくなったと思います。これは、いずれにしても政治的に実現するのが非常に難しい。

渡邉:大陸の方から見ますと、経済だけではなく、例えば安全保障でもイギリスはNATO派であって、独仏中心でやる防衛政策についてはかなり消極的でした。しかし、98年にシラクとブレアが欧州共通防衛政策に合意してイギリスも加わりました。ある種、自分の得になるときには独仏主導でも乗ってくるわけです。ですから、必ずしも経済と政治を分けるのはどうかと思います。

 ただ、大陸の方から見ると「それでは困る」というわけです。「本当にイギリスが仲間なのか」という疑念はあると思います。逆に、イギリスから見ると「独仏が勝手なことをやっているからなかなか入っていけない」という意識が、歴史的にも現状としてもあるのだろうと思います。その認識のギャップをいかに埋めるかということを、この間のEU首脳会議などでも考えていたのだと思います。EU側は「反対したけれどもシナリオがなかったではないか」と言っていますから、これが基本的なスタートポイントだと思います。

工藤:構造としては、いずれにしても統合がダメになる可能性があったと見ているのでしょうか。

渡邉:ただ、ダメになるということは、ヨーロッパ全体がダメになることにつながりますので、どこで落としどころを探すか、ということが重要だったのです。

山中:ここからどのように動いていくのかを注視する事が肝要で、簡単に「国民投票で離脱となって、全部終わりです」というところではまったくないと思います。

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