【NPO・NGOが語る特別座談会】強い市民社会への「良循環」をつくり出す

2010年3月26日


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参加者: 片山信彦氏(ワールド・ビジョン・ジャパン常務理事・事務局長)
      加藤志保氏(チャイルドライン支援センター事務局長)
      関尚士氏(シャンティ国際ボランティア会事務局長)
      多田千尋氏(東京おもちゃ美術館館長、日本グッド・トイ委員会代表)
      堀江良彰氏(難民を助ける会事務局長)
      田中弥生氏(大学評価・学位授与機構准教授、言論NPO監事)
司会: 工藤泰志(言論NPO代表)

第2部 「新しい公共」と「エクセレントNPO」

第1話 非営利組織に求められる変化とは

工藤泰志工藤泰志 今回は「強い市民社会」をつくるために、非営利セクターはどう変わらなくてはいけないのかについて皆さんとお話ししたいと思います。
 さて、日本では本格的な政権交代がありました。鳩山首相は国会での演説の中で「新しい公共」という概念を提案しています。この概念自体は新しいものではありませんが、市民が公共を担うという姿は私たちが考えてきた「強い市民社会」のイメージに近いものです。そこで今回はここから議論を始めたいと思います。皆さんが考える「強い市民社会」を実現するためには何が必要なのでしょうか。

「強い市民社会」とは何か

田中弥生氏田中弥生 私は、所信表明演説の全文を見て、「新しい風が来たな」と思いました。「新しい公共」という言葉は小泉内閣の頃からあったのですが、それはストレートに申し上げると、公共部門、政府ゾーンのアウトソーシングだったわけです。行政業務の「減量」ということですね。しかし今回の鳩山首相は、「政府がすべきことは政府がやります。でもそれだけでは足りないので、市民の皆さんが自分たちで支え合ってやるというところも、ちゃんとつくってください」と言っています。これはまさしく市民社会にあたるところなので、これまでとはまったく違う次元の、「新しい公共」だなと思いました。
 ただ、1点気になるのは、こうした概念を政策のレベルでどう動かすか、についてその全体設計が見えないことです。市民社会をどう強いものとするか、これはお金を配ればいいというものではないわけです。一方で、前回の私たちの議論でもあったように、NPO法ができてからの11年で日本の市民社会が強くなったかというと、必ずしもそうではないわけです。実践者として日本社会の様々な課題に向き合っておられる皆さんに、では「強い市民社会」とは一体どんなものなのかについてお話を伺いたいと思います。

加藤志保氏加藤志保 「強い市民社会」のイメージというのは非常に難しいと思います。理想を言えば、自分に日々降りかかってくる問題や受けているサービスがどういうセクターから、どのような経路をたどって来ているのかを認識できるのが賢い市民であり、「強い市民社会」とはそのような市民の集合体なのだろうと思います。しかし、この理想はちょっと高すぎるのかなという気もします。
 この10年間、子どもをケアするNPOとして、日本全国のネットワーク化を図りながら活動してきた経験から言いますと、非営利セクターがコーディネータとして強くなるということが、そうした市民社会への誘導になるのではないかと思います。それが、この座談会や非営利組織評価基準検討会に参加してきた過程の中で、私が到達しているひとつの答えです。ひとりひとりの強さや賢さを求めるよりも、皆さんがそれとは気づかずに、潜在的に持っている力を引き出してコーディネートしていけるような、法人格を持つ強い団体が育っていくことで底上げになっていくこともあるでしょう。その結果、気がついたら、市民社会の中の一市民として何かの役割を果たしていた、ということも出てくるのかなと感じています。

田中 誰と誰の間をコーディネートするのですか。

加藤 ひとつは、「何かしたいな」という意識や、「何かがおかしい」という意識を持っている人、それから何かに苦しんでいる人たちなどを含めて、すでに何かに気づいている人たち、というイメージです。

田中 つまり、人と人とを繋ぐという意味のコーディネータですね。それは中間支援組織というのとはちょっと意味合いが違いますね。

加藤 そうです。組織と組織を繋ぐというよりはもう少し幅の広いものをイメージしています。

堀江良彰氏堀江良彰 私は「強い市民社会」とか「新しい公共」とかいうときに、非営利セクターに問われるのは課題を発見していく力、だと思っています。私たちの活動で言えば、インドシナ難民の問題が起こったとき、あるいは地雷の問題があったときに、それまで誰も声をあげていなかったけれども、声に出して「それが問題だ」ということを認識してもらうこと、その問題意識を広めていくことが非営利組織のひとつの役割なのではないかと考えています。営利の世界からはどうしてもこぼれ落ちてしまう人々、陽が当たらない人々が持っている課題を見つけ、それを解決していく。もちろん個別に支援を行うということもあるでしょうし、その問題を顕在化させていくというのもひとつの方法だと思います。そういう非営利セクターの機能が有効に働くような社会が、「強い市民社会」なのではないでしょうか。政府ができることは政府がやればいいし、企業ができることは企業がやればいいのだと思います。そうはいっても政府でも企業でもできないものが必ず出てきてしまう。その部分を担っていくことが、非営利セクターに求められる役割なのでしょう。

官が担う「公」の限界と市民の「気づき」

関尚士氏関尚士 先ほど田中先生から、かつての政権でも「新しい公共のあり方」ということが確かに言われていて、しかしそれはアウトソーシングであったというお話がありました。今回の首相の演説の中に、新たな変革の期待を感じると。しかし正直なところ、まだ私にはそこまで判断はできません。ただ、前政権と明らかに異なる視点として盛り込まれているのが「自立と共生」ですね。その真意というか、それが実体を伴ったものなのかどうかについては判断できない部分も多いですが、少なくともそこにポイントが置かれています。見方を変えれば、今までの官が担う「公」に頼った社会が一種の限界を迎える中で、市民が担う「公」の部分にそういうメッセージが投げかけられているということなのではないでしょうか。市民側がその「気づき」をどこまで培っていけるかということがカギになると思います。官の側としては、財政の逼迫という要因もありますし、前回のアウトソーシングなどはまさにそのような力学が働いた結果出てきたものだと思います。
 本来的な意味での公助、共助、自助の役割をそれぞれがどう認識して担っていくのか。NGOやNPO、社会としてそれを促す役割を担う部分がある一方で、田中先生もご指摘されましたが、教育とか各々のセクター、コミュニティ、企業の中で新たな価値観をどう生み出していけるのかも重要なことだと思います。政治の世界から、上からそういう話を降ろしていくだけでは不十分で、市民の「気づき」がそれぞれの生活のステージの中で生み出されるような循環を起こしていかない限り、それは難しいと思います。身近なものとして教育などがありますし、ワークライフバランスなども近年言われるようになってきましたが、そういったものをさらに加速していくような動きも必要でしょう。そういう流れがある中でこそ「自立と共生の社会」がつくられていくはずです。

工藤 かなり本質的な論点の提起がされたように思います。つまり、今の政権の「新しい公共」の提起は、政治のメッセージであり、市民がそれを提起したわけではない、ということです。市民がそれに「気づき」、自らが自発的に「公」を担う動きと結びつかない限り、ここで想定された市民社会は実現できない、という意見です。

片山信彦氏片山信彦 「強い市民社会」というときにまず私がイメージするのは「民主的な社会」です。私は国際協力を行うNGOで活動していますが、軍事政権とか、紛争状態で政府が正常に機能していないような中に育っている市民社会というのはとても弱いのです。ですから、まず民主的であるということは重要だと思っています。具体的にどういうことかというと、ひとつは制度として、仕組みとして民主的でなければいけないということだろうと思います。誰でも声を上げられるとか、弱い人の権利が守られるとか、制度としてそういうものが整っているということです。この点だけで見れば、日本は非常に民主的な国だと言えます。制度も整備されているし、強圧的な政府というわけでもないのですから。しかしもうひとつ、市民ひとりひとりの意識とか行動が民主的であるかどうか、ということも大きいと思います。
 最初の議論に戻りますが、国がいろいろなことをやってくれる社会において、「自分たちは制度によって守られているのだからいいや」というのでは、民主的であるということにはなりません。自分たちで自分たちのコミュニティや社会をつくっているという意識があれば、当然そこに自分たちの声を反映させたいと思うだろうし、嫌なことは嫌だと言いたいし、「こういう問題を何とかしてほしい」という声を上げようとする意識を持つようになるはずです。つまり、市民側にしっかりとした意識があって、それを支えるようなシステムや仕組みがあるという、この2つがそろっていることが「民主的である」ということなのだろうと思います。そしてそういう社会をつくっていくためには、何かの制度ができたから「ハイ終わり」ということではなくて、常に取り組んでいく必要があります。「強い市民社会」を目指して常に変わっていく、変革をし続けられるような社会が強い社会なのではないかと思います。

工藤 こういう切り口で議論ができるというのは非常にいいことだと思います。民主的な社会は市民が当事者として参加する社会だと思います。ただ、政治はそうした市民に向かい合うからこそ、市民もいろいろなことに気づく、ということもあります。アメリカの選挙でオバマ政権が誕生したときには、市場主義に基づく過度な競争社会が世界的な金融危機に繋がり、極端な格差の拡大と貧困が地域にもおよび、国民間が分断されてしまうというどうしようもない状況でした。彼はそこで、皆で国を一緒に立て直そうと市民に訴え、「私たちにはそれができる」と呼びかけたわけです。その後、オバマ政権は大変な苦境に立たされていますが、選挙のときの感動は本物だった。それと比べると、今回の鳩山首相の演説での呼びかけは明らかに姿勢が違います。選挙では、「新たな公共」や、「自立と共生」を有権者に求めるそうした呼びかけもなかった。

市民の自発性こそが大切

工藤 少し見方を変えてみますが、政府と市民の関係で言えば、今までも「官の限界」は明らかでした。それを補ったのは、政府や行政の外延化の動きです。公共を担う動きは自発的な市民に任されたのではなく、行政が官の周辺に出て外郭団体をつくって対応しただけです。それが天下りの問題になるのです。やがてそれも組織の維持だけが自己目的化するようになり、社会の課題に応えることができなくなってしまう。
 一方で、市民側でも多くの非営利組織が経営基盤の不安定さもあり、行政の委託の循環に落ち込み、下請け化の動きが顕著になる。これでは市民社会が自発的に「公」を担ったとは言えません。本当は市民の自発的な創意工夫でそれを突破できるような新しい変化を求めたかったけれども、官の外延化に伴う制度の動きでは答えを出せない。だからこそ、新しい変化が必要になっているということです。それは関さんの言う「市民の気づき」と同じことかもしれません。
 私は、この政府と市民との関係で言えば、租税の分配をベースにした公共サービスの外延化に伴う制度設計では全ての答えは出せないところにまで来ている、と考えています。例えば寄付や市民の自発的な参加を得て、市民が自分たちの責任で何かをやろうとする突破や仕組みがないと、新しいものができないという転換期に来ているわけです。そうした動きを支えるために優れたNPOへの税額控除が有効と考えています。それを目指して競争が始まることで、強い公共の担い手が生み出されてくるわけです。
 私たちはそうした優れたNPOのひとつの姿を「エクセレントNPO」として提案しているのです。そうした「良循環」を起こすことが強い市民社会につながると考えるわけです。
 一方で、片山さんの言われたことも大事です。例えば租税の使われ方を見た場合に、「自分たちが納めたものがどう使われるのか」というような監視の意識が市民側に弱いのです。だから、政治が先の選挙でのようにサービス競争に陥ってしまう現実があります。今の市民社会には自分たちで政治を選ぶという意志、サービスを得るだけではなくて負担も考えるという、民主主義の覚悟も問われているのだと思います。
 確かに鳩山首相は、問題提起としてはオバマ大統領と似たような言葉は使っていますが、もっと下からというか、市民に直接呼びかけるような「俺も一緒に歩くからみんなでやろう」という問いかけはしていません。

片山 私もそう思います。ただ、それは政治の問題なのか市民の問題なのか、あるいは非営利セクターの課題なのかというところがよく見えません。鳩山首相の演説は、新しい公共の担い手として期待されているのがNPOや市民社会なのだということを十分に自覚していないように見えますし、それを工藤さんが言われたようにどうチャレンジして、強い市民社会を実現していくという思いも伝わって来ません。

 個々の事例としては、町内会での防災活動など、官に頼らない共助や自助をベースにしながら、自分たちの問題として取り組もうと考えて行動しているところもあります。ただ、共助や自助にも一定の限界がある中で、官としてできることは何か、ということを再考することも大切だと思います。官とそうではないところの役割が違う中で、「自分としてはこういうコミットメントをします」、「その代わり制度としてそれをどう促し、保障してくれますか」と。そういうひとりひとりの行動と、制度的なものがうまくリンゲージすればいいと思います。

漂流と自立、「世代」の傾向に向かい合う

加藤 私は「世代」ということを考えています。私自身は就職氷河期を経験した世代であり、ニートやフリーターという呼称が生まれた世代でもあります。学生時代にちょうど、阪神・淡路大震災を経験しています。そして社会に出る頃、NPO法ができたわけです。就職するときには「フリーター」という言葉が、「自分で自分の生き方を自由に決められる」という、キラキラとしたイメージで語られた世代でもあります。そこから十年数年経ったわけですけれども、レールが敷かれない中を生きていいのだ、ということを言われ始めた世代、ある意味で就職氷河期というマイナス要因も背中を押しながら、「どんな生き方もありなんだ」と言われた世代の中で、二分されているようなところがある気がします。
 当初はある種の憧れを持って見られたフリーターは派遣労働者や契約社員というかたちで未来を見つけられずに彷徨っている人と、NPOやベンチャーなどで自分で何かをつくるためにチャレンジできている人とに二分されているように思われるのです。いわゆる「76(ナナロク)世代」(1976年生まれ)と言われている、IT業界などで活躍しているような人もいるわけですが、目的を持って自ら取り組むところで道を切り開いていった人と、漂流したまま取りこぼされていった人とに分かれてしまっているような。
 もしかすると、同世代や私たちよりも若い世代の中に、潜在的に──あるいは顕在的に――自分がお金持ちになることより、人の役に立つことに力や時間を注ぎたいという意識を持っている人は結構いるのではないかという気もします。しかし一方で、「何をしても自分の人生は良くならない」と諦めている人たちもいるわけです。
 私自身がNPOの中にいることで、NPOで働く同世代の仲間たちを見ているからかもしれませんが、その層の人たちがこれからどう動いていくかでこの社会のあり方は大きく変わっていくのではないかなと思います。政権交代はそのきっかけをつくり出しているのかもしれないという気もします。

堀江 世代ということで言うと、私は学生時代がバブル期という「バブル世代」ですけれども、当時は「日本はどんどんこのまま伸びて行くのだろうな」と思っていました。「1億総中流」などと言われる中で、政治についてもあまり関心がなくて。ただ国際協力をやっている人たちを見ていると、この世代が比較的多いようにも思います。もっと下の世代になると社会的企業など、昔からあるNPOとは少し違う、営利ビジネス的なセンスをもって解決しようという人が多くなってくるように思います。
 世代論みたいな話になってしまいましたが、どんなかたちであれ、非営利セクターとは何をするものなのか、という根本を見失ってはいけないと思います。社会的企業というビジネスが社会貢献なのか、それともビジネスなのかというところもまだ定まっていません。「新しい公共」の担い手であると同時に、非営利セクターとしてどのような立ち位置をとるのか、どのようなマインドを持っていくのかということは非常に重要な部分だと思います。

工藤 漂流している層を社会に繋げたり、社会的な課題に気づきそれを解決しようと突破する非営利組織もある。しかしその突破力が、今の社会の状況を大きく変えたり、そういう人たちの大きな受け皿になるところまでには至っていない、課題解決型にはまだ至っていないという弱さが、今の社会にはあるわけです。だからこそ私たちの検討会の議論には意味があると思うのです。今は市民社会を強くするためにそれを突破して、なおかつ社会性を持つ多くの人々の受け皿となるような動きをつくれる担い手、それこそ非営利組織の役割として必要になっているということです。そういう担い手が、これからどれだけ出てくるかということでしょう。

市民の潜在力をどう社会につなぐか

田中 皆さんのご意見で一致しているのは、「何かを変えたい」あるいは「役に立ちたい」と思っている人、まさに鳩山首相が言っている「社会に貢献して褒められたい」あるいは「褒めたい」という人の潜在力は、きっとこの国の社会にはあるのだと思いますが、それがうねりになっていかないということです。社会的企業の話もありましたが、公共ゾーンにおいて収益事業や経済効率を重んじるばかりで、市民参加の部分を切り離してしまうために、営利企業と全く変わらない活動になっている場合もあります。それだけを推奨する今の政府の動きには、市民社会の強化という点で明らかな違和感を覚えます。
 「市民の層を引き上げて強い市民社会をつくる、その条件は何なのか」という、本質的なところは見失ってはいけないというのが、この検討会で最も重要なポイントであると思います。

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