国際社会からみた日本

2011年11月27日

2011年11月22日(火)収録
出演者:
黒川清氏(政策研究大学院大学教授)
松浦晃一郎氏(日仏会館理事長、前ユネスコ事務局長)

司会者:
工藤泰志(言論NPO代表)

第1部:ジャパン・ミッシングまで低下した外国の日本観

 工藤:こんばんは。言論NPO代表の工藤泰志です。さて、今夜の言論スタジオは、「国際社会から見た日本」というテーマで話をしたいと思います。実は、昨日、私たち言論NPOは10周年を迎えました。10年前、私たちは国際社会の中で日本の存在感が薄れているのではないか、と。姿も顔も見えない、声も聞こえないのではないか、その状況を変えて、日本が未来に向かってきちんと動き出そうということを言論の力でやろうということで、私たちは議論を始めました。さて、それから10年経って、国際社会の中で日本は今どのようにみられ、私たちは世界や、これからの未来のために何を考えなければいけないのかということについて、今日は話をしたいと思います。

まず私の隣は、かつては日本学術会議の会長も務められ、今は政策研究大学院大学の教授をされている黒川清さんです。黒川さん、よろしくお願いします。

 黒川:よろしくお願いします。


工藤:そのお隣が、前のユネスコの事務局長で、今は日仏会館の理事長の松浦晃一郎さんです。松浦さん、今日はよろしくお願いします。

 松浦:よろしくお願いします。


工藤:それで、今日はお二方の紹介も兼ねながら、第1セッションの議論を進めていきたいと思っております。まずは黒川さんですが、私は黒川さんのことをよく知っているのですが、東大の医学部を出て、それからアメリカに行って、留学だと思ったら、そこに住み込んで勉強されて、最終的にアメリカの大学の医学部の教授をされながら、15年間くらいアメリカにいて日本に戻ってきたのですよね。そして、日本の学術会議のトップの会長になられて、まさに世界をいつも駆け回っているのです。まさに国際社会の中のプロフェッショナルみたいな方なのです。まず黒川さんから見て、自分の経験を踏まえて、世界から今の日本がどう見られているのか、簡単に話していただけますか。


日本の学生は優秀だけど...

黒川:私は確かに今工藤さんが言ったみたいに、15年、医者としてアメリカにいました。最初は2、3年研究したら帰ってくるつもりでいたのですけれども、面白いからそのままいてしまったのです。行ってみると、自分の根元がなくなってしまうわけですから、完全に独立した個人です。そうすると競争相手は、向こうのお医者さんです。そうなると私は資格もないから、30代半ばから猛烈に勉強してというか、いろいろな書類を出して受けさせてもらう。とにかく、カリフォルニア州の医師免許、それからアメリカの内科専門医の資格とか、腎臓内科の専門医の資格を全部取りました。それで初めて本当に競争できるわけです。その間に4回場所を変わって、最終的にはUCLAの内科の教授になりました。その時ちょうど10年でした。アメリカはやはりフェアだなと思ったのは、自分が頑張り、それなりにクオリファイされれば、そいいう生き方もできる、からです。非常にハッピーでした。

アメリカに15年いて、日本でも「そういう人が必要だよ」なんて友達に誘われて、日本では教授にはしてくれないから、米国では現役の内科の教授でしたが、東大の助教授で帰りました。帰ってきて私が感じたことは、日本の学生はすごく優秀で、どこにも負けないよ、と。だけれども、社会に出て、医者でも皆そうですけど、30代半ば過ぎると、皆、眼が曇っているような、元気がなくなる。それはよくないなと思って、いろいろな教育が一番大事だと思って、そのころから、もっぱら、将来の1つとして、外を見せる、つまり私のいろいろな講義や何かもそうだけれど、できるだけアメリカやイギリスの友達とか、いろいろな人たちを呼んできて一緒にやろうというような話をずいぶんとやっていたので、東大教授にもなりました。

実際は言ってみても何も変わらないということで、定年前にちょうど良い話があったので、東海大学医学部長として移って、そこでいろいろなことをやらせてもらって、そのあと、学術会議の会長に選ばれた。ちょうど法律改正という節目の時でしたね。私は20数年前に帰ったのだけれど、やっていること、言っていること、書いていること、全てが変わっていません。世の中が変わったので、私がそういうふうな人であること、それが普通だなということになったのではないでしょうか。海外に行くと変な日本人といわれているのだけれども。

工藤:僕は黒川さんと10年前にお会いしたのですけれど、全然、見かけが変わっていませんよね。何でこう若いのだろうと思うのですけど。またあとから聞きます。

続いて、松浦さんにうかがいます。著書『国際人のすすめ』を私も読みました。大使を含めて15年間パリにいて、ユネスコの事務総長にもなった。まさに競争と投票ですよね。日本のスタッフを連れて行かなくて、まさに1人でというか、ユネスコの改革をやって日本に戻ってきた。これもまたすごいと思ったのですが、日本に帰ってきて、国際社会から見た日本、どんなふうに思っていますか。


過去10年、日本の海外への発信力は下がっている

松浦:非常に残念ですけれども、最初、工藤さんが言われたように、言論NPOの立ち上げ以来から、本当にいいタイミングで立ち上げられたと思うのですが、日本の発信力は、この10年、いろいろな方のご努力にもかかわらず、下がってきています。

日本社会で今、大きな、いろいろな問題を抱えている。政治家も、経済界の人も、申し訳ないけれど学者のかなりの方も、そういう国内の問題をどう解決するかということに重点を置いています。もちろん、それぞれの国内の問題は外国の問題と関連があるわけですけれども、それを国際社会に発信する、それも単に日本が色々抱えている問題について発信するのではなくて、国際的な問題について日本がどう考えているかということをしっかり発信しなくてはいけない。それに加え、残念ながらこの10年、全体として発信力が下がっている。10年間、私はユネスコの事務局長として世界中を飛び回って、190か国以上見ましたけれども、残念ながらこれが私の結論です。

ただ、それに付け足したいのは、日本の一般的なイメージはまだまだ良いです。私はユネスコの10年の前に、外交官を40年勤めましたけれども、1960年代にさかのぼれば、日本の国際的なイメージは残念ながらよくなかったです。日本はそういう意味で、先進国の仲間入り、それを象徴するOECDに入りましたけれども、当時はまだまだ実態は先進国ではなくて、イメージとしても日本製品というのは「安いけど、質が悪い」、と。いろいろな意味で日本はまだまだ今の言葉でいえば、途上国の一員という感じでした。そうだというふうには当時は言われていませんでしたけれども。ところが色々な方の努力によって、日本の所得倍増、2回の石油危機の克服等で、日本の躍進はGDPでもドイツを追い越して、イメージが非常によくなって、それで90年代はそのイメージで非常に助けられていました。

ところが実態はどんどん悪くなって、発信力も国際的意識も下がっている。イメージは幸いにして残っているのですけど、このイメージはそう長続きするとは思いません。ですから、国内の問題もしっかりと解決してほしいと申しました。ただ、一つひとつ大変ですから、全ては解決できないでしょうけど、そういう国内の問題に取り組みながら、やはり国際問題については、地域の重要な問題も含めてですけれども、日本が自分の考えをしっかり海外に発信していくことにもっと力を入れないといけないと思います。

工藤:松浦さんが日本に戻ってきたのはいつですか。

松浦:日本に戻ってきたのは、2010年の初めです。ユネスコの事務局長が終わったのが2009年の終わりです。

工藤:黒川さんはもっと前から日本にいましたよね。
黒川:そうです。1983年の暮れ。大昔です。

工藤:10年前、日本が素通りされたり、日本が地図から消えたとか、そういうことが海外のメディアで言われていました。発信力なり、存在が見えない、と。そのときにこれはまずいと思ったのですが、それから10年、日本はどんどん内向きの、改革が逆にできなくなって後退していたのですが、黒川さんはまさにその時に日本に戻っていらっしゃった。日本はどうですか。変わったというのは、どんどん逆にまずくなったってことですか。


最近はジャパン・ミッシングに

黒川:会社の出張で10年いても、それは常に本社を見ているわけです。個人の資格で海外に長く生活している人が少ないのです。個人の資格というのは、他の競争相手と比べられるわけだから、そうすると、突然みんな日本人だから日本のことが外からよく見えるのです。僕が行っている頃は、ベトナム戦争が終わったとか、ボートピープルを何で日本人は受け入れないのか、向こうから見ていると、どう見たって日本はアジアの一部なのに、何でアジア人に対してこう冷たいのかって思うではないですか。日本に帰ってきてみると、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」になっているでしょ。だから、それで、ジャパン・バッシングが起こったわけです。デトロイトで車を叩き割ったりとかして。

だけど、90年になって冷戦が終わって、91年、いまからちょうど20年前、インターネットが「www(ワールド・ワイド・ウェブ)」で皆つながり始めた。その時、日本はコンピュータをつくっていたのだけど、その変化に気がつかなかったのです。それまで成功していたので、だんだん90年代から工藤さんの始めたころまでの間に、ジャパンパッシングになったのです。新しい技術が出てきて、どんどんアジアも成長してきて、特に台湾とかが上がってきたのが90年代。21世紀になったらば、もう大きく世界が変わって、その初めに9.11が起こった。日本ではいったい何が起こったかというと、相変わらず保守的というか、それで良いと思って、今までの成功物語に何となく傲慢になってしまった人達がだんだん年功序列で上がってきて、ジャパン・オールモスト・ナッシングになってしまった。イスラムとかクリスチャンとか色々あったけれど、そのあとのここ数年は、日本は世界で2番目のGDPにもかかわらず、ほとんど発信がなくて元気がない。最近は、「どうしたの」と聞いても返事が出てこない。「ジャパンミッシング」になったなと私は思っています。実を言うと数年前に、私は書いたのだけど、こういう状況ですよ、ミッシング。言っても返事がない。

工藤:松浦さん、僕はこの本を読んで、正確には覚えていないのですが、何か日本では「長話をするな」とか、「自慢するな」とか、何か3つくらい先輩に教わった教えがあったと、告白していました。逆に国連、国際組織に行ったら、その反対だとか。つまり日本で松浦さんみたいなサムライの言っていたことが国際社会で通用した。非常に尊敬されたというのがあったではないですか。


日本の官僚の3原則と逆のことをやらねば

松浦:私自身はまさに日本の外交官で、日本の官僚の一員ですから、「長話はするな」、それから「自慢話はするな」、「責任から逃げるな」と、こういう3原則を先輩から教わった。日本の官僚組織ではその通りで、おそらく民間会社もそうだと思いますけど、ともかく国際社会に行くと、話は逆になる。逆に、「長話をしろ」と。長話というのは、本当は表現として適切ではないですけど、やはりしっかりとしたプレゼンテーションをするということが非常に重要になってくる。簡潔に言うのではなくて、自分のポイント、言いたいことをしっかりと言う。もちろんそれは英語なり、外国語でやらなくてはいけませんけど、言いたいことは言う。それから「成功した自慢話をする」となる。これも、裏返しで自慢話をしろということではないけど、やはりしっかり自分がやってきたこと、あるいは日本がしっかりやっていることを説明しなくてはいけない。最後の「責任から逃げるな」も「責任を認めるな」となる。これも私自身も非常にひっかかったし、これはユネスコでは責任をとるということをやって、これは逆に国際社会の一般で言われていることと反することをやったけれども、これは良かった、と。

私の部下が、幹部が責任を取らないことを言うのですよ。私はそこを徹底的に追求しましたけど。とにかく教育担当の事務局長を辞任に追い込んだりしていますけど、私はやはり、責任はしっかりとらせないといけないと思います。

日本に帰ってきて困るのは、今度逆のことをやらなくては、元に戻らなくてはいけないけれど、なかなか元に戻れないという、そこが難しいところです。

工藤:責任をとるというのは、日本の社会でもあまりしませんよね。


3.11で世界がわかった日本の強みと弱み

黒川:実は東日本大震災と福島の原発というのは、特に福島の話は世界に大きなインパクトを与えた。問題は、これにどう対応したかですよ。今のネットの時代も、テレビの時代も、世界中が皆コミュニケートしているときに、あんな大事件に日本の対応、テレビに政府のコメントが出る、日本語でしゃべったってすぐに訳されて、すぐに外に出ますから、世界はそれをみている。その時の国の評価です。そこに出てくる人は皆、政・産・官のトップの人たちでしょう。これで、「ああ、そうなのだ」ということが皆に分かってしまった。日本の強さと弱さがくっきり世界に分かったということです。

工藤:ということは、松浦さんはその意味では、しっかりとした日本の強みを体現された方で...

黒川:強みを体現したというか、ユネスコの事務局長なので、アメリカをユネスコに入れるということをやった。こういう話は国の背景もあるかもしれないけれども、本人の能力ですよ。いったい何が大事かという交渉力を示した。1期の松浦さんがそれを達成された後に再選されたのは、そういう大きなインパクトがあったのだと思います。

工藤:はい、わかりました。これでなんとなく、お二方の人となりが分かったので、次からしっかりした議論に進めたいと思います。

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放送に先立ち緊急に行ったアンケート結果を公表します。ご協力ありがとうございました。
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