有権者と政治の間に緊張感ある関係を
~東京都議会のヤジ騒動の本質とは何か~

2014年6月25日

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有権者と政治の間に緊張感ある関係を

聞き手:田中弥生氏 (言論NPO理事)


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田中:工藤さん、こんばんは。
今回、ぜひ工藤さんのご意見を伺いたいと思っていたことがあります。昨今、都議のセクハラ発言が問題になっています。メディアでも相当取り上げられていますし、犯人探しに躍起になっているようなところもあります。しかし、現状を見ていると、表面的な扱い方、理解でいいのかと迷うところもあり、モヤモヤしていました。

このあたりについて、政治やメディアの評価を行っている言論NPO代表の工藤さんのご意見をぜひ伺いたいと思うのですが、お願いできますか。


課題解決に挑む政治家をどのように見抜くか

工藤:私も詳しくニュースを見ているわけではないのですが、今回の件は非常に大きな問題だと思いますから、それがオープンになり、多くの人が日本の政治家の発言や品位、人権感覚などに気付くという大きなチャンスを得たということは、非常によかったのではないかと思います。

今回は大きく取り上げられて話題になりましたが、地方の議会も含めて、いろいろなヤジが飛んだり、同じような発言が公然化していて、あまり問題視されないような状況が多くあると思っています。デモクラシーというのは、カウンターバランスの問題であって、政治に対する有権者や市民の監視が機能しないと、政治が増長していってしまいます。そういった問題が、今回のような件を発端に出てきたことは、私たちが「デモクラシー」を考える上で、非常に大きなレッスンになったのではないでしょうか。

一方で考えなければいけないことは、こうした政治家の人権感覚、また、日本の少子高齢化によって人口減少が急速に進む中で、多くの人たちが支え合い、育児などの問題について考えていかなければいけない時に、それを茶化したり、個人的な問題に矮小化する。しかも、飲み屋で話しているようなことを議会の場でヤジとして発言してしまい、話題になった途端に「自分ではない」と嘘を言ってみる。そういったことが、私は政治家の一つの側面を見事に表しているように感じます。しかし、課題を抱えている人たちの心に寄り添い、そういう状況を意識した政治家でない限り、本当の意味で課題を解決できないわけです。しかし、有権者はそうした政治家を見抜くことは難しい。なぜなら、選挙の時はうまい話しかしなかったり、その人がどういう人格の人なのか、ということを見られない状況だからです。だからこそ、我々は政治家をきちんと見なければいけないだろうし、政治の舞台にも関心を持たないといけないと思います。

今回の件のように、人権感覚を持たないような政治家は多くいると思います。それを放置していくことは、これから日本がいろいろな課題を解決していくことにとっては非常にまずい状況なのだと感じました。いよいよ、政治家を監視するという動きを言論NPOもやっていかなければいけないな、と思っています。


田中:今の工藤さんの話を私なりに理解すると、「政治家にとって有権者や市民は怖いぞ」と思わせる一つの転機になり、それがきっかけになって、政治も動く。そして、それが問われているのは、一つは政治家の人権感覚。これは、「日本人の」と言ってもいいかもしれません。もう一つは政治家の品位です。こういったことを、有権者がウォッチしている、怖いのだぞ、ということをもう一度私たち有権者も理解する、認識する機会だったということですね。


日本が直面する課題に、有権者も自身の問題として向かい合う

工藤:少し話が飛んでしまいますが、ワシントンなどで国際会議に出席すると、日本の政治家の人権問題についてよく取り上げられます。特に、従軍慰安婦の問題について、日本の政治家が「戦争の時は誰でもやっているじゃないか」ということを、公然と発言していました。それに対して、「信じられない」という声があるわけです。確かに、戦争の時には日本だけに限らず、いろいろな出来事がありましたから、「日本だけが悪いわけではない」というのはその通りだと思います。しかし、世界が気にしているのはそういうことではなくて、「だからこそそんな悲惨な戦争をしてはいけないのだ」という議論なのです。つまり、「戦争だったら当然だ」ということではなくて、「だからこそ戦争は絶対にしない」ということに、どれだけ政治家が信念を持って取り組めるのか、ということだと思います。

にもかかわらず、政治家の口からポロッとそういう話が出たら、これはとある国の宣伝戦の結果だと言い張る。確かに、ワシントンでも中国、韓国のロビイングなどは凄いものがあり、そういう側面はあるとは思います。ただ、その声を、ある意味で客観視してみる力が、日本人には必要だと思います。
しかし、そういう思いを感じながら日本に帰ってきて永田町に近づくと、何か感覚が違うのです。中には有権者や市民という普通の感覚を持っている政治家もいますが、多くの政治家からは普通の感覚とは違う空気を感じます。そういった空気を変えていくには、市民側が政治を監視し、有権者と政治家のカウンターバランスしかないと思います。

だから、今回、メディアがいろいろな形で取り上げたことで世論を変え、政治家への大きなプレッシャーとなりました。しかし、こういうことは熱しやすく冷めやすいために、時間が経てば何事もなかったかのような状況になってしまいます。しかし、そうではなくて、人権を軽視したり、セクハラ的な発言は許さないのだ、という世論をつくっていくことも我々の力だと思います。メディアは何か問題があればワッと寄ってくるのですが、そうではなくて、これを機会に議会に行って首長や議員の発言を聞いてみよう、と発展していく。そうしたことを通じて有権者や市民が、日本が直面する課題に対して、自分の問題として向かい合うような流れができればいいなと思いますし、そうした議論をつくっていくべきだと思います。

田中:今、工藤さんから、日本の人権感覚は国際的な感覚からずれている、という指摘がありました。今回はセクハラ発言として表面に出てきていますが、根底にあるのは日本人の国際的な感覚を踏まえた人権感覚や認識不足、という甘さがある。その甘さというのは、今回の問題以外でも、いろいろと出てくるということですね。

工藤:企業社会では、セクハラやパワハラの発言や行為は非常に重要視されています。
しかし、政治の世界では、そういうプレッシャーが今、あるのでしょうか。つまり、政治の世界は企業とは違い、そういったルール化もなされていない。だから、それを監視して、次の選挙の際にそういう政治家には任せられない、と有権者が判断していく。だからこそ、有権者と政治家の間には緊張感が必要なのです。いよいよ政治の世界に、そういう風な、ある意味でのデモクラシーや規律というものを取り戻すための大きなタイミングにきていると思います。

田中:今までは政治を中心にお話をしていただきました。もう一つの問題である、メディアの対応の仕方についてもお伺いしたいと思います。現時点では、他にも犯人がいるのだという犯人探しが議論の中心になっていますが、こうした報道の在り方について、工藤さんはどのようにお考えでしょうか。


有権者側に立ち、民主主義を支えるためのメディア報道に期待

工藤:まだ犯人が分かっていないので、それを追及する必要はあると思います。少なくともメディア側は、この状況を国民に知らせるという点では非常にいい仕事をしていると思います。ただ、これが行き過ぎてしまったり、時間が過ぎてしまうと何事もなかったかのようになってしまう。つまり、何のために報道しているのか、ということをメディア側には考えてほしいわけです。単に人を追及したりするだけではなく、そういう風な環境を許さないような民主主義の風土や仕組みをつくっていこうという形に議論が発展しなければいけない。メディア報道はそこまで見据えた動きをしていかなければいけないと思います。

この社会は民主主義という制度をとっている以上、有権者が政治を選ぶのです。だから、メディアは有権者側に立つべきだと思いますし、民主主義を支える意味でのメディア報道の在り方に、私は期待したいと思います。

田中:ある意味、大局観を持ってこの事件をとらえて報道してほしということですね。

工藤:そうですね。言論NPOもいろいろな形で、そういう風なことが実現できるような仕組みをつくらなければ、と思っています。ただ、私も現場に出て、いろいろな人たちの議論を見たり、日本全国の議会をみんなで見ようとか、そういう動きを始められないかと思っています。私たちは政策評価を通じてやることになると思いますが、いろいろな人たちと連携したいと思っています。日本の民主主義を強くし、鍛えていくためにもこういう機会を大事にして、動きを始められないかと思っています。

田中:何かモヤモヤしていたものに対して、一つ答えをだしていただいたように思います。ありがとうございました。