明石康氏 「市民社会や多様な議論が対抗力になる社会が必要です」

2008年6月16日

市民社会や多様な議論が対抗力になる社会が必要です


 かつて『エコノミスト』に掲載された記事は海外の一部のメディアの特別な評価ではなくて、海外に一般的に見られる日本に対する大きな疑問の一部だと思います。

 私は先月、スイスのチューリッヒの近くにあるサンガレン大学のシンポジウムに出て、平和維持の問題に関しパネリストとして話してきたのですが、そういう場でも海外の財界人・経済人が「日本経済はどうしたことか」と言います。

 そのうちのひとりは、バブルがはじけてからもう10数年経つのに、日本経済は相変わらず1から2パーセントの成長率で元気が無い、中国やインドに比べてあまりにも後退していると言っていました。

 かつて国連の職員をしていた時と違って、私も今は日本人として行動しているわけですから、海外にいくとこれはまずいな、といつも思って帰ってくる。

 それをさらに掘り下げると、日本社会の中にも「少子高齢化社会に入り、福祉関係の重荷が今後のしかかってきて、明るいことはあまりない」という重苦しい空気がある。さらに、日本は清潔で治安も良く、交通機関が発達し、リスクもないし一応の生活ができるから、という安心感が足かせになって、日本人は閉鎖的になり、世界的にものを見ようとしない。

 それが政治の世界にも反映しているし、マスコミの世界にもそれが見られる。

 日本全体が高齢化、人口減少とか様々な課題に直面しているのに、日本の政治はそれに答えを出す仕組みになっていない。ただし、答えはあるはずです。「働ける高齢者や女性の才能の活用」や「国民一人一人の生産性向上」、「スキルを持った移民の計画的な受け入れ」など。単純なひとつの答えではないだろうが、問題解決の道はないことはないのに、日本は自ら孤立し、ひとりで暗いイメージのなかに閉じこもってしまっているように思える。

 日本人自身が「この国には将来がない」と思いこんでいるから、海外のメディアなりシンクタンクの論調も、それを反映している。外国人だけが日本の将来を悲観しているわけではない。

民主政治に見られるポピュリズムをどう押さえ込むか


 工藤さんが指摘した「今の日本の政治が国民との合意で動いていない」ということも、そう言い切れるかは別として、日本の政治にポピュリズムの傾向が強まっているということはその通りだと思います。ポピュリズムの傾向は今の国会のねじれ現象よりも前から指摘されていました。それはやはり、民主主義社会におけるマスコミの役割というものを考えると、ある意味で避けることのできない傾向のせいだと思います。

 アメリカ外交史を読むと、1898年の米西戦争でアメリカはスペインからキューバを取り、フィリピンも植民地化しました。その背景には、スペインの政策に悪いところがあったというより、アメリカの国内で「スペインをやっつけろ」という風潮が出たことがあります。特にニューヨークでふたつの新聞の販売競争があり、キューバにおけるスペインの「圧制」なるものをいろんなかたちで取り上げた。それはまさにポピュリズムでした。どちらかの新聞の特派員が「キューバは穏やかで何も事件は起きていないのでニューヨークに帰る」と電報を打ったら、編集局長から「事件がないならつくれ」という無茶な指令が下ったということが、アメリカで信頼されるS.M.ベーミスの外交史に書かれている。

 アメリカの憲法がつくられたのは1787年、フィラデルフィアの憲法制定会議ですが、この議事録のようなものが残っていて、これが実に面白いんです。テレビもラジオもなかった時代の、歯に衣着せぬ民主主義論がそこで語られています。B・フランクリンとかA・ハミルトンとかJ・マディソンとかいう連中が言っているのは、「民主主義は直接民主制とは違う」ということです。「やはり代議制が真の民主主義である」ということで、アメリカの大統領選挙も上院の選挙も最初は直接選挙ではなかった。むしろ直接選挙と民衆のもつ情緒性に対する不信感が根強かったのが、アメリカ民主主義の本来の伝統なんです。

 民主主義にはある段階でセンセーショナリズム、ポピュリズムをもつ傾向がみられます。民主主義が本質的にそうだということではないが、ポピュリズムに陥りがちです。ポピュリズムはわかりやすいし、大衆にアピールできる。ただ、選挙で浮動票を取るには妙手なんでしょうけども、それは決して褒められたものではない。本来の市民の熟慮や議論に基づく民主主義という見地から言えば、邪道だと言えると思う。

 だからこそ、ポピュリズムに対するアンチテーゼとなりうるような市民社会、多様なオピニオンというものを、市民の側が対抗力として持てるかということが問題です。

市民社会の弱さがこうした事態を招いている


 アメリカやイギリスのような成熟した民主主義の国でさえもポピュリズムの状況になるわけですから、日本やドイツなど、より若い民主主義の場合にはその問題がより大きいし、またドイツより日本の場合のほうが大きいと思います。

 市民社会というのは何世紀かの成熟の期間を経て、たとえば中世に教会が絶対王政への抵抗力になっていったような歴史が日本にはない。「中産階級」と「市民社会」は違うし、市民社会の内容も国によってことなる。カンボジアは発展途上国でありながら、NGO(非政府機関)が日本よりも社会に根を張っていると思う。マオイストによる反乱を経て、王政を倒し新しい議会政治を発足させたネパールにも、市民社会といえるものが平衡力として作用したのではないか。

 今の日本の問題が政治にあるのだとすれば、それを許している市民社会の機能を考えなくてはならないと思います。

 まず日本に「市民」というものができているかどうかということが問われなくてはならない。「市民」というものが日本では何となくまだ薄っぺらで、キザでバタ臭く、個々の人間の手垢に滲んだ感じがない。私はよくノルウェーの人と協議するんですが、ノルウェーは小さな国で人口も500万ほどだが、日本にないような大きなNGOが5つある。このNGOは政府から金をもらって行動するがそれで卑屈になることはなく、必要なときは政府をサポートし、必要なときは政府と別に行動する。それがあの国の国際的な動きに厚みを与えている。これに対し日本のNGOは小さいけれどもキラリと光りたいというNGOばかりで、残念ながら自分の力で国際的な大きな行動を起こそうというものがない。私は国連時代に、各国の大きなNGOの代表者と話をする機会がよくあったが、日本を代表して来るNGOは宗教団体だけだった。

 市民なり有権者そのものが日本の政治に責任を持つ、というようなプレッシャーがない状況はなかなか変わらない。それだけの経済的な力も、社会的なプレステージもないし、知的な厚みもない。その全てがそろったものが市民社会なのではないのでしょうか。こうした市民社会の弱さがいまの日本の政治の状況を招いているように思います。

権力を取るだけの政治ではあまりにも寂しい


 今の日本の政治を考えれば、これはやはり有権者自体の態度が問われているように思います。たとえば、公共サービスには必ず「受益と負担」があるという問題を今の日本の政治家は避けていますが、いつまで避けられると思っているのか。政治家はこの問題をバイパスし、避けてタブー視しなければいけないと思い込んでいて、国民に説得・働きかけをする努力をしていない。

 財政破綻の問題にしても、消費税なのか福祉税なのかはわかりませんが、これが今の倍以上にならないと日本の財政が破綻することはわかりきっているのに、政治家はみんな猫の首に鈴をつけるのを躊躇している。猫っていうのは国民ですが、政治家は国民が怖いのです。国民を怒らせると選挙で負けますから。だから国として日本はそんなにまずしい国ではないのに、財政が困窮するという状況を招いている。

 だから、日本が背負った課題解決や負担を語らずに、国民が受けるサービスしか語らなくなる。選挙が近いならばなおさらです。ポピュリズムの政治のなかでみんなが動いている。それは根底で国民をばかにしているからとしか思えない。国民の知恵を恐れているのなら、もっと真剣に説得しようとするはずです。しかし、決してばかにできない判断力を日本の国民は持っているのではないかと私は思います。

 アメリカの政治学の教科書を読んでも、政治は権力を取るためのひとつのテクニックだと書いてある。しかしそれだけでは非常にさびしい話です。では何のために政治家が権力を取るのかということになれば、どうしてもヴィジョンや価値観、理念・理想というものが必要になってくるわけで、そういうヴァイタルで長期的な国家利益は一般国民にはなかなか見えないわけですから、それを見る眼力を持ち、それについて国民を説得する能力を持った人が、政治家として出てこなくてはいけない。

 今は国民にそうした考えを説明した方が健全な政治なのです。僕は小沢さん(一郎、民主党代表)は国の大きな在り方について語るようなタイプではないか、と思っていたが、選挙を勝つ名人みたいに祭り上げられて、ご自身がどう考えているかはわからないが、選挙だけを意識する方向に走っている印象を与えている。

 小選挙区制が一切の悪だとは思わないが、政治家に聞くと、やはり小選挙区制の包含する問題を指摘する意見がかなりある。というのは、選挙民の過半数の票を取らなくてはならないので、ありとあらゆる人に語りかけて票を集めようとする。総投票数の20%か30%取れば当選できるものではなくなっている。そういう世知辛い状況になってきて、個々の政治家のカドが取れてきて、みんなツルツルの丸い政治家になってしまった、と言います。本来はイギリスあたりがひとつのモデルになったのでしょうが。

 イギリスの場合も最近は保守党と労働党の立場が接近してよくわからなくなっているし、日本はもっと曖昧です。民主党は平均点を取れば自民党よりは左でしょうけれども、自民党より右にいるような議員だってたくさんいるし、この点日本の場合は非常に曖昧な状況に留まり、政党のよって立つ立脚点をより分かりにくくしている。

日本の政治はどうしたら変わるのか


 現在の日本の政治状況を変えるためには、有権者自身が変わるしかないのですが、そのためには政治を再び国民が取り戻すことしかないことになるのでしょうか。

 第1に政治家は、選挙のことを語るよりも日本の直面している根本的な問題や課題について国民に語りかけ、一緒に考えるべきだと思う。

 第2に、国民の側からも、小泉さんの時代にあったようなワンフレーズの政治ではなく、日本の国がいろいろな意味で究極的に困った時点にきていること、それは国際的にも国内的にもそうなんだということを、もっと開放的な雰囲気の中でじっくりと語り合うことが必要です。政治家の言ったことを鵜呑みにしないで、自分たちのなかで政治家の言動を冷静に語り合う場を数多くつくる。国民ひとりひとりが「何が自分の真の利益なのか」を考えるようになればいいわけです。

 第3に、メディアもまた、読者が何回も読みたくなるようないろいろな特集を行ったり、最近の新聞がよくやるように2つか3つの対立した考えを1ページに載せるような紙面をもっと増やし、単なるファクトとか細切れの事実、面白おかしい言論や揚げ足とりではなく、個々の政治家の基本的なものの考え方とその論議を国民が考え吟味する材料を提供していくべきです。

 僕は本屋に行くといつも憂鬱になるのですが、いろいろな本が表紙でアメリカをやっつけたかと思えば今度は中国をやっつけたり、単純で勇ましい議論を起こすような本ばかりがたくさん並んでいる。日本人はもっと成熟した国民だと思うのに、どうしてこういう単純で情緒的な本が氾濫しているのか不思議です。こんなはずではないのに、という思いをいつも持つのです。

 もちろんすべてに呆れているわけではありません。私が出演したあるテレビのニュース番組では時間をたっぷりかけてしっかりした骨組の解説的なものをつくっていました。言論NPOも市民の間でたっぷり異論を交わしあえる討議の場を作って議論をしようとしていると信じます。そういうものが増えてくると、厚味のある重層的な知識にもとづいた政治の出現にも希望が持てるようになるでしょう。

発言者


080304_akashi.jpg明石 康(NPO法人日本紛争予防センター会長)
あかし・やすし

1957年日本人で初めて国連事務局に勤務。'79年に事務次長に就任。'92年カンボジア暫定統治機構、'94年旧ユーゴスラビアの事務総長特別代表を歴任。現在、スリランカ平和構築担当日本政府代表、NPO法人日本紛争予防センター会長,(財)ジョイセフ(家族計画国際協力財団)会長などを務めている。著書に『国際連合 軌跡と展望』(岩波書店)『戦争と平和の谷間で―国境を超えた群像』(岩波書店)など


 かつて『エコノミスト』に掲載された記事は海外の一部のメディアの特別な評価ではなくて、海外に一般的に見られる日本に対する大きな疑問の一部だと思います。私は先月、スイスのチューリッヒの近くにあるサンガレン大学のシンポジウムに出て、平和維持の問題に関し