東洋経済オンライン「 私のNPO血風録 」寄稿より/中国編・第2話 NPOが中国の巨大メディアと提携

2007年8月28日


「東京-北京フォーラム」が始まるきっかけは、中国人との些細なやり取りだった

 最初に断っておきたいが、私は別に中国の専門家ではないし、言論NPOという非営利組織も、中国やアジアとの友好事業を行うために立ち上げたものではない。
 だが、NPOの設立から2年後、私は中国に渡り、日中の対話の新しい民間のチャネルを作りだすために走り回ることになる。2005年4月、北京や上海など中国の主要都市に反日デモや暴動が広がった。そのわずか半年前のことである。

  この日中対話は、騒然としたこの2005年の夏に北京で実現することとなるが、そこで私が改めて痛感したのも、非営利組織が持つ可能性だった。私はそれまで外交という分野は政府が行うものだと考えていた。アジア経済のダイナミックな発展の中で、日本とは特別の歴史関係を持ち、しかも経済的な台頭を続ける中国の存在は、日本の将来にとっても無視できない存在となっていた。
 それにも関わらず、日本と中国の政府間関係は首相の靖国参拝などを巡って悪化し、 外交という機能も停滞した。当時はこれを「政冷経熱」と言ったが、この状況を打開するには、それを埋める民間、とりわけビジネスとは別の力が問われている のではないか。私にはそう思えたのである。

 なぜ、私が中国との対話に動き出したのか。きっかけは今から思えば、実に単純なものだった。2004年3月、「アジアの未来」をテーマに私のNPOが主催した国際シンポジウムが経団連会館で行われた。そこに招待した中国のパネラーとの場外での激論がその引き金となった。
  シンポジウムで議論の焦点となったのも日中関係である。「領土問題など偶発的な問題で、日本と中国間で戦争が起きることも想定する必要がある」。フイリピ ンで外相も勤めたドミンゴ・エル・シアゾン駐日大使のシンポジウムでの発言は当時の東南アジアの多くの国の懸念を代弁しているように聞こえた。影響力を増 し始めた中国と日本というアジアの2つの大国の対立。その行方に対する不透明感がアジアの国民の間では危機感に変わり始めていた。
 その議論に出席したのが、張平という中国の4大新聞の1つで、英字紙チャイナディリーを発行する中国日報社のインターネット会社の当時40歳の総裁(社長)だった。
 彼が発行する新聞の英語のインターネット版は、1日のページビューが800万という巨大なアクセスを中国の国内外から得ており、その半数近くがアメリカ人からのアクセスだといわれる。
 その夜の懇親会で、私は、中国のその若いメディア人とある発言を契機に激しい口論になったのである。
 「私たちにとって関心があるのは米国で、日本ではない」。平然と語る張平氏に私は食って掛かった。「中国の政治家がそういうのであれば1つの意見として聞くことができる。しかし、君はジャーナリストだ。隣国を関心ないと言い切るのなら言論人として問題だ」。
 かなりの時間、私たちは言い合いになった。その場に同席した財務省の友人には「君も立派な外交官になれる」と後日冷やかされたが、内心、これはかなりまずい状況だなと、私は思っていた。


言論NPOの議論活動は、国境を越え始めた

  当時、言論NPOはアジアの将来構想を民間側から政治に提案しようと、多くの有識者を集めて研究会議・アジア戦略会議(福川伸次座長)を設置し、3年がかりの議論を行っていた。このシンポジウムはその一環として行われたものだが、アジアの将来を巡って中国との議論が、ここまで噛み合わないというのは、日本 の将来の選択肢を形成する上でもかなり危険なことだと思えた。
 張平氏は英国でジャーナリズムを学び、中国でインターネットメディアを成功させた人物である。チャイナディリーはかつて政府の対外広報の役割を担っていると見られていたが、今では中国の巨大メディアのひとつであり、国際派が揃っている。
 シンポジウムにも参加していた国分良成慶應大学教授は、当時の日中関係悪化の局面下の中国の状況をこう分析していた。「中国の外交はアメリカとの関係を重視する国際派が増えており、親日派は影響力を失い始めている」。
 そうであるならばなおさら、こうした新しい世代と真剣に対話を行う必要がある。日中の間に新しい民間主導の議論の舞台、トラック2を作ろうと私が考えたのは、後から思い出せばその時だった。

 その日の夜のことは実はそれ以上、あまり覚えてはいない。ただ、友人によると、こうした対話のチャネルを作るため、「訪中する」と私は言い続けていたのだという。翌朝、ホテルのロビーで二日酔いが残る私に笑顔で話しかけてきたのは、張平氏の方だった。
 「工藤先生の言っている通り。私たちはもっと本音で議論をすべきだ。秋の訪中を待っている」
 私がスタッフと北京に向かったのはその半年後の9月のことである。
 日本の小さなNPO。しかも対中国の交流ではほとんど実績のない存在である。熱意しか私には力がなかったが、どうしても、日中対話の舞台を作りたかった。私たちNPOの議論活動は、国境を超えることになったのである。

東洋経済オンライン「 私のNPO血風録 」中国編