深川由起子氏 第3話:「無為な時間は巨大なコストである」

2006年2月28日

「無為な時間は巨大なコストである」

 思考停止と突然の行動によって一貫性欠落が許容されてしまう背景には、「それでも何とかなるし、何とかなってきたではないか」という茫漠とした、しかし実は根強い日本的思い込みが指摘できると思います。そしてこの思い込みは景気回復によってさらに強まった感じがします。小泉政権は「失われた10年」間の閉塞状態を打破するために既存秩序の破壊を続け、民間はこの間、市場に追われて努力を続けてきました。

 "小泉劇場"が繰り出す驚きは次第にこれまでとは「違うやり方で進むのではないか」という市場の期待や圧力を強め、小出しの政策で市場を幻滅し続けた過去とは異なるダイナミズムを生んできたことは否めないと思います。

 新興経済とは異なって市場の調整機能が高ければ、また逆にそれだけ成熟化が進んでいれば、計算し尽くさない破壊が何らかの突破口になる可能性は存在するかもしれません。日本の場合、深刻だが経済危機は緩慢に進行したので、低温火傷の傷口が大きく広がったような状態になっており、何らかの危機意識を取り戻す意味でショックが必要とされていたともいえるでしょう。

 破壊と持続する改革とは別物であり、確かに行きすぎた成果主義、短期思考主義はライブドア事件などの副作用を伴うこととなりました。しかし、破壊によって「既存のやり方ではもうダメだ」ということについてはかなりコンセンサスができ、破壊前に戻ることは非現実的です。日本的プラグマティズムの強さのひとつは「そういうことになったのだ」というコンセンサスが広がると、「それではもう四の五の言うのではなく、このやり方をみんなで盛り立てて成功させようではないか」という方向に働き、高い転換能力が発揮されることです。

 いったん決まれば営々として努力するソフトウェアまではまだ壊れていないでしょう。郵政民営化といっても金融部門があるので、製造業的な勤勉、営々さが下から支えるのでは限界があり、より戦略的な展開を考えるトップダウンが必要です。しかし「そういうことになったのだ」という割り切りがあれば、しがらみに囚われず、資質の高い人を登用してやってゆくことにやがて、それほどの抵抗はなくなると思います。

 しかしながら、市場が存在する経済と、相手のある外交はやはり違います。とりわけ80年代の日米関係などとは異なり、相手が先進国でも、体制を共有する国でもなく、戦争や植民地支配、という歴史の負の遺産を背負っているのであれば、破壊後に自動的に修復バネが働くなどということを期待してはなりません。破壊は単なる破壊に過ぎず、バイの破壊がマルチの外交制約になって自らの首を絞めるようになってはどうしようもないのです。

 小泉首相は長期的には、中国も韓国もアジアも我々を理解するはず、と繰り返して来ましたが、果たして何を根拠にそう言うのか、論理的に国民に説明したことは皆無です。分かってくれるはずだとか、分かって欲しいと相手に要求するのであれば、少なくとも自分も何故、相手があそこまでの反応を見せるのか深く理解した上で、そう行動するべきです。それさえもない、理解不能な頑なさは、ついに頼みの米国までを不安にさせることになりました。不幸なことに日本が強硬な姿勢の間、相手にはそれなりに「このままではまずい」という危機意識を持ち、いろいろな外交的働きかけをした、という記憶だけを持っています。このため、それだけ努力したのに、ことごとく無視された、という感情論がしこりとなって膨れ上がる一方でただ時間だけが過ぎて来ました。しかも時間が過ぎていくことがプラスであるという、明確な戦略があるならまだしも、それもさえもなかったわけで、無為の時間はバイの破壊をマルチに拡大させることになりました。


※第4話は3/2(木)に掲載します。

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発言者

深川由起子氏深川由起子(東京大学大学院総合文化研究科・教養学部教授)
ふかがわ・ゆきこ

早稲田大学大学院商学研究科博士課程修了。日本貿易振興会海外調査部、(株)長銀総合研究所主任研究員等を経て、98年より現職。2000年に経済産業研究所ファカルティ・フェローを兼任。米国コロンビア大学日本経済研究センター客員研究員等を務める。主な著書に『韓国のしくみ』(中経出版)、『韓国・先進国経済論』(日本経済新聞社)、などがある。

 思考停止と突然の行動によって一貫性欠落が許容されてしまう背景には、「それでも何とかなるし、何とかなってきたではないか」という茫漠とした、しかし実は根強い日本的思い込みが指摘できると思います。そしてこの思い込みは景気回復によってさらに強まった感じがします。