東洋経済オンライン「 私のNPO血風録 」寄稿より/中国編・第3話 笑顔と握手

2007年8月28日


訪中で感じた日中間のつかみどころの無い距離感

 北京での交渉はそう簡単に進んだわけではない。私は、連日、中国の民間の文化団体や学術団体のさまざまな会合に呼ばれ、そこで日中対話の必要性を訴えた。
 「あなたは北京に友人を得たと思ってくれてもいい。是非、協力をしたい」
 団体の長老は必ず笑顔でそう語り、手を差し伸べる。そうした笑顔や握手に囲まれながらも、私の心はなぜか晴れなかった。こうした歓迎が本心なのか、さらにどう日中対話につながるか、手ごたえを感じなかったからだ。

 初めての北京の空は、太陽の存在を忘れるほど灰色がかり、建設途上の高層ビルが林立している。市場経済のダイナミックな発展は、中国社会の構造を音をたてて変えようとしているかに見える。
 中国という社会主義の国で、民間ベースの自由な対話や交流自体が本当に成り立つのか。北京の街で多くの人と会話をしながら、私の心の奥底に刺のように引っ掛かっていたのはそんな疑問だった。
 変化は確かに急速に始まっている。ただ、政治主導の体制と民間主導の間にはかなり大きな隙間があるように思えた。
 しかも、そうした中国と交渉するにも、私は日本政府を代表して中国に来たわけではない。日本の非営利組織とはいうものの、中国では存在も知られていない、いわば勝手に中国に乗り込んだだけの人間なのである。
 日本と中国、そして政府と民。その間につかみどころの無い距離感を感じていた。北京に入ってから3日後。私が自分の置かれた状況を理解したのは、その日のある会合でのことだった。


日中共同世論調査の実施を提案した会議が、突然打ち切られた

 政府(国務院)の国家発展改革委員会関係の複数の研究所の所長など10氏が揃ったこの会合は、中国人でそのとき上海の国際会議に出席していた私の友人で、当時東京経済大学准教授の周牧之氏がアレンジしてくれたものである。
 ここで私がプランを説明し、あることを提案した際に妙な形で会議は終わったのである。
 恥ずかしい話だが、その時、会議が打ち切られたことにすら私は気付いていなかった。私の発言の後に、中国人の何かの発言で通訳が止まったことは気になったものの、ここでも笑顔と握手だったため、提案が受け入れられたと私は勝手に思い込んでしまっていたのである。
 その後、その上海の国際シンポジウムにパネラーとして参加するため、私も上海に向かったが、到着した私を待ち構えていたかのようにその友人がこう詰め寄った。
 「会議が打ち切られたのは知っていますか。とにかく北京に戻ろう」
 後から分かったことだが、この会合で私が説明した日中共同の世論調査の実施の問題、正確に言うとその公表の問題が、参加者の警戒心を呼び、通訳を打ち切られたのだという。

  私は日中やアジアの共通課題を打開するために議論する本音レベルの議論の舞台を、民間主導で日中間に作りたかった。ただ、この議論を専門家だけの、閉じられた会議にはしたくなかった。会議の内容は公開し、しかも両国のメディアなどで議論の内容を両国民間に伝えないと、本当の意味で相互理解は深まらないからだ。
 だからこそ、私は議論に両国民の民意を反映させようと、両国民の世論調査を毎年実施し、フォーラムの前に公開したいと主張したのである。
 これが、中国側の神経を刺激したのだった。
 「研究目的のために世論調査は理解できるが、それを公開するとなると、そこまでは責任は持てない」
 中国側の参加者の1人が、そう言っていたという話を聞いたのはかなり経ってからである。

 北京に戻った私たちはこの先、どう交渉を進めるのか、途方にくれていた。そのシンクタンクが実は本命の団体のひとつでもあったからだ。
 だが、すぐに私たちは現実に戻された。心配した何人かの知人がホテルに駆けつけてくれたが、その1人の発言が浮き足立った私たちに冷や水を浴びせたからである。
 その知人は、以前、日本の金融機関で長らく働き、その後、中国政府で働いている。
 「日本人は今の日中関係がかなり危険なことに気づいていない。冗談だと思うかも知れないが、このままいったら暴動が起きる。それを抑え切れるかだ。あなたの夢は諦めるべきではない」
 中国に入ってから私が感じていた、違和感はこれなんだと思った。出会った民間団体とは笑顔と握手はあっても、そうした現実の話は一切出なかった。何かを遠慮している、それを私は距離感と感じたのである。


実現に向けて動き出した「東京-北京フォーラム」と「共同世論調査」

 これは中国政府と直接交渉するしかない、私はそう覚悟を固めたのである。
 その間、私たちが連絡を取り合っていたのが、私が日本のホテルで喧嘩し、今回の訪中に繋がった張平氏だった。その彼から、思いがけない提案があった。
 「チャイナディリーが、この日中対話の中国側の受け皿となる。その代わり、政府の人間に合わせるので、そこで貴方の考えを説明してくれないか」
 その翌日、北京大飯店のロビーで会ったのは国務院新聞弁公室の幹部たちだった。
 約1時間、私が語ったのは今思い出すと、日中関係ではなかった。日本の市民社会でのNPOの役割、そして言論の重要性である。
 その間、黙って聞いていた彼らが、私の話が終わるとこう握手を求めてきた。
 「こんな感動したことは無い。是非、バックアップしたい」
 その握手が社交辞令ではないことはその目を見てすぐ分かった。

 日本の小さなNPOと中国の巨大メディアの提携は事実上その日、決まった。北京大学国際関係学院がさらにこの提携に加わった。
 日本に戻った私は、その夏に日中対話の舞台を立ち上げるため、チャイナディリーとの業務提携の準備に取りかかった。
 2005年1月13日、記者会見は張平氏も出席して日本で行われた。
 だが、対話の準備をゆっくり進めるわけにはいかなかった。
 そのわずか3カ月後、恐れていたことが起こったからである。中国での反日デモが一部暴動化し、北京や上海などに広がった。
 私はもう一度、北京に向かわなくてはならなくなったのである。

東洋経済オンライン「 私のNPO血風録 」中国編