【論文】構造デフレ下での経済政策とは何か(会員限定)

2003年1月04日

sakakibara_e020222.jpg榊原英資 (慶応義塾大学教授)  
さかきばら・えいすけ

1941年生まれ。64年東京大学経済学部卒業。65年大蔵省入省。69年ミシガン大学経済学博士号取得。94年財政金融研究所所長、95年国際金融局長を経て財務官就任。99年退官後、慶応義塾大学教授就任。「グローバルセキュリティ・リサーチセンター」を設立しディレクターを務める。アジアを中心に世界の市場分析を行う。

概要

現在のデフレが金融的で現象であり、また需要不足に基づくものという議論に榊原英資慶応大学教授は真っ向から異を唱える。榊原氏はそれをグローバリゼーションの中で世界的に進行している構造的な現象とし、世界経済は構造デフレの時代へと大転換しており、政策目標は激しいデフレの阻止に置かれると主張する。その視点にたって、同氏はデフレ下での不良債権処理は一種の徳政令であり、国が企業再生ファンドを組成するなどの提案を行い、産業や業界の再生の視点から取り組むべきだと語る。

記事

構造的な現象としてのデフレ

この10年間の日本の不況の原因について、多くの論者は需要不足を指摘している。マクロ政策、金融財政政策で需要を喚起すれば、それでデフレは解決するという議論が行われているが、デフレの問題は、構造要因が非常に大きく、そうした議論の立て方は間違いだと私は考えている。最初に、この視点から日本経済の置かれている状況を考えてみたい。

まず、投資については、投資の収益率の著しい低下がみられる。例えば、自己資本利益率をみると90年代はほとんどゼロに近い状況であり、企業の生産性の向上という点についてもゼロに近い。その原因は2つ考えられる。

1つはグローバリゼーションの進展である。中国やインドの存在を考えると、中国などに投資するほうが収益率が高い。輸出関連産業の立場で、収益構造からみて、日本からディスインベスト(投資を減額)し、中国やアジアの比較的安定的な国に移すほうが有利ということになる。特に、今まで設備投資を主導してきた輸出関連産業は、日本国内で投資をするインセンティブがなくなっている。国内ではコストが高過ぎるという問題がある。そこに、グローバリゼーションでコストが安い市場が出てきた。

もう1つは、本来、日本にも収益が高い分野はまだ存在しており、例えば食品加工などの農業関連、医療関連や教育等の分野の収益率は、相当高いはずである。だが、これらは規制が非常に強く、参入が困難であるという問題がある。いわゆる国内的製造業や国内的サービス業と言われるものが社会主義体制下に置かれており、その結果、投資が進まない。例えば、トヨタが流通に参入しようとしたり、三洋電機が農業に入ろうとしてもそれはできない。ポテンシャルな収益の高い分野が存在しても、日本の政治絡みの規制でブロックされている。

これら2つの要因により、日本国内では投資需要が出なくなり、銀行借り入れもしないということになる。結果として、構造的に銀行貸し出しの低下が続いてきた。しかも、銀行貸し出しの大部分は不動産、流通、建設、サービス業であり、これらが75%を占めている。そこは後で説明するようにいわゆる不良債権となっており、撤退したいという世界なので、投資需要がないということになる。

消費についても、少なくとも今までの製品に関してみれば、日本は既に飽和状態にある。携帯電話やパソコンで消費は若干持ち上がってきたが、恐らく、潜在的な消費需要は医療や教育といった分野にあるだろう。しかし、それらは規制によるコントロールを受けていることから、消費が出てこない。少なくとも、商品についてのクオリティー・コントロールは行われておらず、比較も評価もできず、情報も出てこないため、潜在的需要があってもあまり伸びない。モノという意味では日本が飽和状態にある中で、モードを変えるだけの製品をいくら生み出しても、日本の産業を支えていく力はない。

まり、投資も消費も、構造的な要因で出ていないのであり、マネーをどれだけ刷ってみても、それは流動的な資産で持たれるだけということになる。明らかに問題はミクロであり、需要という面からみても構造問題なのである。しかも、それは世界的な現象である。


グローバリゼーションと世界的なデフレ

モルガン・スタンレーのスティーブン・ローチ(チーフエコノミスト)などが最近、指摘していることだが、アメリカがデフレに入りつつあると言われている。アメリカの製造業に関しては、これまでもデフレ状況にあったが、最近ではサービス価格までが低下してきている。これまではサービス価格がおおむね3%程度の上昇率でインフレ状況にあったが、最近では、サービスの中でも特にコンピュータ関連については、会社のバックオフィスのオペレーションやコールセンターオペレーションなどをすべてインドにアウトソースするようになっている。サービスも、主としてインドや中国、台湾、フィリピンなどにアウトソースするようになり、サービス価格も急激に低下するようになった。そこで、アメリカもいよいよデフレに入ってきたことをスティーブン・ローチは指摘したのである。

サービスについてアメリカで起こっているこうした現象は、まだ日本では起こっておらず、日本では相変わらずコンピュータ関連はハードウエアメーカーからセットで購入している。これをアウトソースし始めると、日本でもサービス価格も落ちていくことになる。グローバルにみると、中国やインド、あるいは東欧諸国などが、非常に安い価格の製品とサービスを、相当なハイクオリティーで供給することができる。そのことによって、世界的なデフレ構造に入ってきているのである。

これは、明らかにひとつの大きな構造変化である。そのことと、規制や社会主義といった日本の構造問題が重なり、日本がほかの国より厳しいデフレに直面することとなった。ほかの国は規制がないだけ、日本よりデフレのスピードが遅いということになるが、グローバリゼーションによって世界的なデフレに突入しつつあるわけである。

歴史的にみれば、こうしたグローバリゼーションに伴う現象は、市場の拡大に伴って生じてきたものである。市場の拡大が価格を低下させ、生産の中心が移り、一方でカネがあふれていることから、どこかでバブルが起きるという現象は、例えば19世紀末にも起こった現象だ。

19世紀末の市場の拡大は、アメリカでありアルゼンチンであり、オーストラリアであった。ヨーロッパからこれらの地域などいわゆるウエスタン・オフシュートへ、資本や人口の大規模な移動が起こった。当時は農業革命が起こり、農産品価格が急激に低下したが、今、同じことが製造業とサービス業で起こっているのである。

それがグローバリゼーションであり、中国などのエマージング市場が次々と参加し始めているわけである。グローバリゼーションの本質はアメリカナイゼーションではなく、中国とインド、さらにはロシア、東欧の世界経済への参加である。中国は、製品の供給面で出てきており、ポテンシャルな需要はあっても、農村の疲弊や所得格差などを背景にそれを刺激できず、供給能力だけが急激に増えてしまった。北京の某政府高官は、中国は農業も含め99%の産業で供給過剰であると説明している。

従って、中国のデフレは止まらない。しかも、外資が次々と中国に入って供給を増やしている。それを世界に輸出するのであるから、止めることのできない世界的なデフレ要因となる。中国の人口13億人のうち7割は農村にあるが、そのうち1億5000万人だけが都会に出て工場で働き、3年ぐらいたつと農村に帰る。農民の出稼ぎで、農村がその送金で潤っているという構造である。この1億5000万人だけでも、日本の人口より多いのである。


マクロ経済学の前提やフレームの変化

こうした大きな質的な大転換が始まっている中で、それを理解しないまま従来のマクロ政策を続けていくことは無意味である。金融緩和を続けた結果、20世紀の終わり近くになってバブルが発生したが、それは明らかに株式バブルであり、ITバブルである。こうしたデフレ構造があるときに、今のような形で緩和政策を続けてカネをまけば、どこかでバブルが発生することになる。それが資産市場のバブルであり、それが必ずはじけるのは歴史的に何度も繰り返されてきた教訓である。

日本では、グローバリゼーションの進展の中で、輸出関連産業が日本国内での投資インセンティブを90年代に失い、財政政策で何とか日本経済を支えてきた。その結果、これだけ国の赤字を出すことになった。私も、そうした財政出動に携わってきた。日銀も、タイミングの良し悪しの議論はあるが、ゼロ金利政策まで行ってきた。それでも物価が下がっているということが、日本の最大の問題なのである。

よく言われるのは、相対価格と絶対価格の議論(通貨供給の増大は商品間の相対価格に影響を与えることはできないが、少なくとも絶対価格を上昇させることは可能)であるが、それはネオクラシカル・エコノミックス(新古典派経済学)の1つのフィクションに過ぎない。絶対価格については、論者は平均価格という言葉に言い換えているが、コンセプトとしては貨幣と財との交換比率ということになり、ケインズ経済学でもマクロ経済学でも、財は1つだけであるため、これを絶対価格と称している。しかし、これは極めてわかりにくい。私たちが見ている価格は多種多様であり、経済学で決められた価格で判断しているわけではない。しかも絶対価格と平均価格とは必ずしも同一ではない。

貨幣を増やせば、当然どこかで価格が上がる。しかし、この場合に問題なのは、貨幣を供給すれば株価や不動産価格が上がるということである。これらは、今の価格体系の中ではバスケットに入っていない。従って、一方で急激に資産価格が上がり、バブルができる。そういう意味では絶対価格が上がるということはあるかもしれない。経済学の中では財は1つであるが、実際には多種多様な財がある。では、その財というのは何かというと、学者がセオレティカル(理論的)につくったコンセプトに過ぎず、それを政策議論で主張しても意味がない。

今や、マクロ経済学のフレームや前提が変わり始めている。例えば、マクロ経済学の中には資産価格というものが入っていない。通貨供給を増やして実際に価格が上昇するのは、バブルの時の資産価格なのである。かつてはオランダのチューリップの球根ということもあったが、カネをタダでバラまけば、どこかにそれが使われることになる。国債を買えば国債の価格は上がる。預金に回せば金利は下がり、預金に価格があるとすれば、預金の価格が上がったことになる。しかし全体の問題として、供給過剰になっているときに、果たしてサービスや製造業の製品の価格が上がるだろうか。

現状は極めてマネタリーな現象だと主張する論者は多いが、それは理論的な枠に縛られた議論であり、学者が信奉している経済学の中ではそうなるということに過ぎない。マネーの定義すら既にできなくなっており、マネーとは何かということもわからなくなっている。マネーを定義してみようとすれば、今や現金だけではなく、クレジットカードなど多様化しており、経済学のフレームワーク自体が古過ぎるものとなっている。

スティグリッツの著書に『ニュー・パラダイム・フォー・マネータリー・エコノミックス』があり、内藤純一氏(名古屋大学教授)が現在訳している。そこではまず、マネーというものは定義できないとしている。特に彼が問題にしているのは、クレジットカードのリボルビングである。日本では一括払いが多く、リボルビング・クレジットはあまり使われていないが、アメリカはクレジットカードのほとんどがリボルビングである。この場合、マネーバランスがなくても消費ができるということになる。これまでのマネタリー・エコノミックス、マクロ経済学の金融論のコアは、個人が持っている現金のバランスと取り引きの間には一定の安定的な関係があるということであった。それがディマンド・フォー・マネー・ファクンション(貨幣需要関数)である。しかし、スティグリッツは、そのような関係は安定的ではないと主張している。なぜなら、現金がなくても今すぐに旅行ができるというように、現金とトランザクション(取り引き)の間に一定の関係がないということになるからである。その場合、現金を増やしても消費が増えるか減るかは、わからないことになる。

これまでは、貨幣需要関数が安定的だから、マネーを入れればトランザクションも増えるということがマネタリー・エコノミックスの基本であった。その最も典型的なものが貨幣数量説であるが、貨幣数量説をとらなくても、今のネオクラシカル(新古典派)の経済学の1つの基本はそこにある。それが違うということをスティグリッツは主張している。クレジットや金融システム、そこにおける情報のあり方、そのような制度的なものの影響が大きくなってきているとしている。彼は、東アジアや日本をみてそのような主張をしているのであり、マネーをいくら増やしても銀行貸し出しは増えていないという状況を踏まえている。では、増えないのはなぜか。マネーとトランザクションの間の関係において、MV=PTという恒等式がある。そのTにはインベストメント(投資)も入っており、従って、マネーを出せば物価が上がるか実需が上がる、そのいずれかであるというのが従来の考え方であった。しかし、現実には両方とも起こっていない。少なくとも、財と関係のあるような、われわれが今、観察できるような価格についてはそうである。しかし、資産のところは上がる。しかも、マネタリーな資産のところが上がるという状況になっている。そうなってくると、今までのマクロ経済学は変えなければならないということを、スティグリッツは言っている。

そのほか、経済学界でも今のマクロ経済学を見直すべきだという議論が起こっており、これまでの経済学はインフレの経済学だという反省がなされるようになっている。ケインズが「一般理論」を著し、それをサミュエルソンたちが定式化してネオクラシカルなエコノミックスが出てきた。それはインフレの経済学であり、デフレの時代となった今、一体、どのようなフレームワークで分析するかということから考え直すべきだという議論が始まっている。だが、それはまだ一般的にはなっていない。

デフレが構造的なものであれば、それは阻止できない。デフレを阻止しようとして唯一可能なのは、資産インフレ、あるいはバブルになることである。資産のインフレというのは、財の側の裏付けがないからバブルなのである。従って、資産バブルをつくる結果に終わるだけである。

クロの政策運営で今の状況を打開する方法としては、長期国債の引き受け(国債の貨幣化)や円安といったことも議論されるが、まず、国債の貨幣化については、それは結局、マネーを配るということであり、マネーを出したところで構造的な要因で需要は増えないため、デフレ克服策としては無意味である。

次に、円安については理論的にはあり得る選択肢であり、ジェフリー・サックスやポール・クルーグマンも、少なくとも円安はあり得るとしている。しかし、円安は政治的要因があって、ある程度以上の円安にはできない。それは近隣窮乏化政策になってしまうからである。どの国もが近隣窮乏化をとると、1930年代のような事態を招来してしまう。切り下げ競争を招く。日本だけがそのような政策をとれば、アメリカも、中国も、韓国も非難するだろう。ポリティカル・エコノミーという観点からとれない選択肢である。いずれにせよ、ピュアなネオクラシカルな経済学だけで物事を考えてはいけないのである。


国が企業再生ファンドをつくるべき

日本経済は、まず過剰債務を減らさなければならない。私は『中央公論』で、そのためにマネーを使ってもいいと提言した。歴史をみると、このようなときには徳政令が出されている。要するに、不良債権処理というものは徳政令だと考えるべきだ。倒産の場合は、倒産すれば借金を返さなくてもいいのであり、倒産というペナルティーを課した徳政令といえる。債権放棄も徳政令である。デフレの時代に入ったのであるから、過去の借金は清算しなければならない。デフレのコンテクストで言えば、それが不良債権問題である。なぜなら、デフレの時代には借金の額がどんどん上がるからであり、それは耐えられるものではない。

デフレを止めなければ不良債権問題は止まらないと言われており、自民党サイドからも、補正予算を組んで何兆円か追加すればデフレは止まるから、それで不良債権問題は解決に向かうという声が出ている。だが、そうではない。デフレは止まらないのである。

大変な調整が行われなければならないが、資本主義経済では通常、それは恐慌によってなされる。「竹中恐慌」を起こしてもいいのかもしれないが、恐慌を起こさないで調整を行うことを考えるのが政府であろう。先の内藤純一氏は、今の日本はモデルとしてはアメリカの恐慌のフレームに近いとしており、過剰債務のカットのフレームも、80年代から90年代のRTCではなく、30年代のRFC(復興金融公社)ということになる。日本では、RTC(整理信託公社)に対応するRCC(整理回収機構)となっているため、国が企業再生ファンドをつくることが必要になる。これは先日、塩川財務大臣にも申し上げたことである。ただ、過剰債務は別勘定にして移すとしても、これまでのRCCは倒産したところを回収するだけの機能しかなく、いわば回収屋であった。そうではなく、企業を立て直すために出資したり、企業をつぶさずに解体したり、M&Aをかけて再生するなどの作業が必要になっている。民間部門でも企業再生ファンドが次々に出てきているが、それをもっと大きなレベルで国でつくるべきであるというのが私の主張だ。

例えば、預金保険機構の下にRCCと並ぶような形で企業再生ファンドをつくる。銀行を敵に回す必要はない。銀行というものには、本来、そのノウハウがあるはずであり、今までメーンバンクがやってきた仕事なのだから、銀行からも人材を出させて、ここで鋭意取り組むことにすればいい。今、取り組んでおられる企業再生ファンドの方々とも連携をすればいいのである。しかも、預金保険機構の下にそれをつくれば、政府保証を付けて債券を発行できるようになる。その結果、資金はいくらでも調達できることになる。ファンドに損失が発生すれば、将来、公的資金が投入されることになる。最初は努力して、最後の尻で、結果として足りなかった分について公的資金を投入するというのが健全な考え方である。最初から銀行の会計だけをいじって、それで公的資金を入れるという発想は馬鹿げている。

企業再生ファンドを作り、政府保証付きの債券を出せば、政府保証が付いているということで、機関投資家も銀行も、この債券を買うことになるだろう。どこもカネが余っている中で、その債券で何兆円でも調達できる。


不良債権処理はどう進めるべきか

現在、不良債権問題は不動産、流通、建設、その他のサービス(リースやファイナンスなどの)の4つの産業に集中している。そこをどうするかということを政府は考えなくてはならない。計画経済ではないので最後はマーケットを使うことになるが、政府としてどうするのかということが重要である。業界には様々な規制があり、規制をどう緩和するのか、場合によっては外資をどう入れるのか、ほかの業界をどう入れるのか。例えば、日本にも健全な製造業があり、それが入ってきて流通をやるなど、他産業からの外資の参入を含めて考える。まさにそれを行おうとしたのが金融ビッグバンであった。

銀行だけ叩いても、このままでは不良債権問題は解決しない。そこにはポピュリズムがあり、銀行は一般的に評判が悪いから、評判の悪いところが叩かれてきた。確かに銀行経営も決して良くないが、それとこれとは別問題である。

産業をどう再生するのかという点について、政府は少なくともプランをつくり、官邸に参謀本部を設けて、そこに銀行界、流通業界、その他の産業界の人間も入れて、この業界はどうするといった議論をすべきである。その際、各種の規制についても取り上げるべきであり、例えば、流通業界でも建設業界でも、業績の良いところや頑張っているところはある。それらの企業は競争力があるから、現行の規制に対して不満を持っている。彼らの言うことを聞けば、規制緩和をすべきという話が出てくる。

銀行については、もっと外資系の銀行を入れるべきである。新生銀行が叩かれているが、新生銀行はきちんと儲けている銀行だ。金融界の人たちは、あのようなあこぎなことをすれば誰でも儲かるという言い方をするが、プライベートセクターというのは役人ではなく、公共の利益をいう必要はない。公共の利益は金融庁が担うものだ。こうした意識の切り替えは金融ビッグバンでも手掛けたことであるが、もっと徹底する必要があろう。

他方で金融庁は銀行に、中小企業に貸せと言い、それができなければ業務改善命令などということもやめるべきだ。私は、金融庁を政治から独立させるべきだと主張している。各国とも金融監督は概ね独立しており、例えばヨーロッパ大陸諸国では中央銀行が金融監督機能を担っている。中央銀行だから当然独立である。アメリカも、基本的にフェデラルリザーブ(FRB)であり、比較的独立している。イギリスも、大蔵省からFSAを離し、中央銀行からも銀行監督機能を分離して、比較的独立している。日本は金融監督行政が政治に振り回され過ぎている。

金融界がきちんとした産業として成り立っていくためにも、政治から独立させることが必要なのである。中小企業にカネを貸せと言うが、銀行は儲からないところには貸してはいけない。もし中小企業に貸したいのであれば、財政で補助金を付けるべきだろう。金融機関は民間企業であり、それを金融界にやらせるというのは間違いである。

今、公的資金を入れて国有化という議論も出ているが、それを初めから考えるのは間違いだ。結果として公的資金を投入し、国有化となることは考えられる。だが、その前に前述の金融再生ファンドに移すプロセスで、それぞれの企業をどのようにしていくのかということをまず決めなくてはならない。それが決まって、そこでどう引き当てするかというのが筋道である。今、竹中プランでやろうとしていることは、監査法人が行うべきことなのであり、会計士が銀行のバランスシートをみてどうしろという類いのことであって、問題はそのような話ではない。産業をどうするかということが問題なのである。そこを成功させて、結果として公的資金投入ということがあり得るということである。入口と出口を取り違えている。

加えて、銀行を含め企業経営者に退陣を迫るのはよいとしても、それ以上のことをしてはいけない。つぶれる、あるいは国有化するということは、それだけで経営者にとっては悲劇的なことである。アメリカでは平気で企業がつぶれる。普通の資本主義であれば、つぶれたときに、株主側では株が毀損し、恐らく経営者はやめなければならない。それだけでいいわけである。それ以上に、退職金を支給しない、刑罰を課すということは関係のないことだ。個人的な恨みつらみのような話になり、それではだれも経営者にならないだろう。


50兆~60兆円の規模で公的資金は必要

銀行の自己資本については税効果が問題になったが、日本ではこれまで有税償却が行われてきたのであり、銀行のアカウンティングで変えるべきところがないわけではないとしても、日本のシステムは無税償却が行われてきたアメリカとは異なっている。それを理解せずに税効果だけをアメリカ型にして、銀行に無理やり公的資金を投入するというのでは、完全なルール違反ということになる。無税償却に変更して、一定の経過期間を設けてアメリカ型のシステムにするのであれば別であるが、これは主税局としては認められないだろう。全体として、主税局も入れて議論しなければならない問題であり、金融庁だけで扱える問題ではない。

もう1つは、優先株の普通株への転換という問題があるが、確かに資本注入は当初から普通株で行うべきだったかもしれない。ダイエーの処理においては、優先株を優先的に毀損させ、まさに貸し出しと同じように扱ったが、優先株というのは普通株に優先するからそう呼ぶのであり、私はそれは筋違いではないかと反対した。公的資金についても、転換社債として注入しているのではなく、注入の仕方については、佐々波委員会(金融危機管理審査委員会)から間違いが始まったといえる。

日本ではやがてデフレは止まり、インフレになるという曖昧な発想をだれもが持ってきた。それは銀行の経営者に限らない。90年代は、その発想でずっとやってきたわけである。それが銀行経営をおかしくしてしまった。多くの企業の経営も、国の財政もそうである。その基本にあるのは、デフレというのは需要不足であり、一時的に起こっている現象であるという認識であり、それが構造的な問題だということを理解していなかった。デフレを覚悟して、デフレと共存していかなければならない。緩やかなデフレというのは決して悪いことではない。賃金も下がるが、物価が下がるのは消費者にとっては良いことである。

そこで出てくるのは、デフレを覚悟し、その下で不良債権処理を進めなければならないとした場合の痛みの問題である。そこがまさに公的資金ということになる。追加の公的資金は50兆円という話もある。私も、少なくとも50兆や60兆円のオーダーで入れる必要があると考える。ただし、それは結果としてであり、前述のように、企業再生ファンドを活用したスキームでは、政府保証債券を発行するが、個別の債権を処理する過程で毀損する部分が出てくる。恐らく、かなりの部分はそれに対して公的資金を入れるということになるだろう。

それに、銀行本体の資本不足に投入する部分との両方がある。50兆、60兆円くらいのことをしなければ不良債権問題は解決しない。これは一種の徳政令である。銀行貸し出しの分類は、金利が払われているものを一定のルールの下に第2分類に入れており、これを現在、検討が進められているように、実際に将来のキャッシュフローの見込みがないことをもって第3分類にするのであれば、膨大な資金が必要となる。


政府紙幣の発行を提言する

デフレ下での不良債権処理に対するクッションとしてマクロ政策が議論されるのなら、痛みに対するクッションとしてマネーを提供することに徹すればいいと私は考える。公的資金の投入は、結局マネーで行うしかなく、私はかつて、それを1回限りの政府紙幣でやれと提言した。

日銀が通貨を供給する場合は、国債を引き受けてマネーを出すことになるが、その場合、国債は債務であるため、債務が増えてしまうことになる。政府紙幣については、貨幣法を若干改正しなければならず、現在、政府は硬貨しか発行できないが、それを紙幣まで発行できることにすればいい。明治時代には太政官札の例がある。政府が発行する理由は、日銀にタダでカネを出させると中央銀行制度がおかしくなるからである。これを日銀が出す形にするのであれば、代わりの資産を政府からもらわなければならない。政府紙幣を発行して、その政府紙幣を日銀に渡して日銀券を出しても構わない。日銀券と同じだということにして政府紙幣を流通させることも考えられる。

これはシニョリッジ、すなわち、通貨を発行できる者が持つ圧倒的な利益である。通貨主権と言うが、それを利用すればいいという考え方だ。紙幣をタダであげる分には債務は増えず、国債も増えない。借金ではないからだ。震災手形と同じことであり、江戸時代で言えば貨幣の改鋳である。劇薬ではあるが、1回限りの劇薬であり、厳しい不良債権処理をするなら、そのようなやり方が最も適切だ。

マクロ政策について、財政は無理としても、金融の量的緩和や円安誘導、その組み合わせということも言われるが、それはクッション役にはならない。マクロ理論の枠内であれこれ言うのではなく、もう少し発想を変えなければならない。

政府紙幣の発行についてはスティグリッツも指摘している。これだけの財政赤字ではどうしようもないという議論をしていた際に、日銀券を発行すればいいが、日銀は対価なしには発行できない、それならば政府紙幣の発行だという話であった。


激しいデフレにはしないという政策目標

デフレに対する私のような認識は、政治家や一般的なアナリストの間にはみられないが、アカデミズムの中では既に出てきている。デフレを容認するという政策目標を言う必要はなく、緩やかなデフレはいいことだと言えばいい。今は緩やかなデフレであり、それは消費者にとってはいいことであり、不況、不況と言われていても、今、日本はそれほど傷んでいない。

もちろん、恐慌型の激しい物価下落にしないような政策をしなければならない。ただ、これは緩やかなデフレを激しいデフレにしないような政策である。今までは、緩やかなインフレを激しいインフレにしないような政策をとっていたわけである。中央銀行の今までの政策は1~2%、あるいは、せいぜい3%といった緩やかなインフレを許容し、それをハイパーインフレーションにしないということであった。今度は、緩やかなデフレ、つまり1~2%の物価下落を許容する。ただし、それを激しいデフレにはしない。それが新しいパラダイムであるべきだ。それが政策目標になるわけである。そのような時代に次第に入ってきている。デフレスパイラルにはしないということは、基本的には金融政策の量的緩和でできるはずである。


名医が取り組むべき大手術

今の小泉政権や竹中大臣の方向は、確かに手術の方向にはなったが、ヤブ医者に手術されれば患者は死んでしまう。心臓のバイパス手術はよほどの名医にさせなければならないし、違うところを切らず、きちんと患部を切らなければならない。手術をやればいいという議論ではない。医事評論家ではなく、名医が必要だ。

今の日本の局面は80年代、90年代のアメリカではなく、30年代のアメリカであるという議論があるが、その通りだと私は考えている。当時の解決手段は恐慌であり、日本の解決手段のひとつも恐慌なのである。それがマーケットの普通の調整の仕方である。それをしないようにするのであれば、相当思い切ったことを政府がやらなければならない。まさに大手術をするわけである。失敗すれば死んでしまう。

今は、ヤブ医者が恐慌にしようという路線だといえる。恐慌というのは、人間の体で言えば死ぬことであり、一度死んで、また新しい生命が出てくるという話である。死なせないのであれば、相当の再生手術をしなければならず、何十兆円という話になる。

私の発言は誤解されることが多く、何かやれと言うと、また保守的なことを言っていると言われるのであるが、そうではない。激しいことをやればやるほど、いろいろな配慮が必要になる。今はかなり切羽詰まった手術をしなければならず、今できるのか、1年先にできるのかはわからないが、今回の手術は失敗すると私は思っている。むしろ手術にはならず、少し切って閉めてしまうといったところだろう。

しかし、日本はどこかで手術をしなければならない。これは本当の専門家が集まって、きちんとプランを立てて行う必要がある。日本には、きちんと状況をわかっている人たちがいる。日銀や金融庁、銀行、預金保険機構や各種ファンド、外資系。そういうところにそれぞれの専門家がいる。彼らが本当に集まって取り組む必要がある。

この不良債権問題の処理は、少なくとも5年、10年の単位で見なければならない。アメリカはそこをよくわかっておらず、彼らは80年代後半から90年代のアメリカの金融危機ぐらいにしか考えていない。アメリカはすべての対策を総動員してなどと言っているが、内政干渉であり、わかってもいないのにうるさいことを言うなと、私は言いたい。私が財務官の時には、少なくとも経済担当補佐官のサマーズには内政干渉はさせなかった。G7でも具体的なことを言うなら自分は席を立つと言った。日本が反対したらコミュニケ(声明)を出せないはずだと言って部屋を出てしまったところ、後から呼びに来た。今は、御用聞きのように向こうの要請通りにやっているようにみえる。

ただ、日本は5年ぐらいでこの問題にけりをつけなければならないだろう。今、議論を始めることは良いことであり、その意味で小泉政権や竹中大臣の功績は、議論を始めさせたことだといえよう。今まではだれも本気ではなく、本気でやるとは思わなかった。これは本気だぞと思い始めたから、銀行界も必死になった。

銀行界は、あれだけ竹中大臣に反対したからには、今度は自分たちの建設的な案を出す義務が生じている。今まで通りであれば、だれも納得しないだろう。きちんと出せということを銀行界には言わなければならない。恐らく今回の手術は成功しないと思われるが、とにかく議論は始まった。私が竹中大臣を批判しているのは、それをきちんとやろうということを言いたいからである