【議事録】2007.6.15開催 アジア戦略会議 /
テーマ「憲法9条」テーマ「憲法9条」(会員限定)

2007年6月15日

070615アジア戦略会議

 松田 アジア戦略会議は最近ずっと外交の話をしてきたのですけれども、参院選が近づいていることもありまして、日本の将来選択の話で、昔、アジア戦略会議のシンポジウムで2030年の将来の日本という議論をしたことがあるので、またそういう議論につなげたいと思っています。早速ですけれども、『日本の新戦略』という提言をまとめられたので、これにつきまして30~40分ぐらいお話をいただければと思います。その後、質疑応答に入りたいと思います。

 若宮 おはようございます。きょうは、お招きいただいたのか、お白州に引き出されたのかよくわかりませんけれども、貴重な機会を与えていただいて、ありがとうございます。

 きょうは、ありがたいテーマをいただいたのですけれども、5月3日に―これが現物です。お読みいただけたかとは思いますけれども、1面に「地球貢献国家をめざそう」、『日本の新戦略』ということで、これは私の署名原稿ですけれども、「9条を生かし、平和安保基本法を」という見出しをうたって、中に21本の社説を抜き取り方式で並べたということで、若干世の中に驚いていただきました。21本もよく社説を載せたものだということで若干の話題を提供したところですが、その中身をそっくり写したのがこの冊子でありまして、実は、この後、『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン/朝日』の方にも翻訳が全部載りましたので、それをあわせたものを今つくっています。ごようぼうがあればお届けいたしますので言ってください。

 この趣旨は読んでいただければこのとおりですけれども、何分、若干分厚いものですから、ざっとミソをお話しして、せっかくの場ですので、どうしてこういうことをやったのかということをざっくばらんにお話ししたいと思います。

 総合的なキーワードは、1面の見出しのとおり、「地球貢献国家」ということにしたわけです。そもそも、こういう『日本の新戦略』を朝日新聞が提言したのはなぜかということから先にお話しした方がいいと思うんですけれども、大きく分けて3つの目的がありました。1つは、冷戦後、特に9.11などもあって以後、世界は非常に混迷している。そういう中で、日本の舵取りもまた非常に混迷しているような気がしてならなかったわけですね。1面の私の原稿にもちょっと書いたところですけれども、例えば小泉さんはアジアとの関係が非常に大事だと言いながら、靖国問題で頑張っちゃってアジア外交を壊してしまったとか、あるいはそこのところは安倍さんになって若干修復はしたのだけれども、ただ、理念として共通の価値観外交ということを言うのがよく分からない。自由と民主主義というのは、それ自体がおかしいわけではないけれども、自由や民主主義や基本的人権といった共通の価値ということを言いながら、憲法は押しつけられたものだから変えたい、あるいは戦後レジームから脱却したいと言われると、民主主義や自由や基本的人権が日本の戦後憲法の核であり、戦後レジームではないのか、一体何を目指しているのだろうということが非常にわかりにくい。そういうことも外から見て言われている。それやこれや僕らもいろいろ批判はしてきたけれど、僕らも日本の方向性の大きな絵を描いてみる必要があるのではないか、というのが1つの大目的でした。

 もう1つは、そのことにも関係するのですけれども、憲法をどうするかということ、とりわけ9条についてどういうスタンスでいくのか。最近の全般的な改憲論の高まり、あるいは政治の世界での改憲論の高まりの中で、朝日新聞はご存じのように護憲で来ているのですけれども、旧来の護憲論でいけるかというと、率直に言って旧来の護憲論ではなかなか闘いにならないという状況があったわけです。

 そういう中で、朝日新聞として9条について新しい考えを出すのか出さないのか、護憲であればどういう論理構成をするのか。もう1度やってみなくてはいかんなということは、私が論説主幹になって以来、みずからにも課してきた課題だったわけです。ここのところは後でもうちょっと詳しくお話ししますけれども、ここ数年はいろいろ考えましょうということで少し幅を持たせていたのですが、いつまでもそういうわけにいかない。毎日新聞は「論憲」ということで、考えましょうで来ているのですけれども、いつまでも新聞社が考えましょうというのを続けているのもよくないと思いまして、憲法60年のタイミングでは何がしか提言をしたいなということでした。

 第1に申し上げたことと第2に申し上げたことは私の中では密接に関連していまして、憲法9条をどうするかというのは、9条だけを論じてみても結論はなかなか出ない。最初から結論ありきの議論になってしまうような気もして、数年前から社内でも議論してきたのですが、憲法9条は出口の議論にしようと。その前に、日本がまさに国際的にどういう針路を描くのか、戦略を描くのか、そのために憲法9条は変えなければまずいということなのか、それとも変えずにいった方がいいのか、あるいはその場合に何か補助線が引けるのかを考えようということで、この1年間、「新戦略を求めて」というシリーズを多岐にわたってやってきました。その最終場面で憲法を含めて提言したということです。

 3つ目の目的は、21本もドンとやって驚かせたということも関係するのですが、昨今とりわけネット時代ということで、あるいはテレビに押される中で、もちろん新聞報道の役割は消えるわけでは全くありませんけれども、深い解説とともに、言論性が新聞の大きな売り物であるということが言われているわけです。そういう中で朝日新聞としてそこのところを思いきりアピールしたい。これは新聞全体の言論の活性化ということもありますし、朝日新聞がどちらかというと守勢に回りがちな感じのした中で、打って出ようという気持ちがありました。

 余分なことを言えば、ここのところ数年、不祥事ばかりで何かと話題になって、朝日新聞と言えば不祥事ということだったり、あるいは私など一番そうですけれども、右派メディアから標的にされて、レッテル張りで攻撃を受けるということもありがちな中で、もう少し現実に根差した、旧来の朝日イメージから少し脱却したところで、しかし、自信を持って言論を張る、という構えを見せたいのが本音でした。もちろん、いろいろ批判は覚悟でもありますけれども、従来に比べて幅広い方々に、完全な同意でないまでも相当程度の理解を得られるものを目指したということです。

 キーワードの「地球貢献国家」というのは、この中身に深く関係するのですけれども、日本が国際的な役割を考えていくときに、湾岸戦争以来、日本の一国平和主義が厳しく批判され、国際貢献をしようというのがはやり言葉になりました。国際貢献というと自衛隊の国際貢献という形で、同義的に軍事貢献を意味することが多かったわけですね。国際貢献、国際貢献と言う政府・自民党でありながら、ODAは減らしていく、自衛隊は出していくということが何よりそれを物語っているのですけれども、実は世界は、そういう安全保障上の危険性もさることながら、昨今もっとシリアスになっているのは地球温暖化であり、それとも関係した人口の爆発的な増大であったり、それに伴うエネルギーや食料の争奪であったり、あるいは環境破壊に伴うさまざまな問題、黄砂が日本にまでどんどん押し寄せてくる、お化けクラゲがやってくる、疫病がはやるといった現象です。疫病というのは、単なる自然現象というよりは破綻国家がそれを生み出す大きなもとにもなっている。また、ある意味で、テロや戦争であれば山あり谷ありで、一過性で終わったりすることも十分あるのですけれども、地球環境の大きな構造変化というのはそういうものではなくて、気がついたときには取り返しがつかないということになりかねない。そういう中で、さまざまな議論や取材を積み重ねた結果、実は日本がかなり先端的な役割を担えるのではないか、ということに行き当たったわけです。

 私自身は、もちろん地球温暖化ということはすごく気にはなっていたのですが、皆さんもごらんになったかと思いますが、ゴアのつくった『不都合な真実』という映画、これは1月に日本で公開されましたけれども、その試写会を12月に見ました。1月1日の社説は私が書かなければいけないものですから、今年はどういうことを書こうかと思っているときにちょうどゴアの映画を見まして、非常にシリアスで、私自身、衝撃を受けましたし、中身も非常に説得力があったものですから、これを素材に元旦の社説も書いたのです。

 その映画の中で、ゴアがいろんなデータを出すのだけれども、CO2の削減が産業活動の抑制につながるとか、ビジネスと逆行するということが特にアメリカはブッシュ政権の中で言われているのだけど、それはうそであるということを言うのですね。うそである証拠として出したのがトヨタあるいはホンダのハイブリッドの話だったわけです。これはまさにCO2削減、地球温暖化を抑制するものなのだけれども、これを日本の自動車メーカーがビジネスにしている。これで非常な利益を上げている。それに比べてアメリカの車は最低であるという話が出てきました。これは一例であり、もちろんすべてに適用できるというものでもないのかもしれないけれども、そういう分野がたくさんあるのではないかということで、そのことも元旦の社説には書いたのです。日本は、そういう技術、石油ショック以来の蓄積した省エネ技術、環境技術等々、使えることはたくさんある。

 それから、今はお寒い現状ですけれども、やりようによって、もっとNGOの活動であるとかNPOの活動によって国際的に手を伸ばしていくことが可能なのではないか。今、何となく鬱屈した、目的のはっきりしないような若者が多くて、そういう若者が、必ずしも本音だとは思いませんけれども、最近の格差であるとか職がないという状況の中で、いっそのこと戦争した方がいいということが平然と語られるような世の中です。実は彼らも何か大義に飢えているのではないかという部分も感じるものですから、日本は単に軍事的な国際貢献ではなくて、さまざまな分野で地球に対して貢献していくことができるのではないか、と打ち出してみたわけです。

 実は、貢献という言葉は若干ひっかかるところもあります。この言葉には人のためにしてあげるというイメージもないわけではないのですが、ここで書いた中身は我が身のことであり、また、地球のためにやることが我が日本のためにもなるということで書いてます。ぴったりした言葉がなかなかない中で、「地球貢献国家」にしてみたということです。

 それが総論でありまして、中に今申し上げたようなことの各論、それから外交的に言えば、あるいは経済もそうですけれども、イスラムなんかも含めて、アジアとの関係は極めて重要だなということ。日本はアメリカとの関係が非常に重要であることは言うまでもないことで、日米の安保体制を維持していこうということは―従来も朝日新聞は決して安保破棄とか言ったことはないのですけれども、どちらかと言えば軍事同盟の強化には反対してきた。今でもちょっとやり過ぎのところが多々あると思いますけれども、しかし、基本的には日米同盟を評価しようということも実は今回の特色ではあるのですね。昔は日米同盟なんていう言葉自体にも非常に抵抗を感じていた時代もありますので、今回は、そこは前提にしつつ、しかし、アメリカとのつき合い一辺倒にとかくなりがちなものですから修正を求めました。アメリカとの関係さえよければアジアはついてくるとか、小泉さんも、ややそれに類した発言がありましたけれども、そうではなくて、むしろアジアとの関係を非常に強固なものにすることによって、日米関係もまた一方的なものでなしに新たな時代に入っていけるのではないか。また、アジアとの関係をつくるときに、決してアメリカを袖にするというのではなくて、アメリカもそこに引き込んでいくような形でアジアの連携をつくっていくというのが基本的な考え方であります。

 問題は9条ですけれども、ここは提言のミソにもしたところですけれども、結論は、9条の1項はもちろんですけれども、2項もそのままにすべきだとしました。つまり、いろいろ考えると、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という条文も維持した方がいいのではないか。ただ、2項から見て自衛隊が矛盾するではないかということはもちろんあるわけで、そこの溝を埋める意味で、いきなり自衛隊法があるのではなしに、憲法の前文と9条の意を体しつつ自衛隊というものを置くのだという基本法をつくってはどうか。その性格は専守防衛であり、非核、核を保有しないことであり、文民統制をきっちり守ることであり、そして国連主導の平和構築活動には憲法の許す範囲で可能な限り参加していく。そんな趣旨を盛り込んだらいいのではないかというのが新しい点です。

 皆さんから見ると、いろいろご意見があるかもしれませんけれども、朝日新聞としては従来よりは大分踏み込んだところです。というのは、実は95年に―95年というのは戦後50年の年なのですけれども、同じように憲法記念日に朝日新聞は憲法と国際協力ということで6つの提言を出したことがありました。何でそういうものを出したかというと、前年の94年11月に読売新聞が突如、9条の改正を含む全面的な憲法改正案を出した。そのときは9条を改定して自衛のための組織をつくるということで、軍とまでは書いていなかったのですが、その後、改訂版で自衛軍と明記するようになりましたが、いずれにしても、9条を初めとする改正案を渡辺社長の号令で出したわけです。うちの社長が中江さんという人で、中江さんは平和主義者であって、これに対抗して「朝日新聞も憲法論を出します」と宣言したことから始まって、朝日の提言になったのです。

 このときは、憲法9条を変えることは有害無益である、あるいはワーディングとしては、日本は「良心的兵役拒否の国家」を目指す。つまり、良心的兵役拒否という思想は個人のレベルではあるわけですが、日本はそういうものを目指すというわけです。そのかわり、思い切ってODAであるとか人的な奉仕、国際協力などの面で進めるのだということで、国際協力庁を設けるという構想。自衛隊は存在が憲法違反だとは考えないけれども、現状の戦力が憲法に合致しているかどうかには疑いもあるので、漸次縮減していく。そして、15年後をめどに、これを国土防衛隊というものに改組する。当時はもうPKOが始まっていたのですけれども、自衛隊はPKO活動に出さない。出すのは非軍事を中心とした、若干の警察活動を含んだ別組織をつくって、それに出すという提言をしていました。

 そういう内容でしたので、朝日新聞としては護憲の立場で相当気合を入れてつくったものですが、すでに湾岸戦争の後ですし、今後もさまざまな状況変化もあるだろうし、引き続きこれについてはフォローアップしていく、見直しをするのだということも当時書いていたわけです。ですから社内ではその後もいろいろと議論はしてきました。

 2002年、つまり9.11の翌年ですが、私が論説主幹になりまして、そのときからフリーな議論でいずれしかるべき結論を見出したいなと思っていただけです。
 
 私は護憲的改憲論も一定の理解ができますから、その場合にどういう方法があるのかなとも考えてみました。9条の改憲論にはいろいろとあります。2項を削除するだけでよいという考え。そのほか2項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という表現をやめて、自衛軍を持つと書き込む案。自民党も読売もそうですね。1項はいじらないというのがほとんどです。バリエーションがいろいろあって、自衛権と書く案、自衛軍と書く案、あるいは自衛隊という案。公明党はやや我々に近いのだけれども、2項は維持して、軍隊ではなく自衛隊の存在を3項に書き加えるという案です。「加憲」ですね。

 では、公明党のような案でいくとスッキリするかというと、2項に戦力は持たないと書いてあって、自衛隊を3項に書き込めば、2項と3項はどういう関係なのか、自衛隊とは一体何だということになる。相変わらず矛盾がなくならないのですね。矛盾をそのまま憲法に書き込むだけともいえます。

 よく考えると、自衛隊という存在は憲法で軍隊を持たないと書いてあるから生まれたわけです。軍をもてないと憲法にあるから自衛隊をもとうということになっているのであって、憲法をいじって憲法に書き込むということになれば、すっきり自衛軍にする方が論理の整合性がとれるわけです。恐らく自民党や読売新聞はいろいろ考えたはずです。軍というと世論の抵抗が強いかなと思いつつも、憲法に自衛隊と書き込むのは論理的におかしいということも考えたのだと思うんですね。もちろん、安倍さんを初め、自衛隊なんていうのはそもそもいいかげんなものだから、ちゃんと軍にしようという確信的な方も多いわけで、それで自衛軍となっているわけですね。

 そうなのですけれども、我々は、軍隊を持とうというのは、日本の歴史を考えれば軍隊を復活させるという言い方もできるわけだと思います。戦争であれだけの間違いを犯した反省の結果として9条ができた。しかし、9条だけではなかなか無理があるなということで自衛隊ができ、それが国民の間で定着してきている。自衛隊への支持が定着してきたのも、一方で9条への強い支持があって、9条があるから自衛隊をもってもいいよ、ということで世論が固まってきたのではないか。だとすれば、これをあえて憲法を変えて自衛軍とするということにはやっぱり問題がある。ましてA級戦犯の靖国参拝への合祀、そしてそこに首相が参拝するといったことが堂々と行われると、素直に再び軍隊をもちましょうとはいいにくい。

 それから、現在のことを考えれば、自衛軍とした途端にさまざまな制約条件が外れてい
くだろう。もちろん政策判断が大事で、自衛軍になったからといっていつも戦争に協力するわけではないのでしょうけれど、ただでさえアメリカとの関係で日米安保条約を強固なものにしていく流れの中で、自衛隊をやめて自衛軍にしますということになれば、どんどん協力関係が濃密になっていくのは目に見えているわけです。そうすると、どうなるか。例えばイラク戦争のようなアメリカがかなり強引にやった戦争について、小泉さんは、これを支持すると明快に言ったわけですね。後に自衛隊も出すわけですが、それは憲法の制約の中で出したわけです。しかし、仮にあのときに堂々と自衛軍を持っていたとすれば、少なくとも小泉さんのロジックをとる限り、自衛隊を当初から派兵せざるを得なかったのではないか。

 それはなぜかというと、小泉さんのロジックは、アメリカの判断は正しいのだ、戦争に踏み切るのはやむを得ないというのが①で、②に日米同盟の関係は致命的に大事である、特に北朝鮮などを抱えて、これを揺るがすことはできない。そのために支持だと明快に言ったのだというわけです。もしそうだとすれば、アメリカが正しくて、アメリカとの関係が死活的に重要だということであれば、日本軍があれば、最初から協力を断る理由がどこにもなくなると思うんですね。

 現にイギリスは、七転八倒した末、軍を出した。あのとき、私は社説にも書いた覚えがあるのですが、小泉さんはあっけらかんと支持したのですね。ブレアの方がよほど七転八倒して支持した。それはなぜかというと、ブレアは軍隊を出さなければいけないから。小泉さんは軍隊を出さずに済むからではないか。なおかつ、ブッシュは、小泉さんが軍隊を出さなくても戦争を支持してくれたということで、あのとき非常に評価したのですね。あの平和憲法の日本がイラク戦争を支持してくれた。国際的に孤立しがちな中でありがたかったのだろうと思いますけれども。だとすれば、日本は憲法に守られつつ、小泉さんはあの戦争を支持したのではないか。

 あるいは後々、自衛隊を出しましたけれども、これも、「一発も弾を撃たずに帰ってきた」と言って小泉さんは威張るのだけど、なぜそれが可能だったのかと言えば、憲法があるから戦うわけにいかないということで、ひたすらサマワという安全な地を選び、閉じこもるようにして給水サービス等々に努めた。当否の判断はいろいろありますけれども、結局は憲法に守られた自衛隊派遣だったのではないか。だから、一発の弾も撃たなかったということを誇るのであれば、憲法を変えて自衛軍にしましょうというのは矛盾しているのではないかと私は思います。

 だから、結論的に、2項と自衛隊というのは確かに矛盾や緊張関係があるのだけれども、その矛盾がむしろいいのだと割り切ってしまえば―これは最近も、神戸女学院でしたか、内田樹さんという文学系の人ですけれども、おもしろい憲法論を言っています。加藤典洋なんていう評論家もこれを大変評価して、同じようなことを言っているのですが、結局、9条と自衛隊の共存、この一見矛盾する関係というのが日本の独特のシステムであって、これがいいのだと。矛盾をなくそうというと、憲法を改正するか、自衛隊をなくすか、どっちかになってしまって、従来の改憲論と従来の護憲論はその両極だった。とすれば、第三の道を堂々と、あまり卑屈にならずに、日本はこれだということを言った方がいいのではないか、というのが内田さんや加藤さんの結論なのです。朝日新聞もそれをまねしたということではなくて、たまたま考えてみた結論が似たようなものになったということだろうと思います。

 ということで、とりあえず40分たちましたので、ご質問があればと思います。


 福川 どうもありがとうございました。それでは、ひとつご意見、ご質問をお願いいたします。

 若宮 つくる過程では、添谷先生のミドルパワー論や、いろんな方の意見も参考にさせていただきました。

 添谷 私は途中で失礼しなければいけないので、最初に申しわけありません。随分ご苦労なさったなというはもちろんよくわかります。これは朝日が抱えているご苦労でもあるのでしょうが、日本社会が抱えているジレンマでもあるわけですね。拙著『日本のミドルパワー外交』の中でも間接的に主張し、朝日の方にもぶしつけに申し上げてきたのは、朝日が改憲論を始めると、日本の憲法をめぐる議論の構図は変わるだろうということです。そうなったときに初めて改憲の中身をめぐる国民的議論が始まって、その結果、日本が手にするだろう新しい憲法というのは、基本的に戦後の朝日が大事にするような平和主義の財産を損なうようなものにはならないだろう。成功物語としての戦後の延長線上にある改憲が最終的な落ちつきどころとしてあらわれるのだろう。そういう日本社会への一種の信頼、最終的にはそんなものを感じながら、そういう展望が描けるのではないか。その際の日本の国家像としてミドルパワー的なものがあるのではないかというのが基本的に私の議論です。

 これは朝日の方とお話をしていても、理屈は多くの方にわかっていただけるけれども、果たして現実がそのとおりになるかどうかという不安感が払拭できないというところに落ちつくのだろうと思うんです。私は学者として、1つの理論体系としての議論を行っていますけれども、現実の社会が動いていく中で、本当にそのとおりになるかというところへの不安は私にももちろんあります。

 朝日の今回の提言を見ると、集団的自衛権は明らかにノーですね。しかしながら、国連の枠組みでの国際平和維持活動への積極的参加ということは明示的におっしゃっていて、ただ、武力行使を含むかどうかというところは避けざるを得ないから避けているようで、そこははっきりしていないわけですね。ただ、深読みをすれば、自衛はオーケー、集団的自衛権はノー、しかし、国連の国際平和維持活動的なものへの参加における武力行使は可能だというニュアンスに読めないこともありません。すると論理的には、そのための改憲というものがあってもいいわけであって、将来におけるそういう道は閉ざしていないのかな、そんなふうに読めるのですが、その読み方が正しいのかどうかというのをお聞きしたい。

 それから、改憲に踏み切った場合にコストが大き過ぎる、つまり平和ブランドを損なうという論点が1つの基軸かと思うんですが、これは裏を返せば、平和ブランドを損なわない改憲というのも理論的にはあり得るわけですね。ただ、保守的ムードに覆われた現状への危機意識といいますか、問題意識が明確にある。そこのところはよくわかります。これは最近の新たな風潮で、かつての改憲論者が、現状の空気の下での改憲ならやらない方がいいという意味でも護憲を明示的に語るケースも増えているように思います。

 今の改憲の衝動というのは基本的に後ろ向きですし、将来像というものを語らないままに、これまでの憲法に問題があったという認識から改憲の衝動が生まれ、政治的な流れができているというのは、どう考えても後ろ向きです。未来を語らず新しい憲法を持っても、持てば前を向かなければいけないわけですね。前を向いて、手にした憲法で何をやるかを議論しないままに新しい憲法を持ったときに、非常に難しい未開の領域が広がっているわけですね。

 例えば、9条を変えて、今の自民党等の言うような憲法になった場合に、これも論理的に言えば、私は、日米安保条約は書き直しになるのだろうと思います。今の安保条約というのは、当然、9条を前提にしてできているわけですから。そういう圧力がアメリカから来ることも間違いないですね。

 そうしたときに、新しい憲法で日米安保条約をどういうふうにするのだという議論は、今全くと言っていいほど聞こえてこないわけですね。そうしたら、そういうアメリカのプレッシャーにどうこたえるのかという準備がないままに、なし崩し的に日本がアメリカの戦争が戦える国になっていったとしたら、朝日が心配するように、抵抗はしながらも、結局はつき合わざるを得ないという状況に直面する可能性は非常に高いわけです。

 ですから、そういう備えをしないままの改憲にはノーだという衝動は非常によくわかって、この朝日の議論も何となくそんな感じなのかなと。明示的にそうはおっしゃっていないのですが、行間を読むとそんなことなのかなと。そうすると、前向きの平和ブランドを損なわないような改憲が可能な政治社会状況になって、国民の意識もそういうところに集中をして、未来の国家像であるとかビジョンを語りながら、戦後の遺産の延長線上の新しい改憲という議論ができるようになったときには、私はぜひ朝日にもそういう改憲論をやってほしいという思いです。コメント兼質問です。

 若宮 非常にしっかりと行間を読んでいただいているような気はします。私も個人的な衝動としてであれば、肩書とか立場を抜きに、「おまえ、何か書け」と言われたら、あえて私の改憲案を書きたいなという衝動はあるのですね。時々それは社内でも半分冗談、半分本音で言うのですけれども、その場合には、憲法の前文にはかつての日本の道の総括をきちっと書く。第2に、原爆を落とされたということもきちっと書く。再生日本はそこから出発している、と。その両面ですね。加害と被害の両面をきちっと書くことで、それによって1つは旧軍との連続性を断つ。同時に、アメリカに落とされた原爆のことを書いておくことで、アメリカに押しつけられた憲法でないという何よりの証になるだろう。その上で日本の自衛を考えるというものにしたらいいのではないかな、という衝動はあるのですね。そうすれば平和ブランドをあまり傷つけずに憲法改正もやれるような気はします。

 ですけれども、おっしゃるとおり、中身はともあれ、朝日も改憲に踏み出したということになると、朝日の主張通りの改憲ができるのならいいけれども、全体の改憲のムードに拍車をかけるだけに終わってしまうのではないかという、おっしゃるような懸念が確かにあります。

 それから、その手前で、現状では改憲への社内コンセンサスができないですね。多様な論者はかなりいますけれども、9条に対して、これは別に悪い意味ではなくて、日本の看板ではないかという意識は国民の中にもあると思うんですよ。今度の提言を出したときに、実は私は左からの反発がもっとあると思ったのですね。朝日が平和安保基本法とか言って、結局は自衛隊をきちんと認めたり、日米同盟を評価したり、ひょっとすると改憲への一歩ではないか、と警戒する読者も多いのではないか、と思いました。社内にも若干そういう心配をする人はいましたし、若干抵抗する議論もあった。私は左からのそういうものが強いかなと思っていたのだけど、出してみると考えていたよりははるかに少ないのですね。旧来型と思われる護憲論者からも、とにかく朝日が9条を守ると言ってくれたことをすごく喜ぶような反応がいっぱい来るんですよ。そうすると、やっぱりこの辺がいいところかな、という気もする。

 それから、9条があってすごく困るかというと、別にそんなに困らないではないか。さっき言ったように、日本はそういう国ですよと。自衛隊という言葉は世界で通用しないとか言う人がいるんだけど、そんなことはないのであって、それなら、ザ・自衛隊とでも呼んでやれば日本語が世界に......。今の「もったいない」という言葉がはやるように、自衛隊も、セルフ・ディフェンス・フォースなんて言うからわけがわからないので、ザ・自衛隊と言えばいいではないかと思うぐらい、9条とあわせたある種のブランドにしてしまっえばいい。日本は変わった国かもしれません、だけど、こういうことなのだと胸を張る方がむしろいいのではないのか。それが今の私の本音ですね。

 会田 大変立派なものをまとめられて、これが出た日は本当にびっくりしました。僕の最近の体験を1つお話しして、あと考えてもらいたいことを1つお話ししたいと思うんですが、実は僕は最近、ロナルド・ドーアさんという方にお会いしました。日本のことを盛んに研究されてきた先生ですけれども、彼は93年に朝日新聞から改憲の本を出していますね。『「こうしよう」と言える日本』。彼は改憲論者だったのですね。ところが、この間、つい1カ月前ですけれども、ご自宅でお会いして、最近どういうふうに考えているかお聞きしたところ、「いや、私は意見を変えた」と言っているわけです。

 今、これは名前はオフレコということですけれども、小林先生もそうだということをお聞きして、90年代に改憲を考えた多くの人たちが今ためらっている状況はある。なぜか。僕はよくわからなかったのですけれども、今、添谷先生のお話を聞いて、ああ、なるほどなという感じで、後ろ向きの衝動、確かにそうなのだと。単純に言うと、安倍さんのもとではやってほしくないということを言う人もいますね。それは何かというと、後ろ向きの改憲だからではないかなと。その辺はおもしろい分析だと思って感心したのですけれども、若宮さんが今の時点でためらわれているのも、どうも議論にそういうところがあるのではないかということかなと思います。僕自身も、どちらかと言えば改憲論者です。ただ、何か怖いなと。今、何となくそういう気がするのは、そういうことかな。

 そのときにドーアさんが、「僕が一番よく読んでいる日本の好きな本が1つあるんだ」と言って、出してきたのが『風にそよぐ葦』で、僕は恥ずかしながら、内容は知っていましたけれども、きちっと読んだことがなかったもので。今もう文庫にも入っていないのですね。辛うじて毎日新聞で単行本が出ていまして、読んでみたところ、ああ、そうなのだと。石川達三だとか、いわゆるリベラリストが戦後何を言ったか。あるいは城山さんだとか、もうお亡くなりになった方たち、彼らはみんな決して左とか、そういう人ではないかもしれないですね。むしろどちらかというと保守ではないかな。あるいはオールドリベラリストだった彼らが戦後言っていたこと、最近も言っていたことというのは、結局、やっぱり日本にはまだ何か怖いものが残っているのではないかなということだったのかなという気がして、ドーアさんから「僕はいつもこの本を読んでいる」と言われたときに、なるほどなという気がしました。

 ただ、それでも何か考えていかなければいけないなというのは、1つは、この中で日米安保と9条の整合性というのはものすごく難しいし、どうしたらいいのか。それは僕はいつでも考えるのですけれども。

 もう1つは、9条が前提としていたのはいわゆるネーションステイトというか、ナショナリズムの世界なのではないか。今、若宮さんは地球をめぐる、あるいは世界をめぐるさまざまな問題を幾つか列挙されましたけれども、ポスト・ナショナリズム的な脅威がたくさんあって、世界はそれにどう対応していくか。例えばテロリズムの問題、これはアメリカがテロだと言っているからテロということではなくて、国境を越えて動くさまざまな新しい脅威というか、国家ではない形の脅威がたくさん出てきている。そういう中で、9条が前提としているのは、古いというか、19世紀、20世紀前半的なナショナリズムの、あるいはネーションステイトの世界なのではないか。そうではないところにどう対応するかというのをどういう形で整合性を持ってやっていくか。そのときに憲法というのはどういうところに置かれるのか。前向きにというか、未来思考的に考えると、そういうことをもうちょっと考えてみなければいけないのかなと。今、添谷先生の話を聞いて、そういう気が若干したわけです。アメリカがテロだと言って戦っているから、テロリズムは新しい形の脅威だ、という意味ではなくて、実際にそういうものがいろいろ想定されるのではないかなという気はします。以上の2点。

  私は皆さんのような言論の世界にいるわけではないからあれなんですけれども、敗戦の2年前に生まれまして、何でこんなことになってしまったのかというのは、一人の人間として、日本人として、いろんな方の話も聞いてきたし、自分なりに考えてきたし、いろんなものも読んでみて思うんですけれども、さっきおっしゃった後ろ向きの衝動から、今、憲法を変えようとしているのだと言われて、ああ、なるほど、そういう見方もあるのだなと。僕は今初めて何となくそう思うんですけれども、あの20世紀の日本のやったことをどういうふうにしっかりと総括できているのかなというところが僕は1つあるのですね。安倍さんにしろ、やったことについてはいろいろと責任を感じているのだということもおっしゃっていますけれども、それがどの程度のものなのかですね。今の国際世論や国内世論を考えれば、そういうふうにでも言わなければしようがないから言っているのかどうなのか。

 僕は、憲法だけの問題ではないのだろうと思うんですよ。確かにあの戦争の原因の1つに憲法の欠陥というのはもちろんあったと思うんですけれども、世界情勢をどう見るかという情報収集能力の問題もあったと思うんですね。それから、世論の代表と言われるマスコミを初め、日本人全体の民度というか、レベルの問題もあったのではないか。そう言ってみれば、アメリカもドイツもイギリスも、あの当時の世界の人たちが果たしてどれだけ日本人の民度より上質だったのかなとの疑問もあるのですが。

 今、後ろ向きの衝動で憲法を変えようとしている人たちに、あの戦争について一体どう思っているのかというところと、何でそんなことになったのかということをマスコミとしてももう少ししっかりと問いただして、国民の前にそれが明らかになるようにしていただいて、みんなでそれについて考えて、その上で憲法をどうしようかということになった方がいいのではないか。

 確かに2章9条は矛盾はあるけれども、日本はこんな国なのだとおっしゃいますけれども、それは、やおよろずの神を信じて、国家神道、日本は神の国だなんて言っている人もいますから、そういう意味で考えると、こんな国だという言い方もあるかもしれませんが、憲法というのは、あまり矛盾があると、権力の側が国民にうそも方便だということを教えているようなところもあって、そういうことをやっているといいかげんな人間がいっぱい育ってしまうのではないかなと僕は思うんですよ。僕は経済界に40年いましたけれども、うそも方便なんか平気な人がいっぱいいますから、それを考えますと、もうちょっときちっとしないといかんのではないかなという点はあるのだと思いますね。

 若宮 後ろ向きの改憲の話ですけれども、もともとの日本の改憲論はかなり後ろ向きのものだったと思うんですけれども、90年代以降の改憲論は、そこからちょっと脱皮した前向きの改憲論、少なくとも装いはそうなってきて、あるいは添谷さんがおっしゃるようなものはまさにそうだと思うんですね。中曽根さんですら前向きの装いを随分凝らして物を言うようになってきていたと思うんですね。21世紀を自分たちの手でつくろうと言えば、なるほど、そうだという気になってきた中で、どちらかというと護憲論が押されぎみだったのだと思うんですけれども、おっしゃるように最近は、特に21世紀に入ってから、小泉さんの靖国参拝が火をつけてしまったのだと思うんですね。あの人はそんなに後ろ向きの人だとは思わないのだけれども、靖国参拝で靖国をエンカレッジしてしまったものだから、応援団がいっぱい元気づいてしまって、中国、韓国が反発すればするほどそういうことになってしまったものだから。しかも拉致問題があって、安倍さんの登場という流れなので、非常に後ろ向きの感じが出てきてしまった。

 押しつけ憲法だから変えるのだという言い方はしばらくあまりなかったと思うんだけど、安倍さんは明らかにそういうことを言い出して、戦後レジームの脱却もそうです。さすがに首相になってからではないのだけど、幹事長代理のときに言った言葉を読むと、結構すごいことを言っているのですよ。教育基本法と憲法のことを言っているのだけど、「戦後60年をもう1度見直して、21世紀、日本は歩みを始めないといけない。そのためには占領時代の残滓を払拭することが必要です。占領時代につくられた教育基本法、憲法をつくり変えること、それは精神的にも占領を終わらせることになると思います」云々で、さらに、憲法について言えば、「現行憲法を起草したのは数人の米国人です。理想に燃えている人たちがよかれと思ってつくったわけですが、2度と米国に対してチャレンジできないような国にしようという意図が入っていたかもしれない。起草者は米国の国益を背負っているわけです。これを変えるのが我が党です」ということですから(笑)。

 福川 それはいつですか。

 若宮 2005年正月の『自由民主』です。非常に明確なのですね。さすがに総理大臣になってからこういう言い方はしないけれども。そうすると、さっき私が申し上げたように、共通の価値観で日米同盟と言っている一方で、アメリカが押しつけた憲法から脱却するのが私の使命だと言っているというのはどういうことなのかと思いたくなる。もちろん、9条に限って言えば、当時のアメリカが日本を全く武力解除して、全部占領軍がやろうとしたということでしょうから、そこだけに限って言えばそうかもしれないけれども、そうすると、脱却してどこへ行くのかというのがよくわからない。それが安倍さんの従軍慰安婦に対する発言であるとか、中国に対しての―やっぱり歴史を知らないと思うんですね。その辺の発言が出てきますし、それから岸さんのことを国会で聞かれて、岸さんの戦争責任については認めたのだけど、政治は結果論ですから責任がありますという言い方をするのですね。では、勝っていればよかったという話かということになるし、さらに、満州についてはどう思うのかというと、満州事変とか満州の建国については、それは歴史家が評価することで、政治家が言うのは謙虚でないという言い方をして一切避けます。しかし、歴史家の大勢の判断というのは出ているわけで、そういう言い方をしながら歴史家の判断を入れないという立場ですから。それから、日中戦争というか、日華事変になると、これも言葉を濁して、あのとき必ずしもあの状況ではという言い方をして、トータルに間違ったということを言わないのですよね。

 それで、靖国には仕方なく行けないけれども、つい1年ぐらい前までは、靖国神社に行くことは一国のリーダーの責務であるということを言ってはばからなかったわけだから。A級戦犯のことも擁護してやまないわけですね。彼の発言は、A級戦犯でも、その後、勲章をもらった人がいるとか、そういうことばかり言ってきたわけだから。そういう中で主導される憲法改正であれば、うさん臭く思ってしまう人がちょっと引いていくというのもわかるのです。だから、幾ら乱暴な私でも、今の状況で朝日が憲法改正論に踏み出すというのは無理だなという気はしますね。

 福川 これは大変よく分析をしておられて、よく考えておられると思うんですけれども、これを読んだときに、日本の国家意思の形成メカニズム、政治の合意と、さっき進さんもおっしゃったジャーナリズムの役割とか、学者の役割とか、民主主義のあり方、これはどう考えておられますか。

 若宮 直接のお答えにならないのですが、先ほど進さんもおっしゃったメディアの戦争責任に関しては今、朝日の夕刊で「新聞と戦争」というシリーズをやっています。あれを読むと、改めて、嫌になるほどの協力というか、一緒になって邁進したというか、あおったというか、嫌になりますね。だから、戦争が終わったところで朝日新聞も解体して出直して、夕日新聞(笑)とかにしていればよかったのかもしれないと思うぐらい、恥ずかしくて嫌になるなという感じがするのです。

 でも、その責任は僕らがいまとりようもないわけだから、少なくともそういう教訓は旨にして、だからといって何でも昔みたいに一々軍靴の足音が聞こえてくるみたいなことを書くのはアナクロだと思いますけれども、戦争に限らず、一種のムードに踊らされていく、あるいはムードをあおることで読者を失うまいとしていくことは戒めないといけない。実際には戦争前に、ああでもしないとだんだん紙の統制などで新聞発行自体ができなくなったのかもしれませんけれども、メディアで言論を売っていくのであれば、最後のところはそのぐらいの覚悟をしていないといけないのではないかと感じるのですね。

 今、全体に、メディアもそうだし、政治もそうだし、官界もそうだし、経済界もそうだと思うんだけど、自分たちの使命は何なのかということについての緊張感とか深い考えなしに、何となくなあなあで楽をしていきたいという感じがすごくあると思うんですね。朝日新聞だって格好いいことばかりはとても言っていられない。そういうことに真剣にならないといけないのかなと思います。

 ある意味で、僕は、矛盾しているようなのだけど、9条に守られて60年間やってきたということで非常にぬくぬくしてしまったなという側面も事実あると思っています。軍隊を持ってイラクにも派遣できるようになれば、本当に派遣するのかどうかで七転八倒するでしょう。そこで本当の議論が起きるのではないか、という気もするのですね。ひょっとすると、それは将来のあるべき姿なのかもしれないということは思うんです。だけど、日本の政治に本当にそこまでの力があるかということにすごく疑いを持つわけです。

 実は、この間、朝日のシンポジウムをやったときに、小林陽太郎さんが、「結局、9条改正をしたくないというのは、日本人を信用しないからではないか」ということを言われたのですね。そうだと思うんです。そうしたら、NGOでアフガンだとかで実際に活動した伊勢崎さんという人が、「小林さんはそう言ったけれども、私は日本人を全く信用しません」と言うわけですね。それは、特に政治をという意味が強かったのだけど。

 安斎 集団的日本人を信用しない。個々人は信用するんですよ。

 若宮 シンポジウムの要約を新聞に載せたら、読者1人から私のところに手紙が来て、日本人を信用しないというようなやつをなぜパネリストに呼ぶのだと(笑)、おしかりを受けましたけれども、本当にそこだと思いますね。僕も信用したい半面、なかなか信用できない。ただ、そういうぬくぬくとした状況だと、いつまでもしっかりした日本人はできないのかな、という気もするから困るんですけれども。
 だけど、今、そうでなくても環境問題なんかで本当に抜き差しならない状況が目の前にだんだん来ているとすれば、必ずしも軍事面だけでなくて、相当しっかり考えていかないといけないわけです。答えは全くないんですけれども。

 安斎 僕は朝日新聞の監査役をやっているから、論説には批評は加えられない(笑)。財務だけで見ているんですけどね。

 インディアンは自分の代から7世代後を考えながら種として動くと言うんですね。大体200年、いつでもそのためにアクションがある。恐らくこれはそういうことを言っているのだろうと思いますね。

 さっき憲法論の話があった。憲法をしょっちゅう変えている国がありますね。その国の変えることによる緊張感と、60年もずっと変えない、甘えていたのではないか、あるいはそれを守ろうとするものがあったから守れているのではないか、国ごとにそういうものの分析をしてほしいのですね。あるいはそれは民族の違いとしてあるのかどうか。

 それから、これは私ごとなのだけど、私は今、社員に、みんな歴史を勉強した方がいいと言っています。少なくとも自分の年の倍はいつでも先祖返りができる。そういうことをやっていかないと、子供、孫と言っているけれども、インディアンの7世代なんか到底及ばない。そういう安直な生き方になってしまうということを朝礼なんかで言っている。福川さんの場合は2倍すると明治維新を超えちゃって江戸時代に入りますね(笑)。この日本の歴史を確実に掌握していないといかんのですね。この提言の裏にあるのは人間の生き方の本質論だから、ぜひそういうことをしないと。与えられたものだから直さないとメンツがつぶれちゃうとか、そういう議論を排除するためには、人間の生の本能を書いてほしいですね。

 そういう意味で、インディアンはすごいんです。我々は自分の子供の手足ですら食って国債大量発行をしてしまっている。7世代後はだれも考えていないです。憲法論というのは、60年もってきたということは少なくとも2世代か3世代後のことを考えた。他国の分析も含めて、緊張感はあったのか、変えればすぐまた戦争にいくとか、そういうことで簡単に変えていって、簡単な国民性をつくってしまったのか、そういう分析をしてほしいのです。過大な要求で申しわけないですけどね。

 若宮 そこまでの力がなかなかありませんけれども、お知恵をかりて、いろいろやっていきたいと思います。

 工藤 僕たちがきょう若宮さんの話を非常に聞きたかった1つの理由は、選挙があるのですけれども、政党は将来の選択肢をきちっと提案していく段階に来ているのではないかと思っていまして、そういう意味で、朝日の社説がこういう形で出たのは、僕たちは非常に驚いたというか、非常に勉強になっているのですけれども、ただ、これを読むと、こういう将来像を描くための方法論がいまいちわからないというところがあるのですね。

 僕たちの方法論は、まさに世界の何十年先の潮流の大きな変化を見ている。それは、これで言えば地球の有限性の環境という問題、それから多極化。多分それは同じですよね。もう1つ、僕たちであれば、その中で日本の将来は人口減少がかなり進んで高齢化が進んでいく。それが世界的な先進国でも出てくるとか、その中でイスラムの出生率が高くなっていく多極的な展開。変化の中で見れば、そういう課題がある程度出てくるだろう。

 次の話になると、日本が誇るべき強さであり、社会に訴えられるブランドは何なのかという話ですが、これを読むと、やっぱり平和軸を使っていますよね。例えば、国際公共財の縦横軸を見ると、国家性と軍事力を手段としてこれを描いているとなると、ちょっと考えてみると、日本が将来にわたって世界に訴えられる価値は平和だと。実を言うと、これは僕たちも非常に悩んだ点だったのですね。日本の将来は平和を軸に訴えるべきなのか。いっぱいあったのですね。例えば、人権だとかで日本はそんなに誇れるのか。法治国家で何か誇れるのだろうかとか、いろんなことをやりました。

 そのとき僕たちは非常に意見が分かれたのですが、結果として、少子高齢化とか環境に対する技術力を含めた形で、日本は障害を克服する力があるのではないだろうかというところを僕たちは売りにして、それは、ある意味で国際貢献と非常に似ているのですけれども、そのときの手段は課題解決能力だということを描いていったのですが、それに対して、僕がちょっと見ていると、平和軸をかなり強調しているような気がしたのですが、そういう理解でよろしいのでしょうか。

 若宮 どうしても憲法60年、憲法社説でもあるという意識があるものだから、若干そこに引きずられていることはあるかもしれませんけれども、結局、今のさまざまな課題というのは、例えばエネルギー、食料等々、ネーションステイトというお話が出ましたけれども、国益追求ということは明らかに限界がある。国益を追求するということは、国際的な公益を追求することを通じてしか実はあり得ないのだということだろうと思うんですね。中国との間で、春暁のガス油田なんかでいざこざをしていますけれども、あんなことで奪い合って解決できるのなら話は簡単で、極端に言えば、あんなところはどうでもいいわけです。それよりも中国のエネルギー消費量を半減、3分の1、あるいは10分の1に減らしていけば、その分だけエネルギーは浮くわけですから、そのために日本が貢献したとなれば中国は大変喜ぶわけだし、その分、争奪する必要もなくなるわけです。日本は油田を持っていないけれども、省エネで国際的に活躍すれば、実はその分は日本が油田を掘ったようなものではないか。今、あらゆることが自分の狭い国益だけでは計れない時代になっているのだけど、そこのところが今のいわゆる言論保守、はっきり言えば右翼言論、彼らにはわからないところで、国家というとすぐに主権だとか領土だとか、これを守ることなくして何の国家かと、すぐこうなのだけど、そんなことだけで国家が守れるのなら苦労がない時代になっているわけですね。そういうことを通じて日中が協力するとか、あるいは中国の矛盾をさまざま解決するためにこっちがコミットしていくということが、実は我々の安全保障にもつながっているのだということだと思うんです。

 だとすれば、なおのこと、日本が平和に対して非常に強い熱情を持っていて、少なくとも変な野心は一切持っていないのだということがすごく武器になる。いろんなところに出ていって協力する上で、これはどこかに下心があるのではないかと思われないで済むことが非常に武器になってくるのではないか。だから、その意味で、9条を持っている国ですよ、少々矛盾はあるかもしれませんけれども、現に戦後60年、一切戦争をしないで来ましたよ、ということは案外役に立つのではないか。迂遠なようでも、結局、戦争の原因というのは利害の衝突ですから、それこそ7世代先を見越して、少なくとも日本は利害衝突の要因を刈り取る努力をしているということを見せることが、日本にとっての安全保障になるのではないのかなという考え方なのですね。

 安斎 中国を説得する、戦後の60年をわかってくれというのは、そういうことなのだよね。これが一番の武器になっているのですね。

 若宮 安倍さんもそれを言うわけですね。中国に対しては60年の平和を評価しろと言いながら、戦後レジーム脱却というのは何だということになるわけですよ。

 松田 さっきの工藤さんの話を補足しますと、実は言論NPOでシンポジウムをやったときに、日本がアジアに向けて提唱できる価値は何があるかという問いかけをしていまして、幾つかあると思うんですが、1つは非核平和主義を出したのです。ただ、非核平和主義を本当に日本が唱えられるかというと、戦争の総括というか、ドイツが説明するのはアウシュビッツであるが、我々は広島ということしか言っていないのですね。ですから、本当の戦争の総括が果たしてできるのかというのがあって、そういう日本が本当にそれを唱え続けられるのかという問題があるというのが1つ。

 もう1つは人間の安全保障ですが、基本的人権というものについて日本は世界的な思想を出しているか、誇れるものがあるかというと、どうもそこもちょっと弱いなと。それから、民主主義というのがもう1つあるのですが、本当に日本は民主国家として成熟した民主主義をやっているのか、市民社会なのかというと、そこも弱い。

 結局、残るのは、科学技術だとか環境技術といった知的なものでアジアのネットワークになっていくということではないでしょうかと、とりあえず暫定的な仮説を出したのです。そこで世界のソウトリーダーというのを出したのですが、これを見させていただくと、世界から相談される国というのはそっちの方も含んでいるような感じもしたので、それを通じて日本のイメージを変えて、かつての戦争を払拭していくということであると理解できるのですが、いきなり平和というところだけ前面に出すと本当にできるのか。

 それから、日本はこれから人口減少社会に入っていくので、今まで経済力だけで国際貢献できていたのが、本当にそれをパワーとして続けられるのかどうかとなると、オプションもある程度持った方がいいのではないかとか、そういう議論もあると思うんですが、その辺はどうですか。

 若宮 前段の方のおっしゃることは半分そうだと思うんですけれども、ただ、もっと平和というものを売りにできるようにすればいいと思うんですね。それは、ドイツがナチスを裁いたようにはいかなかったというさまざまな事情があるのは事実ですけれども、村山談話に代表される謝罪をしていながら、それを帳消しにするようなことばかりやるからいけないので、それを帳消しにしないということと、法的には少々不満があっても国家補償であるとか、いろいろ問題はあっても特別立法をするとか、いろんな形でけりをつけてしまうという方がいいと僕は思うんですね。従軍慰安婦のときにそれができずに民間方式でアジア基金をやって、苦肉の策で、僕はあれで片づけばいいなと思ったのだけど、やっぱり中途半端なものになって、右からも左からも攻撃されて、何だか不幸なことになってしまったようなことを考えると、いろいろ問題があっても、潔くいろんなことを可能な限りやってしまう方がよかったのではないかなと思うんですね。そういうことを通じて、日本はもうやましいところはない、後ろ指を指されることはないのだと。それこそ拉致問題なんかでも、国際的にあれだけ訴えるのなら、逆に日本も身ぎれいにすれば......。現に一切の戦争に協力していないということで言えば、僕は、平和ブランドというのはそんなに使えないものだとは思わないんですね。

 2つ目は......。

 松田 経済的なパワーが低下していく中で、例えば幾つかの資源を使うときに、1つの資源だけにすべて集中させると莫大に使わなければいけなくなる。日本は結構それをやってきたわけですが、国力の問題を考えると、それだけのものがこれからできなくなる。そのときに、オプションとして、もしかしたら血を流すこともあるというのを持っていた方が全体的に見ると効率的ではないかという意見もあるのですけれども、それは......。

 若宮 そうかもしれないけれども、では、だれが血を流すかということですよね。特に政治家は血を流せとか言うんだけど、じゃ、おまえは行くかと言うと、みんな行かないわけですよね。恐らく自衛隊だって、そういう自衛隊になったら応募が減ると思いますね。よほど不況になれば別だけれども。PKOは割合に張り合いがあって、光が当たるようになって、あれで自衛隊の募集はむしろ集まったようだけれども、本当にドンパチやって血を流すのだぞということになれば、イラクに行った自衛隊員だって相当家族に反対されたり、もがいて行っているわけで、あれが本当に戦闘に行くのだと言ったら、また話は別だと思うんですね。よしあしは別として、それが実態ではないのかなと。今の若い人たちはえらく勇ましいようなことは言うけれども、本当にそれだけの覚悟があるのかと言ったら......。そんなことをするよりも、日本はもっとこっちでやった方がいいよと。そっちの選択肢をもっと拡大していく方がいいのではないかなという気がするのですね。

 安斎 話は全然飛ぶのだけれども、アメリカが民主党になった場合に、人権その他が強調されて、中国はものすごく心配しているのですね。前のクリントンのときは日本をパスしていく。ところが、これからの民主党はどうも違う。そのこと自体は、中国は日本との関係を相当うまくしていきたいと思っているのだと思います。朝日新聞はその視点を忘れてはいけません。

 工藤 役員会で言って(笑)。

 若宮 ありがとうございます。

 安斎 ここでしか言わない。

 若宮 でも、それは恐らくそうだと思いますね。天安門のときを考えれば、あれで孤立した中で日本が天皇訪中をやったわけですからね。ところが、その恩も忘れて、江沢民になったらひどいことを言いやがるというのがあるわけですよね。僕だってそう思いますよね。だから、おっしゃるとおり、その辺は使えると思うんですね。国際関係って日中米だけ考えたって、そんな単純な話ではないから、そこはよく見ながらやれというのは参考になりました。

 安斎 この間のサミットのとき、安倍さんが「ジョージ」と言っているのに、ブッシュはプライムミニスターと呼んでいます。ブッシュだって安倍さんの思想的なものについては信用していないと僕は思うね。アメリカ人として、こいつはどうも違うのではないかと。

 若宮 安倍さんって日本のネオコンみたいに言われるんだけど、軍事力信仰があるというのはネオコンだと思うけれども、ネオコンというのはもともとすごい民主主義信奉者ですよね。要するに、デモクラッツの極端なのがああなってしまったわけだから。ネオコンの典型的なイデオローグの1人のマックス・ブーツが靖国神社で遊就館を見てぶったまげて批判の論文を書いた。会田さんはよくご存じだろうけれども。それを読むと、びっくりするぐらい驚いているわけですね。従軍慰安婦の問題なんかを通じてそういうものが見えてしまったので、アメリカの知日派がすごく引いてしまったという感じがブッシュにも届いているのではないですかね。

 安斎 ブッシュの安倍認識は厳しいです。

 福川 次回は7月の第3金曜日。あと北京の話とか何かやりますか。

 工藤 北京-東京フォーラムについては、若宮さんにもぜひ来ていただきたいと思っておるところです。

 実を言うと、あさってチャイナデイリー側が日本に来るんですね。そこでテーマと分科会のことも全部決まるようです。中国側は、この前、趙啓正が温家宝にはもう出てくれと要請したと。あとは日本側がどれぐらいのメンツになるかということを僕たちは言われているんですね。あと具体的な中国側のリスト案を持ってくるのではないかと言っています。ただ、中国側の外務大臣とか、外交関係の人がかなり多いらしいので、もう少しテーマに沿った形でどうなるかということが多分来週中にある程度決まります。そういうこともあって、僕たちの方で連絡が非常に遅れていまして、きのうも、何も言われていないから今年は行かなくていいのと言われて、びっくりしました。まだ決まっていないことがあまりにもあり過ぎて遅れただけで、来週に全部確定させる予定なので、ぜひよろしくお願いします。またご連絡させていただきます。

 福川 それでは、7月20日。それはむしろ中国の話が中心になるのですか。

 工藤 その話もあるし、周さんから、アメリカにいる人で、アメリカから見た日中関係という話をしてもらったらどうかという紹介が来ているんです。

 福川 彼が来るの?

 工藤 その先生をくどいたらどうかと。連絡しているらしいのですね。僕の方でもう1回その先生の時間が合うかどうかを聞いてみて、だめだったらほかの人にしますけれども。それと北京-東京フォーラムのことについてもご報告させてもらいます。

 福川 では、若宮先生、どうもありがとうございました。


<了 >