「2003.9.18開催 アジア戦略会議」議事録 page1

2003年10月02日

030918_01.jpg2003年9月18日
於 日本財団会議室

会議出席者(敬称略)

白石隆(京都大学教授)

福川伸次(電通顧問)
入山映(笹川平和財団理事長)
イェスパー・コール(メリルリンチ日本証券チーフエコノミスト)
周牧之(東京経済大学准教授)
谷口智彦(日経BP社編集委員室主任編集委員)
夏川和也(日立製作所特別顧問)
松田学(言論NPO理事)

福川 皆さん、おはようございます。きょうは第3回のアジア戦略会議フォーラムでございまして、今回は、かねてからご案内申し上げておりますように、大変お忙しいところを京都大学教授の白石先生にお越しいただきました。申すまでもなく、このアジア問題、そして、広く世界の問題について大変造詣の深い、この分野では第一人者の研究者でいらっしゃいます。海外にも、アメリカ、インドネシアその他、いろいろな国々を回っておられまして、まさに実践についてもたけていらっしゃいます。

今回は、このアジア戦略会議の議論を深めていくために、いろいろとこういった客観的な諸情勢がどのように動いているかということでございまして、例えばパックスアメリカーナというのをどのようにごらんになるか、あるいはイスラムの実態、それからASEAN、あるいはインド、こういった状況がどのように相なっているかというあたりを中心にお話しいただきまして、あと皆さんで意見交換をしていただければ大変ありがたいと思います。大体40分程度お話しいただきまして、その後意見交換をさせていただけたらと思います。

きょうは白石先生、お忙しいところをありがとうございました、よろしくお願いいたします。

白石 白石でございます。実は、福川さんは恐らくご存じだと思いますが、経済産業省の今、経済協力課長をやっておる大辻さん、彼がタイでタクシンから勲1等をもらったんですね。それのお祝いをきのうやっていまして、余りきちっと筋の通った話ができるのかどうか、ちょっと自信がないのですが......。

最初に「帝国」ということから話を始めさせていただきたいと思います。この1年半から2年ぐらい、帝国という言葉が非常にはやりになりまして、すぐ書いて本にでもすればよかったのですが、だんだん、そのうちにと思っている間に鮮度が落ちているのですが、ともかく冷戦終えん以降、ことに9・11以降くらいになって、かなりはっきりした新しい秩序が、どうもイメージとしてはわかるようになってきたと。それをどういう言葉でつかまえると、今まで余りきちっと理解できていなかったことが理解できるかなと考えますと、帝国という言葉は――私は非常にニュートラルな意味で使いますが、それなりに使いでのある言葉ではないかなという気がしております。

それは、大きく申しますと2つの意味がありまして、1つは、これは本来の帝国の意味ですが、インペリアルソブリンティーなどという言葉があります。帝国的主権、ということです。国民国家システムの場合には、主権というのは国民国家にあるはずなんですが、その国民国家を超えたグローバルな規範のようなものが共有されてくるようになると、そういう規範の名において国民国家に介入するということができるようになってくる。そのときに、そういう国民国家に介入し得るような、そういう力というものを、とりあえずインペリアルソブリンティーとか帝国的主権と考えると、やはりそういうものはできてきたとは思います。

アメリカがそういうインペリアルソブリンティーを持っているということでは必ずしもないわけですが、そういうものの名において、世界のさまざまなところにある国民国家に介入するということが、現象としてはもうはっきりと起こっていると。それを説明する上で、帝国という概念は使いでがあるかなということが1つですね。

もう1つは、もっと非常に長い――と言っても半世紀ぐらいのスパンで、見る見方です。アメリカが世界にどういう形で関与してきたのか、半世紀とか1世紀ぐらいのスパンで見ますと、やはりこの100年間、世界というのは非常にアメリカ化したと。

その中で、アメリカ化したということの1つの大きなポイントは、やはり1920年代ぐらいにアメリカに登場した中産階級というものが世界的に広がってきたと言ったらよいのでしょうかね。いわば中産階級を主体とする秩序のようなものが、少なくともアメリカとその同盟国では、かなりはっきりと力を持って成立し、それが外延的に拡大していく形でアメリカ化というものが進んでいると。

その場合のアメリカ化というのは、単に文化とか生活スタイルだけではございません。というか、そういう生活スタイルの中には、政治・経済制度ももちろん入っていると考えてよいのではないだろうかと思います。

ですから、非常に雑駁な概念なのですが、帝国という言葉にはそういう2つぐらいの意味があるのではないかと。1つは要するに国際的な、あるいはグローバルな規範の名において国民国家に介入するということがそれなりに受け入れられるようになっている、そういう国際秩序というものをつかまえる概念として帝国という言葉は役に立つだろうし、もう1つは、この100年ぐらいの間に成立してきた、地域的にはかなり偏っておりますが、アメリカ、それから西ヨーロッパ、そして東アジアに成立してきた中産階級社会のようなものをつかまえる上でも、それを支えるシステムを、帝国という言葉でつかまえてもよいのではないだろうかと。

そのようにして見ますと、では、帝国というものはどういう構造を持っているのかということが当然次の問題になってまいります。そのときに、これはごく機械的にやっただけの話ですが、当然、帝国には中心があるだろうし、その中心と同盟しているような地域、国があるだろうし、その周りには、いわば半周辺があり、その先には周辺があるだろうという3層構造ないし4層構造で考えてよいだろうと。

ただ、その場合に重要なことは、中心と周辺の間、ですから"同盟"と書きましたが、これは例えば別の言葉で、ちょっと半中心と言えばよいのか、同盟と言えばよいのか、実は私はその言葉には少し迷ったのですが、そういう半中心、半周辺のところというのは、少なくともこの100年をとりますと、随分拡大したということは言えます。拡大することによって、逆にアメリカを中心としたような秩序というものは拡大し、安定してきていると言ってもよいのかなと。

それでは、その中心で、いわば帝国のイデオロギーとしてどういう考え方があるのかというと、これは私の専門ではなくて、むしろ日本ですと北海道大学に古矢旬というアメリカ史の研究者がいまして、東大出版会から『アメリカニズム』という本を昨年、2002年に出しております。非常によい本ですが、彼の議論を単純に要約すると、20世紀の少なくとも初めぐらいに、アメリカ人というのは何かということが新しい、20世紀的な意味で定義されたんだと。もちろん19世紀には19世紀のアメリカ人とは何かという考え方があったけれども、大体20世紀の初め、いわゆるフォーディズムが成立したころに、アメリカ人とは何かということについて新しい定義が生まれたと。

その定義というのは、要するにアメリカ人というものは、民族だとか文化だとか、そういうさまざまのものを振り捨てることによってアメリカ人になるんだと。では、何がアメリカ人のポイントかというと、要するにそれは中産階級として、いわばアメリカ的な生活様式を受け入れた人がアメリカ人なんだという、そういうアメリカ人の定義というか考え方というものが成立したと。

それがちょうど――これは古矢さんではなくて、例えば松原さんが『消費資本主義のゆくえ』という本の中で議論していることですが、ちょうど新しいタイプの消費文化というものの成立と軌を一にしていると。

つまり中産階級になるというのは、別に何か、さらに上のモデルがあって、上流階級のモデルがあって、それを受け入れることによってなるのではないんだと。それは19世紀的な中産階級の成立の仕方で、そうではなくて、あるスタンダードのパッケージを持つということが、中産階級になるということなんだと。

ですから、そこでは、かつてはラジオであり、T型フォード車でありというパッケージ、それが1950年ぐらいになりますと、郊外の芝生つきの家であり、車であり、テレビであり、日本の言葉で言うとシステムキッチンであり、そういうパッケージを受け入れることが、アメリカ人になるということを意味するようになってくると。いわばそういうものが世界に受け入れられていくというのが、私の言うアメリカ化ということなのですが、それがまずアメリカで成立したのだろうと思います。

その上で、アメリカの外交政策というか、アメリカの世界との関与の仕方ということを言いますと、2つのペアの概念が有用ではないだろうかと。

1つは、これはもうほとんど常識的なことですが、アメリカの世界関与の根底には、要するにアメリカというのは例外だという考え方と、アメリカというのは普遍だという考え方があって、それが裏表になっているわけですね。

ですから、いわば丘の上にいて、世界というのは汚れている、だからアメリカはその丘の上で新しい理想の社会をつくるんだという考え方があると同時に、いや、やはり世界に関与していって、そこをアメリカ化していかなければいけないという考え方がある。そういう裏表として、アメリカのエクセプショナリズムとユニバーサリズムというものがあると。これはアメリカ史を考える上ではいつも言われていることですね。

もう1つは、実はこれとすぐ混同されるのですが、私は概念的には区別した方がよいというのは、アメリカの少なくとも世界関与のもう1つの考え方として、リアリズムとリベラリズムの考え方があると。

リアリズムというのは、特にナショナルセキュリティーの問題で非常にはっきり出ていて、ここではバランス・オブ・パワー、勢力均衡でもって世界を見る。特に軍事の面においては、今のように圧倒的にアメリカが強くなると、行動の自由を縛られたくないために、当然のことながらユニラテラリズムでよいではないかという考え方になっていく。

それに対して、経済的には、幾ら強くなったって、要するに世界にリベラルな秩序をつくることがアメリカの利益であり、そのためにはアメリカの同盟国、あるいは経済をエンゲージしていかなければいけないという形になってくると。

これは国際関係論でよく言われることですね。リアリズムとリベラリズムというものは、アメリカの国際関係論の議論を整理するときに、まず最初にこれで腑分けしてしまうわけです。それで、ああ、この人はリベラリズムだとか、この人はリアリズムだ、あとはそれの組み合わせだという形で、国際関係の考え方というものを大体分類できるのですが、この考え方があって、この2つは違うわけですね。

ですからアメリカの場合、エクセプショナリズムが強くなることもあるし、ユニバーサリズムが強くなることもある。それから、世界に対するもう1つの考え方としては、リアリズムが強い政権もあれば、リベラリズムが強い政権もある。アメリカの政治というものは、そういう中で世界との関係で揺れていくと。

しかし、常にその基本には、いわば世界をアメリカ化していくということについての、多分非常に揺るぎない、ほとんど疑問のない考え方というものが根底にはあるというのが、私は、アメリカ帝国の基本的なイデオロギーではないかと実は考えております。

そこで、それではその"vs.ソ連"とレジメに書いたのは何かと言いますと、実は20世紀、冷戦の時代というのは、もちろんいろいろな考え方がありますが、1つの考え方は、あれはやはり人間の生活というものをどういう形でオーガナイズするのか、そもそも人間の生活とはどういうものかということについての、2つの考え方の対立だったと言えるわけですね。

そのときに、やはりソ連は「ソ連人」というものをつくろうとした。それで見事に失敗したのがソ連帝国の歴史で、そのときに、ちょうどそれと対応するような形で20世紀アメリカニズムというものが成立して、やはり20世紀のアメリカ人をつくると。その場合のアメリカ人というのは、アメリカという国民国家の国民であると同時に、いわば普遍的な意味をも持つ人たちなんですね。

ですから、例えば日本とドイツに対するアメリカの政策というのは明らかにアメリカ化の政策ですし、今、例えばイラクで――私は続くと思いますが――やろうとしていることも、これはアメリカ化の政策で、その場合のアメリカ化というのは、単に議会をつくって政治システムを民主化するだとか、あるいはマーケットエコノミーを導入するなどというところにとどまるのではなくて、やはりイラク人そのものをいわばアメリカ人として変えていくという、極めて長期のプロジェクトというのが、少なくとも前提としてはあると。やはり私はアメリカというものをそういうものとして考えた方がよいのではないだろうかということが、まず第1点でございます。

次に、では、そういう中で、日本と西ヨーロッパの同盟国というものはどうだったのかといいますと、私は、これはもう既にいろいろなところで書いていますので、ごく簡単に申し上げますが、冷戦の初期に西ヨーロッパの国々と日本は、やはりアメリカと非常に大きなバーゲンを――別にその当時はバーゲンではなくて、選択肢などなかったわけですが、後になって見ると、それなりのバーゲンをやったように思うんですね。

それはどういうことかといいますと、1つは、要するにソ連という資本主義システムそのものを、あるいはリベラルな政治秩序そのものを否定する帝国がある。そういう脅威から守ってもらうということが1つのバーゲンですね。

もう1つは、そのかわりに、その資本主義の国々の中では、あるいは資本主義経済の中ではアメリカの優位を受け入れるということがもう1つのバーゲンで、この2つのバーゲンがいわばパッケージになっているわけですが、それを受け入れたときに、いわゆる西側の同盟というものは基本的には成立していたのだと。

その中で、それでは同盟体制をどういう形で編成するかというところには、アジアとヨーロッパには非常に大きな違いがあった。これも既にいろいろなところで議論されていて、私も随分書いていますが、1つは、やはり西ヨーロッパの場合にはコレクティブ、集団的にやっているわけですね。安全保障の面ではNATOですし、経済の方ではEUになってくる。

それに対してアジアの方では、ハブとスポークと言われますが、安全保障体制というものはバイの関係として編成され、経済的には日本とアメリカと東南アジアだとか、日本とアメリカと韓国だとか、そういうトライアングルのシステムのいわば寄せ集まりとして、その経済システムというのは基本的には編成されていったと。

その意味で、非常に単純に言いますとコレクティブにやるか、ハブ・アンド・スポークでやるかという同盟体制のシステム編成の仕方には違いがありますが、いずれの場合にもバーゲンのレベルでは同じようなバーゲンがあったと考えています。

また、その結果何が起こったかとなると、やはり私は中産階級の成立ということが圧倒的に重要で、あるいはアメリカの、例えばインフォーマルな帝国が東アジアにおいてこれだけ受け入れられたということは、この地域に住む人たちがみんな豊かになって、これでいいじゃないかと思うから安定しているわけですね。

その意味で、日本で1960年代から70年代の初めあたりに中産階級が成立し、韓国だとか台湾、香港、シンガポールで1970年代から80年代に中産階級が成立し、バンコクとかクアラルンプールとかで今度は1980年代から90年代に成立し、今それが上海などに広がっている。こういう非常に何度も波のようにして中産階級化が進んでいますが、これはとりもなおさず、いわばアメリカの帝国的な秩序そのものが伸展していっているということと考えてよいのではないだろうかと思います。

ただ、その場合に、私はそれが単なるアメリカ化だとはもちろん考えておりません。日本の場合でも、日本人が1960年代から70年代にアメリカ的な生活様式を受け入れたことは間違いないですが、そのあげく、では、我々がアメリカ人と同じような生活様式を持っているかというと、それは例えば空間の制約1つとっても違いますし、輸入代替をやりましたから、そこで当然違うものが出てきます。それから、いろいろなテーストだとかなんとかというものは、はるかに深いものがありますから、やはりそれなりに日本化したアメリカの生活様式を受け入れた。

それを例えば韓国で言うと、今度はアメリカ化、日本化に加えて、それを韓国の人たちはもっとハイブリッドなものにしている。だから、東南アジアに行きますと、ますますそれが極めて重層的な中産階級文化というものが成立していっているように思います。

それでは第3番目に半周辺の問題に入りますと、そういう中で地域というものをどういう形で形成してきたのかということが1つの問題になると思います。ここでなぜ地域ということに私として関心を持つかと申しますと、非常に単純な理由でして、やはり冷戦終えん以降の世界秩序の基本的な編成単位というのは地域、地域システムではないだろうか、そういういろいろな地域システムがそれぞれの地域にできているところもあれば、もちろんできていないところもあると。

例えばヨーロッパにはEUとNATOを中心にした新しいシステムができ、今、同盟体制の再編成の問題があって、NATOの方は少しおかしくなっていると。もちろん維持できるかどうかはわかりません。私は維持できると思いますが、ともかくヨーロッパにはヨーロッパの地域秩序がありますし、東アジアには新しい地域秩序というものが成立している。中東などではそういう秩序というものは崩壊した状態になっている。南アジアには違う地域秩序があると。

だから、どうも世界秩序というものは、いわばそういう地域秩序の寄せ集めとして見た方がよいのではないだろうかということが、過去10年ぐらい、やはり国際関係論の中でかなりファショナブルになっている見方なので、私としてはそれを踏襲しているだけでございます。

では、その場合に日本が位置しているいわゆるアジア――これは東アジアのことですが――においては、どういう地域、地域システム編成の特徴があるのだろうかということが、その次の地域についての問題になりますが、大きく3つぐらいの特徴があるのではないだろうかと。

その1つは、これはもう先ほどから申し上げておりますが、やはりアメリカがつくった、そして現在も維持しているインフォーマルな秩序、それは特に安全保障の面におけるハブとスポークのシステムであり、もう1つ経済の方においては、やはりアメリカが圧倒的な市場、マーケットになっている。そういうアメリカを抜きにしては東アジアの秩序というものは考えられない、そういう特徴を持った秩序であるということが第1点です。

2番目は地域の形成ということですが、例えば東アジアという言葉1つとってもわかると思いますが、これは1980年ぐらい、つまり20年前に東アジアと言うと、今とは違う言葉だったんですね。20年前に東アジアと言いますと、それは――今でも歴史家はそうですが、要するにかつての中国文明圏が東アジアであって、東南アジアというのは東アジアとは違う地域と考えられていた。ところが、現在は東アジアと言うと、これはもう日本、韓国から中国、東南アジア、この全部を大きい意味での東アジアと言うようになりました。

それでは、この20年で何でそのように言葉の意味が変わったかというと、やはり一番大きな理由は、金融がグローバル化して、この地域をいわば1つの対象地域としてオペレーションをやるようになったということ。それから生産の方で、これは単に日本の企業だけではなくて、韓国の企業とか台湾の企業などが生産そのものを地域化していった、そこで地域的なネットワークで生産するようになったと。

ですから、その意味で、実はフォーマルに、例えばヨーロッパの場合にはドイツとフランスの首脳の間で合意があると、それに従って統合は進んでいったわけですが、そうではなくて、政治の意思など関係ないところで、極めてミクロの、企業経営者の決断で、いわばマーケットの力によって、気がついてみたら、地域は「地域」になっていたというのが、多分、東アジアの地域形成の2番目の大きな特徴ですね。ファンデーションはアメリカがつくっていますが、その上では、実は政府ではなくて企業がその主役だったんだと。

それから3番目に、その結果としてですが、気がついてみると、やはり中産階級が出始めていますね。あらゆるところで中産階級というものが成立し、非常におもしろいのですが、私はついに「アジア人」という新しいアイデンティティーが、これもマーケットの力によってつくられるようになっていると理解しております。

それはどういうことかと申しますと、要するに日本では日本の国内マーケットが大きいものですから、余り意識されておりませんが、例えば韓国の文化産業、テレビ番組の制作者は何を考えるかというと、要するに韓国の国内マーケットだけでは小さいものですから、例えばタイだとかマレーシアでも売れるようなテレビ番組をつくろうとする。

あるいは最近、日経新聞などでもちょっと出ていたと思いますが、例えば韓国で日本のテレビ番組が売れると、あれは北海道のどこかの町だったと思いますが、そこに韓国から観光客がわっと来る。あるいは同じようにして、韓国のテレビ番組が売れると、タイから大挙して、今度は韓国のどこかに観光客が行くとか、そういう現象が起こっているわけですね。

その結果、何が起こっているかというと、単に例えばタイ人が、ああ、これはいいと思うような人ではなくて、むしろもっとジェネリックな(総称的な)アジア人というものがタイのテレビ番組の主役になってきているし、そういう中で、私は、例えば日本の漫画とかアニメとかファッションも売れるようになっていると。それが1つのポイントです。

それからもう1つ非常におもしろいのは、例えば20年前ですと、タイ人というのは、やはりタイシルクだとか、タイフードだとか、いろいろなナショナルな文化とタイ人というアイデンティティーとはまだリンクしていたんですね。それは日本だって、富士山、芸者と言いますが、何か知らないけれども、日本の文化、ナショナルな文化と日本人のアイデンティティーというものはかなりリンクしていたと。

ところが、今になってみると、もうそんなことはどうでもいいわけですね。例えば、別にタイ人が日本製の車に乗って――これは今出ている『中央公論』に書いていることなんですが、イタリア製の靴を履き、フランス製のスーツを着て、アメリカ式のステーキハウスに行っている。それではタイ人ではなくなるかというと、そういうことは全然ない。そのタイ人であるというナショナルアイデンティティーというのは、もう文化と直接関係なくなってしまった。

そういう中でジェネリックなアジア人というものができてきていて、まだそれを政治的に使おうという政治家は出てきていないと思いますが、多分そうなるのは時間の問題だと思うんですね。

現にイメージとして、例えばどこでもアジア人というものが、それなりに文化的な商品の中でコンストラクトされるようになってくると、それをベースに、では我々はアジア人だからということで、今度はいろいろな政治的なプロジェクトを始める人たちは間違いなく出てくると思うので、その意味で、実は今は非常におもしろい転機に来ているのではないかということが、東アジアの地域化ということの3番目のポイントです。

もう1つだけ敷衍しますと、ヨーロッパの場合に、ヨーロッパの地域統合というものはどうやって進行したかというと、先ほど申しましたように私は基本的には共同の政治的な意思だったと思うんですね。

それはどういうことかというと、基本的にもう二度と戦争なんかしてはだめだ、戦争ができないようにしなければいけないということがドイツとフランスの政治指導者のいわば決定であって、だから、例えばドイツ統一のときには、これはユーロの導入とペアになっていたわけですね。フランスとドイツはそういう取引をして、あそこで一方で共通通貨の導入をやる、同時にドイツ統一を承認するということになっているわけですが、そのベースにあるイデオロギーは、要するに"我々ヨーロッパ人"というイデオロギーですね。

では、昔からヨーロッパ人というイデオロギーはあったかと。私はないと思うんです。例えば1940年代の後半だとか50年代の初めに、ドイツ人に"あなた方はヨーロッパ人だ"と言ったって、そんなことはだれも信用しなかったと思うのですが、50年たってみると、何かできちゃったと。
 同じように、どうもアジアにおいても初めて、そういう単なるマーケットではなくて、アイデンティティーのレベルで、ジェネリックなアジア人というものが形成されて、この2つの上に、多分政治的なプロジェクトとしてアジアの地域主義ということをやれるような条件が今できつつあるということがこの地域についてのポイントであります。

ただ、ここまではアメリカ帝国の、いわば中心から半周辺のところで、ここはそれなりに安定している世界ですが、その外には、戦後この60年間、非常な数の国民国家が成立したわけですが、実は形の上では国民国家だけれども、実質的に国民国家としての体をなしていない国というのは幾らでもあるわけですね。

その場合に、どういう形で体をなしていないかというと、これは私は大きく言って2つあると思います。1つは、国家が国民の基本的な正義というものを保障しない。つまり、例えば国家が国民を殺してしまう、そのために国民が国家というものを信用しないで、現にある国家とは違うような国家をつくろうとする、そういう意味での国家の破綻というものはいろいろなところで起こっております。

もう1つは、国家が国家として国民を統治できない。それは、先ほどちょっと福川さんと話していたのですが、例えばインドネシアの場合、今、インドネシアの軍隊は、これはスハルト時代からずっとそうなんですが、予算で実際に賄える部分は30%から35%なんですね。あとの65%から70%はインフォーマルファンディングだと。要するに軍が予算の外で、オフバジェットでいろいろなビジネスをやって、そこでの上がりで賄っている。

ところが、経済危機の中で、軍がもともと持っていたビジネスはほとんど破綻してしまった。その結果、もう真っ当な、リーガルなビジネスからはおカネが入らなくなってしまって、何をやっているかというと、もっと下のレベルで、例えば木材を伐採して中国に密輸出して、そこの上がりで軍を賄っているだとか、もっと末端に行きますと、麻薬の密売、あるいは賭博の用心棒を軍がやって、そのおカネで軍のオペレーションをやっているだとか、そういうことが、例えばインドネシアあたりでも既に起こっていますし、もっと南の方へ行きますと、ますますそれがひどくなってくる。その意味で、破綻国家というのはいろいろなところで、やはり相当深刻な問題になってきていると。

これも、多分50年前だったら余り問題にならなかったと思うんですね。例えばインドネシアあたりで、それも中心ではなくて周辺の方で秩序が破綻して、そこで強盗だか何かわからないようなやつが政権を握ったって、あるいはアフリカのどこかで、ボカサとかなんだとかが出てきて勝手なことをしたって、それは別に世界の大勢にとって、かつてはどうということはなかったと。

しかし今は、1つはアフガニスタンではっきり出てきたように、そういう国家の予算からいっても非常に小さいところにテロリストのグループなどが入ってくると、それ自身が世界的な脅威になるということが1つ。それから、こういうグローバル化の時代ですから、そこから人がいろいろな形で流れてくる。ですから、それはもう他人事では済まされなくなってきています。

だから、その意味で破綻国家の問題は、やはりこれからますます世界的な問題になってきて、それを少なくとも9・11というのは非常にはっきり、どうも野蛮人がいると。野蛮人と言うと余りに露骨なので、私は少しオブラートに包んで"化外の民"と言っていますが、それはアメリカでは、明らかに今は、ひげ面の、あめ色の肌をしたアラブの人たちは、かなりはっきりと野蛮人と見られていると思いますし、それはプロファイリングを見ればはっきりしていますね。シンガポールなどでも同じで、シンガポールのセキュリティーでアラブと言うと、もう完全に別扱いされていますからね。

そういう中で、人間のレベルでも化外の民というのははっきり出てきて、それから国家のレベルでも、ならず者国家だとか、破綻国家だとかいうものが、いわばそういう脅威として認識されるようになってきている。

では、どうしたらよいのかという話になりますが、いかにアメリカが強力でも、常に力の限界というものはあるわけですね。力の限界のところで自分の思いどおりにならないものが出てきたということは見えるわけです。それが化外の民だと。

だから、何か客観的にそういうものがある、それも確かにそうなんですが、同時に、いわば認識の1つのパターンとして、力の及ばないところにはそういうものが出てくるということがそもそもある認識なので、これを全部平定して文明化しようなどとしたら、とてもリソースは足らない。だから、結局それとは一緒に住んでいくしかない、我慢するしかないというのが、実は私のもう1つの考え方であります。

その結果、もう終わりますが、いわばアメリカの秩序というものは今どういう形で成立しているのかというと、やはり明らかに中産階級の帝国という形で成立しているだろうし、そこでの基本的なポイントは、要するにアメリカ人であるということが中産階級であるということであり、そういう基本的な考え方の中でとうとうとしたアメリカ化というものは進行していると。

私はこれがこれから10年とか20年でとまるとはおよそ考えられません。やはりこういう問題は、少なくとも50年だとか100年ぐらいの単位で考えた方がよいので、少なくとも私が生きている間、あるいは私の子供が生きている間くらいは、こういう時代は続くだろうと。

ただ、その中で1つ非常に気になっていることは、それでは中産階級になるとアメリカ人になるのか、あるいは中産階級化するということとアメリカ化するということ、ということは要するにアメリカ的な政治システム、経済システム、あるいは生活様式というものをいろいろな形でモディファイしながらでも本当に受け入れていくのかというところで、アメリカ、ヨーロッパ、東アジアを別にすると、どうも1つ大きな問題がある。

それは、例えばイスラムに非常にはっきりあらわれているのですが、神様は死んでいないわけですね。ヨーロッパの場合には神は死んだわけですし、日本の場合には神様というのは余りいっぱいいますので、いてもいなくてもどうでもいいと。しかし、イスラムの場合には神様というのはいまだにおります。

そういう中で、特に国家が破綻する、あるいは国家が国民に正義を保障しないようなところでは何が起こるかというと、常に彼らはコーランに戻るわけです。ということは、要するに神の言葉というのは、もちろん絶対的な真理ですから、そこからいろいろな答えを引き出そうとしてくると。

私は、これは単に中産階級化すれば変わるという話ではないと思います。なぜかというと、例えばマレーシアはこの20年間で物すごく中産階級化しましたが、同時に、みんな敬けんになっているんですね。なぜかというと、かつてはムスリムであるということは自然に、生まれたときから、要するにあなたはムスリムで、こういうことをしなければいけないと教わったから、それをやっていたのがムスリムであったわけですが、中産階級化して豊かになって、例えばもう30歳ぐらいでメッカにまで行けるぐらいの所得を身につけ、教育も身につけると何をやるかというと、やはりきちっとコーランを読むんですよ。それも1回、2回ではなくて、あの人たちは本当に毎日読むんですね。

それから、メッカへ行って巡礼の経験をしますと、やはり本当に人が変わって帰ってくるんですね。そういう中で、実はイスラムというものを極めて自覚的に受け入れて、そういうレンズでもって、単に宗教だけではなくて世界を見る人たちというのは、やはり私はこれからもふえてくる、むしろ中産階級化すればするほど、そういう人たちはふえてくると思います。

それは単にイスラムだけではなくて、例えばヒンズーもそうだと思うんですね。インドの中産階級化ということと、いわゆるヒンズー原理主義というのは、私は決して無縁ではないと思います。

だから、そういう形で必ずしも神の死んでいない地域があって、そういうところで、実は20世紀アメリカニズムのようなものが、ひょっとしたら非常に大きな挑戦を受けるのかもしれない。私は、どうもそれは単なる、例えばサミュエル・ハンティントンが言っているような非常にスタティックな文明の衝突の概念ではなく、むしろアメリカ化のプロジェクトが進めば進ほど、逆にそれに対する疑問などが、こういう極めてファンダメンタルなところで出てくるような構造があるのではないだろうかという気がしております。

何か非常に雑駁ですが、一応これで私の話を終わらせていただきたいと思います。

福川 どうもありがとうございました。大変すばらしいお話でした。それでは皆さん、どうぞご意見をお願いします。

谷口 イギリス化のプロジェクトとアメリカ化のプロジェクトは、お話から想像するに、やはり工業力、生産力のレベルの違いを反映して、スタンダードパッケージが世界に広がるような中産階級の帝国として存立し得たかどうかという、そこに違いを求めるべきなんですかね。

白石 僕は19世紀のイギリス人は、世界をイギリス化しようなどということは全然考えていなかったと思うんですね。例えばイギリスのインド支配などを見ると非常にはっきりしているのですが、要するにあれは違う人種なんですよ。だから、あれをイギリス人みたいにしようなどということを考えること自身妙な話だという、ある意味では非常に冷徹なリアリズムの上に、イギリスの帝国支配というものは成立していたと思うんですね。

アメリカ人は全く逆でしょう。つまりアメリカ人にしたいわけです。というか、アメリカという国自身がそういう国ですからね。それを疑問の余地なく外に拡大していくというのが、実はアメリカの基本的な帝国の特徴だと。

だから、イギリスは極めて自覚的に帝国建設をやったのですが、僕はアメリカ人は、もちろん考えている人がワシントンにいるのはわかりますが、アメリカ人の国民的なコンセンサスとして自覚的に帝国建設をやっているかというと、私は全然そうではないと思うんですよ。むしろアメリカ化という形で極めて無意識のうちに、善意でやっている。

夏川 それはどこから出ているんですかね、西部の方へずっと攻めていったのと同じですかね。

白石 僕はやはりアメリカというのはそういう国なのだという説明しかできないと思っているんです(笑)。

夏川 キリスト教ということでもないですね。

白石 そうではないと思いますね。ですから、先ほどちょっと丘の上の理想の国というふうな比喩的な言い方をしましたが、こういう発想はアメリカの独立の前から既にあるわけですね。そもそもヨーロッパの汚辱にまみれた世界からアメリカに来て、そこに自分たちの理想のコミュニティーをつくるんだという考え方は本当に最初からあるわけですね。それはいまだに脈々と、形を変えてつながっていると。

何で私がこういうアメリカ化みたいなことを言うかといいますと、結局大きい国――大きい国というのは実は日本もある程度そうなんですが、かなり無自覚に自分たちの持っている制度だとか文化だとか規範というものを外に出していくわけですね。アメリカというのは圧倒的に力が強いですから、やはりそれだけ圧倒的にやるわけですよ。

では、それは何でそうなのかというと、それはアメリカという国はそういう国なんだとしか、僕はちょっと言いようがないかなという気はしているんですけれどもね(笑)。

谷口 すごくダイナミックな世界観を伺った感じがするのですが、このジェネリックなアジア人に関して2点、中国人のアイデンティティーがこのジェネリックなアジア人の中にすっぽりおさまるのかということと、それから、直観的に言うと、日本人というのはヨーロッパにおけるイギリス人がどうしてもジェネリックなヨーロッパ人というものに対する違和感を残してしまうように、アジア人というジェネリックなものに対して違和感を残してしまう、端パイとして残り続けるのではないかという、これは直感ですが、この2点を......。

白石 例えばヨーロッパにおいても、ヨーロッパ人というアイデンティティーと、それから例えばドイツ人であるとかフランス人というアイデンティティーと、あるいはもっと下のアイデンティティーと全然矛盾しないわけですね。

谷口 バスク地方とか......。

白石 人間というのはそういうものだと思うんですね。ただ、それが意味を持つのは、だれか政治家が出てきて、あるレベルのアイデンティティーが政治的に非常に意味があるんだということを言って、それが何らかの理由で受け入れられますと、そのときにアイデンティティーポリティックスというものが始まるわけですね。

だから、何かアイデンティティーが違うから国はだめになるとか、多民族国家だから国民国家ができないだとかいう手の議論はありますが、私はああいうスタティックな議論というのは大体全部間違っているという気がしているんです。

つまり、政治というのは常にエージェンシーの問題がありますから、意図的に、やはりプロジェクトとしてそういうことをやる政治家が出てきますと、それが政治的に意味を持つわけですね。

私がジェネリックなアジア人のアイデンティティーを重視していますのは、例えばそういうものは20年前にはなかったわけですよ。なかったから何をやったかというと、いや、歴史的に我々は同文同種だとか、何かいろいろな無理をしたわけですが、どうも説得力がなかったと。

しかし、ひょっとしたらこれから20年ぐらいのうちには、こういうジェネリックなアジア人のアイデンティティーというのが、現にできてしまって、みんなそうだよなという形になって、それを踏まえて政治的なプロジェクトというものは可能になるかもしれない。そういうことなんですね。

谷口 そうすると、僕の第1番目の質問というのは、中国人のアイデンティティーとジェネリックなアジア人のアイデンティティーというのはうまくおさまらないのではないかという前提のもとだったのですが、そういう前提は......。

白石 だから、それは政治的にどういう形のプロジェクトを組むかによって、できるのではないかと。

谷口 つまり、中国が我こそはアジア人なりと言って、中国的なフレーバーをそこに強く持ってくるということもできるわけですね。

白石 そういうことですね。実際問題として、これは政治ではないですが、文化のレベルでは、今、台湾などは大成功ですよね。あれはF4という、要するに大して歌はうまくないのですが、すごくかわいい男の子4人でグループをつくって売ったら、爆発的なんです。例えばマニラとかジャカルタで本当に数万人を集めてコンサートをやって、けが人が出るとか、そのくらいの熱狂ぶりなんですね。これも10年前だったら考えられなかったです。

しかし、それを事業としてやれる素地というものはありますし、それを台湾とか香港の人たちはかなり意識的にやっている。多分上海などもそのうちに始めるでしょうね。

コール これはもうヨーロッパでは非常におもしろくて、そのアイデンティティーの問題は、オールドヨーロッパとニューヨーロッパのことなんですね。ポーランドとかチェコ等、本当にやはりドイツ人とかフランス人とちょっと違うヨーロッパのアイデンティティーは必ずあるわけなんです。

白石 そうですね。

コール だから、そのプロジェクトは、拡大のことは、やはりそんなにスムーズに行けるかどうか......。

白石 スムーズに行くかどうかはわからないです。ただ、いや、きょうの私の話というのは、短く見ても数十年という話をしておりますので......(笑)。

入山 どうなんでしょうね、アメリカ化というか、中産階級化というか、一種同じパターンに向かっての動きみたいなものがあると同時に、先生が最後におっしゃったように、また割きみたいに違うんだよということが表に出る、あるいは、違っているのは当たり前ですから、そのまた割きがどの程度物すごいことになるのか。ここしばらく、20年か30年は先生のおっしゃる波に乗っかる方が表に出て強くなる。ただ、それから徐々に徐々にまた割きの別の部分が表に出てきて、もう1回分かれていく方に向かうとか、そういう傾向というのはどうなんでしょうか。

白石 それは私の言葉に翻訳しますと、やはりこれから21世紀の資本主義というものがどのくらい活力を持ち得るかということにかかっていると思うんですね。つまり、先ほどアメリカニズムというのは中産階級化でもあるんだ、アメリカニズムにおいてはアメリカ人と中産階級というのは、いわば同一視されたと。アメリカ化というのがそのプロセスだと言いましたが、その基本にあるのは、やはり20世紀の初めにアメリカで生まれた資本主義であるわけですね。

それが、いわば日本でも、日本的な形で採用され、ヨーロッパでもやはりヨーロッパ型の資本主義として採用され、だけど大量生産型の資本主義として20世紀を席巻したわけですね。それで、今ひょっとしたら新しい資本主義が生まれつつあるのかもしれませんが、それがどのくらい力を持っているかによって、やはり中産階級化というものがこれからも進めば、20年とか30年のスパンで見ますと、やはり人間というのはだんだん似てくるのではないかなという気はします。

例えば50年前と今を比べますと、日本人とアメリカ人というのは、今の方がはるかにいろいろなものを共有していると思いますし、これから50年先、経済成長がある水準で続けば、やはりますます共有するものは多くなっていくだろうと。だから、その意味で世界は、世界じゅうの人たちというのはだんだんよく似てきているだろうとは思うんですね。

ただ、その中で、それでは同じになるかというと、そんなことはない。常に生活のスタイル1つとっても、そのハイブリッドなものはそれぞれの地域で出てくるだろうと。私が先ほど申しましたのは、そういう中でどこに、かなり重要なディバイドがあるかということを考えると、どうもそれは神が生きているか死んでいるかではないかなというのが......。

入山 必ずしもハブズとハブノッツではないと。

白石 そうではないと思いますね。ハブとハブノッツの問題というのは、それなりに経済成長が進めば、沸騰点以下に抑えられる話であるわけですね。確かにマクロで見ますと、今は所得の格差はどんどん開いていますが、同時に、例えばそれでは第三世界の人たちは完全に貧しいところで運命づけられているかというと、必ずしもそうではなくて、やはり豊かな国の方へ来るわけですね。国として発展できなければ個人が足でもって動いてきて、こちらの方で少しでもよい生活をしようということをするわけで、その意味では、私は必ずしもそういう階級の問題は、そのものとしては大きな問題――もちろん大きな問題なのですが、世界そのものに対する脅威というふうには思わないですね。むしろ、それはある意味では今のアメリカ的な、アメリカを中心とする秩序というは、ある程度処理し得る問題ではないかという気がします。

入山 ここから先はもう夢物語になるのですが、では、アメリカの時代が終わった後は、何年か後にはきっと終わるのでしょうから......。

白石 まあ、それはそうですね。

入山 どんな話になるんでしょうか。

白石 いや、あまり自分の死んだ後のことを考えてもしようがないという......(笑)。

入山 それはそうだ。

福川 先生、夏川さんがおっしゃったことと関係するのですが、人口の動態変化が、
50年、100年では相当大きく起こります。アメリカでもヒスパニックだとかアジア系だとかイスラムだとか、こういう人たちが増えてきますね。そういうものは全部吸収しながら、さっきおっしゃったアメリカ化という現象があるとすれば、それは何だろうかという、さっきのご質問に戻るのですが、そういうことが一体サステイナブルなのかどうかということが1つ。

それから、それはアメリカの社会の中の話ですが、今度は世界の中で、さっき終わり近くのころに先生は、アメリカのシステムというか、アメリカ化というものがほかから攻撃をされるかもしれないとおっしゃったわけですが、全体の中で、今、イスラムというのは、人口で言うと非常に急速にふえているわけですし、これは1つには、そのイスラム系の人たちの人口増加率が高いということと同時に、やはり人間が神に救われたいという意識が高まるかもしれない。イスラムというのは神対個人で、その間に教会とか、余計なものはない――余計というか(笑)、ないわけだから、それでやはり救われるという意識はあろうし、今現にアメリカ人の中にもそういう意識があって、イスラムになっていく人もいるわけです。

そのように、これからはいろいろな技術文明が進んでいって、人間というものがどうなってしまうかわからないといったときに、今度やはり、そういう何かに救われたいという意識が高まるかもしれない。そうなったときには、世界の動きというか意識が変わってきて、やはりアメリカ化というものが攻撃を受けるかもしれないと。

この人口の動態変化というものをいろいろ加味したときには、今の先生のトレンドはどのようになるんですか。

白石 いや、これは非常におもしろい問題でして、フランスの社会学者でバラダンという人がいまして、この人はやはり帝国論のはしりの『自由の帝国アメリカ』という本を書いて、NTT出版から出ていますが、その中で彼が言っていることは、まさにその人口の問題で、アメリカというのは、これから例えば、彼は50年ぐらいのスパンで見ていたのですかね、やはりどんどんヒスパニック化するしアジア化すると。そういうことになったときに、例えばアジア・太平洋というのは、やはり人口学的にも、むしろ均質化の方向に行くというようなことをちょっと言っているんですね。

だから、今の私の持っているイメージで言いますと、アメリカを中心にして西ヨーロッパと東アジア、この地域はかなり人口的にも、アメリカのアジア化、あるいはアジアのアメリカ化が進行すると思いまして、それが長期的に考えて、余り破壊的な影響を持つようにはちょっと思えないんですね。

それに対して、先ほど神の問題を申し上げておりますが、マックス・ウエーバーの"魔術からの解放"という言葉を使いますと、こちらの方は、何かもう少しきちっと考えなければいけないのですが、そう簡単な話ではないだろうなという気はしております。ですから、それがイスラムのところでかなり集中的に出てきているとは思いますが......。

福川 そうなると、今度ヨーロッパというのはどういうことになるんですか、アメリカのアジア化か、アジアのアメリカ化が急速に進んで......。

白石 やはりアメリカ化は進むのではないでしょうか。

福川 ヨーロッパもアメリカ化が進むと。

白石 ヨーロッパもアメリカ化が進むと思います。ただ、ここは非常に短期的な話で、やはり冷戦の初期に行われたバーゲンが、もうバーゲンの条件というものはなくなったわけですね。ソ連というものはなくなりましたから、別にアメリカによって何かの大きな脅威から守ってもらわなければいけないということはなくなっているわけですね。

ですから、その意味では、まだ日本というか、東アジアの場合には北朝鮮がありますし、もっと大きい問題として中国の問題があって、中国がこれからどういう国家になっていくのかということを考えますと、やはり実は日本などはアメリカに保護してもらわなければいけないということは非常に重要な問題としてありますが、ヨーロッパの場合には、それが本当になくなってきまして、そのときに、では、冷戦の初期につくられた同盟体制というものを本当にこれから維持することができるのだろうか、そういう国民的な説得ということはできるのだろうかということは、僕はかなり深刻な問題だと思います。

これはイラクの問題をきっかけにして出ましたが、これに本当に国民的合意が成立して新しい同盟体制ができるまでには、かなり時間がかかるのではないかという気がしますね。これはもっと短期の問題ですけれども......。

「第1回 言論NPO アジア戦略会議」議事録 page2 に続く

福川 皆さん、おはようございます。きょうは第3回のアジア戦略会議フォーラムでございまして、今回は、かねてからご案内申し上げておりますように、大変お忙しいところを京都大学教授の白石先生にお越しいただきました。