【論文】デフレの解消にはミクロでの挑戦しかない(会員限定)

2002年12月24日

島田晴雄 (内閣府特命顧問、慶應義塾大学経済学部教授)  
しまだ・はるお
1965 年慶應義塾大学経済学部卒業。70 年慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程修了。74 年ウィスコンシン大学博士課程修了。慶應義塾大学経済学部にて助手、助教授を経て、82 年より教授。2000 年より東京大学先端科学技術研究センター客員教授兼任。01 年9月からは内閣府特命顧問として、小泉政権の政策を補 佐。専門は労働経済学、経済政策。主な著書は「明るい構造改革...こうすれば仕事も生活もよくなる」。

概要

デフレ論議で気になるのは、経済実態に即した議論が少ないことだ、と内閣府特命顧問で慶應義塾大学の島田晴雄教授は言う。経済構造が大きく変わる今の日本では、投資をしても儲かるという国民の確信、そして民間の挑戦がなければデフレは解決できない。個人の意識低下と政府依存の傾向を懸念する同氏は、内閣府で担当するセーフティーネット、企業の立て直しや規制緩和の問題に踏み込み、空虚なマクロ議論からの決別と個人の挑戦が必要だと主張する。

記事

この間のデフレ論議を聞いていて感じるのは、経済実態に即した議論が少ないことだ。デフレはマクロ対策で解消できるものではないと私は考えている。私はマクロ政策を全面的に否定するものではないが、デフレを解消する実験というのは、今まで世界でなされたことはない。されたことがないから「できない」とは言わないが、そう簡単にマクロ政策でできるものではない。日銀が旗をふればインフレに戻せるという考えがあるが、私は疑問がある。なぜなら、デフレを克服するには、一般の事業家が、「資金を借りて投資したら儲かる」という確信を持つことが必要だからだ。今は国民が「損する」と思うからこそ、だれも仕事しなくなり、デフレスパイラルに陥ってしまう。つまり、国民に「資金を借りて、仕事をしたら儲かる」という確信がなければ、デフレは止まらないと私は考える。日銀が金融政策でおカネを増やしても、そうした確信とそれぞれの民間の挑戦がなくてはこのデフレを止めることはできないのである。経済構造が同じならば、値段が上がれば儲かる。しかし、今は経済の構造が変わっていく中で、旧構造の発想のままで値段を上げようといっても、それは上がらない。

そういう意味では、竹中大臣が今やろうとしていることは基本的に正しい。不良債権処理を終わらせなければ、これまでの旧構造での遺産を整理できないからである。しかし、整理することがデフレ対策なのではない。デフレ対策というのは、新しいものを作ることにあり、整理ではない。ただ、整理はカネが流れるための必要条件であり、デフレ対策の序盤である。

この構造の変化には新しい潜在需要が生まれ始めている。これまで多くの企業を見てきたが、それに気付いてビジネスを行っている企業は皆、伸びている。だが、これまでの重荷を背負い、大きな組織を持つ大企業は、そうした変化にあまりにも緩慢だ。それが、不良債権問題から日本がなかなか脱却できず、国が企業の立て直しを懸念する事態を招いている。企業の組織の中には、有望な技術や研究が蓄積されてあり、潜在需要にこたえるビジネスのシーズがあるところが、かなり出始めている。それに気付いてもそれを独立してでもビジネス化する人材がなかなか出てこない。組織の壁の中でリスクをとれない人間が埋もれている。ベンチャー企業は金融が付いても、仲間割れして自滅しているところがかなりある。要するに、「未来」はそこまで来ているのにそれを担おうとする勇気ある人材が不足している。それが今のデフレの出口を見えにくくしている。そうした企業や人間は現在でもいないわけではない。2,300社はいると思うが、仮に1万社でたら、この国はどうなるのだろうか。多分、日本は生まれ変わることができる。政府ができることはその方向を示すことで、それこそがデフレ対策だと私は考える。

ここで一番、言いたいのは「空虚なマクロ議論に振り回されるな」ということである。日銀がおカネを出し、政府が財政を繰り出せばこのデフレが解消されて、インフレになるわけではない。むしろ、こうした議論は、政府頼みの議論になりやすく、今、私たち個人が問われている挑戦という課題を見えにくくしている。


セーフティーネットの整備と企業家的なプランニング力

同じ傾向は政府が進めるセーフティーネットの議論にも当てはまる。私は昨年、政府でこの問題に特命担当として取り組んでから驚くことが何度かあった。セーフティーネットをこの構造調整の中で整備しなくてならない。だから、予算を増やせという議論がこの間、何度も言われてきた。だが、ではどこにどういう形でおカネを出すのか、そのデーターさえこの国には整っていなかった。それもないのに、政治家は予算を地元に持っていくことだけに躍起になっている。セーフティーネットだといって単に予算を付けるというのは、非常に空虚な議論である。データもなければ、アイデアもないところにいくら予算をつけたところで何の効果も上がらない。

国のセーフティーネットの整備で最も重要な点は、一番困っている人が、生活費に困窮して破滅しないようにすることである。しかし、労働力調査での失業者数360万人のうち、失業保険給付を受けている人が約110万人で、残りの250万人は調査では失業中ながら、給付を受けていない。それがどうしてなのか、それまでのデータでは判読できなかった。失業者の統計は、総務省が実施している労働力調査というサンプル調査で、4万人の家計を3ヶ月ずつ調べて出しており、その確度はかなり高い。一方、厚生労働省は失業保険の給付をしているから、失業保険の給付を受けている人については、非常に詳しいデータを持っているが、「カネの切れ目が縁の切れ目」で、給付終了後の状況はフォローはできていない。だが、失業保険を受給していない250万人の中身が分からなければ、本当のセーフティーネットは構築できない、と考えた。

その後、調査を進めたところ、この250万人の失業者は4つの類型に分類できることがわかった。最初に、「世帯主で、失業給付も終了してしまった、だけど半年も1年も失業している」人たちが33万人。これが一番緊急度が高い。2番目に「仕事をすると税金がかかってしまうから、パートタイムで働いてはいるけれども、一応求職活動はしている」という人が約35万人いる。多くの主婦層がここに入ると考えられる。3番目は高齢者、すなわち「貰えるものはみんな貰った後で、とりあえず健康だから仕事を探している」という人が30万人。最後に若者、学校を出た後の社会との接続がうまくいっていないという全く異質な集団が108万人。フリーターなどはこの層に入る。これは将来大きな問題になるはずである。

今までは、こういう構造になっているということすら把握できていなかった。だが、それが判明した以上、本当のセーフティーネットは、最も緊急度の高い「求職中でかつ失業給付を受けていない世帯主」33万人に集中すべきである。高齢者と主婦層は雇用対策としての緊急度は低い。若者108万人の問題は雇用問題というより教育問題であり、期待される対応が違う。

そのように分けていくと、もっときめの細かい戦略的な雇用対応ができる。例えば一番困っている人たちが33万人いて、その多くが関西で滋賀県と和歌山県と大阪府にいるのはわかった。そうであるならば、そこに予算とアイデアを集中させるべきだと考えている。

さらに言えば、現行では失業保険が切れても働く意欲があり、能力が伴わないときには2年まで雇用延長ができて、失業保険に見合う訓練手当ても受けられる。だが、その実態は各県が行っているため、情報が途切れて実態はわからない。それなのに、出てくる議論は「失業保険を増やせばいい」というマクロの議論だけで、データも確認できず、体制や中身もないまま、ただやればいいということになっている。

ただおカネをばらまこうとするからどんなことが起こるか。今は雇用創出金を3年間で3500億円を出すことにしているが、地方で使えということにして、それを労務費に8割を使うように縛りを入れている。それが市町村に下りていっても、市町村では天から降りてくるおカネの使い道がわからない。森林の保全や道路の清掃、交通違反の取締りの手伝いなどに少しずつ使ってはいるが、かなり使い残している。そもそもこれらは本当の需要ではない。このような仕事では、いつまでたっても専門的な技能が身に付かないため、緊急雇用創出事業が終われば、もっと深刻な失業者になってしまう。これは毒薬であり、しかも、国民のおカネの無駄使いである。地方で、あるいは現場で、どういう需要が潜在的にあるかを見極め、その潜在的な需要を顕在需要化する起業家的な発想、プランニング力が中央にも地方自治体にもないから、このような無駄な失業対策しか生まれない。


構造調整と産業の再生をどう考えるか

今、構造改革が言われている。問題になるのはいわゆる3業種、すなわち流通・不動産・建設で、これらの業種に対してはこれから金融機関が査定を厳格にし、個別引き当てを高める方向である。金融機関は引き当てを高めた企業には、原則的に追加支援しないと考えるべきであろう。金融機関からの追加支援がなければ、その企業は、そこで雇われている従業員のうち何割かを整理しなければならないということになり、これにより全国規模で10万人単位で新たな失業者が生まれる可能性がある。先にも述べたが、現在、360万人の失業者のうち、一番苦しい立場にいる人たち、すなわち失業給付を受けていない人たちは世帯主で33万人と推定され、これに給付を受けている世帯主を加えると、60万人が一番つらいところにいると言われている。構造調整によりこの人数が倍増する可能性はある。

これはかなり深刻な問題である。きめの細かい戦略的なセーフティーネットは整備する必要があるが、産業の再生や新しい産業が生まれないと吸収のしようがない。産業や企業再生の基本は、民間企業が日本の新しい変化を受け入れることである。なぜ日本の民間企業が新しい展開をしないかと言えば、次の時代の要請に応えていないからだ。時代が変わるということは、過去の産業は全部ダメになり、新しい要請が出てくるというでもある。それに応えれば、必ず企業は伸びる。ニッチな産業やサービスに着眼すれば伸びるはずなのに、知識やそれに対する情報、そして一番重要なことだが経営者や企業で働く個人にやる気がないから、伸びない。

問題の3業種であろうと、他の産業であろうと、同じ企業の中でも良い所と悪い所がある。だから良い所だけを切り取って、正しく市場評価させると、かなり高い評価が付く分野は少なくない。

例えば、鉄鋼業界は非常に苦戦しているが、ダイオキシンの分解技術を開発している企業がある。その部門だけをトラッキングストックの手法を用いて切り離すと、企業全体の価値を上回ったりする。資本市場はそういう再生の手続きを望んでいる。企業全体は「死に体」に見えるけれども、良い部分はあるものだ。それだけは生かす。資本市場が一番求めているのは、そうやって企業を分解して、個別に市場で評価していく枠組みだろう。

例えば、500店舗を持ったサービス業で「この120店を切り離す」というようなことを、だれが評価するのか、それを分離すれば株価が上がるのか、といえば、そう簡単な話ではない。これにはやはり、営業戦略から商品展開まで見る力、要するに新しい経営力が必要とされる。これは、その企業の中にいる人たちが一番そのことをわかっている。そのため、本来はそういう任務を帯びた人たちがそれを担わなくてはならない。しかし今問題となっている企業群には、そういうことを自力でやる力がない。そこで経営者を代えるなり、市場が評価できる仕組み、外部の力が必要となる。

政府の役割は、例えば過剰設備を処理するといった場合に、その法的な枠組み、金融上の枠組み、税制上の枠組みなどを整備することである。将来性のある方向を見つけるのは基本的にマーケットに任せ、政府は戦略を描きながら、将来性のある方向へ経営資源を誘導するというか、資源が流れやすいように環境整備するようにすればいい。例えば、ただ将来性があるというだけで、「バイオであれば税金を優遇する」というのは、問題がある。個々の企業の選択は、市場に任せなければならない。530万人雇用創出計画で私が最大の期待を込めているのは、この環境整備、「ネガティブなものを払う、解消する」ということである。

産業再生のスキーム作りで重要なのは、政府がどういう形で関与するかである。私は産業再生で政府の対応を完全に否定しているわけではない。例えば建設業のようにこれまで補助金で救済されてきたところは、これから生き残るために価格のダンピングで周辺の関連企業、下請けを巻き添えにしかねない。政府の介入がなければ、その影響をより大きくしてしまう可能性がある。

だが、これはあくまでも例外である。メインバンク制の時代には、国が産業政策としてデザインし、銀行がリスクテイクする形で産業再編を図ってきた。だが今はもうそんな時代ではない。生き残る企業、倒産する企業の選別というような意思決定は、基本的に企業にしかできない。統制国家ではないから、国家がこんなことをやるわけにはいかない。政府にできることは、スキームにインセンティブをつけて、そうせざるを得ないように追い込むパッケージを作ることである。

アメリカでは、ダイムラー・クライスラーの再建に政府が関与した例もあるが、原則的に意思決定をするのは企業である。政府の役割は、例えば「再生パッケージにはトラッキングストックが有効だ」と民間企業を誘導し、制度的な枠組み、環境を整備するだけで十分である。


産業の立て直しと雇用の吸収

産業構造の調整に伴う雇用のミスマッチは、特に建設業で深刻な状況になっている。建設業界はもう大不況で、地方では既に建設の火が消えている。東京でもオフィスビル、マンション建設が一巡すれば消えるだろう。そうなると、建設業に従事する600万人以上の労働者の雇用が危うくなる。もちろん、全部というわけではないが、現在、建設業に従事する人のうち、恐らく50万人から100万人が失職する可能性がある。それではこの人たちを全て転職させることができるのかということになると、それは非常に難しい。

労働力動態調査で、建設業に従事する人たちは、最も職業転換をしない集団であることが明らかになっている。働く地域もなかなか変わらない。建設労働者や中高年の人に無理やりコンピュータを覚えさせても大きな効果は得られない。むしろ建設の人は建設、つまり建築や公共工事の人が住宅建設に移行することが可能ならば、彼らの技能を有効に活用することができる。であるならば、新しい建設の市場が必要になってくる。私はこれに対して、現在「安心ハウス」の建設を提唱している。

高齢者のケアについては現在、特別養護老人ホーム、老人保健施設、療養型病床群、ケアハウスなどで約68万のベットがある。230万人の人は行き場がなく、2万人は有料老人ホームに入っている。そこで私の提案で補助金のない仕組みで3食介護付きの個室の施設を「安心ハウス」として動き出させた。「安心ハウス」は1万棟建てると、約4兆円の市場が生まれる。これが10万棟くらいできると40兆円になり、建設業に関係する全国数100万の家族が救済できると考えられる。これは公共工事よりもはるかに大きな金額である。そこで「安心ハウス」を全国に建設し、建設労働者を吸収せよ、ということを提唱している。これは1つの例だが、一方でサービス業が伸びていけば「特別訓練」をしなくても、働く場は確保できる。こうした雇用の創出や流動化の動きも併せて進めないと、今の雇用問題は解決できない。


失業対策の原則とターゲット

今後、産業再生が進めば、失業率は10数パーセントになると予測する人もいる。マクロ経済の理論上はそういう計算になるかもしれないが、現実には全体の仕事量の喪失がそのまま失業者の増加として現れてくることにはならないと考える。なぜならこの時点で賃金カットなどの価値分割が起きるからだ。例えば、2人失業が出るところを1人の失業とパート雇用で吸収し、労働市場の中で事実上のワークシェアリングが起きると考えられる。

例えば1兆円の産業の縮小が100万人分の失業と同等の仕事量喪失だとしても、価値分割が起きれば100万人の失業発生にはならない。極端に言えば労働時間や給料を半分にすれば、50万人の失業で済んでしまう。不完全就業者やパートタイマーの増加は、現実に急速な勢いで進んでいる。実はアメリカで雇用がかなり高水準になった時にも、この価値分割が発生し、低賃金労働者が大変な勢いで増加した。こうした傾向は避けられないし、認めなくてはならない。労働市場は残酷なもので給料と労働時間でいくらでも調節ができ、市場を薄める作用を機能的に持っている。

「人間生活として最低限、これ以上、下がったら食べていけない」というところに、最低賃金が設定されており、これは当然守らせる必要があるが、短時間就業、低賃金が増加するのは避けられない。そういう状況の中で、これから集中的に救済しなければならないのは失業中の世帯主である。この層では価値分割を起こせないからだ。この人たちは「半分の給料でいい」と言えるはずがない。この点では家族を抱えた世帯主が失業するのと、定年退職後も健康だから仕事したいという高齢者や、普段はテニスをしているけれど、なんとなく仕事もしてみたいという主婦と同列に扱ってはならないと思う。

この失業対策については先にも述べたように今、本当に困っている人は現在の50万人から、これからの産業調整での影響をふまえて、多く見積もっても100万人程度だと考えている。これらにきめの細かい戦略的なセーフティーネットを整備できれば、今の政府が持っている資源ならば十分に対応可能な水準であると考えている。こうしたセーフティーネットの整備には国家の支援が入ってもいいが、ただ基本的には労使でやるべきだと考えている。負担する企業の事業は存続しており、また、負担する労働者も継続して雇用されている。その一方で仲間が失業していくのだから、こうした失業給付金の負担は1%や2%を仲間のために出すべきである。「税金で払わせろ」、あるいは「国に負担させろ」という声があるが、それは「国」ではなく、「努力した国民」である。努力した国民にこれ以上負担させるな、というのが私の根本的な考えである。

現在、失業保険給付は50歳代以上では原則11ヵ月の給付、特例として50歳以上、勤続20年で会社都合で辞めさせられた人であれば延長して大体1年間給付を受けられることになっている。

だが、ほとんどの人は「自己都合退職」ということで、失業保険を半年間しか貰っていない。「会社都合」で退職した場合、企業の負担が増えるためである。嫌がらせをして辞表を書かせ「依願退職」の形にさせている例が多いのだ。これらに対する対策は具体的には訓練延長が望ましいと考えている。

依願退職でも家族を抱えているとか再就職が非常に困難な状況は、申請時にある程度判断できる。給付期間を1年とし、その先は2年間の訓練延長ができれば、この層は随分救われるはずだ。その費用は、100万人程度の人の面倒を見るのにどんなに増やしても、1000億円か2000億円で、0.1%ぐらい労使がさらに拠出すれば十分だろう。

セーフティーネットの構築で重要なのは先にも述べたように、「メリハリをつけて」、「本当に困窮している人」を「集中的に」助けることである。例えば京都に失業給付が切れてしまった世帯主5000人がいることがわかれば、その人たちだけに再就職できるまで3年間の訓練延長をつける。これを地域も限定せず、全国的に行っても効果はない。データの裏付けをベースに本当に効果のある対策を集中的に行うことが大切なのである。


個人の挑戦意識の低下と日本の衰退

この間、こうしたセーフティーネットや雇用創出の動きに携わってきて痛感するのは、個人のやる気が全く停滞していることだ。一言で言えば、次の時代の要請に応えようという発想や行動がない。企業でもそれに応えようとしているところは伸びているのに、ほとんどの企業はそれに踏み切れず、国の対策だけを心待ちにしている。中央も縦割りの中で自分の権益だけにしがみつこうとしている。私は地方の企業関係者とも議論する機会があるが、多くの地方で必ず耳にするのは、「公共工事を持ってこい、なければ補助金をよこせ、交付税をよこせ」である。国にはもう余力がなく、公共事業もできなくなった。それなのにそれを未だ期待して、自ら動こうとしない。「工場誘致」と言うが、今はアジアに動き、国内に移転させる企業はまずいない。日本で進行する変化を認めようとすらしていない。過去の高度成長時の体験が忘れられないのか、多くの人が思考停止している。

もちろん、すべてがそうだとは思っていない。中には自ら挑戦してみようという所も出始めている。例えば、兵庫県にある八千代町は6000人足らずの人口で、ここにドイツ風のコテージを20件建てて、職員が頑張り売って歩いたら、「定年退職したら絶対八千代町に来たい」というウェイティングリストが25万人になっている。岩手県は農業ツーリズムという計画を立てて、3つの特区の申請をしている。農家のおばちゃんが盛岡へ迎えに行って、農家へ連れてきて、ご飯を食べさせたり、パンを作ったり農家の生活をいろいろと体験させる。盛岡駅に迎えに行き、農家で食事を提供すると当然、料金が必要なため、前者は、道路運送法の改正、後者は旅館業法の改正をしてもらわないといけない。それから、そこに住みたいという人には1000坪の農地を付けて田園生活をさせようとすると、農地法を変えないとできない。しかし、それが全部却下されてしまった。

つまり、やる気のある所は中央がつぶすし、声をかけてもやる気のない所は全く動かないというのが、今の日本の状況に思えてしかたがない。ここまで日本が構造的な転換を迫られ、自らの行動でしか「未来」は切り開けない局面なのに、多くの人はまだ何も困っていない。政府が何かをしてくれるといまだに期待している。そうした声をこれまで聞いていると、相当、この国が追い込まれないとそうした意識は変わらないのでは、という気持ちにさえなってくる。むしろ、日本の知識産業は何をしているのか、その点でも言論NPOは役割を果たしてほしいと思っている。


実態を無視した空虚なマクロ論議から決別を

こうしたミクロの実体に即した議論は全く不足しているのに、いまだに空虚なマクロの議論に多くの国民は酔っている。その方が、楽だからだ。だから、先のセーフティーネットの議論でも、ただ予算をつければ、問題は解決すると思い込んでいる。データもなくアイデアもない、中央と地方は全く連動もしておらず、予算さえ付けばいいと思っている。さらに言えば、特区の議論でも、確かにそれを全て却下する中央の官僚の保身意識は話しにならないが、重要なのは、つぶされたからそれができないというのではなくて、規制の中でもやる気さえあればそれが実現できるということだ。

先の農村ツーリズムで定住者を呼び込みたいという提案も本当にその3つの規制緩和が実現しなければ、できないかといったらそうではない。例えばどうしてもそれをやりたい人は2種免許を取り私設タクシーを堂々と運営し、農家が協同組合を作って旅館業の資格も取ってしまえばいい。農地法も変えなくても農家が賃貸料を取って貸せばいい。それだけのことだ。やる気さえあれば、規制改革がなくてもできることはいろいろある。規制緩和はそれに挑む行動があって初めて意味があるわけで、政府にそれを期待するだけでは状況は変えられない。要は民間や個人がやる気さえあれば大半のことが実現できる。それができた人間だけが起業家として成功している。

日本の今の苦悩は、基本的には国民の中にやる気がないことがもたらしていると、思っている。もちろん政府が悪いこともあるが、それを嘆いてもしょうがない。まず行動することが先決で、そうした精神が薄くなっているところに、日本の衰退がある。その上で、政府は市場原理が効果的に機能するよう環境整備と戦略的なセーフティーネットの構築に徹し、市場にできることは市場に任せるべきである。実態を無視した空虚なマクロ議論に費やす時間は、もう残されていないと考える。