安倍政権の100日評価 / 松本健一氏(全6話)

2007年3月09日

070309_matsumoto.jpg松本健一(評論家、麗澤大学国際経済学部教授)
まつもと・けんいち

1946年群馬県生まれ。東京大学経済学部卒業。京都精華大学教授を経て現職。主な研究分野は近・現代日本の精神史、アジア文化論。著書に『近代アジア精神史の試み』(1994、中央公論新社、1995年度アジア・太平洋賞受賞)、『日本の失敗 「第二の開国」と「大東亜戦争」』(1998、東洋経済新聞社)、『開国・維新』(1998、中央公論新社、2000年度吉田茂賞受賞)、『竹内好「日本のアジア主義」精読』(2000、岩波現代文庫)、『評伝 佐久間象山(上・下)』(2000、中央公論新社)、『民族と国家』(2002、PHP新書)、『丸山眞男 八・一五革命伝説』(2003、河出書房新社)、『評伝 北一輝(全5巻)』(2004、岩波書店、2005年度司馬遼太郎賞、毎日出版文化賞受賞)、『竹内好論』(2005、岩波現代文庫)、『泥の文明』(2006、新潮選書)など多数ある。


安第6話:「安倍総理に求められているのは『公』の中身を語ること」

世界がグローバル化していけば、ナショナル・アイデンティティーを問う動きが必須となり、それを明確に意識して打ち出していくメッセージ性のある、国家デザインと歴史哲学を持つ政治家が必要とされています。では、それに値するような人物がいるでしょうか。安倍さんは、問いを受けとめるところまでは正しかったという地点に来たのですが、答えを出し切れていない。教育基本法の改正や憲法改正まではいいのですが、新しい憲法をどうするのか、その中で出していく美しい国のイメージはどうなのかということを提示しなければなりません。

世界の中の日本は金融でやっていくのではなく、例えば美しい水田があり、GDPでは5%にもならないかもしれませんが、農村を中心としたコメづくりの風土を作って、それを守ってきた。しかし、今、地域のコミュニティーはほとんど崩壊している。実際に地方でタウンミーティングをやれば、当然、日本の地方の山村がどのように崩れ、日本の地方都市がいかにシャッター街になっているかが見えるはずですが、それは全部"やらせ"だったわけです。地方にお金がないなら、ボランティア制度のような形で緑や山林、田畑を守っていく、地方の崩壊に対してはこういう手当てをする。その人々にお金ではなく誇りをあげる。グローバル化の世界の中では、農業や林業、中小企業や地方の小商店は、国際資本に太刀打ちできない。しかし、国は彼らによって守られているのだ、と。そういう形で国民をエンカレッジしていくという形をとればいいのです。

しかし、安倍さんが国民に誇りを持たせるという形で路線を打ち出ても、その国民の思いをチャンネルとして吸い上げるのは官僚しかルートがなくなってしまった。安倍さんはステーツマンとしては有能だと言いますが、実務的な官僚が政府批判をする人々の意見はできるだけ避けておこうとする。教育再生会議など色々なことをするとしても、実際にそれを選ぶのが官僚になっている。つまり、小泉さんが「官から民へ」といいながら、官僚をそれだけ強くしてしまったのです。

それでも、リタイアする団塊の世代には、まだ知的な蓄積、スキルがあります。彼らは年金があるのですから、別に金は要らないわけです。この人々の金を、それぞれ趣味など好きなことをやって吐き出させて社会を活性化させるということを堺屋太一さんは主張していますが、私は違うと思います。戦後の我々の団塊の世代ぐらいまでは、戦後教育の中でみんな私のために生きろ、と教えられてきた。戦前は国家に命を捧げたのに対し、私の命を大事にし、私の権利を守り、私の利益を追求せよ、と教育された。それで団塊の世代が一応、家や車を持ち、家庭も持って子供たちにもいい生活をさせたわけです。それがリタイアする時点になったら、子供の教育がめちゃめちゃになっている。それまでは「私」のために働いてきたのだから、今度は自分たちが「公」教育にタッチし、崩壊しつつある地域社会を再生するために、自ら社会にボランティアで出ていくべきです。

「私」という字はノギヘンにムです。ノギとは、木の上に木の実が実っている、稲の茎の上に稲穂が実っている状態で、この収穫物は私1人だけのものであるとヒジを立てて主張するのが「私」という字です。ムは象形文字で、この字だけで「わたくし」と読みます。「公」というのは、ムの上にあるのが日本の数字で言うとハで末広がり、広げていくわけです。私がひとり占めすることに背いていくというのが、「公」という字です。団塊の世代は、私のために一生懸命ひとり占めする生き方をしてきて、それで年金をもらえるのですから、それをむしろ後生に開いていくべきです。

公教育が大切だと言っても、安倍さんが言っている限りにおいては国家権力に見えるわけです。戦前の滅私奉公に戻るのではないか、と。公教育とは何かということを懇切丁寧に説明したことがないからです。戦前の厭な記憶があったり、戦後は全て良かったのだ、と思っている人々にとってみれば、どうも不安になる。教育基本法にあった「個人の尊厳を重んじ」の、個人という言葉は日本語にはありません。日本語にある言葉は「私」という字です。ですから、日本人は全部「私」に収斂させて理解します。戦後教育の中で育った世代は、みんな「私」のために働いている。私の利益を追求して何が悪いんだということになる。ホリエモンも村上ファンドも。そうではなく、お前がそのように自由に利益を追求できるのは、安定した社会、法やルールが守られる社会があって、このために社会、国家がどのくらい力を使い、国民のみんながそれにいかに協力しているか。その協力なしには、私的な自由競争もできない。そうした社会や国家に対する統一した考え方で言われていません。

公教育を言う安倍さんの保守主義は、小泉さんの新自由主義と違って、政府はパブリックを大事にして救うべきものは救っていかなければならないという方針に当然につながってきます。小泉さんは公共事業を全部なくすという政策をとりましたが、それはおかしい、セーフティーネットをつくれという流れになっている。では、こうした方針を国家デザインの上でどうやって説明するのか。私は公共事業を復活させるべきだと思っています。しかし、それは今までのように道路をつくり、山村や山林、川の流れをつぶすというのではなく、むしろ美しい自然や風土に戻す。これは例えばドイツなどではやっているわけです。河川の護岸工事を必要なところには施すけれども、全体の川の流れは平野の中をゆったりと流れていくように、自然の土手の川の状態に戻していく、そのために公共事業をするわけです。

それは、どういう国が美しい国かというアイデアやデザインがない限りはできない。美しい日本をもう1度再構築するためには美しい自然が必要であり、それを守っていくという地域の公的な社会、つまり共同体、コミュニティーが必要である。それが作り上げてきた地域文化というものをもう1回取り戻すために国が金を使うという形でやっていい。保守主義なら、そういう国家デザインがなければだめです。確かに公共事業には談合がつきまとい、金は地元の建設業者に流れ、町長が建設業者の社長になっているような構造がありますが、コンクリートを使って公共事業をやるというのではない公共事業のやり方がある、ボランティアで年金世代、団塊の世代が出ていく、彼らには金を出す必要はないが、あなた方によって日本の誇りは再構築されるというようなメッセージ性があればいいのです。

安倍さんはスローガン的にはいいところを出していますが、では、公教育を復活させようというときの公というのは何なのか。戦前のような国家ではなく家族を守ってくれる地域社会であり、地域社会が守ってきた平和で美しい郷土である。ですから、パトリオティズムといえば祖国愛の前提として、郷土愛というものが大切になってくる。きちんと結びつきます。公の中身を語り、美しい国の中身を語るべきなのです。美しい国というものと公というもの、そして公的な公教育、全部つながっているのです。


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