【メディア評価】岡本薫氏 第2話「報道の"在るべからざる姿"についての私の考え」

2006年5月31日

0605m_okamoto.jpg岡本 薫(政策研究大学院大学教授・前文部科学省課長)
おかもと・かおる

東京大学理学部卒 OECD科学技術政策課研究員、文化庁課長、OECD教育研究革新センター研究員、文科省課長などを経て、2006年1月から現職。専門はコロロジー(地域地理学)で、これまで81か国を歴訪。著書に『日本を滅ぼす教育論議』(講談社現代新書)、『著作権の考え方』(岩波新書)など。


報道の「在るべからざる姿」についての私の考え

 このように私は、「憲法ルール」のみを前提とします(あらゆる超憲法的な価値観・倫理観等の普遍性を否定します)ので、憲法ルールに従えば「相対的なもの」である「報道の在るべき姿」を前提とした論評はいたしません。では、何を前提とした論評をするかというと、「報道の在るべからざる姿」=「憲法ルール違反」を基準にした論評です。ルール違反は、相対的なものではありません。

 憲法ルールについて私が特に重要と考え、このブログでの一貫したテーマとするのは、①「民主主義」の手続きを経て「すべての人々を拘束するルール(法律等)」とされているものと、②「自由」の対象として「各人の自由(思想信条・幸福追求等)」とされているものとを、厳格に区別するということです。

 憲法ルールのもとでは、①「内心」は完全に自由であり、②「行動」も(ルール違反=法律違反でない限り)自由です。

 ところが日本では、「自分の思想」を独善的に絶対視して、①他人の内心(思想・信条・良心・価値観・倫理観等)を悪と決めつけて「意識改革が必要」などという主張が安易に行われたり、②「ルール違反でない行動をすること」や「ルールで義務化されていない行動をしないこと」を悪と決めつけるような主張が、極めて広範に見られます。

 こうしたことは、日本で広く見られる「モラルとルールの混同」に象徴されるように、前記の「ルールとされているもの」と「自由であるもの」の区別がついていないという、「ルール感覚の欠如」(逆に言えば、「自由に関する感覚の欠如」)が生み出したものです。ルールで説明がつかなくなると、苦し紛れに「道義的責任」などといったものが独善的に振り回されるのも日本の特徴ですが、これも典型的な「モラルとルールの混同」です。

 日本の社会は、野球に例えて言うと、「ちゃんとルールがあるのに、監督同士がお互いの顔を立てて一方が勝ちすぎないように談合している」「三振しているのに『ルールの方がおかしい』と言ってバッターボックスに居座っている人がいる」「盗塁に失敗してアウトになっているのに『こんなにガンバッたんだからセーフにしてやろうよ』という意見が通ってしまう」「スクイズすると『卑怯だ!』と言われる」「牽制球を投げると『思いやりがない』と言われる」ような社会です。

 この野球のたとえを聞くと笑う人が多いのですが、実際には、「ルール違反をしていないのに非難される」(例えば、ヒューザーの社長が国・自治体を提訴したこと)とか、「ルール違反なのに非難されない」(例えば、どう見てもテロである忠臣蔵)といったことは、この国では極めて多く見られます。ルールだけですべてうまくいくとは言いませんが、「ルールとモラルの混同」があまりに広く見られる日本においては、「一度、ちゃんとルールどおりにやってみよう。それでうまくいかなかったら、ルールを変えよう」というのが、私の考えです。

 このような「ルール感覚の欠如」が、日本のマスコミによって助長されているというのが、私の問題意識です。具体的には、既に述べた、①自由である他人の「内心」を悪と決めつけた憲法違反の主張、②「ルール違反でない行動をすること」や「ルールで義務化されていない行動をしないこと」を悪と決めつける憲法違反の主張、などに焦点を絞って今後論評していきます。

 なお、報道されているテーマそのものに関する問題と、報道のしかたという問題の混同を避けるため、私はあえて、外交、防衛、経済、財政、福祉、環境、教育など、大きな問題を扱った報道はなるべく取り上げず、むしろそうした問題以外のテーマに関する報道を例として、前記の問題を指摘していく予定です。


※第3話は6/2(金)に掲載します。

このように私は、「憲法ルール」のみを前提とします(あらゆる超憲法的な価値観・倫理観等の普遍性を否定します)ので、憲法ルールに従えば「相対的なもの」である「報道の在るべき姿」を前提とした論評はいたしません。では、何を前提とした論評をするかというと...