【論文】ポピュリズムと小泉政治

2001年8月13日

yamazaki_m020222.jpg山崎正和 (評論家)
やまざき・まさかず

1934年生まれ。56年京都大学文学部哲学科卒業。京都大学大学院美学美術史学博士課程修了。関西大学、大阪大学教授を経て、現在東亜大学学長。劇作から文芸評論、社会論まで活動領域は広範囲。主な著書に『柔らかい個人主義の誕生』『大分裂の時代』『歴史の真実と政治の正義』等。

要約

「ポピュリズム」には共通した性格がある。人々の怨恨、嫉妬を刺激して、その支持に乗って、より恵まれた階層を攻撃するという形をとり、参加民主主義というか、草の根階層の声を政治に直接反映するという形式をとることだ。こうした歴史的な経験から、ポピュリストの政治手法をまとめると以下のようになる。

■ ポピュリストに共通した政治手法

第1に、彼らは民衆の感情を刺激し、理性よりも情念に訴えるという形をとり、しかも、その情念は反感、あるいは嫉妬という点に絞られ、その対象として敵を必要とする。

第2に、ポピュリストが勝利をおさめていくとナンバーツーたたきという形をとる。そして、ポピュリズムが勝利をおさめたうえで、法的、制度的な改編を行って、勝利の結果を永久化するとファシズムになる。

第3に、ポピュリズムはその形成過程において、その目的を実現するための手続き、過程、制度というものを無視するやり方をとり、あらゆる制度、手続きというものを、むしろ目的の敵として攻撃する。

■ 民主政治とポピュリズム

このポピュリズムというのは、皮肉なことに民主主義、あるいは民主的政治制度の鬼子だともいえる。民主主義というものに、本質的な問題構造が秘められているためだ。

私たちはこの民主制度そのものの中に根源的な危険が潜んでいるということを知って、それにブレーキをかける仕掛けをつくることが大切である。その意味で、直接民主主義、案件ごとに国民投票を行うという政治は極めて危険で、まさにポピュリズムに道を開くものと考える。政治的な議論の場が防波堤 私は、直接民主主義とはまったく違う意味で、古代のアゴラやアメリカ建国期のタウンミーティングのような政治的制度、あるいは仕掛けが必要だと考える。要するに人々が集まって自分の感情形成を行う社交の場をつくるということだ。お互いに語り合い、批評や反論をしあいながら自己を形成していくというのが本来の健全な姿だが、現在の民主制度の中では、そういう場所が用意されていない。政治的対話のフォーラムが生まれ、それが知的に洗練されていくことが、ポピュリズムに対する最大の防波堤になる。小泉政治はポピュリズムか 小泉内閣に対する非常に大きな支持というのは、私は必ずしもポピュリズムの現れだとは見ていない。むしろ、今度の小泉現象というものはポピュリズムではなくて、国民の自己嫌悪が一転しただけのことである。

これまで日本のジャーナリズムはあまりにも長く、継続的に自国の政府は悪いもの、自国の指導者は愚かなものというイメージを定着させてきた。森総理に至っては、人格的な否定を受けるほどの攻撃があり、その結果、国民は自国の政府、あるいは指導者といえば悪いものというイメージを持ち続けた。

できることなら自分が属している国家の指導者はまともな人間であってほしいと、どこかで国民は願っていたはずだ。それに強力なサインを送ったのがジャーナリズムで、今回はなかなかよさそうだという報道をした途端、今までの自己嫌悪が手厚かっただけに、その感情は一気に逆転して賛嘆というところまではね返った。

しかも、彼が言っている構造改革ということの中身は、十分に中身のある話であって、この政策を進めていく過程の中で、小泉人気はどこかに軟着陸するはずだと見ている。

ただ、近年、いくつかの知事選挙を見ていると、そこにはポピュリズム的な萌芽があったことは否めないし、われわれがしかるべき対策をとらなければ小泉人気にもその傾向が強まったり、われわれが知らない次の指導者がポピュリストとして現れてくる可能性はあると考える。

そのためにも、私は言論NPOでの議論に期待している。


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 「ポピュリズム」には共通した性格がある。人々の怨恨、嫉妬を刺激して、その支持に乗って、より恵まれた階層を攻撃するという形をとり、参加民主主義というか、草の根階層の声を政治に直接反映するという形式をとることだ。こうした歴史的な経験から、ポピュリストの政治手法を