市民を強くする言論

【特別議論】「強い市民社会の実現に向けた議論づくり」/編集会議new4.gif

第2話 強い「市民」の議論のカギはどこにあるのか
-「当事者性」こそが、「劇場型政治」を乗り越える-


編集会議の様子
 「市民を強くする言論」では議論のサポート役として編集委員会が設置されています。編集委員会のメンバー7氏が「強い市民社会の実現に向けた議論づくり」について話し合いました。
第1話 なぜ「市民社会」は強くなくてはならないのか。
第2話 強い「市民」の議論のカギはどこにあるのか。

 出席者は 武田晴人 東京大学大学院経済学研究科教授
      辻中豊 筑波大学大学院人文社会科学研究科教授
      山内直人 大阪大学大学院 国際公共政策研究科教授
      田中弥生 独立行政法人大学評価・学位授与機構准教授(主査)
 そのほか、紙上参加者として
      齊藤誠 一橋大学大学院 経済学研究科教授
      目黒公郎 東京大学教授(東大生産技術研究所都市基盤安全工学国際研究センター長)
 司会は言論NPO代表の工藤泰志です。

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工藤泰志 では、話題を、議論の進め方に移したいと思います。
 「強い市民社会」という問いかけはいいのですが、なぜ強くならなければいけないのか、その手がかりとなる論点をどう考えていけばいいのか、さらに強い「市民」をつくるための議論が一気に加速していくようなポイントはどこにあるのでしょうか。
 たとえば、かつての非正規労働の問題、このときの突破口は派遣村でした。医療の問題に関しては病人のたらい回しが議論に火をつけました。あのとき皆が、緊急医療という公共サービスの不足という現実を感じ始め、地域医療の問題を、自分の問題として考えられる契機になりました。市民社会に関しても、確かにいろんなところに領域がまたがっているのは事実ですが、議論が動くきっかけというものがどこかにあるはずなのです。

日本の政治の変化と市民に問われる当事者意識


田中弥生 市民社会というと、私たちはどうしても非営利組織とか、コミュニティに依拠してイメージをしてしまうのですが、今日のお話をうかがって、市民と市場との関係、政治との関係、それから地域社会やコミュニティとの関係、という3つの側面をバランスよく議論していかなければならないと思います。国民が今一番、関心を持っているところで言えば、やはり政治の問題なのではないでしょうか。昨年、日本の政治は政権交代を実現しましたが、新しい変化が動き出したのか、というとなかなかうまくいきません。

辻中豊 変化に、関心が高まっているというのは良いことです。ただ議論がまだ非常に情緒的でその問題自体が自分たちの生活とどう関係するのか、まだわかりにくい、という問題があります。昨年の事業仕分けに対する議論を聞いていても、議論がショー化しており、反対する人の言葉もかつての陳情と何ら変わりありません。

工藤 昨年の「仕分け」のやり方にはいろいろ意見があります。ただ、税金の使われ方にここまで関心が持たれるのは、ある意味でとても大事なことです。多くの国民は給料を減らされ、税金や社会保障の重さを感じている。そういう国民側の目線が、政治のレベルでも必要だと思うのです。これが、自分たちの税金の使われ方ではなく、自分が受け取っているサービスや負担の問題にまで市民の目が広がれば、とても意味がある議論の展開です。
 ただ多くの場合、そういう議論はなかなか難しい。自分のサービスは減らしたくないけれども、負担は避けたいと思っている。この状況を自ら意識しない限り、気がついたら抵抗勢力は有権者だった、ということになりかねない、と思うのです。
 つまり、国民は常に観客ではいられず、今の政治が続く限り、被害者にもなりえる。だからこそ、市民の議論には、「当事者性」が必要なのだと思います。

田中 確かに、政治に対する有権者の関心が、作業の公開の中で深まったのは事実です。これを劇として見たのか、それとも工藤さんが言われたように、税金の使われ方として見たのかでは、意味がかなり異なります。私の周りの大学関係者は、皆この仕分けによって直撃を受けています。

社会の課題を自分の問題として考えられるか


工藤 政策評価の視点で言えば、あの仕分けには手法その他でいろいろ問題があります。仕分け人に対峙すべきなのは、省庁の概算要求を政治主導で出した政務三役のはずですが、そこには政治家ではなく、役人が座ってしまう。役人が国民のことを考えず、自分の領域を守るというストーリーの方がわかりやすいいし、彼らをつるし上げにするショーの方が迫力があるからです。でも、これでは、政策を決定する政治の責任というものを曖昧にしてしまう危険性もあるのです。
 ただ、問題は多いのですが、ひとつ考えさせられたのは、この公開型のショーは国民に税金の使い方について問題意識を待たせるという点で可能性があるということです。税を使う側がそれをしっかりと説明しないと納得してもらえないような緊張感がある。つまり、どちらが説得力を持つかという舞台になったのです。大学の学長が集まって記者会見を行いましたが、大学教育が十分な信頼を得ていれば「これだけ素晴らしい先生方が批判しているのだから」となるけれども、大学の教育に信頼がないと、単なる抵抗勢力による反対行動に見えてしまう。日本で権威があったとされた領域でも、その説得性が問われ始めたわけです。
 税に対する曖昧な、自己弁護的な姿勢は許されないというのは、市民側にとって大切な論点だと思います。

田中 その判断は、市民社会がどれだけ成熟できたかということに、大きく左右されてしまうような気がします。より刺激的な議論だけが好まれるのか、それともしっかりとした説明を市民が期待しているのか。有名人を集めてメディアに出た方が説得力を持てるのか、あくまでも説得力のある議論の力が大事なのか。当事者性はとても大事ですが、これも諸刃の剣であって、その時に自分の利益だけを考えて行動する可能性も大いにあるのです。そういう人々は、今ここで議論している「市民」とは違います。
 つまり私たちが考えるべき当事者性とは、課題に対して、それを自分の問題としてどれだけ向かい合えるか、ということですね。

工藤 その通りだと思います。言論NPOが最近行なった別の座談会で話題になったのですが、民主主義には2つあって、ひとつは直接的で劇場型の民主主義です。ここでは「白か黒か」を決めるスピードが速い。もうひとつは、時間はかかるけれども議論の積み重ねが政治を動かしていくような強い民主主義です。本来はこのような2つの議論の組み立てが共存するような社会が望ましいと思うのです。が、日本ではそれがあまりにも劇場型に偏っている。そこに大きな問題があるように思えます。
 私は当然、後者が今の日本には必要だと思いますし、言論NPOが目指している議論の舞台もそこにあります。ただ、市民にしっかりとした判断力があれば、どちらの場も活用できるわけです。ここで問われるのはやはり当事者性だと思います。単なる「官僚は皆おかしい」というようなセンセーショナルな議論のほうが勝ってしまうと、この国の民主主義がやはり危ないと思う。

「他人事」意識をいかにして「自分事」に変えられるか


目黒公郎 私は、今の議論を防災の分野に置き換えてお話ししたいと思います。これまで世界各地の災害現場を見て、いろいろ考えたのですが、危機管理力や防災力を向上させる基本は、発災からの時間経過の中で、自分の周辺で起こる災害状況を具体的にイメージできる人をいかに増やすかに尽きるのです。これは、徹底的な当事者意識を持って、災害状況を考える習慣を身につけることで初めて実現します。
 このときのポイントは、「他人事(ひとごと)」意識をいかにして「自分事(わがこと)」に変えられるか、そこに個人としての成熟度が問われるのです。
 少し難しくなりますが、効果的な危機管理体制や防災対策というのは、「災害状況の進展を適切にイメージできる能力」に基づいた発災前の「自分の置かれた現状に対する理解力」と発災時の「各時点において適切なアクションをとるための判断/対応力」があって初めて実現します。人間にとって、イメージできない状況に対する適切な心がけや準備などは絶対に無理なのです。 にもかかわらず、社会の様々な立場の人々、すなわち政治家、行政、研究者、エンジニア、マスコミ、そして一般市民が、災害状況を適切にイメージできる能力を養っておらず、この能力の欠如が最適な事前・最中・事後の対策の具体化を阻んでいるのです。ところがこれまで「防災教育」と称してやってきたことは、「Aやれ、Bやれ、Cやるな」的なもので、これは思考を停止させるものです。

「市民を強くする」ことの目的とは


武田晴人 事業仕分けは、説明が義務づけられ、それが公開の場で発言として記録されるということ自体に、おそらく意味があるのだと思います。かつては非公開の場で、どういう理由でお金がついたのかということが見えにくかったわけですが、説明しなければいけなくなったので、発言者はその説明に責任を負わなければならなくなった。そういう仕掛けがまずできたということです。ある種の情報の透明性が一歩前進したのですから、これからその仕掛けをどう利用していくのか、あるいはそれをどう拡張して参加を促していくのかと、いうことが問われると思います。

工藤 この市民社会に関する議論もどこかの段階でオープンな、参加型の議論にしていかなければいけませんね。何かの課題についてみんなで考えてみようという提起が、この議論で必要なのではないかと思います。

武田 では、基本的な質問ですが、市民を強くする目的とは何でしょうか。

工藤 私は、自分の未来を自分で選択できる、という自由を守ること、だと思っています。政治にお任せというか、思考停止したまま、自分にも関係のある課題を人任せにする社会では、自分の未来も見えないと思うのです。そのためには自分で判断できる力が大事です。そのためにも市民は強くならないといけない。自分たちが判断する時に多様な選択肢があれば、選択した結果についてはある程度は「仕方ない」と納得できることもあるでしょう。しかし情報も選択肢もない、議論の舞台もないという状況の中では将来が全く見えない。
 自分たちの行動とその結果には責任を持ちたいけれども、その代わり選択肢と選択の自由が提供されるような社会でなければいけない。
 そのためにも多くの人が課題に関して語り合い、その解決に向かい合うような社会が必要だと思うのです。市民を強くする言論は、そのための舞台にしなくては、と思っているのです。

辻中 それはつまり、自己決定ができる社会、ということですよね。

田中 私もそう思います。あまり、型にはめるのはあまり好きではないのですが、麻生政権のときに「社会民主主義と自由主義、保守主義のどれを選びますか」というようなやや短絡的な議論がありました。工藤さんや武田先生のお話は、どちらかというと自由主義に近いような感じを受けましたが。

工藤 選択肢があって、自分で自分の人生を選べるという自由は、守りたいです。しかし、その代わりその選択には責任が伴う。

辻中 それは社会民主主義も同じだと思いますが。

武田 選択の自由を保障するために選択の幅を広げるというのは社会的なインフラで、それは政策的に介入しないと保障されない可能性があります。完全な自由主義では、選択の自由を確保できない、という問題もあります。

人々の「生き方」に関わる問題をアジェンダに


工藤 皆さんのお話をうかがって、やはり議論のつくり方についてアジェンダ設定をきちんとしないといけないと実感します。あえて市民を強くするための、議論づくりのキーワードを言わせていただくと、これは齋藤先生もおっしゃっていますが、市民もまたこの社会の当事者として、課題の解決をする意志を持つ、あるいはその課題に向かい合う意志を持つ、そのための議論でないと、市民は強くはならないと思います。
 自分たちの人生や生き方の問題に関わることもたくさんあるでしょう。持続可能な年金制度の問題などはまさにそうですが、働き方に関する問題、困っている人を守り、社会に復帰を促すようなセーフティネットの問題もあります。多くのことが,今の日本では解決されていないのです。にも関わらず、政治からはそれらが提起がなされず、国民的な合意形成がないままに目の前の話だけに追われている。つまり、未来が見えない社会でもある。そういうことも、ここでの議論のアジェンダにすべきではないかと思いました。
 一方で、私たち自身を問うような議論も必要です。地方分権にしてみても一体誰がそれを求めているのか、という問題もあります。熱心なのは首長だけ、というのもおかしな
 話です。たとえば地方の議会では傍聴者も少なく、むしろ傍聴者が増えた会議が急に非公開になってしまったとか、全国各地で異常なことが起こっています。誰かにお任せしても答えが出てこないのに,依存してそれに問題を感ぜず、自由を放棄してしまうkとおもあります。その流れを変えるためにも、私たちの生活に関わるいろんな課題について、ひとつひとつアジェンダ設定をしていくことが必要だと思います。

齊藤誠 今までの市民運動というのは、政治的に言えば左の人が担うというかたちだったと思いますが、その流れは変わりつつあります。社会の中核にあるヒト、たとえば企業のトップ、弁護士、会計士、大学の教授とかプロフェッショナルや官僚、工藤さんのようなジャーナリストが、自分の所属する組織などは大切にしつつ、社会に貢献したいという動きがあることです。その変化を力にする、ことも大事だと思います。
 市民の活動の中にそういう自立した人間として入り込まないと、ノウハウとカネの算段も上手くいかない。そういう人が入ると、専門知識もノウハウもネットワークも改善します。それから広く公の気持に訴えることで、財政的な面でも寄付しよう、コントリビューションしようということが出てくると思います。市民運動が社会運動のようなかたちになることには抵抗がありますが、市民活動というか、市民の社会への参加は必要だと思います。
 組織に貢献する時間はとても重要ですが、議論をしたり、意見表明をしたり、原稿を寄稿したり、そういうことをしても自分である程度生活ができる人が参加していかないと、そういう活動はなかなか成り立たないと思います。そういう意味でも社会の中核の人たちが市民の活動に参加をしていくことが必要です。これまでの市民社会にはそういうところが欠けていたのではないかと思います。大学教師も専門知識やネットワークの面で、大学組織から離れてもっと市民社会に貢献できると思うし、他のプロフェッショナルの人たちもそうだと思います。複雑な議論になればやはり弁護士の方が必要になりますし、組織が大きくなれば会計や税務の必要も出てくるものです。そうすると、専門的な知識の面で支えていくことは必要だと思います。
 高度な運動をしようとすればするほどそれが重要になってくる。マネジメントの側面が出てくると、企業や組織に通じた人たちが入ってこないと難しいですから、緩やかには公共心の中で担う人材を集めて、自分とその周囲の環境が良くなっていくことに繋がればいいいと思います。

工藤 そうしたプロの市民社会の参加は、先に田中さんが言われたドラッカーも示唆していましたが、この編集委員会も同様の意味を持っていると思います。そうした動きが、当たり前になれば社会も強くなっていきますね。

組織から社会に、参加の形態変化が市民社会をより強くする


齊藤 私は日本人は、50代半ば以降の暮らし方を見直さなければならないと思います。たとえば官僚だったら天下りして、組織の中でずっと守られることになるし、大学の教員も国立で65歳までいって、その後は私大に行く。いつまでも組織の延長線上にいるから、有意義な人材が市民社会に息づいてこないわけです。でも55歳を過ぎたら、「自分の人生だ」ということで、その組織にしがみついていないで、コミュニティやNPOなどに参加していくと。そういう人たちはある程度生業も立っていて、そんなに高い給料もいらないはずですから、半分ボランティアみたいなかたちでやってみる。そうなると、60代半ばなんてみんなピンピンしていますから、社会に対していろんな活動ができると思います。
 早期退職にすると何が起きるかというと、市民活動に地位や富を築いた人が入ってくるのと同時に、欧米社会のように、組織の中核を40代あるいは50代半ばの人に担ってもらえるようになります。やはり今の日本のように「60歳は若手で、70近くになってやっと組織の中核を担えるようになる」という社会はまずいのではないかと思います。組織のトップになるのは一番体の動く40代、50代ですよね。ある時期を過ぎたら後進にポストを譲らないと、若い人も育たない。

辻中 政治と企業とコミュニティの関係ということが言われていますが、企業についても市民社会のいろんなところにコミットして変えていくという議論には達していませんし、政治という面を見ても、市議会や町議会がすぐ近くにあるのに、皆傍聴には行かないし、議会のほうにも「自分たちの議論が日常的に見られている」という意識はないです。そういう意味で、参加が足りないのだと思います。参加の媒体としての市民社会が育っていないのです。市民社会が認知されて、市民が自己意識を持つようになっていかないと、いろんな問題がうまく回っていかないと思います。

工藤 今日は皆さんから、非常に良いヒントをいただきました。皆さんの議論を整理して、今後の議論のアジェンダをひとつひとつ、設定していきたいと考えています。まずは市民社会というものについて皆さんが思っておられることを出し合うプロセスが重要かなと思います。まず意見を出し合うところから始めて、その中でアジェンダ設定のカギとなるようなものを発見して、そこから議論を始めていきたいと思います。
 NPO・NGOで働く現場の方々などにもどんどん発言をしていただきながら、日本の政治に始まった変化を、本当の意味で日本の未来につながるような変化にしていければと思っています。そのためにも強い市民、そしてそれを語り合える議論の場が必要なのだと思います。これから、走りながらというかたちになりますけれども、よろしくお願いします。

更新日:2010年03月01日

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