新国立競技場の迷走の問題点とは

2015年7月24日

2015年7月24日(金)
出演者:
新藤宗幸(後藤・安田記念東京都市研究所理事長)
鈴木知幸(順天堂大学スポーツ健康科学部客員教授、元2016年東京五輪招致推進担当課長)
松田達(建築家、武蔵野大学専任講師)

司会者:
工藤泰志(言論NPO代表)


赤字覚悟の大規模スポーツ施設 ――今後、問われる新国立競技場のコンセプトは、コストの補填は

工藤:重要なお話でした。では、最後の議論に入りたいと思います。新国立競技場の計画を、どういうガバナンスでどういう内容にしていけばいいのか、という点です。先ほど、新藤さんから、新国立競技場を造る上での理念を決めていかなければいけないのではないかという話がありました。もう一つ、鈴木さんから、お金の使い方に関してきちんと国民に説明していかなければいけないという話が出されました。

 このあたりを議論していかなければいけないのですが、先ほど、今後7年間はtotoの売上から工費を捻出できるという話がありました。それにより、単純計算で350億円が入ってくることになります。東京都は整備費500億円を負担すると表明しましたが、今後、必要経費がどんどん増えていくとなると、都の負担分との差額は国の税金になるわけです。そうなってくると、その使い方を国民に説明しないとダメだと思います。

 あと、理念の話に関して、今までのデザイン案はほとんど崩壊しているのですが、その考え方は偶像のように残っているようなかたちで進んでいました。ただ、これが白紙に戻ることになると、着工まで時間がない中で、競技場の思想、コンセプトをどのように考えればよいのでしょうか。

松田:最近、情報が錯綜していて、もう一度コンペをやるときにザハ・ハディド氏も参加したいというような話も出ています。計画がまったく白紙に戻っても、近いかたちのものになる可能性はあると思います。デザインに関しては、まずはコンペをやってみないと分からないところが多いと思います。

 あと、全体的な話ですが、「いま何を見直すべきか」というときに、現段階で動いている計画を見直す必要があるのですが、今までは市民参加や合意形成をどこでやるかというプロセスがまったく欠けていると思います。多くの人がインターネットなどで発言していて、警鐘を鳴らしていた人は多いのですが、それがさらに大きなメディアに載るという連鎖のようなものが決定側にまで届いたのは、ようやく最近になってからです。ここまでしないとそうならないということは、他のプロジェクトだと、問題があってもなかなか表には出ないということだと思います。そういうところを直していかないといけませんし、新国立競技場だけの問題ではないという気がします。

工藤:建設にあたり重視すべき点として今回、民意で示されたのはコストでした。今後、少子高齢化とか財政制約が迫ってくる中で、費用の問題をどのように考えながら良いものをつくるかという話になるときに、鈴木さんからは先ほど、競技場として使うのであれば費用は捻出できるけれど、イベントとしての使用はダメだというお話がありました。それはどういうことなのでしょうか。

鈴木:二つの視点があります。一つは、維持経費がかからないような構造にしてほしいということです。日産スタジアムは、1年間で約7億円の維持管理費がかかっています。今、最終的に出た新国立競技場の案では40億円なので、桁違いです。従って、少なくとも10~15億円くらいで維持管理できるような構造をつくり、システム化を図ってほしいです。収益は確かに大事です。長く持続的な収益を上げるためには、できるだけ周辺機能で儲けていくことが必要なのですが、屋根をつけて、中でコンサートをやって、芝をダメにして6億円儲けるような発想は、もうやめてほしいと思います。世界の施設は、どこも周辺機能で儲けているのです。 

 二点目に、屋外型の大規模スポーツ施設は、それでもやはり赤字になることが分かっています。従って、それをどこで補填するかです。国民の税金ではなく、totoの収益を充てさせてほしいということをちゃんと説明し、国民の理解を得て、totoの収益の一部から回してもらう。これでできるのではないかと思います。

工藤:今、ここまで国民が関心を持つ状況になると、国民への説明が非常に重要になってきます。これはまた、時間との戦いですよね。安倍政権としてはこの問題をどのように処理すべきであり、どうなっていくと見ていますか。

新藤:先ほどのアンケートで、「新しい建築計画でどのような点を重視すべきか」という設問がありました。一つは、もちろんアスリートがパフォーマンスを発揮しやすいという面があるのですが、もう一つは周囲の景観との調和の問題だと思います。復興などといった理念を、世界に訴えもしました。そのことを前提にした設計をするべきだし、来年の1月くらいまでにはきちんと説明責任を果たしながら明らかにすることだと思います。

 私は技術管理をずっと研究していますが、少し気になっているのは、新たに計画の中心となる国交省ほど、いい加減な人たちはいないということです。国交省との関係がどのように正されるのか、注目しています。

工藤:確かにそうです。ただ、いま自民党の部会でも、1300億円を基準にすべきだという議論が出ているというのは、コストに対する世論の風圧を感じているのは間違いないということですね。だから、政権としては、この金額を大幅に上回る結論を出しにくくなると思います。

新藤:ただ、1300億円だって、今の日本の財政からするとかなり巨額です。


これからの五輪のあるべき姿は
――自分たちでつくる建築、都市文化

工藤:その必要性はオリンピックをやる意義と連動してくるのですが、今、オリンピックは、施設を縮小したり、東京都外に移したり、全体的にいろいろなコストカットをしていますよね。オリンピック全体のビジョンでもコスト削減は非常に大きなテーマになっているわけで、もう考え方を変えなければいけないような気がしているのですが、鈴木さんは五輪招致に携わった経験からどうお考えになりますか。

鈴木:招致の際は「コンパクト」「8キロ圏内」を訴えたわけですが、4000億円もかかるという数字が出て、舛添さんは即座に、既存の施設を使うということで、8キロ圏内にこだわらず、千葉や埼玉の施設に振り向けたわけです。これは英断だと思います。今、2000億円以上のお金をコストダウンさせました。それに森会長がいろいろ言っていますが、私は非常に評価しています。招致段階の最初の見積もりは「類似施設でこれくらいかかる」というどんぶり勘定で出す以外ないのです。あのときの数字に文句を言っても仕方ないわけで、その後の実態に合わせていくらに落とすか、ということが勝負です。新国立競技場はそれをやってこなかったのです。

工藤:今回、ようやく目が覚めてきたという感じがしますが、その中で、新国立競技場の持つ意味をどのようにとらえ直せばいいのでしょうか。

松田:新国立競技場が他のスタジアムとちょっと違うのは都心にあるというところで、郊外にあるスタジアムとは収益のあり方なども違い、そこは特殊な事情があるのかなと思います。それに、例えばスイスでは、自分たちで投票して「この建築を本当に建てるべきかどうか」を民意で決める仕組みがあります。日本や東京ではそういうことはないし、その一つの原因として、一般の人が建築や都市文化に興味を持つことがヨーロッパに比べて少ないということがあると思います。そういうところに関心を持っていただいて、それが今度は「自分たちで都市をつくっていこう」という話になってくるのが、一つの理想的なプロセスだと思っています。

新藤:五輪を今さら返上はできないわけですから、メイン会場は、簡素な上に景観に調和したものをいかに造るか、ということだと思います。同じ公共施設、あるいは公共事業でも、道路は、造りすぎだという議論はいろいろあるけれど、道路はそれなりに使用価値があるわけです。新国立競技場には何の使用価値があるのでしょうか。毎年、あそこで陸上競技をやるような話にはなっていないと思います。そもそも、旧国立競技場を壊してしまったことに、私は疑問を持っています。

工藤:鈴木さん、先ほどおっしゃった維持管理費を抑える仕組みは、どうすれば可能なのでしょうか。

鈴木:どのようにして使うかという経営に関することは、つくる段階とは別に、議論に議論を重ねるべきです。財務省はやっと「国有財産にネーミングライツ(命名権)をつけろ」と散々言ってきていますが、国有財産へのネーミングライツはいまだにありません。運営については、ネーミングライツも周りの賑わい機能もさかんにつくって、芝などのスポーツ環境を悪くしない範囲でさまざまな収益機能を考えるべきだと思います。それでも足らない分が出てきますから、何とかtotoの売上で補填して国費に影響を与えないようにする。私はそれがベターだと思います。

新藤:私は、地方のいろいろな施設のネーミングライツについても疑問を呈してきていますが、国の税金で建てられる国立施設に「味の素」「日産」「東芝」などという名前をつけるのはやってはいけないことです。ここだけは、はっきりしておいた方がいいと思います。

鈴木:当初は、ネーミングライツが私権の設定にあたるかという地方自治法の解釈が問題になりました。ただ、今は、普通財産ではない公共用財産でも、ネーミングライツを当たり前のようにつけてきています。「私権の設定は税金でつくられる施設になじまない」という意見は長年あるのですが、私は、もうそういう時代ではないと思います。

新藤:違うと思います。税というものをどう考えるかは、民主主義の基本です。


議論がほしい遺産としての建築物

工藤:それはそれでまた議論したいのですが、今回の議論に関連して、オリンピックを開催した後も、施設は次の世代に残るわけです。開催後に「何を残すか」という議論は、今どういう状況になっているのでしょうか。何となく、施設のコストの問題だけになってしまったのですが、本当は、オリンピックの遺産を将来の日本のために意味あるものとして使うのであれば、そういう議論もあってもいいわけです。今、そういう議論はあるのでしょうか。

松田:少ないと思います。私が思うのは、今回の議論で建築家が悪者になって「デザインをするからいけないのだ」という話は当然出てくると思いますが、もしそういう話が出てきたとしたら、そこまで短絡的になるともったいないような気はしています。将来的に新国立競技場がレガシー(遺産)になるべきだ、そのためにはどうしたらよいか、という話は既に出ていると思います。意匠的なデザインだけでなく、将来残しておくもののいくつかの要素の中には、文化的なデザインなども入ってもおかしくないと思います。ただ、それ以上に、今後人口が減少していく中での巨大建築がどうあるべきか。例えばイギリスでは「縮小する建築」のようなものがある中で、日本の遺産としてどういう建築物があるべきかというのは、議論されないといけないと思っています。

工藤:今の話は非常に重要な論点なのですが、その議論を立てるためには、構造が非常に難しくなっていると思います。もともと、都市としてそういう議論が必要だったのですが、東京は建築規制を緩和して、ビルがいたるところに建っている状況です。東京のバリューについて「世界三大都市を目指す」などという話もあるのですが、東京の将来像に関して、そこまで頭を大きく切り替えて考えることがまだ行われていません。現実に起こっているのはビルやマンションがたくさん建って、いろいろな人が買っている状況です。

 今の話では、逆に管理や規制を強めて、都市としての構造を整えるといったいろいろなことを考えていかないと、住民は参加できなくなると思いますが、どうでしょうか。

松田:一つの例として挙がるのは、都庁舎のコンペのとき、採用されたのは丹下健三さんの案ですが、磯崎新さんは負けることを覚悟で「低層案」を出していました。今となってみれば、低層案は時代の先を見ていた案の一つだと思います。2010年ごろから人口減少が始まっていますが、人口減少と超高齢化の中でのシンボルになるような建築は考えられるかもしれません。


再考したい、何のための五輪

工藤:鈴木さんは五輪招致に携わった経験もありますが、こういう経緯になったことを踏まえて、2020年の東京オリンピックにどのような期待を持っていますか。

鈴木:今はハードレガシーが注目されているので、ハードレガシーばかりが議論になってしまっています。私はソフトレガシーをずっと考えてきているのですが、オリンピックが終わってから、子どもの夢であるとか将来の教育であるとか、日本のさまざまな社会制度のあり方も含めて、いろいろな影響を与えようとしています。それを全体として見ていかなければいけないし、そのためには、ハードレガシーの評価をあまりマイナスにしてしまうと、全体のレガシーを評価できなくなってしまいます。レガシーにはいろいろな立場のレガシーがあって、そこは私たちが頑張る必要があると思います。

新藤:もともと、「なぜ東京で再度オリンピックをするのか」という理念が不明確だったと思います。ですから、建物の問題だけでなくソフトのレガシーという話があるのもよく分かりますが、もう一度「何のためにやるのか」という市民的な議論をきちんとやることが必要ではないでしょうか。

 もう一つは、将来の震災対策の問題があります。私は、極めて簡素なスタジアムをつくって、五輪が終わったら全部、森にしなさい、と思います。

工藤:今回の問題は、国立競技場だけでなくオリンピックの意味をもう一度、ソフトも含めて考え直すきっかけにすべきだという話でした。最後に一言ずつ、今回の騒動の責任には、あまり言及しなくてよいのでしょうか。白紙撤回したということですが、一部に「誰に責任があって、何が、問題があったのか」をもっと検証すべきだという動きがありますが、まず松田さんからどうでしょうか。


集団無責任体制と悪しき公共事業のパターン
――決定的に欠けたビジョンと推進主体

松田:責任に関しては特定の個人とか団体を挙げることもできると思いますが、今までの流れを考えたときに、「集団無責任体制」をつくってしまう日本のシステムそのものが、一つは大きいと思います。建築の設計にしても、監修者と設計者と施工者がバラバラに動いて、どこが責任を持っているかが明確にならないシステムが、日本には昔からありました。例えば、国立競技場の隣の体育館も、結局、設計者が複数いて、誰が明確な設計者が分からないようなかたちで出来上がっています。あと、今回は、都や国などが全部バラバラに動いてしまっていて、一体誰が責任を持つかということをある程度明確にできるシステムがほしいと思います。

 もう一つは、この数年を見ていたときに、市民の声と専門家の声と政治家の声とがなかなかつながらないという問題があります。例えば、専門家の中で、磯崎新さんなどは「皇居前広場で開会式をすればいい」とかいろいろな発言をされています。そういういろいろな意見をつなげる仕組みがどこかでできるとよいかなと思っています。

工藤:そこは非常に重要な指摘なので、言論NPOも考えていかなければいけないと思いました。鈴木さんはどうでしょうか。

鈴木:やはり、悪しき公共工事のパターンだったと思います。これは何も国立競技場だけの問題ではなく、八ツ場ダムにしても、有明海の干拓にしても、日本は同じような道をたどっています。これは、石原慎太郎さんがよく指摘した行政の単年度主義に基づくもので、なぜ通年で物事を考えないのか、ということです。予算で債務負担行為を制約するのですが、1年ごとの額が上がったときに債務負担行為の中身を変えていってしまうのですね。結局、終わってみれば費用が2倍、3倍になっていたという結果はざらにあるわけで、公共工事にかかる全体のシステムそのものを変えないといけません。

 それから、こういう無責任体制については、私は今まですべて似たようなものを見てきていると思います。

新藤:日本政治あるいは日本行政の無責任体制にまで話が及ぶと、太平洋戦争の話にまでなってしまうのだけれど、それは真実としてあります。ただ、今回に限定して言えば、これだけのイベントをやろうというのだから、推進主体が誰であって、どういう理念で、そのためのいろいろな施設をどうつくるのかというビジョンが決定的に欠けていたし、責任の話で言えば、ブエノスアイレスのIOC総会であれだけの演説をしてきた安倍首相が表に出て、きちんとした推進体制をつくるべきだったと思います。そういう意味では今ごろでは遅いので、それを反省しながら、あと数ヵ月の間にきちんとした、違うバージョンの理念とアピールをつくっていただきたいと思います。

工藤:今日は新国立競技場の建設問題について議論をしたのですが、皆さんの話を伺って感じるのは、「白紙になったからよかった」というのではダメだということです。この中にはいろいろな問題があって、いろいろなことを変えていかなければいけないし、市民や有権者がきちんと考え、議論していく舞台が必要だという話が出ました。そうした動きを、何かの形で起こしていかないと、今回の非常に重要な教訓を活かせないのではないかと思いました。また、2020年というのは日本にとって非常に重要なタイミングになるということは多くの人が分かっていると思うので、それに向けての歩みをきちんと始めなければいけないと痛感しました。

 ということで、今日は新国立競技場問題について話し合いながら、「これから私たちに何が問われているか」ということに関しても併せて議論できたと思います。皆さん、どうも有難うございました。
 
 

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